晴天の街道を馬車が進む。
速さ以外を度外視した教会の馬車に乗り慣れたレーベンにとって、聖都で運営される乗り合い馬車はそのまま宿にしたいほど快適であった。ゆっくりとした速度故か、それとも何らかの仕掛けがあるのか座席に殆ど揺れは伝わらず、十人は腰掛けられそうな客席に座るのも今はレーベンと連れ合いだけだ。
ふあ、と。その連れ合いも口許に手を添えながら小さく欠伸をした。
「眠いですね……」
「寝たらどうだ」
「……なにか変なことを考えていませんか」
特に何の他意もないレーベンの言葉に対して連れ合い――シスネはじっとりと黒い瞳を向けてきた。聖都を発つ前にわざわざ直された化粧の為か、その眼光は以前にも増して迫力がある。
「考えてはいないが、横になる前に何か羽織ってくれると助かる」
「考えているではないですか。やっぱり男性とは皆そういうものなのですね嫌らしい。いえ、ただ単にあなたが穢い人なだけですか」
眠気が苛立ちに変わったのか、あるいはいつも通りなのか、彼女は相変わらずレーベンを罵倒する時だけは饒舌であった。以前と変わったのは、その装いぐらいか。
『着替え? 別にいいじゃない、そのまま行けば』
『いつまで時代遅れなこと言ってんの? それぐらいの服、今は普通よ普通』
『あんたの服? 血が落ちないから雑巾にしたけど』
彼女の姉が至極どうでもよさそうに宣う前でぶるぶる震えるシスネの顔ときたら、今思い出しても震えあがる思いである。笑いを堪えるのも楽ではない。
そういうわけで、今もシスネの恰好は昨夜に着せられた白服のままだ。髪だけは解かれているものの、それはそれでまた印象が異なる。ただ白髪を束ねているのは簡素な髪紐ではなく、黒いリボンだった。どこまでも彼女に合わせた采配、あの末妹殿には拍手を送りたい。ついぞ声を聞くことは無かったが、気は合いそうである。……レーベンを見る目は多少あれだが。
「だいたい、あなたに手を出したりすれば兄上殿に刺されるだろう」
「やめてください。おに……兄の話はしないで」
「お、おう?」
怨敵でも見るかのような目を向けてくるサラベイの姿を思い出して遠い目になっていたレーベンの言葉を、更に遠い目になったシスネが遮る。硝子をはめられた窓で外を眺めながら、丈の均一でないスカートの裾をしきりに手で伸ばしていた。
……まさかこの服は本当に彼が用意したのではなかろうか。黙っていても女の方からいくらでも寄ってきそうな色男だったというのに、人は見かけによらないものである。
「……ん?」
家族というものの奥深さを噛みしめていると、窓の外に目を向けていたシスネが何かを見つけたようだった。そしてすぐ、外から御者の大声と馬数頭分の嘶きが響く。
「つかまってくれ!」
「な、きゃ――っ」
「うお……っ」
同時に、揺れとは無縁だった客席が激しく揺れる。「どう! どう!」という御者が必死に馬を宥めている声と共に、レーベンの耳は遠ざかっていく蹄の音を聞いた。
「いた……っ、何だったんでしょうか」
「教会だ」
「え?」
座席から転げ落ちていたシスネが尻を撫でながら席に戻り、窓に顔を張り付かせたままでレーベンは答える。
レーベンが見た影は馬が三頭分。衝突寸前の勢いで駆け抜けていったそれには、確かに教会の上位職員の服を纏った者が乗っていた。あとの二頭はおそらく護衛、つまりは聖女と騎士だったのだろう。もう既に見えなくなった彼等は馬車とは逆方向、つまりは聖都へと向かっていた。
「随分と急いでいたな、よほど急用だったらしい」
「だからといって、これは無いでしょう……」
呆れたようなシスネの言う通り、一歩間違えば大惨事であった。現に今も外では御者が教会に対する暴言を一人で吐き捨てている。シスネが聖女の装束を着ていないのだから、まさか乗客が教会の関係者だとは思うまい。あの怒り様ではこちらにまで飛び火した可能性すらあり、そういう意味では彼女の白服に助けられた。
