魔女狩り聖女   作:甲乙

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戦場の片隅で

 

 ポエニスの戦いは乱戦の様相を呈していた。

 ドーラが吼え、その砲撃が周壁を貫く度に開いた穴に魔女が殺到する。だがそれを易々と通すわけもなく、銃列を揃えた銃隊が魔女を蜂の巣へと変えていった。だがそれで全てを抑えられるわけもなく、魔女の死骸を乗り越えた別の魔女が銃隊に飛び掛かり、そうなれば彼らに抵抗の手段は残されていない。だがそれを黙って見ているわけもなく、騎士たちの剣が、槍が、斧が、魔女を次々と狩り殺していった。だがそれもいつまでも続けられるわけもなく、死角から襲われた聖女が倒れ、時には魔女に群がられながら自決する。

 ヴュルガ騎士長とその周囲で戦う精鋭騎士たちはまさに獅子奮迅の戦いを見せていたが、それでも魔女の群れ全てを相手にはできない。取りこぼした魔女を銃隊と騎士たちが狩り、それすらもくぐり抜けた魔女はポエニス中へ散らばっていく。

 一進一退の攻防は際限なく広がり、周壁の北側から水がしみ出すように戦線は拡大していった。

 

 

 ※

 

 

「くそ! くそったれが!」

「来いよ! 撃ち殺してやる!」

「弾だ! 弾をくれ!」

 

 最前線である周壁から離れた、教会の敷地内。積み上げた土嚢で作られた防壁の内側で、数人の警備職員たちが迫る魔女を相手に防戦していた。

 彼らが背後に守る建物は医療棟。聖都へ避難する難民の列に加わることができなかった老人、病人や怪我人、そしてそんな人々を支える為に残った医療者たちが立てこもっている場所だ。

 

『どこ? どこに行ったの? ここはどこ?』

 

 そんな場所にも、いやそんな場所だからこそだろうか。そこにも魔女は現れ、やたらと多い手足を出鱈目に生やした魔女の躰に銃弾を撃ちこんでいく。もはやどこをどう撃てば良いのか分からない。とにかく動かなくなるまで引き金を弾き続けた。

 

「はぁ、はぁ……っ、やったぞ!」

「くそ、もう弾が」

「また来た! 構えろ!」

 

『あははは行かないで、行かないで! あははははは!』

 

 逆立ちでもしているかのような魔女が喚きながら走ってくる。逆さまになった頭は胎のあたりから生え、黒い泥に埋もれていない口はケタケタと笑い声をあげていた。その悍ましい声と姿に若い職員が顔を引きつらせた。

 

「班長、やばいですって!」

「うるせえ! 逃げやがったらお前を撃つぞ!」

「そんなぁ!」

 

 情けない声をあげながら引き金を弾き続ける。もうそれしか無い、逃げ場などもうこのポエニスの何処にも無いのだろうから。第一、戦う力も持たない人々を見捨てて逃げ出すのも寝覚めが悪い。彼らの心は折れなかったが、それだけで狩れるほど魔女は容易い存在ではない。

 

「うわわわわ来た来たまた来た来たって班長おおおおおっ!」

「くそったれがあああ――っ!」

 

 逆立ちした魔女の次は……もう何が何だか分からない姿の魔女だった。もう何でも良いからとにかく銃弾を撃ち込む為に引き金を弾いてカチカチ弾切れ嘘だろおいくそったれ!

