魔女狩り聖女   作:甲乙

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シスネとレーベンとその行く末

 

 寝室として宛がわれた部屋は病室であるようだった。簡素な調度品と掛布に沁みついた薬品の匂いが医療棟を思い出させる。いくつか並んだ寝台に先客はおらず、レーベンの貸し切りである。寝台に体を投げ出せばふかふかとした綿の感触が優しく受け止めてくれる。いち患者用とは思えない程に質が良い。それだけこの診療所が潤っているということなのか、あるいはあの家族の医療者としての意向なのか。

 四日ぶりとなる寝台の感触に、疲労がどっと押し寄せてくる。ポエニスの教会を出てからというものまさに浮浪者そのものの生活で、特に今日は朝から本当に色々とありすぎた。シスネとの思わぬ再会に始まり、大聖堂での一悶着、聖女長との邂逅、そして路地裏での問答に、彼女の大家族……。加えて、あの煮込みは本当に美味かった。空腹だったこともあるが、数年ぶりに「味」というものを感じることもできたのだ。ロシノルには感謝しきれない

 腹も満たされて抗い難い眠気に負けそうになった頃、レーベンの耳が小さな声を捉える。

 

 ――シスネか?

 

 静まり返った病室の中、耳を澄ませば床下、つまりは階下から聞きなれた声が聞こえる。寝る前に挨拶ぐらいはしておくかと、レーベンは寝台から起き上がった。

 

 

 ◇

 

 

 大きな姿見の中から、見飽きた女がシスネを見返している。鏡を見る度に憂鬱な気分になるのはいつものことだったが、今日は違った。

 何が? 自分と似た顔がもう二つ映っていたから。

 

「ハイハイ動かないのよー。動いたらお姉ちゃんが大変よー?」

「卑怯者ぉ……」

「なんですって?」

「っあ! ごめんなさい! ごめんなさいっ!」

 

 一人で座るには大きいが二人では狭い。そんな椅子に姉と二人で押し込められたシスネは碌な抵抗もできず、されるがままになっていた。何せ姉は身重なのだから、手荒な真似をするわけにはいかない。そしてシスネが大人しくなったのを良いことに、いちいち脇腹を撫でてくるのだからたまったものではなかった。

 もう一人の妹はといえば、黙々とシスネの長い白髪を弄っている。毎日のように髪型が変わるこの末妹の髪に対するこだわりは並々ならぬもので、それは三年ぶりに会っても変わらないようだった。

 

「……、」

「え? 相変わらず綺麗な白髪って? だってさ、何か秘訣とかあんの?」

「別に、何もしてない」

「……! ……っ」

「いたっ! 痛いってばコトラ! 引っ張らないで!」

 

 ぐいぐいと強く編みこまれ始めてシスネは悲鳴をあげる。妹の髪は同じ白髪で、自分なんかよりよっぽど綺麗な髪に見えたが、きっとそれには相応な手間と努力を必要とするのだろう。とはいえ、シスネは命がけで魔女と戦う立場だ。髪の手入れなどする暇があったら、銃の手入れか訓練でもしなければ生き残れない。……なら短く切れば良いと言われれば、それまでなのだけれど。

 鏡の中のシスネは黒い瞳に不安げな色を浮かばせながら、白髪をやたらと難しく編まれている。いったい自分はどうなってしまうのか。

 

「ま、観念することね。三年も帰ってこなかった罰よ」

 

 眠そうに欠伸をするウルラはさもどうでも良さそうに言うが、その口調には確かな棘があった。だがそれは悪意によるものではなく、あくまで妹の身を案じた上での怒りだということはシスネにも分かる。この姉は昔からそうなのだから。

 

「顔は見せない癖に、生存報告みたいな手紙とお金ばっかり送ってきて。おかげで診療所(うち)の備品も無駄に良くなっちゃったわ」

「ど、どういたしまして……?」

 

 聖都にいた頃から、シスネは魔女狩りで得た報酬の殆どを生家へと仕送りしていた。どうやらそれは診療所の改修などに役立てられたようで、一応は安心する。ウルラは不満そうだったが。

