レーベンは激情とは縁遠い人間だった。
それはきっと家族も故郷も知らない生まれのせいであり、他者より劣り欠落しているという事実と自覚のせいでもあるのだろう。レーベンの奥底には常に諦観があり、故に何を失おうと何を奪われようと激しく怒ることも哀しむことも無かった。
だがごく最近になって、一つの例外が生まれた。そしてその例外が今だったのだ。
◆
目の前でシスネがわらっている。
口を引き裂くように歪めながら、シスネレインという女が如何に穢い女であるかを説き叫んでいる。時々、思い出したかのようにレーベンを殴り、嘲るのは挑発のつもりなのだろうか? そうだとすれば、まったくの取越し苦労だ。
そんなことをせずとも、レーベンは既に怒り狂っているのだから。
「それだけか?」
それだけでシスネは面白い程に狼狽した。狂女か悪女でも気取っていたような仮面はあっけなく剥がれ落ち、彼女本来の顔を再び曝け出す。その表情は、恐怖の一色に染まっていた。
レーベンの口調は平坦で冷たさすら感じさせる物ではあったが、その内心は決して穏やかなどではない。死の淵に瀕し、更には何本も突き刺された再生剤の中に強化剤も混じっていたのかもしれない。苦痛が裏返った末の高揚が、レーベンをひどく残虐な気分にさせてもいた。
「違うだろう」
「まだ終わりじゃない」
「続きがあるはずだ」
レーベンの内にあったのは激しい怒りと、そして大きな失望。
己が生涯で最も美しいと思っていたモノを穢し貶め嗤うシスネの言葉と、この期に及んですべてを語ろうとしないシスネ自身に。
レーベンは確信していた。シスネがもっとも許せないのは、彼女が嫉妬に狂ったというそれではない。そして彼女自身がそれに気付いていない筈がないのだ。
「どうした、言えないのか」
「…………ぁ、ぃゃ……!」
か細い両手首をまとめて掴んで、押し倒した彼女の頭上に押し付けてやる。細い腰を両脚で挟んでやれば、それでシスネはもう磔も同然の格好となった。怯えた黒い瞳は、ただレーベンだけを見ている。
「……ふ、へ」
惚れた女を押し倒すという状況。冷静でいられる筈もなく、レーベンの内の激情も薬もそれに拍車をかけるばかりで。同時にまた異なる激情が首を擡げたことを確かに自覚する。
――あぁ、そうか
つい四日前の、小さな宿場町で自覚した得体の知れない感情の波。それは己にもっとも縁遠く、それでいていつだって肚の奥底で燻っていた感情。
シスネの体にも心にも癒えない傷を刻んでいった、己とは何もかもが違う
「これが、嫉妬か」
傷を癒せないのなら、いっそもう一度傷つけてやろう。癒えない裂傷を炎で焼き塞ぐように、それを己がつけた傷に変えてやろう。
シスネの黒い瞳の中で、レーベンが獰猛にわらっていた。
◇
「言えないなら、言ってやろうか」
シスネを見下ろすレーベンの左目は獰猛な光を放ち、抉れた右目からボタボタ流れた血がシスネの顔を汚していく。でもそんな事はまるで気にならない、そんな事より、そんな事より――!
「や、やめて……っ」
嫌。聞きたくない。言わないで。言わないで!
シスネが見るレーベンの視線に嘘は無い。シスネを見るレーベンの目にはもう一切の慈悲が無い。彼にはもう全てお見通しで、全て確信しているのだと確信してしまった。
シスネが肚の奥底の底に隠して、隠して。誰にも、自分自身にすら明かそうとしなかった本当の秘密。何よりも「シスネ」を打ち砕いてしまうその事実を、彼はもうその手に握っている。そしてそれを今……。
「絶望した振りはやめろ」
シスネは叫んだ。体は完全に押さえつけられて、動くことも逃げることもできなくて、目を閉じたって声は聞こえてきて。だから叫んだ。嫌だと、許してと、なんでもすると、命乞いそのものの声で。
「本当は、絶望なんてしていないんだろう」
聞こうとしないことは、耳を澄ますことと同じ。刃に等しいレーベンの声も言葉も、余すことなくシスネへと突き刺さっていく。
「何故なら」
――やめて
「あなたは」
――やめて!
