いつか悲劇で終わるその日まで
白灰色の空を、
頭上を行ったり来たりする黒い影が遠くへ飛び去り、それと入れ違うようにして白い雪がちらついてきたところでようやく、レーベンは己が呆と空を見上げていたことに気付いた。
はあ、と。すぐ近くで聞こえた溜息が白く漂い、レーベンの視界も掠める。
「置いていきますよ。風邪をひいても知りませんから」
「誠に申し訳ない」
寒さのせいかレーベンのせいか、いつも通り不機嫌そうな彼女は溜息をもう一度つくと、先に歩いて行ってしまう。華奢な背中を左半分だけの視界で追い、レーベンもその後に続いた。
旧聖都ポエニス。度重なる惨禍と戦により聖都の座を追われた街は、遷都から百五十年あまりが経過しても未だ健在であった。そして、先の戦が過ぎた今も。
カエルム教国を襲った未曾有の災禍――巨大魔女ドーラと魔女の大群。その討伐から、既に半年あまりが経とうとしていた。
修復途中の周壁を抜けて北に。街道を歩き出して幾ばくもしない内に道を外れて坂を上った先。広大なナダ平原を望む高台に、その墓地はあった。
整然と建ち並ぶ墓標。墓地なのだから当然ではあるが、ポエニスの共同墓地とは異なる点が二つある。一つは墓標が剣の形を模しているという点。そしてもう一つは、ほぼ全ての墓標が二つずつ並んでいるという点だ。
広い土地に任せて面積も年々広がっている都合上、入り口から奥へと歩いていくほどに墓標は新しい物となっていく。もはや刻まれている名前が消えてしまったような古い墓標から、レーベン達が生まれる遥か前に殉じた者の墓標。その内に、聞いたことのある名が刻まれた墓標や、実際に会ったこともある者の墓標。
そうして、ほぼ最奥にまで歩いたレーベンとシスネの前に、その真新しい二つの墓標が並んでいた。
「……遅くなったな」
「あなたが寄り道ばかりするものですから」
「お、おう」
レーベンはただ、復興に忙しい教会から後回しにされていた墓標が最近になってようやく建てられたということを感傷まじりに言ったつもりだったのだが。
この白髪の聖女――シスネは今も変わらず、自身の騎士にひどく厳しい。
持参した清水を二つの墓標に振りかけ、シスネは小さな花束を、レーベンは左手で酒瓶を墓標の前に置く。跪いて祈りの言葉を紡ぐ彼女の声を聞きながら、レーベンは首から提げた真新しい騎士証に触れた。
レーベンは再び騎士として認められた。拍子抜けするほど簡単に。
あの戦いから幾日か後、医療棟の軒下にまで設けられた簡易寝台からレーベンが起き上がれるようになった時分のこと。その頃は既に事後処理の陣頭指揮を執っていたヴュルガ騎士長に直談判したのだ。
『構わん』
ただ、それだけ。右目と右腕を取り戻したレーベンと、その隣に立つシスネの姿を流し見ると騎士長はあっさりとレーベンを騎士と認めた。そしてすぐに仕事へと戻り、それから二人には一瞥もくれなかった。
あんまりと言えばあんまりな反応ではあるが、レーベンも騎士長のことを恐れてはいても嫌ってはいない。万事に対して一切の情を挟まず、ただ騎士長という重責を全うするその在り方もまた「英雄」に相応しいのだろうと、レーベンは思う。
とはいえ、あの巨大魔女ドーラをほぼ単身で仕留め、最後の大爆発にも巻き込まれたというのに五体満足を保っているあの男を、同じ人間と認められるかと問われれば首を傾げざるを得ないのだが……。それもまた英雄の証だと言えるだろうか。
なお、もう一人の英雄であるイグリット聖女長も生存していた。さすがに無傷とはいかず、あの歪な体が更に「小さくなった」という噂だが、レーベンもシスネもそれを直に確かめたいとは思わない。狂気にも似た不屈の意思は間違いなく英雄の証ではあっても、可能ならば二度と会いたくはない相手なのだから。
あの激戦の後であっても英雄たちは元気なものだ。未だ不自由な身体のレーベンとは違って。
「頼めるか」
「えぇ」
祈りを終えたシスネに声をかけると、彼女の掌から青白い輝きが漏れる。繋げられた「線」を通じてレーベンに聖性が流され、同時に狭かった視界が広がる。そして、今まで動かなかった右腕も目覚めるように感覚を取り戻した。
破戒魔女との戦いで失い、そしてシスネの聖性によって取り戻した右目と右腕。だがそれはとんでもない欠陥品でもあった。
常に聖性を流されていたあの時は気が付かなかったが、目も腕も、その機能を取り戻すのは聖性を流された時だけだったのだ。その事実を知った時はレーベンもシスネも言葉を失い、現実を受け入れるまでにそれなりの時を要した。なにせ、紆余曲折の末にようやく取り戻した物だったのだから。
レーベンは諦めることで己を納得させた。一度は失った物、不完全な形であろうとも一応は取り戻せたのだから贅沢は言うまいと。何事もそう上手くはいかないのだから。特にレーベンは。
そして、シスネは……。
「もう少し深く掘れないのですか。掘り返す人がいるとは思えませんが、念は入れないと」
「人使いが荒いな」
「何か言いましたか?」
「そもそも私の聖性で動かせているのだから、私が掘っているようなものですよね?」
「いやその理屈は、」
「私のおかげですよね?」
「お、おう……」