 五年前に聖女となってからは大聖堂で暮らしていたが、それでも頻繁に生家へも顔を出していた。兄などその度に泊まっていけと強硬に勧めてくるものだから断るのに苦労したものだ。それが無くなったのは、生家へ寄り付かなくなった三年前から。

 

「どうせあれでしょ、私なんかが家に帰ったら迷惑になっちゃうわ! ……とか思ったんでしょ」

「私そんな喋り方しない……」

「そういや、あんた何なのあの喋り方。旦那の前だと猫かぶってんの?」

「旦那じゃないってば」

 

 シスネの畏まった口調は素のものではなく、聖女の名に相応しいようにと自分で矯正したものだ。もっと丁寧に、もっと綺麗に話そうと。「聖女らしく」話そうと。

 

 ――彼のこと笑えないじゃない

 

「騎士らしく」話そうとしていたかつてのレーベンを内心で馬鹿にしていたというのに、結局はシスネも同類だったのだ。カーリヤの言う通り、シスネと彼はひどく似ている。そして姉の言う通り、シスネが生家に帰らなかったのは迷惑になると思ったからだ。

 

「まあね、()()()()()になっちゃったから、その、嫌がらせとか無かったわけじゃないわよ」

「……っ」

「でもね、そんなの最初だけ。もう三年よ三年。それだけあれば、あたしだって嫁に行くしサラベイだって嫁を貰うっての」

「そ、そう」

 

 昔から自由奔放だった姉が小さな男の子をつれていて、しかももうお腹には二人目までいたのだ。三年ぶりの帰宅で最も驚いた点でもある。普段は嫁ぎ先で生活しているが、出産も近いからと偶然にも帰ってきていたそうだ。そしてあの兄までもが近々結婚するのだという。

 

「お兄ちゃん、結婚とかできたんだ」

「ちなみに嫁さんも白髪よ。顔もなーんか、あんたと似て」

「ごめん聞かなかったことにする」

 

 あの優秀な上に顔まで良い兄の欠点を挙げるなら毒舌であることと、シスネとコトラの二人を溺愛してくることだ。なお、(エンテ)に対しては良くも悪くも普通である。

 以前、カクトの町の門番が妹とやたら仲の良い様子を見せつけてきた時、シスネの頭にはサラベイの顔が浮かんでいたものだ。そんな兄もようやく妹離れすることができた……と思いたい。思うことにした。

 そうこうしている内にコトラは髪を編み終えたようだった。だがその手は休まず、櫛のかわりに化粧筆を取り出す。目許やら唇やらを撫でられる擽ったさに悶えるシスネを押さえつけながら、ウルラはどうでも良さそうな口調で語った。

 

「あんた気にしすぎなのよ。もう誰もあんたのことなんて覚えてないからさ」

「この街もこの国も、教会と聖女と騎士だけで出来てるわけじゃないの」

「別にあんたが騎士を死なせようと死なせまいと、殆どの人にはどうだって良いことよ」

 

「だから帰ってきても良いのよ」そうウルラは締めくくる。姉の言葉は乱暴で蓮っ葉で、何より無責任で、そして優しかった。

 

「……無理だよ」

 

「今はね。ま、気が変わったら帰ってきなさいな」

「お母さんもよく言ってたでしょ。嫌なことがあったら、泣いて怒って食って寝ろってさ」

「一人で勝手にウジウジダラダラ悩んでるあんたみたいなのが一番ダメ。だからこんな乳なしになるのよ」

 

「どこ触ってるのいいかげん怒るよ」

 

 無遠慮に触れてくる手をぴしゃりと叩くと同時に、コトラの作業も完了したようだった。額の汗を拭いながら満足げに鼻息を漏らしている。

 ようやく椅子と姉からも解放されたシスネは立ち上がって、ひどく心許ないスカートの裾をまず気にした。姿見からは見飽きた顔の女が、見慣れない姿と嫌そうな顔でこちらを見返している。

 

「……これ本当に聖都で流行ってる服なの?」

「うん本当本当。ねーコトラ―?」

 

 こくこくと頷く無口な妹の頭を撫でている姉の目をじっと見つめる。茶色の瞳は逸らされることもなく、嘘をついているようには見えない。少なくともシスネには。

 

