「あぁもう、どうしてこんなに汚れているのですか」
「世話をかける」
「まったくですよっ」
ようやく路地裏での説教から開放されたレーベンは、だがまだ路地裏でシスネに顔を拭かれていた。清拭と呼ぶには彼女の手付きは乱暴で、そこらの農具の方がまだ丁寧に磨かれているだろう。
なお、やたらと汚れた顔と服はレーベンが故意に汚したものだ。こうしておけばより金を恵んでもらえるだろうという涙ぐましい努力の証である。もっとも、そう言ってしまえば水路に叩き落とされることは明白であった為、レーベンは黙って拭かれることにした。
やがて、多少はマシになったレーベンを前にしてシスネは額の汗を拭った。その顔はやはり不機嫌そうだが、再会した時よりも顔色は良く見える。
「……それで、何故あのような真似をしていたのですか」
「それはあれだ、聞くも涙語るも涙の」
「水路で泳ぎたいようですね?」
「大聖堂に入る為にやった。他に手は無かったと思っている」
適当に誤魔化そうとした途端、割と強い力で左手を掴まれた。以前ならともかく、今のレーベンは彼女の細腕でどうとでも出来てしまう。逆らうべきではないと瞬時に白状した。
「大聖堂?」と不思議そうな顔を向けてくるシスネから左手を抜き出し、そそくさと集まった銅貨を並べて見せる。
「入るだけで金がいるとは、聖都は世知辛い街だな」
「そういえばそんな規則もありましたね。……銅貨が九枚、ということは」
「足りないな」
必要な入堂料は銀貨一枚、または銅貨十枚だ。この期に及んで一枚だけ足りないとは、もう笑うしかない。まったく笑えないが。
「そういうことだ。あと一枚だけ稼がせては――」
「は?」
「……では金を貸してくれ」
物乞いを再開しようとすると案の定シスネが低い声で脅してくる。ならばと恥を忍んで金を無心してはみたが、何故かシスネはハッとした顔で懐を探りだした。その内に白い顔が青褪めていく様を見て、レーベンもまた軽く絶望する。
「なあ、まさか」
「……ごめんなさい」
「ひどい話だ」
彼女はいつもの灰色の装束を纏っており、脇には護身用というには大きすぎる大短銃を提げている。だがそれ以外に荷物らしいものは見えず、要するに銅貨の一枚も持ってはいないようだった。……いったいどうやって聖都に来たのだろうか?
シスネは恥じるように黒い瞳を地面に落とし、レーベンは左目を建物に切り取られた空に向ける。二羽の
現実逃避も兼ねて路地裏を簡単に掃除した後、とりあえず街道に出ようと二人で歩き出す。壁に左手をつきながら歩いていると、溜息をついたシスネに手を取られた。
「ほら、掴まってください。杖とか持っていないのですか」
「そこの質屋で売れた。銅貨三枚」
「聞いた私が馬鹿でした」
レーベンが聖都に来たのが三日前。大聖堂で門前払いされてからすぐに物乞いを始めてはみたものの、何が駄目だったのかまるで稼げなかった。故に最後の手段として杖も売ってしまったが、結局は銅貨が三枚。その後の二日で顔を汚してみたりとなんとか試行錯誤を重ねた末に、ようやくあと一歩のところまでこぎ着けたのだ。物乞いも楽ではない。
シスネに手を引かれながら広場まで歩き、ちょうど三日前に老夫婦と腰掛けていた長椅子に再び腰を下ろす。だがシスネは立ったままで向かいにある質屋をじっと見つめていた。
「すぐ戻ります」
レーベンの返事も聞かないまま、シスネは足早に質屋へと歩いていく。無意識に伸ばした左手は何も掴めず、彼女の白い髪が雑踏の中へと紛れていく様を見ることしかできなかった。
「お待たせしました」