レーベンの右目も右腕も聖性なしには動かせず、そしてレーベンの歪んだ聖性に適合できる聖女は一人しかいない。つまるところ、シスネがいなければレーベンは満足に動くことも出来ないのだ。
その事実を知った時、彼女が確かに笑っていたことをレーベンは忘れられない。
「
「あぁ感謝している、貴公ら聖女たちのおかげで俺達は戦えているのだと日々感謝しているとも」
「分かれば良いのです」
この
ひたすら穴を掘りながら、レーベンは内心で憤慨した。
曰く、「あなたの目と腕を奪ったのは私ですが、治したのも私ですよね?」
曰く、「なら、その目も腕も私の物みたいなものですよね?」
曰く、「何か言いたい事でも? 誰のおかげで五体満足でいられると思っているのですか?」
曰く、「軽蔑してくださって結構、私は元からこういう穢い女なのですから」
あの頃の、危ういほどに健気で献身的な聖女はどこに行ってしまったのか。この半年というもの、レーベンは完全にこの聖女の尻に敷かれていた。全くもって不本意である。
だが事実、己はもう彼女から離れられないのだ。完全に首輪をはめられたようなものであり、シスネはどう見てもその事実を悦んでいる。だからこうして、事ある毎にレーベンを嘲笑うような真似をしては、ニヤニヤと楽しそうな顔をする聖女のことをレーベンは……。
――元気になって何よりか
こんなどうしようもない聖女のことを嫌いになれない己も大概なものだとレーベンは思う。少なくとも、自責と自虐ばかりに満ちていたあの頃に比べれば彼女も多少は明るくなったのだから、今の彼女もそれはそれで――。
「ほら手が止まっていますよ。考え事とは余裕ですね?」
「……」
「返事は?」
「はい」
もう少しこう、中庸というものは無いのだろうか。何事にも限度はあり、そして程々が良いのだとレーベンは悟る。いつかこの右腕で脇腹を揉んで報復してやろうと心に誓いながら、穴を掘る作業を再開した。
何もかもすべて、惚れた弱みだということにして。
仕事を終えた円匙を地面に突き刺して一息つく。心地よい疲れと共に吐き出された白い息が空にとけていく様を見ていると、シスネが懐から小さな木箱を取り出した。
「……やっと、返すことができますね」
「……あぁ」
緩く繋がった「線」から流れる聖性が微かに乱れる。そんな心の波は表情に出さないままで、シスネはそっと木箱の蓋を開けた。
二つ並んだ銀の指輪。半年前、親友であった騎士から託され、そして遂に返すことは叶わなかった彼ら二人の想いの証。その後はレーベンとシスネの間を幾度か巡り、そして今までシスネが預かっていた物だ。
黒い瞳でじっと指輪を見つめているシスネに倣い、レーベンもその輝きを見納める。やがて棺を閉めるように蓋を閉じた木箱を、シスネは穴の底に置いた。
その穴を挟んで並ぶライアーとカーリヤの墓標。だがこの下に二人の遺体は埋まっていない。二人の体は聖性の炎に焼かれて灰となり、このナダ平原へと散っていったのだから。
カーリヤが破戒魔女となり、死体となったライアーと共にレーベン達に狩られたという事実は葬られた。シスネが、そうしたいと言ったのだ。
説得から始まり、遂には脅迫と誘惑と懇願も交えて必死に説き伏せられてしまえばレーベンは応と言わざるを得ない。そもそも己とて二人の墓標に泥を塗りたいなどとは思わなかったのだから、あそこまでしなくても良かったとレーベンは思う。「何でもするから」などと、あまり簡単に言わないでほしい。心臓に悪いのだ。
故に、それは二人だけの秘密となった。あの騒乱の最中、誰がどこで何をして、そしてどうなったのかなど正確には分かりはしない。レーベンとシスネが口を噤んでしまえば、それで終わりだ。
『あなたには、申し訳ないことだと思っていますが……』
秘密を墓まで持っていくことを誓った後、シスネはそう言って頭を下げた。曰く、破戒魔女を狩ったという功績があれば、相応の評価と共に騎士として返り咲くことも出来ただろうと。だがレーベンは元より英雄になりたかったわけではない。それに、欲しかった物はもう手にしてしまったのだ。
シスネは無言で、ついさっきレーベンが掘った穴を埋め始める。何も使わず、素手で土を掬っては木箱へ被せていった。一回ずつ、丁寧に。白い手が土で汚れてもまるで構わないまま、ゆっくりと。レーベンはただじっと、そんな彼女の姿を眺めていた。いつもとは装いの異なるシスネの姿を。
「似合っているな」
「カーリヤが選んだ服ですから」
何も考えず口に出した称賛を、彼女もまた素直に受け取ってくれた。
シスネが纏っているのは見慣れた灰色の装束ではなく、そしてあの白服でもない。青と白を基調とした、飾り気がなく清楚な、彼女らしい服。どこか少女の面影を感じさせる装いのせいか、それを纏うシスネ自身もいくつか幼く見える。
これはカーリヤが生前、ポエニスの服屋に注文していた品らしい。あの戦の後の混乱もようやく収まり、律儀にも注文を忘れていなかった服屋の主が届けに来たのだと。
「これを着て、他の
シスネの言葉が途切れ、土を被せる手も止まる。かすかに震える華奢な肩に、レーベンも無言で手を置いた。
あの世話焼きな聖女は、シスネがポエニスに来てからずっと聖女たちにとけ込めるよう尽力していたという。その甲斐あって、他者と距離を置こうとばかりしていたシスネは半ば無理矢理に聖女たちと交流を重ね、そして親しい仲となっていった。