「本当に?」

「本当よー、お姉ちゃん嘘つかないのよー」

「ねえやっぱり何か怪し……、……?」

 

 嘘をついているようには見えないがどうも信用しづらい姉を更に問い詰めようとした時、シスネの耳が何か物音を捉えた。扉を開けて外を見るも、暗い廊下だけが静かに沈黙している。

 それでも妙な予感を覚えたシスネは、姉の言葉も振り切って廊下を外へと向かって歩き始めた。

 

 

 ◆

 

 

 どこまでも暗い夜空と、どこまでも深い夜の海が眼前に広がっている。頭上にも足元にも吸い込まれそうな闇がある中で、レーベンはただ潮騒に耳を傾けていた。

 海を見ることは初めてではないが、ここまで近付いた上で更にここまで凝視したことはない。ましてや、夜の海など。深淵を覗く者は心せよ――と、そんな言葉を遺したのはどの騎士だったか。

 なるほど確かにこれは、見れば見るほどその水面に……。

 

「あまり見ていると、引っ張られますよ」

 

 澄んだ声に、前のめりになりかけていた体を後ろに戻す。

 石作りの護岸に腰掛け、両足も投げ出していたレーベンは転落しそうになっていたことはおくびにも出さず、振り返らないまま彼女に返事をした。

 

「着替えは終わったのか?」

「……覗いていたのですか」

「まさか。立ち聞きしただけだ」

「似たようなものでしょう」

 

 コツリと軽く高い靴音が近くで鳴ると同時に、腰のあたりを打たれる。おそらくは蹴られたのであろうが、その強さはあまりにも加減されていた。蹴りと声の主はその場から離れないまま、溜息まじりに愚痴を零し始める。

 

「本当に散々でした。帰らなかった罰だからといって、こんな恰好……」

「ほう」

 

 それはただの反射だった。ただ彼女が近くにいたから、だから振り返った。ただそれだけの。

 

「――……」

 

 目の前に、見たことのない恰好のシスネがいた。

 服飾に疎いレーベンには、その白い服を平服と呼ぶべきか礼服(ドレス)と呼ぶべきか分からない。複雑に交差する肩紐と、丈が均一でないスカート。いずれにせよそこから覗く肌は服と同じほどに白かった。だがその手と足を覆うのは黒い長手袋と長靴下。それらはどちらもひどく薄く細身で、彼女の手足が黒く染まったかのよう。

 化粧で陰影の濃くなった目鼻と艶やかな唇。常と変わらない黒い瞳。象徴的な長い白髪は精緻に編みこまれ、月明りを反射したそれは銀細工のように見える。

 鮮烈なまでの白と黒。

 その時、レーベンは初めて右目を失ったことを後悔した。

 

「――見ないでっ!」

 

 シスネの悲鳴。

 

 

 ◇

 

 

 思わず叫んでいた。そしてそれをすぐに後悔した。

 ハッとした顔で、レーベンが左手で右目を隠したのだ。振り返った彼の顔に包帯は無く、無残な裂傷が露わになっていて。それを彼は隠した。ひどく、傷ついた顔に見えた。

 誤解だ。

 

「……違うっ!」

 

 気が付けばまた叫んで、彼の手を取っていた。隠された傷を曝け出すように。

 

「違うの!」

「今のはそうじゃない!」

「そうじゃなくて……っ、ただ、」

 

 ただ、見られて恥ずかしかった。

 シスネは痛みには強いと自負している。一人で魔女を狩る中で負った傷は数知れない。斬られても、殴られても、折られても、焼かれても、シスネはそれに耐えて立ち上がった。感覚が鈍るからと、再生剤も鎮痛剤も最低限しか使わなかった。シスネに騎士はいなくて、聖性も自分には使えない。只の女でしかない自分が魔女を狩るには、無傷ではいられなかったから。

 魔女を狩る為なら、どんな痛みにも耐えられた。はじめて一人で狩ったあの魔女に刻まれた、この胸の傷に比べればどんな傷だって。

 

「ただ、その……」

 