 

 

 ふわりと、白い髪が彼らの視界を遮った。

 

 

『だれ、だげ! だがげっ!』

 

 パン、パン、パンと等間隔に銃声が響く度、魔女の脚らしき部分から泥が噴き出す。どんな異形であれ、魔女の多くは地を這い歩くことでその身を進ませる。故にまず最初に脚を潰すことは魔女狩りの定石の一つだ。現に、あれだけ撃ち込んでも動きを止められなかった魔女があっさりと地に伏せていた。まだ死んではおらず、腕のような部位を蠢かせて躰を起こそうするが、それよりも早く長銃のレバーを引く音が響く。

 

『だぱっ!』

 

 短銃とは比べものにならない轟音。遠くも近くもない、最大威力を発揮する距離から正確に放たれた散弾が魔女の頭に浴びせられた。一発ではない。レバーの作動音と銃声が交互に響き、魔女が歪んだ悲鳴をあげなくなるまで発砲は続く。最後に、動かなくなった魔女の死骸に焼夷弾が投げつけられた。

 

「あ、あんた」

「気を抜かないでください。周囲の警戒を」

 

 躊躇いがちにかけた声は平坦で澄んだ声に遮られた。声の主は燃え上がる魔女の死骸から目を離さず、職員たちは慌てて周囲を見回して魔女の姿を探す。「……六、七、八」と何故か時間を数える声が聞こえ、それが十に達した後で声の主はやっと長銃を下ろした。

 

「……魔女はいないようですね。怪我人はいますか」

「あ、あぁ、頼めるか」

 

 声の主――灰色の装束を纏った女は誰が見ても聖女だが、見れば見るほど聖女には見えなかった。

 背には二丁の長銃、細い腰の両端には短銃、脇に提げられた異様に大型の短銃。脇と腰と足首には短剣が鞘ごと括りつけられ、肩に回されたベルトには銃弾と焼夷弾と炸裂弾が並んでいる。

 全身に武器を括りつけた異様な聖女。唯一、長い白髪だけがその女を聖女らしく見せていた。

 

「指先の感覚はありますか? 痛むでしょうが、ここを強く押さえて」

「頭を下にして、何か足を乗せる物はありませんか?」

「……意識がありません。なるべく動かさないように、そっと運んで」

 

 聖女らしく負傷者の治療を始めたかと思えば、その処置はやはり聖女らしくない。教会の薬物や自身の聖性はまるで使わず、一般的な包帯や薬だけで手早く応急処置を済ませてしまった。

 どこまでも聖女らしくない聖女。第一、騎士はどこにいるのか?

 

「これを」

 

 いくつも浮かび上がる疑問を口にする間もなく、白髪の女は鞄を押し付けてきた。華奢な女がどうやって背負っていたのか分からないほど重い。中にはいくつかの銃と大量の弾薬。

 

「私はもう行きます。あなた達はどうか、ここを守ってください」

「いや、でも、あんたは」

「……お願いします」

 

 細い腰を深く折り曲げた女の白髪を見ながら、なんとか「お、おう」と答えを返す。ゆっくりと顔を上げた女の瞳は、夜空のように黒かった。

 

「任せとけ。あんたも無事でな、()()()()

「……、えぇ」

 

 女は、何故か顔を一瞬だけ歪めて見えた。もう一度だけ頭を下げ、今度こそ何処かへと走り去っていく。別の魔女を狩りに行ったのだろう。

 

「聖女って一人でも魔女を狩れるもんなんですね。俺、知らなかったです」

「馬鹿野郎、んなわけあるかよ」

 

 聖女が単身で魔女に挑むなど本来はあり得ないことだ。

 そもそも魔女という常識外の存在がいるからこそ聖性技術が編みだされ、聖女と騎士が生まれたのだ。暗黒時代よりも銃などの武器が各段に進歩したとはいえ、それでも聖性の助けも無い只人では魔女を相手どるには危険に過ぎる。

 それを彼女はやって見せたのだ。まるで英雄譚のように。

 

「英雄、か」

 

 今も北側の最前線からは鬨の声と共に怒号と悲鳴、何がどうなったのか考えたくもないような音が響いてきている。ヴュルガ騎士長をはじめとした精鋭たちが奮闘している証であり、もしこの戦いに勝利することが出来たならば、間違いなく彼らは英雄として称えられるだろう。

 こんな辺鄙な場所を守っている自分たちや、あの白髪の女とは違って。

 

「それでも……」

「班長! また来た!」

「もうかよ!? 考え事ぐらいさせやがれってんだ! くそったれっ!」

 

