エイビスに母はいなかった。自分を産んですぐに亡くなったとだけ聞いていたが、その理由までは知らない。そもそも教国で母のいない者など珍しくもなく、それはこの聖都であっても例外ではない。病か魔女禍か、女には早死にする理由が一つ多いというだけの話だから。
エイビスの父は騎士だったという。だが騎士である内に妻子を持てる訳もなく、兄のレグルスが生まれる前には既に役目を降りていたらしい。
エイビスは母の顔も死因も知らないが、聖女でなかったということだけは知っている。何故なら、父は模範的な騎士だったのだから。
そして兄もまた、模範的な騎士であった。
※
突きを放つ。動きを小さく、呼吸も乱さず、槍に必要以上に力も込めないよう意識する。そうして放たれた突きは威力よりも精度を、力よりも技に重きを置いた一撃。
「しっ!」
ごぉん、と。だがその軽いはずの一撃は対手の盾にまっすぐと突き刺さり、更にはその体躯ごと後ずらせる。鐘でも打ち鳴らしたかのような金属音が双方の間に響いた。
女としても小柄なはずのエイビスが放つには、あまりにも重い一撃。それはエイビス自身の力ではなく、だがある意味でエイビスの持つ「力」でもあった。
大騎士コルネイユは言った。
――聖女たちの聖性で、我らは大きな力を得る
――だがそれ故に、技を磨くことを忘れてはならない
――どれほど力を得たとして、それでも魔女には届かない
――何より、ただ力のままに力を振るう騎士など、魔女と何が違うものか
聖性を流された騎士の身体能力は劇的に向上する。それこそエイビスのような小娘の細腕でも、大男の剛腕を圧し折られる程度には。
故に極論を述べれば、必要以上に筋力を鍛える必要など無い。同じ時間を鍛錬に費やすならば、聖性でも補えない技量をこそ練り上げるべきである――それが聖都の騎士たちの共通認識だ。
エイビスとてそれを疑ってはいなかった。あの日までは。
「っ!」
対手の隙を突いた渾身の一撃が空を切る。視線を読まれていたか、呼吸を聞かれていたか、あるいは足捌きを――? そんな思考の間隙を容赦なく突かれ、得物の槍は手元から弾き飛ばされてしまった。眼前に突きつけられる片手剣の切っ先。詰み。敗北。死……。
「っ、……ああぁぁっ!」
「ぬお!?」
常ならば、以前ならば潔く負けを認めていた。だがそれをエイビスはできない。できなくなってしまった。獣のように叫びながら剣の切っ先を手で打ち払い、勢いのまま対手の胴に組み付いて押し倒す。すぐ近くであがる呻き声も無視して、両手で握った拳をその顔面に――!
「ハイ、そこまで」
コチン、と。エイビスの手甲と対手の兜がぶつかって気の抜けた音を鳴らす。手加減した訳ではない、それが自分の本来の力なのだ。流されていた聖性を切られれば、エイビスはただの小娘に過ぎない。
「どいてくれ」
「……すまない」
対手を務めていた騎士の体から立ち上がり、のろのろとエイビスは修練所の隅に歩く。ひどく重々しい動きは疲れのせいだけではない。身に着けた鎧が重すぎるのだ。なんとか椅子に腰掛けると、やたらと背の高い女に鎧を脱がされ始め、エイビスはそれに甘んじた。
「また荒れてますねーお嬢。あの日なんですかー?」
「……そういう冗談は好かないと言ったぞ、シグエナ」
ニヤニヤと狐のような目を更に細めた女――シグエナはエイビスの聖女であるが、正直なところ苦手だった。そこらの男よりも長身な彼女と並べば、小柄なエイビスなどそれこそ子供にしか見えない。事実あちらの方が一回り以上も年上であり、事ある毎にエイビスを子供扱いしてくる。そのくせ慇懃無礼に接してくるものだから話すだけで疲れてしまうのだ。
そして今もまた、嫌がるエイビスの反応を楽しむかのように揶揄いまじりに声をかけてくる。
「武器ほっぽり出して掴みかかってどうするんです、聖都の騎士の名が泣きますよー?」
「……」
「まーたそうやって黙るー」
鎧を脱がし終えたシグエナから木のコップを受け取り、中身の水を呷る。修練の後で火照った身体に沁みわたるようだが、気分だけは滅入ったままだ。その原因はもう分かっている。
「シグエナ」
「はい?」
「わたし達の技は魔女に通用するのか?」
シグエナの顔から水が引くように表情が消える。ニヤニヤとした笑い顔が無くなって現れたのは、歴戦の聖女の顔。未だ魔女と対峙したことのないエイビスと違い、彼女はもう何度も魔女狩りを行っている。それがまたエイビスの胸に不安と劣等感を植えつけるのだ。