だがそのカーリヤは死に、そしてポエニスの聖女たちも半数以上が命を落としてしまった。半年前の写銀騒動、あの時にレーベンが写銀に収めた聖女たちは、もう数人しか残っていないのだ。その内の一人でもある彼女が今こうして肩を震わせている姿を見ていると、それが良いことであったのかどうかレーベンは分からなくなる。
だが。
「後悔はしていませんよ」
土で汚れた手のまま目許を拭い、震えも残る声でシスネは言う。
「本当は、私も、みんなでポエニスを歩いてみたかった」
「そうは、なりませんでしたけど……でも、それでも」
「後悔だけは、ぜったいに」
そう言って、鼻を啜りながら最後の土を被せる。土を手で均し、強く叩いてから彼女は立ち上がった。
「――カーリヤ、」
目の前の墓標に刻まれた名前を、澄んだ声で読み上げる。否、墓標など無くとも彼女は彼女たちの名前を
「マリナ、キャナリー、オーカ、ピベール、チコニア、ペルシュ、ククロ、……」
ひとりひとり、建ち並ぶ墓標を黒い瞳で見つめながら。そして、延々と続くように感じた名前の羅列の最後に彼女は。
「みんなに女神の導きが――あぁ、えっと……」
お決まりの聖句ではなく、彼女は。
「……」
ふっ、と。自然で微かな、シスネらしい微笑。
それで、彼女たちの別れは終わったようだった。
「
「余計なお世話ですよっ」
その微笑に付いた髭のような汚れを指摘すると、白い顔が赤く染まる。すれ違い様にレーベンの脇腹を小突いてから、華奢な肩を怒らせながらシスネは出口へとひとり向かっていった。
それを見て苦笑したつもりでレーベンも円匙を引き抜いた。剣のように肩に担ぐと、特に墓標を振り返ることもなく彼女の後を追う。
レーベンの別れはとっくに済んでいる。
あの日あの時、ライアーとは剣で語り尽くした。
それ以上の言葉は、不要だったのだから。
◇
雪がちらつき始めた旧聖都は、それでも多くの人々が街中を行き来していた。雪と寒さのせいか皆が足早に、でもシスネの顔を見ると目礼する男性や、中には手まで振ってくる子供もいる。今は聖女の装束も着ていないというのに。
もうずっと前、シスネがこの街に異動してきたばかりの頃は、教会の外を出歩くことも碌に無かった。当時のシスネはそれだけ人の視線を恐れていて、それは今も完全には慣れていない。それでも、多少は自然な笑みを浮かべられる程度にはなれたとシスネは思う。
そんなシスネでも変化に気付くほど、ポエニスの住人は増えていた。それは良くも悪くも街の雰囲気を変えて、そしてそれは今でも続いている。
あの凄惨な戦いで負った教国の傷は深く、およそ三割の町や村が灰となってしまった。このポエニスも例外ではなく、周壁は半壊、教会の棟もいくつかが被害を受けていた。特に本棟に至っては、ドーラが最期に見せた大爆発によって完全な瓦礫の山と化してしまったのだ。
だがその甲斐もあってか教会以外の場所に被害はほぼ無く、元の住人と難民たちをすぐに受け入れることができた。難民は未だ多くても、無事だった町や村へと向かう者、そのままポエニスに根を下ろそうとする者、あるいは灰となった故郷を建て直しに戻る者、皆が少しずつ歩き始められたところだった。
シスネが足を止めると、すこし前を歩いていたレーベンもすぐに立ち止まる。振り返った二色の双眸は焦点が合っていないが、灰色の左目はしっかりとシスネを見ていた。聖性を四六時中流さなくても、日常生活ぐらいは彼も一人でこなせている。
「どうした?」
急に立ち止まったシスネを心配するような色を浮かべる左目を見返してから、視線だけで通りの向こうを指してやる。レーベンが顔を向けたと同時に、軽く聖性も流してやった。
「……あんな名前だったか?」
「そんなわけ無いでしょう」
見間違いか聖性が流されていないとでも思ったのか、右目をこすっているレーベンの脇腹を小突く。今でも反応はしてくれないが、シスネが見せた物はなかなかに衝撃的だったらしい。
【聖カーリヤ孤児院】
相変わらず古びた、だが手入れだけはされている外観の建物だった。その玄関に掲げられた、おそらく手作りだと思われる看板には確かにそう書かれている。どこか歪な形の文字を目で追いながら、シスネは追憶にひとり頬を緩めた。
あの戦いからしばらく経ったある日、レーベンが神妙な顔をしながらシスネを訪ねてきた。珍しいこともあると話を聞くと、彼は徐に大きな袋を見せてきて、その中にはなんと。
『……懺悔しに来たのですか?』
『俺を何だと思っているんだ』
また何か馬鹿な事でもやらかしたのかと疑ってしまう程の大金。輝く金貨が大量に詰められていたのだ。それこそ、
『……ライアーの、』
レーベンが無言で頷く。
詳しく話を聞けば、それはやはりライアーの遺産だった。彼が生前、カーリヤと新たな人生を送る為に貯めていた資金。危険な魔女狩りを続けながら倹約も重ねるという、それこそ血と汗を積み重ねたかのような彼の努力の結晶だ。
遂に使われることのなかったそれは、なんとレーベンの物になったらしい。財産を預かっていた教会職員によれば、ライアーに何かあった際の受け取り先はカーリヤに、その次はレーベンに、更にその次は……と、用心深い彼はそんな手続きまで行っていたのだと。