「魔女に、なっていないじゃないか」
「――――――」
ぽろりと、シスネの瞳から涙が零れ落ちた。
その色は透明で、まったく、黒くはなかった。
良い聖女でいられないのなら、いっそ悪い魔女になってしまいたかった。
レグルスの死に、自分自身の罪に絶望して、魔女になりたかったのに。
そうすればせめて、シスネの想いの深さを証明できたのに。
だけどシスネは人のままで。魔女にはなれなくて。黒い涙なんて、流せなくて。
それはつまり、シスネの想いは、その程度のものだったということ。
レグルスへの想いも、この罪への想いも、シスネを魔女に変える程ではなかった。
聖女じゃない。魔女でもない。ただ心が穢いだけの女。
それが、シスネレイン。
その事実が、何よりも恥ずかしかった。
◆
薄暗がりの中で、シスネが啜り泣く声だけが聞こえる。
半狂乱で叫んでいたシスネも、今は大人しいものだ。まとめて押さえつけている両腕も、力を入れるまでもなく暴れる気配は無かった。ただただ、透明な涙を拭うこともできず泣き続けている。
「…………ころして」
嗚咽に紛れるような小声だった。左目を向けてやれば、涙に濡れた黒い瞳はすぐに逸らされる。視線と羞恥に弱いという、シスネらしい所作。
「もう、恥ずかしくて生きていられない……」
嘘も、偽りも、仮面も、虚飾も、何もかも剥ぎ取られた女がそこにいた。
他の誰でもない、レーベンがそうした。彼女を救う為ではなく傷つける為に。彼女の傷を、己の物とする為に。
――穢いのは、お互い様か
嫉妬に狂い、想う相手を害した。レーベンがしたことはシスネと同じだ。違うのは、その相手が生きているか死んでいるかだけで。故に、それでシスネがどうなってしまうのかなど、レーベンは何ひとつ考えなかった。何も考えないまま、彼女の傷を根こそぎに抉り尽くした。それで狂い死ぬならば、いっそ狂ってしまえば良いとさえ思っていた。
だが彼女はただ静かに泣いていた。泣き叫ぶわけでもなく、狂うわけでもなく、……魔女になるわけでもなく。
結果としては、良い方向に働いたのだろうか。傷口に溜まった膿をかき出したように、肚の底に溜まった病巣を瀉血したように。彼女の奥底に降り積もっていた何かが、透明な涙となって流れ出ている。レーベンには、そう見えていた。
「どうして…………?」
どうして分かったのか。涙に濡れた黒い瞳が、そう問いかけてくる。
簡単な話だった。
レーベンはシスネを信じ、だからシスネの言葉を信じなかった。
どれだけ彼女が自身を貶めようと、彼女自身すらそれが真実だと思い込んでいようと。
レーベンは見たのだ。
この目で、全て見てきたのだ。
レーベンの愚行に本気で怒り、こんな馬鹿のことも本気で案じる優しさを。
ノール村の人々の為に、恐ろしい破戒魔女に立ち向かおうとした優しさを。
もう戦えないレーベンを見捨てず、幾度もこの命を助けようとした優しさを。
そして何よりも。
『魔女はね、……心が綺麗な人しか、なれないんだよ?』
『哀しいことを哀しいって、そう心から思えるのは、とてもすごいことだと思わない?』
『……どんなに哀しいことがあっても、平気な人だって、いるんだよ』
あの夜、
自身を嗤い、レーベンを嘲笑っていた彼女の言葉には何の重みも無かった。あの夜のあの言葉の方が、よほど血を吐くような叫びだった。
故に確信した。
この潔癖で繊細に過ぎる
人を妬む心。人の不幸を悦ぶ心。優越心。嗜虐心。人なら誰もが持っているような心の穢れ。そんなものですら彼女は許容できず、自身を穢れた異常者だと断じてしまう。その優しさも認められず、それは善意ではなく悪意だと自ら曲解してしまう。
あるいは、それもまた彼女の心の自己防衛だったのかもしれない。