「やはりそれは良い服だな」
「もう一度言ったら、あなたと服を交換しますから」
ひどい脅しもあったものである。
◆
最短距離を進む教会の馬車とは違い、乗り合い馬車はいくつかの町を経由しながらポエニスへと向かう。行程はおよそ二日。その半分を終えたレーベン達は小さな宿町で夜を明かすことになった。
「感じますか?」
「……いや、どうだろうな。よく分からん」
「これでは足りない……? でもこれ以上は」
いくつか並んだ中で選んだ、中の下ほどの宿の小さな食堂で二人――主にシスネが奮闘していた。
「もっと入れれば感じるかもしれん」
「駄目です。塩気も摂りすぎは身体に毒ですから。そもそも貴方自身がそんなだから、こんなことになっているのですよ? 分かっているのですか?」
「……」
「返事は」
「はい」
彼女の祖父から渡された
ロシノル曰く、味覚が麻痺していても嗅覚で代用することは可能だとか云々。故に、昨夜の煮込みに彼が手を加えたことでレーベンも味を感じることができたのだと。それにしても、ごく僅かな時間でレーベンの身体の異常を見抜いた彼は只者ではない。鏡を使って欠損した右腕の痛みを鎮める方法といい、極めて優秀な医療者だと言わざるを得ないだろう。
「そろそろ良いだろうか。よく噛んでゆっくり食べるとも」
「仕方ないですね、次は種類を変えてみましょう」
ようやくお許しが出た食事に本格的に手をつけ、食前の祈りを終えたシスネも匙を手に取る。さりげなく自分の皿にも香辛料を足しているが、それは摂りすぎにはならないのだろうか? 指摘する勇気は無く、その前にシスネの方が口を開いた。
「祖父が言うには、薬を断ちさえすれば数年で元に戻るかもしれないそうです」
「そうなのか。なら、わざわざ苦労する必要も、」
「あと何年も味のない食事を続ける気ですか? すこしは努力をしなさい。だいたい――」
ようやく始められた食事は説教を聞きながらとなってしまった。げんなりと左目だけで周囲を見回すと、何ともつかない視線のいくつかと目が合う。悪意のある視線こそ無いが、己と彼女はどういう組み合わせに見えているのだろうか。
片や、右目と右腕を失くした黒髪の男。顔の包帯も取り払われ、醜い裂傷も露わとなっている。どう贔屓目に見ても、まともな人間とは思われないだろう。
片や、平服と呼ぶには目を引く白服を纏った白髪の女。白と黒だけで彩られた姿は白黒画のようで、レーベンの目にはともかく他者からは異様な姿の女に見えているのかもしれない。今もまた、商人らしい幾人かの男たちがチラチラと彼女に不躾な視線を――。
「……?」
いま何か、己の感情に波が立った。
最近はまるで使用していない強化剤を打った時にも似た、意味もなく感情が振れ動いたような違和感。ある意味では懐かしさすら感じるそれを、何故いま感じるのか疑問に思ったところで、目の前に座るシスネの説教が止んでいることに気付いた。
黒い瞳はレーベンではなく、壁際の一点に固定されている。レーベンもその視線を追い、
「お……」
薄暗い照明の中でも特徴的な、聖銀の輝き。掌に収まるほどの四角形に切り取られたその中で、幾人かの若い女たちが様々な表情を見せている。唯一つ共通しているのは、その全員が灰色の装束を纏っているということ。
もはや見間違えようもなく、言い逃れもできない。あれはかつてレーベンが売り捌いた、聖女たちの写銀だ。レーベンはポエニスでしか店を広げなかったというのに、それらが流れに流れてこのような宿町にまで飾られているとは流石に想像を超えていた。
かたり、と。無言でシスネが席を立つ。ある程度の凄惨な制裁を覚悟したが、彼女は左手で頭を押さえるレーベンの横を通り過ぎて壁際――写銀の元へと歩いていった。