ここまで話を聞けば、レーベンが何を相談しに来たのかなど容易に分かる。見たことも無いような大金を手に入れて途方に暮れていたのだろう。現に彼は左手で頭を抱えていた。
『……技術棟に行くか』
『やめてください縁起でもない!』
出してやった紅茶が冷めるほど黙考した結果は、この馬鹿らしい馬鹿な答えだった。
レーベンと技術棟の変人達との繋がりは無くなったわけではないが、以前のように報酬の全てをつぎ込むようなことは無くなっていた。シスネという聖女を得てその必要が無くなったということと、多少は貯えというものを覚えたことが理由のようだ。せっかく常識的な考えを身につけたというのに、ここでまた変人たちから怪しげな物を買い漁られては堪らない。
だいたい、技術棟はあの一件からその影響力を増してきている。ここでこんな大金まで流してしまえば更に危険で怪しい実験開発を始めてしまいかねず、しょっちゅう起こしている爆発騒ぎが連日の日常茶飯事に変わりかねない。同じ教会の住人としても、そのような悪夢はシスネも御免だった。悪夢なら今でもたまに見ているのだから、これ以上は勘弁してほしい。
そうして紆余曲折、喧々諤々な相談を重ねた結果が――。
「増築したことは知っていましたけど、まさか名前まで変えただなんて……」
「ライアーが憐れだ」
「え、えぇ……」
結局、あの大金は全て寄付することにした。そして送り先として選んだのが、ポエニスで唯一の市井で運営しているあの孤児院だ。半年前の騒乱によって孤児も増えてしまい、元より運営が苦しかったらしい孤児院に更なる負担を強いるのは忍びないと、ライアーとカーリヤの名前で寄付したのだが……。やはり市井の孤児院であったとしても聖女の方が人気があるということだろうか。
とはいえ、ライアーならばきっとカーリヤの顔を立てることを選ぶだろう。たぶん、おそらく。あの体躯に似合わず控えめな性格だった騎士に思いを馳せつつ、シスネはそう願った。
「ま、まあ、二人分も名前をつけると呼びにくいでしょうし……」
「よし、俺が書き足してやろう」
「やめなさい馬鹿!」
冗談なのか本気なのか孤児院に足を向けようとするレーベンの動かない右手を掴んで止めていると、当の孤児院から子ども達が出てきた。相変わらず質素な身なりだがどの子も顔色は良く、極端に痩せてもいない。シスネ達の寄付、いやライアーとカーリヤの遺産はまっとうに使われているようだ。
「あ……」
健康そうな子ども達の姿に安心していると、最後に見知った少女が玄関から出てきた。年相応に小柄な背丈の半分はありそうな長い亜麻色の髪。それを雑に束ねた少女――ミラもシスネ達に気付いたのか、その大きな瞳を見開く。
だがミラは何を言うでもなく、自分よりも幼い少女の手をしっかりと握って通りに向かって歩き出した。ただ大きく振られる手と、花のような笑顔だけをシスネに見せながら。
「元気そうですね」
手を掴んだままのレーベンが視界の端で頷く。だが彼の視線の先でミラが大きく舌を出して見せると、二色の双眸に浮かぶのは何とも言えない表情。それを見て取ったシスネは、思わず口元を手で隠した。
『――お化け!』
二人で寄付をしに行った際、レーベンの姿を見たミラの第一声がそれだった。きっと、元に戻った右目と右腕に驚いたのだろう。洗濯中だったミラは、桶に入った水を思い切りレーベンに向かってぶちまけたのだった。あの時の、水びたしの泡だらけなったレーベンの顔といったら今思い出しても笑いが止まらない。
「っ、すみません、笑っても良いですか」
「もう笑っているじゃないか……」
そう言って、ひどく不本意そうな顔をするレーベンが可笑しくて。彼の背中を叩きながら、シスネはまた笑った。
◆
シスネはよく笑うようになった。レーベンはそう思う。
己とは違って、彼女は以前から表情が無かったわけではない。むしろ顔に出やすく、レーベンに向ける表情などはいつも不機嫌そうな顰め面であったし、市井の人々には「聖女らしい」笑顔も作ることができていた。だがそれはあくまで作り笑顔であり、彼女のおそらく本心からであろう笑みなど殆ど見た覚えは無かったのだ。
……もっとも、その数少ない笑みにしても大抵はレーベンのことを嗤うような時だった気もするのだが。今更ながら己はとんでもない聖女に惚れてしまったのではないかとも、レーベンは思う。
ちらと、左隣を歩くシスネの横顔を覗き見れば、その白い顔に表情は無い。細い頬にも、あの青痣は残っていなかった。
『実は私も、“騎士殺し”って呼ばれてたんですよねー』
戦の事後処理が一段落し、生き残った聖都の者たちも帰還し始めた頃合い。瓦礫に腰掛けた長身の聖女――シグエナはそう言った。急に、何の前置きもなく。
『一人目は銃で
「死ぬ時は簡単に死ぬのに、肝心な時に死んでくれないんですから」と、料理の失敗でも愚痴るかのように、シグエナはケタケタ笑った。
『で、結局は短剣で何度も刺す破目になっちゃいましてね』
『彼も私も叫ぶやら暴れるやらで、そこら中が血だらけですよ』
『もういったい、彼を殺したのは魔女なのか私なのかどっちだって話ですよねー』
ケタケタケタケタ!
