その女騎士が魔女となったのは、ごく最近のことであった。
魔女の異常減少を発端とした、大規模な魔女の捜索作戦。それに参加したのはポエニスの聖女と騎士だけではない。聖都に属しながら騎士としてそれなりの経験を積んだ女もまた、自身の聖女を伴って辺境の町へと向かったのだ。
魔女を探しはじめて間もなく、何人かの男たちから「魔女を見た」という話を聞いた。幸か不幸かさっそく見つかった魔女を狩るべく男たちの案内に従って町を出て、そして気が付けば何処かも分からない小屋の中で拘束されていた。
何が起こったのか。何故こんなことになっているのか。不意討ちで聖女を気絶させられてしまえば、女騎士はただ武術を修めただけの女でしかなかった。一人か二人は倒せたが、あとは人数差に押しつぶされてあっけなく捕らえられてしまった。
女を取り囲む男たちの半数は憎悪に目を輝かせ、そして残りは下卑た視線で女を舐めまわしていた。男たちが口々に言う。殺してやると。犯してやると。楽には殺さないと。死んだ後も犯してやると。
理不尽な恐怖に飲まれかけた女の脳裏に、ある英雄譚の一節が過っていた。悪騎士ジャック・ドゥの無残な最期。彼が狩った魔女、その家族の復讐。そういえば男たちの何人かの顔には見覚えがある気もした。それを今になって思い出した。
ふざけるなと思った。そう叫んだ。だが得物である双剣を取り上げられ、鎧も剥がれた上に拘束された女は簡単に袋叩きにされた。聖女のいない女は無力だった。そしてその聖女もまたすぐ隣で拘束されている。
必死に叫んだ。聖性を。聖性をくれと。聖性さえ流されれば、こんな拘束は簡単に振りほどける。こんな暴漢共も素手で皆殺しにできる。それで助かる。生きて帰れるのだ、二人で。
だが頼みの聖女は震えて涙を流すばかりで一向に聖性を流してはくれなかった。女が目覚める前、既に凄惨な暴力に晒されていた彼女の心は折れており、聖性を使えば生きたままバラバラにしてやると脅されていたから。女の懇願と男たちの脅迫に板挟みされた聖女は泣き叫び、そして突如として息絶えた。
聖女は自決した。男たちは聖女の死体をも執拗に切り刻み、その最中で汚す者までいた。それを女はただ呆然と見ていた。
彼女は自決した。なら自分は? ひとり残された自分は、これからどうなるのか?
女は叫んだ。押さえつけられ、衣服を引き裂かれ、左腕に斧を当てられ、騎士としての矜持も女としての尊厳も何もかも奪われようとする中、視界がじわりと黒く染まった。
寒かった。冷たかった。
失くした左腕から流れ出る血も、守るべき民だと思っていた者たちからの仕打ちも、そして何よりも強い絆で結ばれていると信じていた聖女からの裏切りも。躰も心も、何もかもが寒くて冷たかった。
『寒い……』
振り下ろされる斧を、魔女は半歩下がるだけの動きで回避した。武器の重さを活かした振り下ろしは高い威力を持つ反面、避けられれば大きな隙となる。それを本能で分かっている魔女はすぐさま右腕の鋏を獲物である黒髪の男へと向けるが、男は斧を手放して退いていた。
『冷たい……』
右腕に握った双剣に挟まれた聖銀の斧。それを掲げて刃を閉じれば、小枝を手折るように斧の柄が両断された。その行為に威嚇の意図は無い。魔女はただ本能と衝動に従って斧を壊し、そうこうしている内に男は別の得物を手に戻ってきていた。
「ぬんっ!」
槍だった。魔女はもちろん、男の身の丈も超える長槍。だが左腕だけで振るわれるその槍捌きは精彩を欠き、躰を揺らすだけで突きを避け、大きく振るわれた横薙ぎは胸を反らせてくぐり抜ける。三度は振らせず、鋏で捉えた柄をまた両断する。
「――しっ!」
だが男は今度は退かず、半分ほどの長さとなった槍を手にまた突いてきた。先ほどよりも鋭さを増した槍捌き。魔女に理性と知性が残っていれば察しただろうか。男がわざと槍を切らせ、扱いやすくしたということに。
戦いは膠着状態へと陥りつつあった。卓越した技量を下地とした本能を持つ魔女は攻撃を尽く躱し、双剣を元にした歪な得物しか持たない魔女は決め手に欠ける。互いの攻撃が対手に届くことはなく、双方はやがてじりじりと間合いを読むように円を描き始めていた。
『寒い……寒い……』
「……」
男の顔に表情らしいものは無く、例え魔女に人としての理性が残っていたとしても答えは変わらなかっただろう。だがそれでも魔女には、その顔に得体のしれない笑みが掠めたように見えた。そしてその顔のまま、正面から突撃してくる。
『冷たい……』