シスネは本当にすぐ戻ってきた。まさか銃でも売るつもりかと不安だったのだが、彼女の大短銃は未だ定位置に納まっている。その代わり彼女の姿にどこか違和感を覚えたが、どこが変わったのか分かる前に隣に座られ、同時に何かを手渡された。掌の上には銅貨が一枚。
「髪を売ってきました」
「な……っ」
「ちょうど切り揃えたかったので。
愕然と見返すと、シスネの長い白髪は襟足のあたりで両端が一房ずつ短くなっていた。
今になって思い出す。あの破戒魔女との戦いの最中、魔女の剣戟によって彼女の髪は一房切り落とされていたのだった。もう片方も切ることで髪型を整えたということらしいが、それで喜べるほどレーベンも能天気ではない。髪とはいえ体の一部、それを売らせてしまったのだ。
ぎゅう、と。左手で銅貨を握りしめる。
「……すまないな」
「大袈裟な。なんだったら全部売っても良いぐらいですよ、こんな
事もなげに言い放ち、肩についたゴミでも払うかのように髪を流すシスネ。それを見て、思わず口走る。
「やめてくれ。俺は好きなんだ」
シスネの動きが止まり、レーベンも口を噤む。言ったことは後悔したが、撤回する気にはならなかった。それもまたレーベンの本心だったからだ。
「気が合いませんね。私は嫌いです」
――なら何故、そんなに伸ばしているんだ
腰まで伸ばされたシスネの白髪を見ながら抱いた疑問。それを今度は口走ることなく心に留めることができた。「白髪の聖女は良い聖女となる」という、三日前に老夫婦から聞いた迷信が頭を過る。
「そもそも、杖まで売ってしまうぐらいなら持ち物を全て売れば良かったのでは?」
どこか気まずい沈黙が流れると、シスネがあからさまに話を逸らす。「……あんな真似をしなくても」と続けるあたり、半分は本気なのかもしれないが。そうしなかった理由は幾つかあり、言葉を選んでいる間に彼女は無遠慮にレーベンの鞄を漁っていた。
「この鏡とか」
「右手が痛むからな。それに、それはあなたの物だろう」
「鏡じゃなくても水面でも何でも代用できますよ。それにもう譲った物なので好きにして構いま――」
突如として言葉を切ったシスネに左目を向けると、その手には鎮痛剤の瓶が握られていた。中身は既に半分ほどまで減っている。
……まずい。
「そんなに痛むのですかっ?」
薬に厳しい彼女にしては珍しく、先にレーベンの容体を案じてきた。長椅子の上で身を詰めてくると、そっとレーベンの右目や右腕を触診し始める。そこまで痛みは無い。無いのだが……。
「その、腹が」
「腹? 腹部が痛むのですか?」
「いや、そうではなくて」
今にも街中でレーベンの服を脱がしてきそうな勢いのシスネであったが、その時だった。
ぐう、と。腹の虫が鳴る。それも二人分。シスネは顔を赤くし、対してレーベンは顔を青くした。そうこうしている内にシスネの手がぴたりと止まる。そしてゆっくりと、黒い瞳が見上げてきた。
「……ところで、あなた今まで何を食べていたのですか?」
「……」
「正直に言いなさい。怒りませんから」
正直なところ、もう既に彼女の瞳を直視できない程に恐ろしい。それ程に彼女の声は低く、そして笑いを含んでいた。白い左手は意味深に中身の減った鎮痛剤を揺らし、白い右手はレーベンの左手首をがっちりと拘束している。つまり詰みである。レーベンは諦めた。
「まあ、なんだ。豆だと思えば案外うまかっ――」
言い切る前に、シスネの手が蛇のようにレーベンの首根っこを捉える。そのまま周囲の視線を物とせずに街道を横断し、再びズルズルと路地裏へ引きずり込まれた。そして、シスネは当然のように先の言葉を反故にしたのであった。
◆
路地裏で一通りの説教と制裁を受けた後、レーベンはシスネと共に大聖堂を目指していた。手を引いてくれるのはありがたいが、相変わらず手を繋ぐというよりは連行されているといった有様である。もしくは躾けのなっていない犬とその飼い主か。