いったい何が可笑しいのか、糸のような目を更に細めて笑うシグエナ。そもそも何故、今まで殆ど会話も無かった己とそのような話を始めるのか。レーベンは理解に苦しんだ。
『で、まあそういうわけでー、二人目と三人目はちゃあんと一発で楽にしてあげましたとも』
そう言って、自身の額をトントン指で叩いて見せる。その両手には、自決指輪が四つ通されていた。
レーベンに何が言えるだろうか。己がまだ幼い少年だった頃から、彼女の騎士――エイビスに至っては生まれる以前から魔女狩りに従じてきたという、この歴戦の聖女に対して。
『だから介錯なんて、させないでやって下さいよ』
常に嘲笑まじりに聞こえていた声音が変わった、気がした。
『聖女なんて、本当にただでさえ糞みたいな
『その上に介錯……“騎士殺し”だなんて』
『心臓がいくつあっても足りやしないんですからね』
シグエナの、祈るように組まれた両手は震えていた。それが肩の骨を砕かれたことによる後遺症なのか、そうでないのかはレーベンには分からない。どちらにせよ、彼女は未だ灰色の装束を纏い、首からも聖女証を提げている。片腕が満足に動かせなくなっても、聖女の役目を降りる気は無いのだろう。
『……まあ、例の彼女の?
「どう思うんですかその辺?」と、猥談なのか挑発なのか分からないシグエナの話を聞いていることにレーベンは辟易してくる。「シグエナの相手は疲れる」と、あの女騎士がぼやいていたことを思い出した頃、瓦礫の向こう側からようやく待ち人たちが帰ってきた。
『シス――』
『おじょ――』
帰ってはきたが、その二人の姿を目にしたレーベンとシグエナは揃って言葉を失ってしまう。
シスネとエイビス。三年前から続き、そして放置されていた二人の因縁は、今日はじめて対話の場を設けられることになった。「二人きりで話したい」というシスネの意向によって、こうしてわざわざ瓦礫の山と化した周壁跡地へと赴いたのだったが……。
『……お待たへひまひた』
シスネの白かった頬は赤く腫れあがっており、目許にも青痣が見られる。拭われた鼻血の痕も痛々しい姿で、長い白髪もボサボサに乱れていた。
一度や二度は殴られても仕方ない、と彼女はそう語ってはいたが、どう見ても一度や二度で済んでいない。さすがにやり過ぎなのではないかとエイビスに目をやれば、当の小柄な女騎士は……。
『……』
小さな顔の頬、そこにくっきりと残る赤い手形が複数。青い目には涙まで滲んでおり、不貞腐れたように地面を見つめるその姿は幼い少女のようだった。
『……拳で語ったのか?』
『上手いことを言ったつもりなんですかー、それ』
彼女らの初めての対話は成功したのか失敗したのか。一つだけ確かなのは、涙目のエイビスが去り際に「覚えていろよっ!」とシスネに向かって吐き捨てていったことだ。その目には怒りこそ見て取れたが、憎悪と侮蔑の光はもう無かった。
「次は絶対に仲直りします」と息まくシスネ。だが力強く拳まで握る必要はあったのだろうか。次こそは仲良く「話し合って」ほしいものである。
とはいえ、二人の亀裂の原因となった騎士――レグルスは死に、シスネが嫉妬で彼に殺意を抱いたという事実は消えない。シスネが何を話したところでエイビスの怒りが収まるとは思えず、ならば後はもう、エイビスがその怒りを全て吐き出すしかないのかもしれない。それこそあの時、狂乱したシスネが自身の内に降り積もっていた穢れをレーベンに向かって吐き出したように。
『まあ、程々にな』
殴られた顔の痛みに呻いているシスネの背中を撫でてやりながら、去っていく大小の人影をレーベンは見送る。そもそも部外者である己にしてやれることはそれぐらいで、彼女らが生きている内に和解できることを祈るばかりであった。
「……何ですか、人の顔をじろじろと」
追憶から戻れば、痣の無い顔のシスネが不機嫌そうに睨んでくる。あれから幾度かエイビスと対話を重ね、未だ和解はできていないようだが、傷を作って帰ってくることは少なくなっていた。
「……相変わらず、肌が白いなと思っただけだ」
「口説いているつもりですか?」
「そうだと言ったら?」
シスネが足を止めた。レーベンもそれに倣い、振り返った先で彼女は。
「……」
じっと、黒い瞳を向けてくる不機嫌な顔。……人にはじろじろ見るなと言いつつ、レーベンの顔はいつも凝視してくるのだ、この聖女は。
シスネが幾度か瞬きする程度の沈黙が続き、そして。
「もちろん、お断りです」
そう言って、そう言ったのに、何故か自然な笑みをレーベンに向けて。
「ほら、さっさと帰りますよ。これから仕事なのですから」