その無謀を魔女は嗤いはしない。元よりそのような感情は魔女に残っていない。ただ本能と衝動に任せて鋏を振るう。
狙いは左腕。なぜ首ではないのか、それは魔女自身にも分からない。ただ本能と衝動のままに。
『冷……たい!』
男が槍を突きだし、魔女が鋏を振るう。
男が持つ槍は短く、間合いの差は既に逆転している。魔女の鋏が先に届く。それを魔女は本能によって分かっている。
鋏の切っ先が肉を挟む感触。腕を確と捉えた感触。あとはこのまま絡み合った両手に力を込めれば、男の左腕は肩口から切断される。魔女の本能は何よりもその光景を欲していた。
『冷た――――』
どん、と。男の体が魔女の躰とぶつかる。その感触には本能との差異があった。つまりは違和感に似た物を感じた。
泥に覆われた目を向ける。目の前にあるはずの顔が見えない。見えるのは黒い髪。男の背中。
「つかまえた」
全て同時だった。
男の声も。魔女の腹が槍に貫かれるのも。鋏が、男の右腕を切断するのも。
間合いが交差する瞬間、男はぐるりと身を翻していた。魔女に背中を向けて、ちょうど体の左右を入れ替えるように。結果として魔女の鋏は相手の「右腕」を捉えたのだ。二の腕の半ばから失われた、残骸のようなその腕を。
じょきり。
ずぶり。
もう人体のどの部位なのかも分からない骨肉の塊が地に落ち、それよりも早く槍の穂先が魔女の腹を貫いた。
『ずあ、むいええ゛あ゛ああぁ――っ!』
双剣を投げ捨て、絡み合った両手で槍の柄を掴む。ずぶずぶと腹に埋まっていくそれを引き抜こうとし、男は当然それを許さず力を込めてくる。後ろ向きという不安定な姿勢で、魔女の躰に圧し掛かるようにして。
『――――』
魔女の本能がそれを分かった瞬間、目許を覆っていた黒い泥が噴水のように沸きあがった。
「っ! くそが!」
立ち上がった男は槍を持ち直して更に力を込めてくるが、槍がそれ以上に埋まることは無い。魔女の両目から噴き出した泥は絡み合う両手を覆い、それを一本の剛腕へと変質させていく。
槍も、それを握る腕も、男そのものも何もかも握りつぶそうと。
「――どいてっ!」
澄んだ叫びと、振り乱される白い髪。灰色の装束と、聖銀の剣。それを突き立てられた、魔女の胸。
『――――つ、めた』
胸を貫く冷たい刃の感触。それを握る聖女。両手剣を懸命に両手で握り、必死の形相で力を込めている。そして、その白い両手に添えられるもう一本の手。
「くたばれ」
三本の手が、聖女と男が共に剣を突き立てる。魔女の背中までをも貫き、切っ先が墓標のように地に埋まるまで。深く、深く。
『さ……む……ぃ』
並び立つ聖女と、騎士。それを魔女はその目で見ていた。泥が剥がれ落ち、露わとなったその目で。恨むように、羨むように目を細めながら。
それが、魔女の見た最期の光景となった。
◇
十数える間もなく、シスネは傍らのレーベンを地面に蹴り倒した。
「いだ――」
「馬鹿ですかっ! 馬鹿なんですよね! えぇ知っていましたとも!」
もはや何を言っても無駄なのだと諦めてはいても、それでも腹の底から怒りは湧き上がってくる。黒い外套を引っぺがして何か言おうとしていた顔に投げつけ、腕ごと切り落とされた平服の袖を裂いて肩口に巻きつける。痛みで呻く声も全て無視して、足で体を踏み押さえながらとにかくきつく結んだ。
二の腕の半ばから失われた右腕。逆に言えばそれだけは残されていた右腕すら完全に失われていた。これではもう、義手も着けられないだろう。
「なんで……どうしてこんな……」
レーベンの行為に意味など無い。もう騎士ではない、教会の職員ですらない彼に魔女と戦う義務など一切なく、その力も残されてはいなかった。それでも狩った魔女が何体だったのか知らないが、それすら彼が狩る必要は無い。レーベンは何の意味もなく戦い、何の意味もなく傷ついた。ほんの僅かに残された、第二の人生を平穏に生きる可能性まで捨ててしまった。何の意味もなく。
いや、意味はあったのだ。この男が何を望み、何の為に戦ったのか。それをシスネはもう知ってしまっていたから。
「……馬鹿、さっさと立ってください馬鹿」
だからこそ腹が立つ。だからこそ許せない。だからシスネは無理矢理にレーベンを立たせ、担ぎ上げるようにして肩を貸した。
とにかく医療棟へ連れていく。そこで右腕の治療と、薬の中和と、そしてもう二度と抜け出せないよう、どこかに縛り付けて――
ずぶり。
「…………え?」
どん、と。何故か一言も喋らなかったレーベンに突き飛ばされ、倒れ伏す直前にシスネは。
――え?