げんなりと見上げた太陽は既に西へと傾き始めている。彼女と再会したのが昼前だったことを考えれば、己はいったいどれだけ説教を受けていたのだろうか。唯一の
「腹が減ったな」
「そこらの石でも詰めてさしあげましょうか」
「分かった、分かったからやめてくれ痛い」
握られた左手を万力のように締め上げられて思わず顔を顰める。銃を扱う以上は当然なのだろうが、彼女の握力は見た目以上に強い。否、それよりむしろレーベンに対する怒りと無遠慮さ故か。なんにせよ石を抱いて水路に沈められては敵わず、文字通り生死を握られているようなものである。だがシスネはなかなか手を緩めてくれず、表情を歪めながら歩くレーベンの姿に周囲から視線が集まってきたあたりでようやく責めが止んだ。
左側を歩く彼女を恨めしげに見るも、いつもの澄まし顔である。仕方なく視線を前に戻すと、名も知らぬ騎士と目が合い、そして逸らされた。その隣を歩く聖女からの視線もあまり好意的には見えない。
「……」
大聖堂に近付くにつれ、周囲の通行人の中に聖女と騎士の装束を纏った男女が目立つようになる。三日前に会った門番の騎士と同じく皆が細身だったが、それ以上に向けられる視線の多さが気になった。正確に言えば、レーベンではなくシスネに向けられる視線が。
かつてシスネから聞いた話を思い出す。彼女はかつて聖都でも優秀な部類の聖女であったが、三年前の魔女狩りの際に自身の騎士――レグルスを介錯した。それが切っ掛けで彼女は“騎士殺し”というひどく不名誉な名前で呼ばれることになり、以降はずっと一人で魔女を狩っていたのだと。
思えばおかしな話である。聖女と騎士が互いを介錯することなど珍しくはなく、むしろ真っ当な在り方であるとまで言われているのだ。ならば何故、彼女だけが“騎士殺し”などと呼ばれたのか?
だが今はそれよりも、冷たい視線を向けられるシスネを何とかするべきか。
「……大聖堂はもうすぐそこだ。あとは俺ひとりでも、」
「気にしないでください。慣れていますから」
レーベンの思惑はあっさりと見抜かれ、固く冷たい声で返された。視線に敏感らしい彼女のこと、本当に大丈夫なのかは疑わしいところだったが、シスネ自身がそう言うのであれば己に言えることなど何も無い。だが左手に感じる彼女の手は冷たく汗ばんでいた。
「……すまないな」
シスネは何故かレーベンを探しに、おそらくは戻りたくなかったのであろう聖都まで来た。レーベンの為に髪を売り、そして今もまた白い目に晒されている。
彼女には迷惑をかけっぱなしであり、そして今からレーベンがしようとしていることを考えれば、罪悪感は膨れあがる一方であった。
シスネに助けられながらなんとか大階段を登りきり、レーベンは再び大聖堂の入り口へと辿り着いた。そして偶然にも、門番を務めていたのは三日前と同じ顔ぶれだったのだ。名も知らぬ細身の騎士とその聖女、そして。
「……エイビス」
「……お前」
大聖堂に近付くにつれ口数の減っていたシスネの唇が戦慄くように呟いた。対して名を呼ばれた金髪の小柄な女騎士――エイビスもまた青い目を見開く。知り合いだったのかと疑問を抱き、だがそれは最悪の形でレーベンに答え合わせをした。
「お前……っ、よくもわたしの前に顔を出せたな!」
つかつかと歩み寄ってきたエイビスがシスネの胸倉を掴みあげる。印象的だった怜悧な顔立ちは崩れ、今やエイビスの顔には剥き出しの怒りと敵意だけがあった。突然の暴挙にレーベンは呆然と固まり、遅れて駆け寄ってきた門番と聖女たちに引き離されるまでエイビスは手を放さなかった。