固まるレーベンを追い抜いて先に行くシスネ。後ろ手に向けられた掌から聖性が放たれ、右目と右腕が動き出す。多分に歩きやすくなった体で踵を返し、レーベンは足早に彼女の背中を追いだした。
今でも、レグルスのことを想っているのかと。
未だにそうは、聞けていない。
◇
シスネは未だ、レーベンに聞けていないことがある。
そして、彼の口から聞けていない言葉も。
足早に戻ってきたポエニス教会の正門を潜る。弾んだ息を整えながらレーベンを待っていると、中庭の方角からいくつもの銃声が響いていた。体をそちらに向け、自分の白い息が溶けていく先でその光景を見た。
「遂に実弾も使うようになったのか」
「そのようですね」
追いついてきたレーベンがぼそりと呟き、振り返らないままシスネもそれに答える。
教会の中庭、半年前の戦いでいくらかの被害を受けたそこは未だ元の姿には戻っていない。それは復興の優先度が低いということもあるが、あとは今シスネ達の前で行われている訓練が理由だ。
「構えっ!」
教導役の職員がかけた号令と共に、揃いの装束を身につけた者たちが長銃を構える。そして再びかけられた号令と共に、いくつもの銃声が響いた。立ち上る白い硝煙が、灰色の空へと消えていく。
銃隊。あの戦の前に急遽編成された、警備職員を基とした部隊。それは規模こそ縮小されたものの解体されることはなく、今もああして銃の訓練を続けているのだ。そして彼らがあの銃で穿とうとしているのは当然、同じ人間ではない。
そっと、隣に立つレーベンの横顔を盗み見る。訓練を続ける銃隊の姿を眺める灰色の左目からは、特に何の感情も読み取れなかった。
その内に訓練は終わったのか、隊員たちが散り始める。二人の横を通り過ぎていく彼らの中に、シスネは見知った顔を見つけた。
「お疲れ様、ラオヤ」
「ん……あぁ、聖女さん、お疲れさんす」
長銃を担いだ青年――ラオヤが足を止める。
浅黒い肌と引き締まった身体を持つ、野性味すら感じさせる逞しい男性だが、その表情はどこか虚ろだ。もっとも、これでもマシになった方なのだが。
「随分と本格的になってきたな。本番も近いのか」
「っす、大変やけど、頑張らんとあかんから」
この北方訛りが抜けない青年は、シスネ達とは知己と言って良い間柄だ。半年前の、あの戦いより更に前から。
「はよ、魔女を狩らんと」
ぎしりと、ラオヤの握る長銃が軋む。やつれたようにも見える顔の中で光る目は虚ろでありながら、シスネはそこに熔けた鉄のような激情を感じ取っていた。
ノール村。この国でも最北端に位置していた、今はもう地図にも残っていない廃村。彼はノール村の村長の孫であり、そして唯一人の生き残りでもあった。
半年前、アスピダ山脈から現れたドーラによる最初の砲撃。その際、偶然にも伝令のため村を離れていた為に難を逃れたのだと。……そして、カーリヤとライアーが人であった頃の最後の目撃者でもあると。
「……そう、でも無理はしないでくださいね」
「っす……」
シスネの忠告を聞いているのかいないのか、浅く頭を下げたラオヤはすぐに去っていく。灰色の空の下でひとり歩く彼の姿は、ひどく寂しげに感じた。
「変わりましたね……」
ラオヤの背中が見えなくなってから呟いた言葉に、レーベンは何も答えなかった。
あの戦いの前、魔女の捜索の為に滞在していた村長の家。あそこで何度か顔を合わせた際のラオヤは、猟師として働き始めたばかりの純朴そうな若者だった。その彼もいまや、故郷から遠く離れたこの旧聖都で独り生きている。弓矢を長銃に持ち替え、その標的も鳥獣から魔女へと変えて。
あの穏やかな気性の村長夫妻が、今の彼を見たらどう思うのだろうか。生き残ってくれたことを喜ぶのか、それとも……。
「まあ、その、なんだ」
陰鬱な考えに耽っていたシスネの思考は、何も考えていなさそうな声に遮られる。
「生きていれば、また変わる時もあるだろう」
「――……」
シスネは未だ、レーベンに聞けていないことがある。
かつて、魔女と刺し違えて死ぬ為に生きていたというこの騎士に。
あなたは、今も――。
「“生きていないと時間は進まない”……だったか」
それはシスネも聞いたことのある言葉だった。かつて、父から。
「ライアーも、似たようなことを言っていた」
彼の二色の双眸は、どこか遠くを見つめていて。
「――あぁ、そういえば」
そう言って。本当に、いま思い出したとでも言うような口調で。
「礼が、まだだった」
「あの時、貴公は何度も命を助けてくれた」
「勝手に死のうとする、俺みたいな馬鹿の命を」
未だ、彼の口から聞けていないことが……。