 

 ◇

 

 

「八、九、十……」

 

 十数えても死骸が動き出さないことを確かめてから、息を吐きながらシスネは長銃を下ろした。これで四体目。押し寄せてくる疲労で身体はひどく怠いのに、心臓と頭だけはひどく熱を持っていた。座り込んでしまいたい衝動を抑え、中庭の隅に立てられた物置小屋へと急ぐ。

 

「っ、痛……」

 

 固く重い扉をなんとか開け閉めしていると、左腕に痛みが走る。見れば装束の左袖が切り裂かれており、灰色の布地から覗く白い肌からは赤い鮮血。無我夢中で気付かなかったが、先の魔女の爪が掠っていたらしい。そこまで深くはない、まずは扉に閂を下ろして安全を確保した。

 土臭い屋内には農具に混じって、明らかに場違いな銃や弾薬、薬品に包帯に水といった品々が乱雑に置かれていた。この戦いの前にシスネが密かに準備していた物だ。ここだけではなく、教会の各所に分散して装備を隠してある。ポエニス全体が半ば混乱していた時のこと、素知らぬ顔で物資を持ち出すシスネのことを咎める者は誰もいなかった。

 

 ――バレたら、また懲罰かな

 

 ほんの十日ほど前の公開懲罰。あの日もこんな雲ひとつ無い青空だった。人間や人間が成り果てた魔女が何をどうしようと、天気という自然の理には何ら関係が無いということだろう。廃墟になったポエニスの中でまた晒しものにされる自分の姿を想像して、シスネはひとり笑った。

 意味のない笑いが収まってから、怪我の確認と治療を始める。自分の左腕に自分で包帯を巻くことも慣れたものだ、包帯の端を噛みながらきつく締め付けた。銃に弾薬を込め、ベルトにも減った装備を補充していく。銃身が熱を持ち始めた長銃は交換し、魔女に刺したまま捨てた短剣も新しく鞘に納めた。

 

「んっ、く、は……っ」

 

 最後に水を呷って、唇から垂れた雫を手で拭う。まだやれる。そう自分に言い聞かせた。

 作戦が第三段階に入ってからシスネが狩った魔女は四体。それが多いのか少ないのかは問題ではなく、どちらにせよそれが自分に出来る最善だとシスネは考えている。

 銃を主な武器とするシスネでは乱戦には向かない。流れ弾が誰に当たってしまうか分かったものではなく、故にこうして一人で戦うことを選んだのだ。主戦場である周壁からあぶれたように彷徨う魔女を探し出し、狩る。それは奇しくも、シスネがこの三年の間ひとり繰り返してきたこととまるで同じだった。

 こんな、かつての大戦に勝るとも劣らない戦いの中であっても。

 

『任せとけ。あんたも無事でな、聖女さん』

 

 だがそれで良い。シスネは英雄の器などではなく、それどころか聖女ですらないのだから。最前線に赴いたところですぐに殺されるか、他の聖女や騎士たちの足を引っ張ってしまうだけ。

 魔女は他にもいる、ポエニスに残ったのも戦う力を持つ人々だけではない。ついさっき医療棟を襲う魔女を狩って警備職員たちに助太刀したように、シスネに出来ることをやるだけだ。

 

「……」

 

 小さな窓から医療棟の影を見る。

「彼」は無事に避難者の列に加われただろうか。歩くことはできるのだからその可能性は低くないが、もしかしたら医療棟にいるのかもしれない。だったら尚の事、いつまでもここで休んではいられない。

 パチン、と両手で顔を叩いてから入り口に向かう。閂を外し、建て付けの悪い扉をゆっくりと開くにつれ隙間から光が差し込んでくる。眩しさに片目を閉じていると、その光がふと弱くなった。

 

「――――っ!」

 

 全身に走った悪寒よりも速く扉から飛び退り、着地するよりも早く扉が吹き飛んだ。

 

『あぁ、いや、何も見えない』

 