「もちろん通用しますとも。偉大な先人たちが積み上げてきた魔女狩りの技ですよ?」
「そうか……そうだな」
「たーだーしー」
不意に差した影に顔を上げると、すぐ近くにシグエナの見慣れたニヤニヤ顔があった。だがその声だけは、無視できない真剣味を帯びている。
「お嬢が、魔女を前にしてチビらずに済めばの話ですけどねー?」
エイビスの頭に、五日前の光景が過る。
いつも通り、大聖堂の門番を務めていたあの日。エイビスの前に現れた隻眼隻腕の男。彼が騎士だったということはすぐに分かった。平凡な人生を歩んでいればまず負わないであろう深手と、鍛えこまれた肉体が成しえる立ち姿。そして同時に、あれだけの深手では騎士には戻れないということも。
入堂料も払わず中へ立ち入ろうとしたことは感心しなかったが、話は分かる男であった。尊敬とまでは言わずとも、騎士の先達として充分に好感を持てる相手だと思っていたのだ。
だが彼を見送った後でエイビスの胸に湧き上がった感情は、恐怖だった。
あの右目を潰したのは、魔女の爪なのだろうか。牙なのだろうか。目を潰される瞬間の、最後に見る光景とはいかなる物か。
あの右腕はどうやって失くしたのだろうか。斬り落とされたのか、引きちぎられたのか。その時の痛みとはいかなる物か。
魔女は聖女を簡単には殺さないという。だがそれは自分には関係のないことなのだろうか? 魔女のような怪物に、聖女と女騎士の区別などつくのだろうか?
「……っ」
もし。もしも。
初めての魔女狩りで恐怖にのまれてしまったら? 頭が真っ白になって、覚えた技などまるで使えなかったら? 負けて、捕らえられて、ゆっくりゆっくりと、死ぬまで嬲られ続けるのだとしたら?
怖い。
「怖いんですかー?」
コップの底に残った水を凝視していた目を上げれば、ギョッとするような近さでシグエナの細い双眸と目が合った。長身痩躯を折り曲げながら顔を覗き込んでくる様は、まるで蛇のよう。
「怖くない」
「怖いんでしょうが」
反射的に否定すれば、間髪いれずに否定される。断定的な口調に思わずエイビスは口を噤んだ。怖かったのも事実なのだから。
「怖いに決まってるでしょう」
「魔女なんて本物の化け物ですから。常識なんてまるで通用しません」
「しかも負ければ死ぬまで嬲り殺しだなんて、ほんと割りに合わない
ケタケタと歴戦の聖女が笑う。いったい何がおかしいのかエイビスにはまるで分からない。そんな聖女の姿こそが、得体の知れない怪物に見えてくる。
「そんなお嬢に、ハイこれ」
呆としていたエイビスの手に乗せられた、小さく冷たい感触。それは銀色の簡素な指輪。エイビスも存在は知っていたが、これは……。
「自決指輪ですよ。使い方は知ってますー?」
「……わたしに死ねと言うのか?」
「怖い顔しないでくださいよ、ちょっとした御守りですってー」
ヒラヒラと振られたシグエナの手にも同じ指輪が光っていた。人差し指と中指に一つずつ、それが両手に。ずっと近くにいた聖女が四つもの自決道具を身に着けていたという事実に、エイビスは薄ら寒いものすら感じる。その指輪の光る手が、そっとエイビスの手をとった。
「死んじゃえばいいんですよ」
「どうせ死ぬなら、楽な方が良いに決まっているじゃないですか」
「痛いのも苦しいのも、魔女になるのも嫌でしょう?」
魔女禍というものは未だに謎だらけだ。何故それが女にしか現れないのか、魔女に到る原因は何なのか、魔女は何のために、聖女を嬲り殺そうとするのか。
だが公然と語られる噂なら存在する。
大騎士コルネイユが語ったように、「絶望」こそが女を魔女へと堕とす。そして魔女は己の仲間を増やす為に聖女を執拗に嬲り、絶望させ、より強い魔女――つまりは破戒魔女を生み出そうとするのだと。
その説が正しいなら、聖女の素質を持たないエイビスは嬲られることはないだろうか。……などと安心できる訳もないのだが。
「まだ怖いんですか? もー、お嬢は怖がりなんですからー」
「……仕方ないだろう。わたしは、まだ経験が無いんだからっ」
「うわ、なんか
「ぶつぞ」
駄弁っている内に身体も冷えてきた。騎士の黒い装束を着直しながら出口に向かうと、シグエナも傍に並び歩く。……彼女の肩にすら頭が届かないことは非常に腹立たしい。
「指輪、着けてくれないんですか?」
「……すこし考えさせてくれ」
「まあ、もう着けちゃったんですけどね」
「は? ……なぁ!?」
長い通路を歩きながら手を見れば、エイビスの右手には自決指輪が光っている。いったい、いつの間に着けられたというのか。