「今でもそれほど変わってはいないのかもしれないが」
「変わったとして、それが良いことなのか悪いことなのかも俺には分からないが」
「それでも俺は、確かに貴公に……シスネに助けられたんだと思う」
「――ありがとう」
シスネは、彼の体を池に蹴り落とした。
◆
レーベンは時々、彼女が人一倍の恥ずかしがり屋なのか、それとも真正の性格破綻者なのか分からなくなる時がある。
「なあ貴公、貴公。照れ隠しにも限度というものがあると思うんだ、俺は」
「誰も照れてなんていませんが?」
「今日も相変わらず肌が白いな。今は赤いが」
「そういうあなたは態度が大きいのではないですか? 今あなたが溺れないで済んでいるのは誰のおかげだと? この寒空の下で、あなた一人でどれだけ泳げるのか試してみましょうか?」
「分かった、分かったから聖性をくれ。このままじゃ沈むんだ」
確かに溺れず済んでいるのはレーベンの左腕を掴んでいるシスネのおかげだが、そもそも彼女がレーベンを蹴り落とさなければこんな事にはなっていないのではないだろうか。赤い顔で鼻を啜るシスネに懇願しながら、レーベンは内心で世の理不尽を嘆いた。
「ひどい話だ。よほど俺のことが嫌いだと見える」
「何度もそう言っていますよね?」
「そうだった」
彼女と出会った時から、成り行きで魔女狩りを共にするまで。彼女の秘密を知ってから、彼女の真の秘密を知った時まで。そしてあの戦いから今に至るまで、シスネはもうずっと変わらず、レーベンを「嫌い」だという。
そう言う癖に、今も昔もあの時から、その嫌いなレーベンをシスネは放っておかない。心の機微にも疎い上に賢くもないレーベンには、彼女の本心がよく分からない。
故に不安になる時もあるのだ。こんな己でも。
「……レグルス殿のようにはいかないか?」
こうして、口走ってしまう程度には。
「…………私は、」
そんな情けないレーベンの言葉を嗤うでもなく、シスネはただ左脇の銃に触れた。騎士レグルスから彼女に送られ、そして今まで何度も二人の窮地を救ってきた大短銃を。
「私は、今でも彼が、……いえ」
シスネは右手で銃に触れながら、左手でレーベンの腕を掴み。黒い瞳で灰色の空を見上げ。一度だけ俯いてから。
「――好きですよ、みんなが」
「あんな事をした私にそんな資格は無くても、今でもレグルスのことは好きです」
「エイビスも、あとまあ……シグエナさんも」
「祖父も祖母も、父も母も、おね……姉も兄も、エンテもコトラもシュカも」
「ミラはとても良い子だし、お父様とも幸せになってほしい」
「ラオヤは、あなたが言うようにいつかまた変われると良い」
「聖女長と騎士長は怖いですけれど、この上なく頼もしい人たちです」
「あの技術者は、何度も私を助けてくれました」
「ポエニスの聖女たちも、騎士たちも」
「もちろん、カーリヤとライアーも、みんな好きです」
微かで、だが綺麗な微笑でシスネは語る。
レーベンの見てきた彼女は外面が良く、常に「聖女らしく」振舞っていたように見える。レーベンの見えないところで、彼女は様々な者たちと交流していた。それが仮面であれ本心であれ、元よりシスネはそういう、誰とでも良好な関係を築ける女性なのだろう。
そしてそれはひどく単純な、彼女の優しさ故なのだ。
「でも、あなたのことだけは嫌いです」
その優しいはずの彼女は、相変わらずレーベンを嫌いだと言う。嫌いなはずの相手に、こうして笑いかけてくる。
「……自分のことも、今でも好きにはなれませんが」
嫉妬に狂った“騎士殺し”
その罪と汚名はずっと彼女について回るのだろう。何故ならそれは全て過去で、過去は誰にも消せないのだから。変えられるとすれば、それは彼女が自分を許せる日が来た時だ。
未だ自分を「穢い」と言う、このひどく不器用な聖女が。
「だから、つまり」
ぐいと腕を引かれ、未だ冷水に浸かったままのレーベンを引き寄せる。そうしながら、レーベンの黒髪を掴むとも撫でるとも言えない動きで上を向かされる。
間近に迫った黒い瞳は、もう逸らされない。
「みんなのことは“好き”で、私とあなたは“嫌い”です」
「それでは、いけませんか」
「ねえ、レーベン?」
好意の反対は無関心。それはいつ誰から聞いた言葉だったか。
彼女の言葉はいつだって複雑で、面倒で、ややこしくて。賢くもないレーベンにはよく分からない。
それでも彼女の黒い瞳はレーベンを捉えて離さず、レーベンもまた目を逸らせない程にその光は強い。そうして己を見てくれているというならば、全て杞憂ということで良いのだろうか。