 歪んだ声をかき消しそうな程の破壊音。バキバキ、メキメキと木材がひしゃげていく音を聞いたシスネは咄嗟に机の下に潜り、その直後に轟音と土煙に襲われる。

 

「かはっ! げほ!」

 

 天井が落ちたのだ。背中に圧迫感があるが動けない程ではなく、動かなければ死ぬ。小屋の残骸をはね飛ばしながら身を起こし、転がるようにして黒い影から距離をとった。

 

『見えない、見えないの』

 

 土煙が晴れ、晴天の中に姿を現したのは大きな魔女だった。遠目に見たドーラや、森で対峙した魔女とは比べるべくもないが、それでも充分に大きい。

 どんな生物にも似ていない姿。丸みを帯びた、どころではないほぼ完全な球体。蠢く黒い蛇か蚯蚓を大量に丸めたとでもいうような悍ましい躰の直径はシスネの倍近くある。

 泥団子に丸めこまれた小石のように、三つの顔が虚ろにシスネを見据えていた。

 

 ――共喰魔女!?

 

 当然のことではあった。幾百もの魔女の群れがいる中で共喰いを始める者がいない訳もなく、シスネが今まで狩った魔女がそうでなかったのは単なる偶然に過ぎない。その幸運と帳尻を合わせるかのように、とびきりの不運がいま目の前に降りかかってきたのだ。

 

『どこ!』

 

 三つの口が同時に叫び、ただでさえ視界を占有する巨体が更に迫ってくる。歩くのでもなく走るのでもなく、その丸い躰を活かした移動法によって。つまりは、凄まじい勢いで転がってきた。

 

「っ!」

 

 冗談ではない。矢も楯もたまらずシスネは背を向けて逃げ出した。自分では凡百の魔女を狩ることで精一杯。複数の魔女が融合した共喰魔女を、ましてや三体以上も共喰いした魔女など勝てる見込みは無いのだ。

 晴天に照らされた中庭の中を全力で走る。美しく整えられた緑の地面を駆けながらも、背後からは歪んだ声と地面を抉る音が近付いてきていた。相手の方が速い。このままでは追いつかれる。魔女に撥ね飛ばされる自分の姿を幻視したシスネは咄嗟に横に跳んだ。

 

『どうして見えないの!』

 

 歪んだ絶叫と破壊音。転がり去る魔女は、道に沿って並んでいた木々を数本なぎ倒してからようやく止まった。ゴロリと動く魔女の下から、ひしゃげた木の残骸が顔を出す。

 

「冗談はやめて……!」

 

 撥ね飛ばされるどころでは済まない。あの突進に巻き込まれれば、あの木と同じように轢き潰されてしまう。震えだしそうな足を叱咤し、シスネは再び駆け出した。

 当然、後ろから魔女は追ってくる。相手の方が速さで勝る以上はいつか追いつかれ、振り切るには何か障害物を使うしかない。だがここは広い中庭だった。所々に木や岩が置かれているものの障害物としては心許なく、故にシスネはひたすら走るしかない。

 

「は……っ、はあ……っ!」

『どこ、何も見えない』

 

 だが当然シスネはいつまでも走り続けられる訳ではない。体力が尽きる前に何か策を考える必要があり、それも浮かばない訳ではなかった。

 このまま走り、あの魔女を周壁まで誘導する。多くの聖女と騎士が今も戦っているあそこに行けば、自分などより格段に腕の立つ騎士たちが魔女を狩ってくれるだろう。面倒を押し付ける形になるが仕方がない。どの道、自分ひとりでは狩れないのだから。

 だが。

 

「くぅ……っ、は……!」

 

 汗が入って滲む視界の中で医療棟の影が見える。その更に向こうから騎士たちの鬨の声が響いていた。そう、周壁まで行くには医療棟の傍を通らなければならない。ついさっき助けた勇敢な警備職員たちの顔が脳裏を過る。彼らだけではない、医療棟には数多くの人達が残っている。自分が誘導したあの魔女が無力な人々を襲わないとどうして言い切れるというのか。