 そんなシスネでも耐え難い物が、「恥」だった。

 視線が苦手だ。注目なんてされたらそれだけで拷問だ。公開懲罰の時も、打たれる鞭の痛みよりも無様な姿を皆に晒されることの方がよほど辛かった。

 この三年、“騎士殺し”の汚名を背負ったまま過ごすことは何よりもの恥辱だった。それが何よりも苦痛だったからこそ、シスネはそれから逃げることを自分に許さなかった。

 アルバットに跪いて懇願した時はいっそ舌を噛み切りたいぐらいだった。御者に身体を触らせた時は気が遠くなるほど屈辱だった。レーベンが物乞いする姿を見た時は、シスネの方が死にそうだった。

 そのレーベンは、シスネに手を取られたまま明後日の方向を向いている。

 

「……?」

 

 レーベンは護岸に座り込み、シスネは立ったまま彼の手を取っている。つまり彼の頭は、ちょうどシスネの腿のあたりにあって……。姉と妹に着せられた白服。そのスカートの丈は、ちょうど左腿のあたりでもっとも短くなっていて……。

 夜風が、その事実をシスネに知らせた。悲鳴を抑えられたことは僥倖だったとシスネは思う。

 

 

 ◆

 

 

 護岸の繋船柱(ボラード)に腰掛けたまま顔を覆っているシスネが復活するまで、まだ時間がかかりそうだった。彼女といいカーリヤといい、見られたくないのなら何故わざわざ肌を晒すのか。レーベンの生涯の謎の一つである。

 もっとも、シスネはどうも姉妹に謀られたらしい。本当に聖都で流行りの服ならば、レーベンもこの三日で一度ぐらいは見かけているはずである。ならこの白服は誰が準備したのか。いかにも悪戯好きなウルラか、服飾にこだわりがあるらしいコトラか。……もしやサラベイではあるまいか。レーベンは夜風のせいだけではない寒気を覚えた。

 

「まあその、なんだ。似合っているなら良いと思わないか」

「それ以上喋ったら刺しますよ」

 

 返事だけならいつもの彼女であった。ならばそろそろ立ち直るだろうと、長くもない彼女との付き合いから推測する。

 現にシスネは何かしらぶつぶつと恨み事らしきことを呟いた後で、繋船柱から立ち上がった。

 

 

 

「誤解はしないでください」

「服の趣味がか?」

「……あなたの傷を見たくないと言ったわけではないという意味です。馬鹿」

 

 謝るか罵るかどちらかにしてくれないだろうか。

 だが見苦しいことは確かだろう。レーベンは人からどう見られようと大して気にしないが、見る側のことまでは考えていなかった。パロットの気遣いにはそういう意味もあったのかもしれない。

 

「俺こそすまないな。いきなり見て驚いただろう」

「その程度の傷、みんな見慣れていますよ。コトラなんて、“カッコいい”と言っていました」

「そ、そうか」

 

 あの少女から向けられる視線は恋慕より、そちらの方が強いのかもしれない。少年であれ少女であれ、大騎士(コルネイユ)よりも悪騎士(ジャック・ドゥ)に惹かれる者はレーベンでなくとも一定数はいる。つまりは「そういう年頃」なのだ。

 閑話休題。

 

 

 

 シスネが黙ってしまえば潮騒しか聞こえるものは無い。見るなと言われたレーベンはまた視線を暗い空と黒い海に向ける。そもそも彼女は何をしに来たのだろうか。

 視界の端でシスネは所在なさげに小石を海へと蹴り入れる。チラチラとこちらを見ている視線を感じる。そして言いにくそうに、口を開いた。

 

「これから、どうするのですか」

 

 潮騒が大きくなった気がした。

 遠くへやっていた視線を海面に下ろしても、底の無いような黒がただ広がっている。左手で弄んでいた小石を落とせば、ただ小さな水音だけを残して消えて無くなった。

 そのまま、何も浮かんではこなかった。

 

「そう、だなぁ」

 

 レーベンの心は凪いでいた。だが何故だろうか。足元に広がる黒い海は、すこしだけ荒れてきたように見える。

 

「どうすれば良いと思う?」

 

 卑怯な答えだと、自分でも思った。

 

 

 ◇

 

 