真っ黒な槍に、腹を貫かれるレーベンを、見た。
『聞こえないの』
歪んだ声がほんの僅かにしか聞こえない。それほど遠くに魔女はいた。
海栗のような、針鼠のような姿だった魔女。三体が融合した共喰魔女、その最後の一体。半球状の躰から生えていた無数の針は無く、その代わりのように伸びた長大な泥の槍がレーベンを正面から貫いていた。
「あ、あぁ……っ」
呻くような戦慄きはシスネのもの。魔女の槍は腹から背中までを完全に貫通している。それはどう見ても、明らかな致命傷で……。
『聞こえない、聞こえないよぉ!』
「っ、ぐ」
更に、泥で成された槍はぐねぐねと形を変化させていた。レーベンの背中から生えた穂先は花が咲いたように広がり、獲物を決して逃がさない「返し」となる。その意図は明白で、現に短く縮み始めた槍に貫かれたまま、レーベンは魔女へと引き寄せられていく。
「やめ――――っ」
シスネは手を伸ばした。倒れたままだった体を起こし、レーベンに向かってまた倒れ込むようにして。
レーベンもまた手を伸ばした。右腕を完全に失い、腹を貫かれているとは思えないほど凪いだ表情で。
シスネの手は。
レーベンの手が。
地に突き刺さった斧の柄を掴んだ。
何も掴めなかったシスネの目の前からレーベンが消える。急速に縮んでいく槍に引きずられ、殺風景な地面に赤い血の
『聞こえてぇ――!』
叫ぶ魔女の躰からは再び無数の針が伸びていた。全方位にではなく、一方向に向けて。手繰り寄せられ、為す術も無く引きずられてくる憐れな獲物に向けて。
レーベンに抵抗の手段は残されず、そして抵抗もしなかった。むしろ地面を蹴って引き寄せられる速さが増すように、勢いを増すように。その左手で掲げた、聖銀の斧に勢いを乗せるように。
「――おおあぁっ!」
レーベンが吼え、聖銀の斧が閃き。
『――ぎごえっ!』
魔女の槍が縮み、魔女の針が伸び、魔女の叫びが潰れ。
「――――」
無意味に手を伸ばしたシスネの前で二者の影が交差し、止まった。
槍が硬さを失くし、元の泥へと還ると同時にレーベンは倒れた。その腹と全身、そして塞がりかけの右目を抉っていた槍と針による支えを失くしたから。
「……」
彼は何も言わず、仰向けに倒れたままで顔を傾けていた。すぐ近く、半ば両断されたように斧をめり込ませた魔女の死骸を眺めている。おそらくは、十数えているのだろう。
「……、……」
シスネは、這うようにして彼の元へと向かっていた。歩くことも忘れたみたいに足が動かず、言葉も忘れたみたいに唇は動かない。
ようやくレーベンの元に辿りついた時はもう、彼は青空を見上げていた。十数えても魔女は動きださず、そして彼もまた動けなかっただろうから。
じわじわと、彼の体を中心にして地面が赤黒く変色していく。それはへたり込むシスネにも届き、灰色のスカートも同色へと染め上げられた。
「……」
「……」
遠くから響く戦音も、未だ燃え続ける篝火の音も耳には入ってこない。痛い程の静寂と、二人の沈黙だけが二人の間に漂っていた。
「しぬのですか」
それが誰の声なのか、シスネはすぐには分からなかった。自分以外に誰もいないのだけれど。それ程に平坦で、芯も無く、意識の外から零れ落ちた声。
「あなたは、しぬのですか」
死ぬのだろう。
腹に開いた大穴からは血が流れ続け、レーベンの左手はそれを抑えもしない。ただただ、血と命が流れ出すに任せているのだから。
「……」
空を見上げていた顔が僅かに傾き、灰色の左目と目が合う。もう片方の目は再び抉られ、無残な裂傷をより惨く見せていた。
右目と右腕。二十日前に失い、二十日間で僅かに癒え始めていた傷痕を再び開かせた姿で、彼は今度こそ死に向かおうとしていた。
じゃり、と。レーベンの左手が地面を掻く。ゆっくりと持ち上げられた血塗れの手がシスネの手に触れ、されるがままに手首を握られた。そして更にゆっくりと、無言のまま手を導かれる。