「相変わらず隙だらけなんですからー。今に乳とか揉んじゃいますよー?」
「ち……!? き、貴殿という奴は……!」
「それとも、――こっちの方が良いですか」
カチャリと、首筋に感じる冷たい感触。起こされる撃鉄の音に、エイビスの体は何の反応もできなかった。ただ、凍ったように足を止めるだけ。
「隙あり。本番を致すにはまだ早いですかね」
「……っ」
ケタケタ笑いながら前を歩いていく背中を、ひとりエイビスは見送る。無限回廊のような通路に人気は無く、立ち尽くす未熟な女騎士の姿も、その涙も見る者は誰もいなかった。
※
レグルスは優秀な騎士だった。
騎士であった父の期待を一身に背負い、それに応え、当然のように騎士を目指した。才に恵まれ、だが慢心することもなく修練に励み、そして騎士となった。
エイビスにとっても自慢の兄だった。父はエイビスに冷たく当たることこそ無かったが、それでもやはり兄と比べて扱いは軽かったと幼心に思っていた。そんな自分が甘える対象は、既に死んでいた母でも厳格な父でもなく、いつも優しい兄だったのだ。
今思えば本当に兄には苦労をかけてしまった。こんなに辛い修練の合間に妹の面倒を見ていたのだ。そんな自分に嫌な顔も辛い顔も見せることなく騎士となった兄は、本当にすごいとエイビスは思う。
そして、立派な騎士となった兄に看取られながら寝台の上で安らかに死んでいった父の死は、最高に幸運なものだったのだとも。
兄の、あの無残な最期を見ることなく女神と母の元へ逝けたのだから。
『はじめまして』
その女性を初めて見た時、まずはその綺麗な髪に目を奪われた。化粧っけの少ない顔立ちは地味でも整っていて、容姿にまで優れていた癖に着飾ることは好まなかった兄とよく似合っていた。
何より、彼女を見る兄の眼差しはとても綺麗で、優しくて。こんな素敵な女性が自分の義姉になるのだと思えば、エイビスも自然と笑顔になれたのだ。
そうは、ならなかったのだけれど。
※
青い空に蒼い海。遠くから聞こえる雑踏と、かすかな潮騒。大聖堂の入り口で門番を務めるエイビスの見る世界はいつもと変わらず、そして美しい。
だがここに立って思い出すのは、二日前の思わぬ再会のことばかりだ。
『……エイビス』
『……お前』
シスネレイン。兄の聖女だった女であり、そして兄を介錯した女。兄の仇。そして、かつてエイビスが憧れた女でもある。
聖女に憧れ、だがその素質を持たなかったエイビスにとってシスネレインは聖女の象徴だった。キノノスのように綺麗な白髪も、清貧を体現したように質素な身なりも、真面目で
そう、思えたのに。
『お前……っ、よくもわたしの前に顔を出せたな!』
シスネレインは聖女の名に相応しくない女だった。エイビスはそう思った。
兄を介錯し、魔女を狩り、あまつさえ、その後も一人で魔女狩りを始めた。まるでレグルスに
ふざけるな。
ならばなぜ兄を介錯した。なぜ後を追って自決しなかった。エイビスにはもう誰もいなくなってしまったというのに、なぜお前だけがのうのうと生きている――!
何度も問いただした。何度も詰った。何度も殴った。何度も。何度も。
シスネレインは何も答えなかった。答えることも逃げることも抵抗することもなく、ただ黙ってエイビスに詰られ、殴られていた。
そこまで後ろめたいこと。そこまで言いたくないこと。
エイビスの脳裏に最悪の答えが過り、そしてそれはきっと事実だったのだ。
「――てますー? ねえ、お嬢ったらー。……ふー!」
「ぬひぇあっ!?」
「お、イイ反応」
追憶に耽っていたエイビスの耳に生暖かい吐息が吹きかけられ、思わず飛び上がる。すぐ隣に立つ細長い影を睨み上げれば、案の定に見下ろしてくるニヤニヤした細目。視界の端では、門番を務める相方の騎士と聖女が我関せずとそっぽを向いていた。
「いくら退屈だからって寝ちゃダメですよー。門番も立派なお仕事ですよー」
「分かっている。皆まで言うなっ」
「本当にぃ?」
揶揄いまじりのシグエナの声に嘲笑の色が濃くなる。その変化に再び顔を上げれば、細く開かれた相貌から覗く、喜悦と侮蔑を混ぜ合わせたような眼光。
「またあの“騎士殺し”が来た時みたいに取り乱しちゃイヤですよぉ?」
「――――」
『シスネレインさん、その……ひとつ、相談したいことが』
『シスネで良いよ。長くて呼びにくいってよく言われているし、レグルスもそう呼ぶから』
「
自分でも別人かと思う程、低い声が出た。