 卑怯な問いだと、自分でも思った。

 いったいどの口でそれを問うのか。彼の覚悟を、死に場所を、行く末を奪ったのはシスネだというのに。それでも問わずにはいられなかった。

 レーベンは沈黙して、ただ手に持つ小石を海に落とした。灰色の左目はじっと夜の海を眺めている。二度三度と、波が護岸に当たって飛び散る音が響いた後で彼は答えた。

 

「どうすれば良いと思う?」

「――――」

 

 彼は自覚しているのだろうか。

 その口許が皮肉げに歪められていることも、その左目が哀しげに細められていることも、その声が泣き出しそうなほど震えていることも。

 故郷と家族を失くしても、騎士の道を閉ざされても、死に場所を奪われても、それでも止まらなかった彼が。

 選んだ道すべてに拒絶され続けた彼は、ここで遂に膝を折ったのだ。

 そんな彼の姿に、シスネは。

 

「もし、も」

「もしも、私が、」

「私が――」

 

 

 ◆

 

 

「私が、あなたに死なないでほしいと言ったら」

 

 夜空と夜海ばかり眺めていた目に、彼女の姿は焼かれそうなほど輝いて見えた。

 白い髪と、白い服と、白い肌と、どこまでも黒い瞳。

 だが彼女は自覚しているのだろうか。

 

「あなたに、生きていてほしいと言ったら」

「生きて、苦しくても生きている姿を、見ていたいと言ったら」

 

 何がおかしいのか、浮かべた虚ろな笑みは。

 何が恐ろしいのか、病んだように青褪めた顔は。

 

「あなたは、どうしますか」

 

 

 

 ライアー達は「死ぬな」と言った。

 ミラは「またね」と言った。

 パロットは「お大事に」と言った。

 シスネは。

 

「…………そうか」

 

 それは気付きだっただろうか。今まで気付きもしなかった、あるいは目を逸らしていた事実。

 

「そう、か」

 

 誰もレーベンの死は望んでいない。

 親しい者たちは皆が死ぬなと言う。親しくない者たちはレーベンの生死に関心など無い。

 レーベンの死を望む者はいない。レーベン自身を除いて。だがそれですら。

 

『俺みたいに、お前だって、気が変わる時が来るかもしれねえ』

 

 結局はライアーの言う通りなのだろう。彼の、魔女に対する憎悪が燃え尽きたように、レーベンのかつての意思はもう潰えてしまった。

 焼きが回った。心が折れた。言葉にしてしまえば、それだけのこと。

 そんな心が折れたレーベンに、彼女は耳元で囁く。いつの間にか、その華奢な体が寄り添っていた。

 

「もう良いではないですか」

「死ぬことは、いつでもできます」

「なら、とりあえず今は、生きていれば良いではないですか」

 

 諭すように、誘惑するように彼女は言う。示されたその道はひどく楽そうで、どうしようもなく甘美で、だからこそ決して選んではならないのだと思った。

 だが。

 

「……あなたは気にしすぎなのです。誰もあなたのことなんて知りません」

「この街もこの国も、教会と聖女と騎士だけで出来ている訳じゃない」

「あなたが生きていても死んでいても、殆どの人にはどうだって良いことです」

「なら、生きていても良いではないですか」

 

 ついさっき姉に言われていた言葉を、彼女はレーベンに向けた。それだけ彼女は必死で、何故そこまで必死になるのかレーベンには分からない。

 分かるのは、もうその言葉を撥ねのけるだけの意思がレーベンには無いこと。

 

「…………そうだな」

 

 

 

 その日、レーベンは騎士として死ぬことを諦めた。

 それが良いことであったのか悪いことであったのか、レーベンにはもう分からなかった。

 ただもう、ひどく疲れてしまっていた。

 

 

 ◆

 

 

 並んで暗い海を眺める。シスネはもうレーベンの死角には入らず、近くも遠くもない場所で座り込んでいた。月明かりを反射する、白い女。

 

「思ったのですが」

 

 夜風が吹き、彼女は長い髪を手で押さえるような仕草をする。だが今その髪は編みこまれており、ただの条件反射のようだった。シスネはそれに気付きもしない。

 

「あなた、教会の職員になってはどうですか」

 