レーベンの、首に。それが意味することなど、ひとつしか無い。
「――……」
シスネは瞳を見開き、レーベンはそれで全ての仕事を終えたとばかりに左手も投げ出した。あとはただ、灰色の左目でシスネの瞳を見上げている。
その左目はたしかに、わらっていた。
聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。
騎士は騎士である限り魔女を狩り続け、故にいつか必ず魔女狩りの中で死ぬ。
ならば騎士として生きることと、騎士として死ぬことに何の違いがあるというのか。
レーベンはきっと、騎士として死にたかったのだ。
故にこれは最高の結末だった。
魔女と刺し違え、魔女狩りの中で死ぬ。
己が惚れた、生涯で唯一人の女を守り、その女に看取られ、その女に介錯される。
どこまでも下らなかった、己の命にくれてやれる最高に笑える結末。
悔いなど、何ひとつとしてありはしない。
――なんて、思っているのでしょう?
「……ふざ、けないでっ!」
「っ!? ぐぇあ――」
怒声と共にぐちゃりと、腹の大穴を握り塞いでやった。
安らかですらあったレーベンの顔は苦痛に歪み、苦悶の声と同時にのたうつ体を地面に押し付ける。それがまた痛みを呼んだのか蒼白な顔で痙攣しはじめるが知ったことではない。
そうだとも、知ったことか!
「殺さない……死なせてなんて、やらない!」
「が……っ! ご……」
転がっていた再生剤を引っ掴み、所かまわず突き刺してやる。一本、二本、三本と、短剣で滅多刺しにでもするかのように。じゅうじゅうと肉の焼ける異臭が立ち込め、白目を剥こうとしていたレーベンの顔を思い切り引っ叩く。気絶だなんて、楽な真似も絶対にさせない。
この時、シスネを突き動かしていたのは何の感情だったのか。
近しいものを挙げれば怒りだっただろう。どこまでも身勝手な自己満足で死に向かおうとしていた馬鹿に対する怒り。だがこれはきっと、そんな綺麗な感情でもなかった。
それはとても穢く、穢くて、穢い感情だった。この三年の間シスネの奥底に溜まり続け、降り積もった穢れ。それが沸き立ち、煮え滾り、ついには地獄の釜が壊れたかのようにシスネの外にまで溢れ出したのだ。シスネにはそうとしか思えなかった。
「さあ立って! 立ちなさい! ……立てっ!」
端的に言ってしまえば、シスネは狂気の淵にいた。もしこの場に生きて正気も保った人間がいたならば、一人の狂女が半死人の体を引きずり起こそうとしている、そんな狂気の沙汰にしか見えなかったはずだ。そしてそれは事実に限りなく近かった。
「――、……――っ」
だがこの時、レーベンは確かに死の淵にいた。それもまた動かしようのない事実で、シスネはそれを後押ししてしまっていた。断崖へ転がり落ちそうになっていた体を蹴り飛ばし、その首を掴んでぶら下げるかの如き愚行。凶行。このまま続ければ、レーベンは間違いなく死ぬ。
穢れた衝動に突き動かされていたシスネにもそれは理解できた。理解できてはいたが、正気に戻ることはできなかった。むしろ火に油を注ぐかのように、シスネの唇は歪みに歪んで。
「……あぁ、そうですか」
「そんなに死にたいのですか」
「だったら、死なせてあげても構いませんよ」
「ただし――」そう続けて、両手で挟んだレーベンの顔を持ち上げ、吐息もかかる近さから睨みつけてやる。その左目に怯えに似た色を見つけ、シスネは声をあげて笑った。どこまでも残酷な気分だった。
シスネを置いて、ひとり安らかに死ぬなんて許せなかった。
シスネを置いて、死んでしまうと言うならば。
なら、その死を最後に穢してやる! 穢してやる!
「最期に教えてあげますよ、私が、どんなに穢い女なのか――――っ!」
肚の奥底から吐き出した穢れを口移すかのように、シスネは全てをかたり始めた。