 他の策を考えなければならない。だがもう酸欠寸前のシスネの頭では何も――。

 

「――――」

 

 眼前に池があった。その池には何故か見覚えがある。いつも人の多い中庭には、数えるほどしか訪れなかったというのに。

 そう確か、ポエニスに来て間もない頃、あの池に落ちそうになった誰かを、自分はたしか――。

 

「――――っ!」

 

 背に触れそうなほど近い歪んだ声。もうすぐ足元に迫る池。それをシスネは。

 

『見えな――』

 

 跳んだ。

 

 

 

「ぶえっ!?」

 

 ほぼ無意識に池を跳び越えたシスネは顔面から着地した。柔らかい芝生とはいえ相当に痛い。とはいえ蹲ってもいられず鼻血を手で拭いながら起き上がった。

 

『どこ? ここはどこ? 何も見えない!』

 

 魔女は池の中で浮かびながらぐるぐると回っていた。いっそ沈んでくれれば楽だったが、そこまで重くもなかったらしい。文字通りに手も足も出ない魔女は、ただ水面で無意味にもがいていた。

 このまま放置して逃げても良いが、いつまでもこのままでいてくれる保障も無い。魔女は何をしてくるのか分からないのだから、今ここで狩っておくべきだろう。シスネは背から長銃を抜いた。

 

「女神の導きのあらんことを」

 

 聖句と同時に放たれた散弾は魔女の表面を爆ぜさせ、透明だった池の水が黒く濁っていく。レバーを引きながら池の周りを歩き、衝撃で水面を動く魔女が岸に着かないよう慎重に散弾を撃ちこんでいく。弾切れした長銃は地面に置き、二丁目の長銃を構える。それも弾切れになった頃には池の水は黒く染まっていた。

 

『みえ、な』

 

 だが魔女はまだ死んでいない。普段なら焼夷弾を使うが、相手は水の中。シスネは脇のホルスターから大短銃を抜いた。

 息を吸い、腰を落としてしっかりと地面を踏みしめる。球体状の躰の中心に狙いを定めて、ゆっくりと引き金を、

 

『みえ……、――言わないで!』

「あっ!?」

 

 魔女の「声」が変わった。そう気付いた時にはもう、水中から伸びた黒い手がシスネの足首を掴んでいた。仰向けに倒される反動のまま大短銃を放りだしてしまい、シスネの手は何を掴むこともできず、あっさりと池の中へと引きずり込まれた。

 

『言わないで、なんでそんなことを言うの』

「やめっ、放し……」

 

 苦し気な声は水音に遮られる。毛糸玉が解れるように魔女の躰は形を変え、何本もの黒い手がシスネの体に掴みかかっていた。その力は強くとも、シスネを直接に害してくる程ではない。全身を弄られるような不快感は筆舌に尽くし難いが、常ならばそこまで切迫した状況ではなかっただろう。それがこんな水の中でなければ。

 

「……っ! ……、……ぶはっ! げほ、が……!」

 

 なんとか水面に顔を出すも、すぐに魔女は躰を回してシスネを水中に沈めてしまう。息を止めて耐えようとしても、首を掴む手が、腕を捻り上げてくる手が、脚を引っ張ってくる手が、体中を弄ってくる手がそれを邪魔してくる。肺の中の空気は簡単に吐かされ、代わりに黒く濁った水が口内になだれ込んでくる。そうしてシスネの意識が遠のく頃、それを見計らったかのように魔女が躰を回してシスネを水面に出す。息継ぎをさせる。

 まるで水責めだ。人を水車に括りつけて水の中で回転させる拷問。今のシスネに対する仕打ちはまさにそれだった。つまり、今この魔女はシスネを捕らえて嬲っている。聖女を簡単に殺さない為に。

 まずい、まずい、まずい! このままでは嬲り殺し、いやもっとひどい。もしこの魔女がシスネを絶望させる為にこんな事をしているのなら、殺されることすらない。悪意もなく、ただ魔女の本能だけでシスネを苦しめ続ける。殺さないように、ずっと、ずっと。