あんな事をしてしまった自分はきっと生まれながらの異常者で、だから魔女にもならず正気を保っているのだと。そんな自罰的な自己暗示で、却って自身を傷つけていたのかもしれない。
穢いなどとんでもない。彼女はむしろ……。
まったく、本当に、
「め、んどうな……っ」
「――んなっ!? ひ、きゃ……っ!」
吐き捨てると同時に、レーベンは遂に限界を迎えた。崩れ落ちた体がシスネに圧し掛かり、だが彼女はそれを何かと勘違いしたのか、悲鳴まじりに押しのけられる。……拷問でも強姦でも好きにしろと言っておいて、結局はこれである。
――まあ、元気そうで何よりか
霞み始めた目で青空を見上げながら、苦笑する。
結局は、全てレーベンの憶測に過ぎない。本当のところはシスネ自身しか知らず、この様子ではシスネ自身すら分かっていないのかもしれない。それほど彼女の精神は不安定で、彼女にとって三年前の事件は衝撃的だったのだ。
彼女が嫉妬でレグルスに殺意を抱いたという事実は変わらず、何よりレーベンとシスネの付き合いはひどく短い。出会ってから小半年と経っていない己が何を説いたところで、三年物の彼女の苦悩を払うことなど出来ないのだろう。
レーベンは英雄ではなく、心の機微にも疎く、なにより馬鹿で、そしてもう時間は無いのだから。
「あ、ま……待って……っ」
涙の痕もそのままに、シスネが揺さぶってくる。それにもう苦痛すら感じない。
レーベンはそもそも死の淵にいたのだ。狂乱したシスネに再生剤を何本も打たれたからといって、それで腹の大穴が塞がったわけでもない。今ここでレーベンは死ぬ。それはもう変わらないのだ。
元より、レーベンは死ぬ為にここに来た。
ライアーは死んだ。カーリヤも死んだ。シスネも死ぬかもしれない。この国はもう滅ぶのかもしれない。ならばレーベンがひとり逃げ延びて何になるというのか。
ある意味では、渡りに舟だったのだ。魔女と刺し違えて死ぬという望みが潰え、紆余曲折を経てようやくそれを諦められたかと思えば、この戦が嵐のように降りかかってきた。あまりに出来過ぎた皮肉に、女神に拍手の一つでも送ってやりたくなる。
思いがけず用意された死に場所。そして今、レーベンは遂に終わろうとしている。魔女を狩り、シスネを助け、そして死ぬ。その後に一悶着あったものの、概ね満足できる死に方の筈だった。
だったのだが。
「――ぃゃ」
震える白い手がレーベンの顔に触れる。霞んだ視界の中でも、彼女の顔だけは鮮明に映し出されていた。聞きなれた、澄んだ声が震える言葉を続ける。
「いや、です」
「しなないで」
「しんでは、いやです」
「――――……」
何の感情も感じられない声だった。彼女の抱える闇も懊悩も、あらゆるしがらみが抜け落ちたような声。どこまでも純粋な、彼女の本心。
――あぁ、ひどい話だ
本当にひどい話で、シスネはひどい女だ。
レーベンの、唯一つの望みがようやく叶おうとしていた、この時になって。
こんな、何もかもが手遅れになってしまってから。
シスネは。レーベンは。
レーベンは、左手を差し出した。
◇
レーベンが、左手を差し出した。
「ぇ……」
その手の形をシスネは知っている。
握手ではない。掌を上に向けた、相手から手を取ることを待つ姿勢だ。聖女と騎士の間では通例の、契りを求める仕草。
「……っ、うぅ……!」
その手をとることはせず、シスネはただ歯噛みした。
分かっているのだ。もうそれ以外に方法なんて無い。今ここで死に飲みこまれようとしているレーベンを生かすには聖性を流すしかない。でも今ここに聖女はいない。いるのはシスネだけだ。もう聖性を扱えなくなった、聖女擬きしか。
――おちついて、おちつきなさい