その間、シスネは何の抵抗もせずにエイビスの目を見つめていた。
「放せ! 放さないか、くそっ!」
「落ち着け! やめんか馬鹿者!」
それでもエイビスの怒りは収まらないのか、もう一人の騎士に羽交い絞めされながらシスネに食ってかかろうとする。どう見ても彼女は我を忘れており、その青い目には確かな憎悪の光があった。
なんとか動き出した体でシスネを遠ざけようとするレーベンに、ゆらりと細長い影が近付く。
「入堂料を頂戴します」
おそらくはエイビスの聖女なのであろう長身の女が、場違いなほど冷静な態度でレーベンに促した。早くここから去ってくれと、言外にそう言っているのだとレーベンは察する。無言で銅貨十枚を手渡し、逆にシスネの手を引くようにして入り口に向かった。頭を下げる聖女の細い両目もまた、シスネを冷たく見据えている。
「――貴殿よ、」
入り口を潜ろうとしたその時、背後からやけに平坦な声が響く。思わず足を止め、左目を向けた先には押さえつけられたままのエイビス。項垂れた頭がレーベンを向き、乱れた金髪の隙間から覗く青い目は未だ憎悪に輝いている。もはや別人のような女騎士が、呪いのような言葉を吐いた。
「悪いことは言わん、その女には関わらないことだ」
「そいつは聖女など名ばかりの、穢らしい女」
「貴殿のその傷とて……きっとその女のせいなのだろう?」
「――――」
その時、己の内に湧き上がった衝動が何であったのかレーベンは分からなかった。
知ったような口を。……だがレーベンこそシスネの何を知っているのか。
彼女のどこが穢い。……だが彼女は本当に聖女ではなかった。
そしてこの傷は全て。……誰のせいなのだろうか。
いくつも感情が相反しあい、混ざりあい、弾け飛ぶような衝動が怒りであったのだと自覚し、その全てを当たり散らすようにエイビスへと向け、かつてない怒りを、敵意を、殺意を叩きつけようと――。
「やめて」
その声と左手を捕らえる体温に、己が駆け出そうとしていたことをレーベンは知った。振り向けばシスネは両手でレーベンの左手を握りしめている。レーベンを繋ぎ留めるように、あるいは縋りつくように。俯いた彼女の瞳は見えない。
「やめてください」
「もういいんです」
「おねがいだから」
その小さな声はきっとレーベンにしか聞こえなかっただろう。その声は震えず、何の感情も込められていないように聞こえた。何もかも諦め尽くしたような声にレーベンの衝動は掻き消え、ゆっくりと引かれた手に従って足を進める。シスネの足取りはしっかりとしており、速くも遅くもなかった。
「騎士殺しめ……っ」
遠くから聞こえた女の声は、涙に震えているように聞こえた。
◆
「彼女は、レグルスの妹です」
虚ろな心地で薄暗い通路を歩くレーベンの耳に、独り言のようなシスネの声が響く。向けた左目には、ただ前を見て歩くシスネの横顔が映っていた。
「だから彼女にとって私は、兄の仇なのですよ」
ひどく平坦なシスネの声に、レーベンは返す言葉を持たない。何故なら、レーベンは彼女らのことを何も知らないのだから。
シスネがレグルスと契りを交わしていたのならば、彼女らもまた近しい間柄だったのではないか。
聖都でも珍しい女の騎士であるエイビスは、何を目指して騎士となったのか。
三年前、彼女たちの間で何が起こってしまったのか。
シスネは何も語ってはくれず、レーベンにそれを聞く権利はきっと無い。聞いたところでもう意味は無いのだから。
無言のままで通路を歩き、遂に二人は大聖堂へと辿りつく。
その広大な空間も、荘厳な作りも、もう何もレーベンの心には響かなかった。
ただ、彼女のことを何も知らずじまいであったことへの後悔だけが、最後の未練となっていた。