 考えもしなかったことをシスネが言う。

 

「職員に? ……俺がか?」

「他に誰がいるのですか」

 

 それは分かっているが、それでも思わず聞いてしまった。それほど意外な提案だったのだ。

 教会はこの国の要を成す巨大な組織であり、当然だが聖女と騎士だけで動いている訳ではない。依頼を募集し割り振る本棟職員や、現場までの移送を行う御者達、治安維持を担う警備職員、医療棟の医療者、技術棟の技術者または変人、はては食堂の料理人など、その職務は多岐にわたる。

 だがそれらの中に、今のレーベンに出来る仕事などあるのだろうか。

 

「例えば、ファイサンの下で働くとか。知らない仲でもないでしょう」

「ファイサン?」

「……武器庫の職員ですよ。あなた、あれだけお世話になっておいて名前も知らなかったのですか?」

 

「あぁ……」と、レーベンは夜空を仰いだ。あの武器庫でいつもうんざりとした顔でレーベンの対応をしていた彼のことか。名前どころかまともに会話したことすら無く、彼もレーベンの名前など知らないかもしれない。それでも印象は良くないであろうが。

 

「武器の在庫の管理だとか、それなら片腕でもできるのではないですか。それに、」

「それに?」

「……私も、よくお世話になるでしょうから」

 

 顔を彼女に向けると、それと連動したようにシスネはそっぽを向く。普段は白髪に隠れている首筋も露わで、月明りの下でも赤くなっているのが見えていた。

 想像する。

 実の所、倉庫番など閑職の一つでしかなく、レーベンがいなければそうそう利用されることもない。故にこれから頻繁に訪ねてくる相手もシスネぐらいしかいないだろう。そのシスネが無愛想に訪ねてきては、無遠慮に大量の銃と弾薬を要求してくる。そして己とファイサンは共にうんざりとした顔でそれに振り回されるのだ。

 ふ、とレーベンの口から笑いが漏れた。

 

「それも、悪くないな」

 

 シスネだけでなく、後進の騎士も訪ねてくるかもしれない。まともな騎士ではなかったレーベンの助言など必要ないかもしれないが、時には役立つこともあるかもしれない。こんな己でも、欠片ほどは誰かの助けになるかもしれない。

 そして、もしも。もしも、彼女もまた生きたまま役目を降りる時が来たならば――。

 そんな、甘い微温湯(ぬるまゆ)のような未来を口にしてしまう前にシスネは立ち上がった。

 

「ならもう休むことです。明日すぐポエニスに戻りましょう」

 

 欠伸まじりに背伸びしながらシスネが言う。つい今朝、聖都に帰ったばかりで気の早いことだが、やはり長居はしたくないのかもしれない。レーベンとしても、もうそれに反対する理由は無かった。

 

「そうしよう。あなたは寝させてもらえなさそうだが」

「はい……?」

 

 怪訝そうなシスネの声を聞きながら、レーベンも左目だけを動かして診療所の玄関を見やる。その視線を追った彼女も振り返り、そして固まった。

 

「な……っ」

 

 立派な玄関扉、その隙間から覗く顔、顔、顔。

 上からメーヴェ、ロシノル、エンテ、ウルラ、パロット、グースィ、コトラ、サラベイ、シュカ。計十八もの目が爛々と二人を凝視していた。……幼いシュカはともかく、長身のサラベイの頭が何故そのような低い位置にあるのか。いったいどういう姿勢で二人もといレーベンを睨みつけているというのか。色々な意味で寒気を禁じ得ない。

 飛び出してくるエンテとコトラ。逃げようとして捕まるシスネ。あっという間に家の奥まで連行されていく彼女の悲鳴を聞きながら、レーベンは笑う。くつくつと身体を震わせて、そのせいで痛む傷に顔を顰めて、また笑った。

 

「俺の方が、笑われるだろうな」

 

 あの二人の友人が帰ってきた時、もし己が教会の職員になっていたら彼と彼女はどのような反応をするだろうか? 揃って口を大きく開けて、そして次は腹を抱えて笑いだすであろう姿を想像して。

 レーベンはまた笑った。

 

 

 

 そうなると、思っていたのだ。

 

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