 そんなのは御免で、絶対に嫌で、なら何とかしなければいけないのに、手足には無数の手が掴みかかっている。武器を手にすることもできなくて、できたとしても水の中。銃も弾薬もきっと使い物にならない。

 

「……、…………っ、……」

 

 もう何度目かも分からない息継ぎをさせられて、溺れた口からはひゅうひゅうと壊れた笛みたいな音しか漏れない。それを他人事みたいに聞きながらシスネは頭を回して、でももう何も浮かばない。ただ息がしたい、空気が吸いたい、もうそれしか考えられない。

 ほんの三秒かそこらの息継ぎを終えて、魔女がまたシスネを水に沈める。シスネを溺れさせて、苦しめて、絶望させようとする。同じ仲間にしようとする。

 魔女に、しようとする。

 

 ――――――。

 

 カチリと。シスネは左の親指を弾いた。

 

 

 

『言わないで、言わな、』

『い゛、いわな、いわなげ……っ』

『いいが、いがば、いがばいでげ――――ッ!』

 

 魔女が狂ったような声をあげながら震えはじめる。無数の腕を滅茶苦茶に振り回す度に池の水が撥ね、それこそ溺れているかのようにもがき始める。躰を構成する黒い泥はボロボロと崩れはじめ、それは無数にある内の手の一本から始まったようだった。

 

「――かはっ、げほ! うえっ、はぁ、はあっ!」

 

 放りだす形で解放されたシスネは水面に顔を出し、肺の中の淀みきった空気を必死に交換する。酸欠でぐらぐら揺れる頭と視界に吐き気を堪えながら水面を泳ぎ、岸へと這いあがった。芝生を掴むその左手の指輪から伸びる、小さな銀の針。

 無意識の行動だったと思う。針が飛び出た自決指輪を見てはじめて、シスネは自分が何をしたのか悟った。

 なんということはない。暗器のような仕掛けを、本当に暗器として使ったというだけのこと。左手首を拘束する手に突き刺した自決指輪の猛毒は、魔女にも有効だったらしい。分の悪い賭けに勝った幸運を噛みしめながらシスネは、幸運にも近くに落ちていたそれを掴む。

 

『い、ばない、で――』

「黙って」

 

 ゾッとするような声。それをまた他人事のように聞きながら、シスネは大短銃の引き金を弾いた。

 

 

 

『聞こえない、聞こえないよう』

 

 朦朧とする中でなんとか大短銃に弾薬を込め直したと同時、また違う「声」を魔女があげる。

 

「は……っ、そうでしょうね……っ」

 

 この共喰魔女には顔が三つあった。なら最低でも三度は狩らなければならない。満身創痍のシスネが一人でだ。あまりの無理難題に唇を歪める。

 ざぶざぶと音を立てながら魔女が這いあがってくる。躰のほとんどを構成する黒い泥は最初の半分以下に減っており、今もまたズルズルベタベタと池の周囲に黒い泥が落とされている。それはアレがもうただ一体の魔女であるということを示してもいた。

 故にシスネはただ大短銃を手に握った。泣き言を漏らしても何も変わらない。あの魔女を狩るまで何も終わらないのだから。芝生に座り込んだまま、顔に張り付く前髪もそのままに、シスネは引き金を、

 

 ガチン

 

「…………ぁ、」

 

 撃鉄が落ちる音が響き、気の抜けたシスネの声が零れる。

 弾薬は込められていた。大短銃にも損傷は無かった。だが弾薬自体はシスネが身につけていた物。何度も水の中に沈められたそれはもう、使い物にならなかったのだ。

 

『なに? 聞こえない!』

 

 魔女の躰が膨張し、無数の手は無数の針へと形を変える。その何本かがシスネの眼前に迫ろうとしても、シスネはもう動けない。もう何の反応もできなかった。

 

 

 

 ふわりと、黒い外套がシスネの視界を遮った。

 


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