「――キャナリー」
遅れて彼女の近くへと向かったレーベンの耳にも、その静かな声はよく響いた。シスネは写銀の一枚を指先で撫でながら、誰かの名前を口にする。
「オーカ、ピベール、チコニア、クトレトラ、」
誰か。それはきっと写銀に映った聖女たちの名前に他ならない。レーベンは碌に知ろうともしなかった彼女らの名前を、シスネは淡々と口にしていく。やがて黒い長手袋に覆われた指先が、ひときわ目立つ位置に飾られた写銀に触れる。
「カーリヤ」
波打つ金の髪と、鮮やかな碧眼を持つ美貌の聖女。レーベンはもう随分と長い間、その姿を目にしていないように感じた。まだほんの十日ほどしか経っていないというのに。
『……っもう、勝手にしなさい馬鹿っ!』
医療棟の病室で見た、少女のような泣き顔。それが最後に会った彼女の姿だ。和解は、まだ出来ていない。
そして。
「…………マリナ」
絞り出すようなシスネの声。カーリヤと同じ写銀に映った、小柄な聖少女。
恐るべき破戒魔女と化し、最後はレーベンが右腕と引き換えに狩り殺した幼い聖女が、かつての姿のまま笑顔を見せていた。
左目で盗み見たシスネの横顔は、ただ沈痛そうな憂い顔だった。レーベンは知る由も無かったが、彼女とマリナは随分と親しかったらしい。だからこそ、あの時に引き金を弾けなかったのだ。
「……」
ここに来てレーベンは気付いた。
マリナはレーベンの道を狂わせた元凶でもあり、そして己はシスネから友人を奪った仇でもあるのだ。例えそれがどのような形であれ、マリナを殺めたのはレーベンなのだから。
……聞くべきではないのだろう。きっと聞くべきではないのだが。
「――恨んでいるか?」
「――恨んでいますか?」
重なる声。そして沈黙。
沈黙の後、顔を見合わせてから、彼女は弱々しく笑った。己も同じ顔をしているのだろうか。
「……忘れてください。私も忘れますから」
そう言って、一度だけ鼻を啜った後で、懐から何かを取り出した。
「それは、」
「あなたの忘れ物ですよ」
シスネが誰の許しもなく壁に飾ったのは、それもまた写銀だった。カーリヤとその騎士であるライアーが映った、ただ二人が連れ立っているだけの写銀。レーベンであってもこれを売ることは憚られ、そして自室の引き出しに仕舞ったまま遂に持ち出すことはなかった、二枚の内の一枚。
「苦情が来ないか」
「構わないでしょう? もう二人は夫婦なのですから」
どこか不敵な顔で、さも決まったことのようにシスネは言う。だが確かに、カーリヤが彼の求婚を拒む姿はまるで想像できなかった。ならば問題は無いのだろうか? それ以前の問題なのかもしれないが。
二枚並ぶカーリヤ達の写銀を眺めた後、シスネは徐に何かをレーベンの左手に握らせる。それきり写銀には目を向けず席へと戻っていった。
「シ――」
「お返しします。それは聖女の写銀でもありませんし」
それだけを言って、彼女は食事を再開してしまう。
「冷めますよ」と急かされる声のまま、レーベンは手の中の物を懐に仕舞いながら席へと向かった。
◆
夜風に乗って、鳥と虫の声が聞こえてくる。街道の途中に築かれたこの宿町は森に近く、空気も澄んでいる。こうして横になりながら窓から青白い月を見上げていると、レーベンはノール村で過ごした日々のことを思い出してきた。
あの退屈な捜索と、不安になるほどの平穏。今と同じようにシスネと寝室を共にし、そしてまた同じように彼女の魘される声を聞いていた。
あの時はそれなりに広い客間だったが、今は簡素な一人部屋だ。レーベンは銅貨の一枚も持ってはおらず、今回の路銀は全てシスネに出してもらっている。もっとも、彼女の財布とて家族から借りたもののようだったが。その為に部屋を二つ借りるような贅沢は憚られ、シスネもまた同室であることを拒みはしなかった。なんだかんだと言って、出会った頃に比べれば態度もずいぶんと軟化したものだ。