相方の騎士と聖女がこちらを見たのが振り返らずとも分かる。シグエナは変わらずニヤニヤと笑いながらエイビスの言葉を待っていた。
「黙れ。あの女を馬鹿にするな」
「あの女をそう呼んで良いのも、わたしだけだ」
「何も知らない奴が口出しするんじゃない」
この三年、エイビスがシスネレインと直に顔を合わせることは殆ど無かった。
かたや修練中の見習い騎士。かたや魔女狩りに出ていることの方が多い聖女。この広い聖都と大聖堂で出くわすことなど少なく、更にお互いが会わないようにしていたのだから当然だ。
だからあの時、久しぶりに再会したシスネレインが他の男の手を引いていた時、エイビスの中で抑えきれない何かが破裂した。
気が付けば掴みかかっていた。気が付けば相方に押さえつけられ、五日前にも会ったあの男に対しても八つ当たりのような言葉を吐いてしまった。
それをすぐ後悔したのは、彼もまた感情が破裂したかのような目をエイビスに向けてきた時。怒りと呼ぶには剣呑に過ぎた眼光に貫かれ、足が竦んだ。シスネレインが止めなければ、どうなっていたのか。
そしてすぐ、二人はまた変わり果てた姿で中から出てきた。
血塗れになった男と、それを背負う女。自分もまた血に塗れたシスネレインの黒い瞳は闇夜のように暗く、立ち尽くすエイビスのことも見えていないようだった。そこにはもう、かつてエイビスが憧れた聖女はいなかった。
まるで、聖女ですらなくなってしまったかのように。
睨み上げたシグエナの顔は、相変わらず涼しい表情をしている。それをどうにか歪ませたいという情動がエイビスの中で湧き上がり、唇の片側がつりあがっていくのを感じた。
「だいたい……“騎士殺し”は貴殿の方ではないのか?」
シグエナの表情は変わらないまま、だが空気が変質した。
歴戦の聖女である彼女は当然、エイビスの前にも他の騎士と契りを交わしている。その数、三人。その全員が魔女狩りの中で倒れ、そしてその全員をシグエナが介錯したのだという。
それが悪しきことだとはエイビスも思わない。だがシスネレインの話は別だ。どんなにレグルスがエイビスにとって大切な人間であったとしても、一人は一人。あの女が介錯したのは兄一人だけだ。
だから、シスネレインが他の者たちから“騎士殺し”と呼ばれる謂れは無い。そう詰って良いのは自分だけだと、エイビスは思っている。
「言いますねぇ、お嬢。それでこそ私の騎士さまですよ」
パチパチと乾いた拍手を鳴らしながらシグエナが言う。見開かれた細目からは、剣呑さを帯びた喜悦の視線がエイビスを突き刺す。それから目を逸らしてはならない。逸らしては負けだと、自分にそう言い聞かせ――。
「そこまでです」
間近で響いた、怖気がするほど涼やかな声音。誰の声かなど考えるまでもなく、ただ聞いただけで背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒を感じた。弾かれたように向き直って姿勢を正す。シグエナも、相方の騎士と聖女も。
そして声の主はいつの間にか、大聖堂の入り口に佇んでいた。
「おやめなさい、聖女と騎士で争うなど」
簡素な車椅子。左半分を削ぎ落された身体。氷色の瞳。
「その様子では魔女狩りに向かうにはまだ早いようですね? 騎士エイビス」
イグリット聖女長。この聖都の聖女と騎士にとって恐怖の象徴が、何故こんな入り口にまで足を運んでいるのか。聖女長の意図をはかりかねるエイビスの耳に再び響く声。
「皆に大事な話があります。中までおいでなさい」
※
堂内の大広間。そこには聖都の聖女と騎士がほぼ全員集まっているのではないかという程の人だかりができていた。
「うへぇ……。何だってんでしょうねいったい」
「わたしが知るか」
収容できる人数を明らかに超えた密集具合。しかもまだまだ増えているのだ。人いきれでエイビスは頭がクラクラしてきた。
「お嬢、お嬢ー? はぐれてません? 手つないであげましょうか?」
「いらん、子供扱いするんじゃないっ」
ニヤニヤと、いつも通りの揶揄いの視線を向けてくるシグエナ。いつも通りのその様子に、エイビスもまた安堵を自覚していた。
そして暫しの時が経ち、大広間に人数が増えなくなってようやく、演壇の上に車椅子が押されてきた。同時に痛いほどの静寂が大広間を支配する。
「皆さん、」
いつも通りの聖女長の声。だがそれにどこか震えのような響きをエイビスは感じていた。そして、それはきっと恐怖などではなく。
「魔女狩りの時間です」
高揚、だったのだろう。