やるしかない。やるしかないのだ。
震える両手を組んで、祈るように胸に抱く。目を閉じ、深く息を吸って心を落ち着けようとする。やり方は覚えている。この三年、折に触れては人知れず聖性を使おうとしていた。もしかしたら、今日こそはと試しては裏切られ、自身への失望を深くしてきた。だから今更、成功なんてするわけ……。
「おち、ついて……っ!」
組んだ手を額に押し付け、弱気な心を噛み潰す心地で歯を食いしばる。落ち着け落ち着けと呪文のように繰り返しても、暴れ狂う心臓は一向に鎮まってくれない。だというのに指先は凍えて震えが止まらなかった。
こんな有様の、こんな聖女擬きが、こんな土壇場で聖性を流す。そんな英雄譚に出すにも憚られるような奇跡を自分が起こせるだなんて、シスネには想像もできない。ましてや相手はこのレーベン。どんな聖女とも適合しなかったという、歪みきった聖性の持ち主。
こんなシスネが、そんなレーベンに聖性を流せるだなんて、とても……。
『聖性とは、もうひとつの血流のようなものです』
『もはや歪みというより、真逆』
『いっそ美しいほどに正反対の流れの持ち主なのですね、彼は』
「……――――」
『あんたって、レイと似てるわ』
目を開ければ、レーベンは未だ左手を差し出していた。その手の向こうでは灰色の左目が虚ろに、でもしっかりとシスネを見つめている。その視線はどこか挑戦的に見えた。
やれるものなら、やってみろ――と。
その生意気な目を、シスネは精一杯に睨み返した。沸々と、肚の底から馴染み深い怒りの感情が湧いてくる。
だって、レーベンはひどい男だ。今まで散々にシスネを翻弄して苦しめた挙句、最後は放りだして一人安らかに死のうとしている。
たしかにシスネは拷問でも強姦でも好きにしろとは言ったが、それよりもひどい事をした。自分自身でも直視しないようにしていたシスネの秘密を容赦なく暴き立てた。それはシスネにとって、何物にも勝る苦痛と屈辱だった。
レーベンはシスネを傷つけ、穢したのだ。シスネは傷物にされたのだ。
絶対に許さない。
元より、シスネはこの男のことが最初から、ずっと、今でも、これからも――。
◆
レーベンの手は誰にも取られなかった。シスネの手は、レーベンの胸倉に伸ばされていたから。
「――――、づっ……!」
感覚の失せていた身体を無理矢理に起こされたことが分かる。せっかく消えていた痛覚がまた全身を苛みだし、だが次の瞬間、レーベンの五感すべてが彼女に支配された。
眼前では黒い瞳が己を射殺すような光を放ち、彼女の血と汗と肌の香りが鼻腔を侵す。唇には鋭利な痛みが走り、口内には鮮烈な血の味が広がった。
咬みつくような口付け。
否、口付けるように咬みつかれた。
そして最後に彼女の声を聞き、レーベンが初めて感じる「なにか」が全身を駆け巡り始める。
「だいっ嫌いです……あなたなんか――――っ!」
急速に鮮明さを増していく視界の中で、シスネが己をまっすぐ睨みつけていた。
あらゆる感情が渦巻いたような複雑な表情で、彼女らしい、聖女らしからぬ顔で。
視界の端から燃えあがる青白い炎が、聖性のそれだとレーベンは静かに確信した。
「――……シスネ、」
何度か呼んだことのある彼女の名前は、まるで初めて口にしたかのようだった。
否、いつだって彼女の名前を呼ぶ時、レーベンは。
「…………」
シスネはただレーベンを睨んでいる。涙に濡れた黒い瞳は、暗い夜空か、夜の海を連想させた。
初めて出会ったあの夜から、レーベンが惹かれてやまなかった黒だ。
レーベンが想い、レーベンを嫌いだと言い続ける、このどうしようもなく歪な聖女の。
「体は正直だな」
間髪いれず飛んできたシスネの拳が、レーベンの顔を打ち抜いた。