床に敷いた毛布の上で寝返りをうてば、すぐそこの寝台の上でシスネが寝顔に苦悶の表情を浮かべている。寄せられた眉と、噛みしめられた口許がひどく目に残る。
「……」
シスネと出会ってから、良くも悪くも己は変わった。レーベンはそう思っている。
魔女狩りの中で死ぬことばかり考えていた己が、聖女を得ることなどとっくに諦めていた己が、はじめて明確に彼女を聖女としたいと考えるようになった。その為に随分と馬鹿な真似もしたように思う。
成り行きで彼女と魔女狩りを共にすることになり、いくつかの死線を共にくぐり抜け、最後はもう戦えない身体となってしまった。
騎士でなくなり、帰る場所もなくなり、半ば自暴自棄になっていたところに彼女がまた現れた。死に向かうことを止められ、騎士として死ぬことも諦め、そして今から安穏とした生に向かおうとしている。
レーベンは変わった。シスネはどうなのだろうか。
彼女は何も変わっていないように見える。三年前に騎士を介錯し、一人で魔女を狩り続け、ポエニスに来てレーベンと組まされ、そしてミラを、レーベンを救ってくれた。
だが彼女は何か救われたのだろうか。今こうして、眠ることすらできず苦しんでいることが答えなのではないか。明日ポエニスに戻り、仮にレーベンが教会の職員になれたとして、彼女はどうするのか。
決まっている。また一人で魔女を狩るのだ。一人で。傷だらけになりながら。
レーベンに出来ることは、何も無い。
「……」
仮に、もしも、己が彼女に好かれていたのなら、何か救いになれたのだろうか。何か出来たのだろうか。だが彼女はレーベンを嫌いだと言い、それは照れ隠しなどではなく本心なのだということはレーベンにも分かる。その嫌いで穢い相手を何故こうも放っておかないのかは、ついぞ分からないままだが……。
シスネはまだ魘されている。苦しげな吐息に混じり、「レグルス」と、そう何度も呼んでいる声が聞こえる。
「…………」
ざわりと、また己の中で意味も無く感情が揺れ。
その波を努めて無視し、彼女の声を聞きながら、レーベンはただ月を見上げていた。
◆
既に出発準備を整えた馬車の前で、不機嫌そうなシスネがレーベンを出迎えた。
「悪い」
「まったくですよ。だいたい、忘れ物をするほどの荷物があるのですか」
呆れを多分に含んだ溜息をこぼして馬車に向かう彼女を、杖をつきながら追う。この杖もまた彼女の家族から貰った物だが、正直なところシスネに手を引かれなくなったことに寂しさを覚えなくもない。だが。
「ほら、早く乗ってください」
こうして、客席に上がる時だけは手を貸してくれた。それに安堵と満足を覚えている己を客観視し、随分とまあ絆されたものだと自嘲する。何もかも今更だ。
「……顔色が悪いですね。眠れなかったのですか」
そういう彼女も相当にひどい顔をしている。化粧は落とされ、代わりのように濃い隈が浮かぶ目許。それはそれでまた、退廃的な魅力をレーベンは感じてもいた。
二人だけの乗客を乗せた馬車は動き出し、そしてすぐ彼女は小さな欠伸をもらす。
「眠いですね……」
「寝たらどうだ」
「……またなにか変なことを考えていませんか」
※
街道沿いの小さな宿町の、小さな宿。その中の小さな食堂には、幾枚かの写銀が飾られている。その全てには教国の民が敬愛する聖女たちが映され、その中で各々が様々な表情を見せていた。
太陽が登ると同時に人々は動き出し、宿町であるここに留まる者はおらず、次々と人は入れ替わっていく。故に未だ気付く者はいない。小さな宿の小さな食堂の壁際に飾られた写銀が、ほんの二枚増えていたことなど。
飾られた写銀の片隅、もっとも目立たないであろう場所。
白い髪と黒い瞳を持つ女がひとり、憂いた横顔を映しだしていた。