「……まあ、駄目だと言うならこの手を放すだけなのですが」
「それで良い。それで良いからそろそろ聖性をくれないか本当に沈みそうなんだ頼む」
慌ててそう答えたというのに、シスネは無慈悲にも手を放してしまう。悴み始めた左手で必死に白い手を掴むと、そんなレーベンの必死さが面白いのか手で口元を覆っている。以前から変わらない、彼女が笑う時の癖。
……もう何度も考えたことだが、本当に己はとんでもない聖女に捕まってしまったのではないだろうか。
「本当に仕方のない人ですね。ほら早く上がってください、もう時間も無いのですから」
そもそもの原因はシスネだが、もうそれを口にする気力も無い。掴んだ手から聖性が流され、ようやく動き出した右腕で岸に這いあがる。冷え切っていた体も聖性によって内側から暖められるかのようだった。それでも寒いものは寒い。
「あぁ寒い。いっそ貴公も落としてやろうか」
「やめてください。今は新しい服を着ているのですから」
「やるなら、いつもの服の日で」と、よく分からない冗談まで言い始める。
そのまま、びしゃりびしゃりと水音を鳴らしながら歩くレーベンの左手を引くシスネ。それはレーベンが右腕を失くした頃に似た姿で、彼女は今でも時々こうしてレーベンの手を引くことがある。だがいつもはともかく、今は聖性も流されているのだから手まで引く必要は無いはずなのだが。
「……こちらの台詞なのですけどね」
「なんだって?」
「なんでもありません」
ぼそりとシスネが何かを呟き、聞き直すも答えてはくれない。結局はそれ以上の会話もなく、聖女と騎士の居住棟まで二人で歩く。
厚みを増してきた灰色の雲を見上げながら、レーベンは大きなくしゃみをした。
◇
「片手剣を二本。あと手斧と短剣」
「短銃を一丁お願いします。長銃は二丁で、短剣を三本」
居住棟で着替えだけを済ませ、すぐに合流してから向かったのは建て直された教会本棟の地下倉庫。地下である故に本棟の倒壊に巻き込まれず済んだそこでは、薄暗い表情をした倉庫番――ファイサンがシスネ達の対応をしていた。いつもと変わらないうんざり顔で。
「炸裂弾と焼夷弾。――そんな顔をするなファイサン。俺も最近は壊さずに返しているだろう」
「私にも同じ物を。――直しているのは私なのですが」
レーベンの軽口に何を答えるでもなく武器を並べ続けるファイサン。また痩せたように見える彼の健康状態を気にしながら、武器は必ず直してから返させようと決める。聖女も楽ではない。
「薬も欲しい。……用法と用量を守った数で」
「それと弾薬を。――はい良くできました」
忘れた頃に馬鹿をやらかすこの馬鹿に睨みを効かせるのもシスネの役目だ。可動部を検めた短銃を脇腹に押し付けてやると、それだけで薬を減らすことが出来ていた。まあまあ殊勝な心がけだとシスネは内心で評価を下す。
「……あと、これも貰いますね」
机の隅に置かれた巨大な銃弾を掴み取ってベルトに収める。シスネ以外に使う者などいないのだから構わないだろう。隣のレーベンも、二色の双眸でそれを何処か懐かしそうに眺めている。
「あの変人も素直じゃないな」
「まったくです。……感謝はしていますけど」
「貴公も人のことは言え――」
「なにか言いましたか?」
長銃のレバーを何度か引きながら睨めつけてやると、レーベンはそそくさと部屋の隅に向かう。そのまま、床に広げた装備を身につけ始める姿を見て溜息をつきながら、シスネも鞄から黒革のベルトを何本か取り出した。
レーベンが鞄から取り出したのは、黒とも銀ともつかない不思議な輝きの鎧。ひどく軽装な上に部位まで省略されたそれを手早く装着していく。胸当てと左手だけの手甲、そして膝当て。それで終わりだ。あとは厚手の革手袋を白い右手にはめ、
灰色の装束の上からベルトを巻き付ける。このやり方は身体の線が浮き出てあまり好きではないが、背に腹は代えられない。カーリヤならともかく、シスネのような痩せた体など誰も興味は示さないだろうと、いつものように自嘲する。自室を出る時に履き替えてきた武骨な
腰の両側に片手剣を佩く。強化剤と再生剤を収めた雑嚢を後ろ腰に下げ、手斧もベルトに差す。短剣は鞘ごと右腿に括りつけ、焼夷弾と炸裂弾を並べたベルトは肩に巻く。出会った頃よりは軽装になったとはいえ、相変わらずの過剰装備だ。「直すより換えた方が早い」とは彼の弁だが、結局はシスネが直すのだから頭痛の種ではあった。
ゆるく頭を振りながら、三本の短剣をそれぞれ右脇と腰と足首に括る。短銃を左腰のホルスターに差し込み、二丁の長銃を背に担ぐ。三種の弾薬と焼夷弾と炸裂弾をまとめて収めたベルトも腰に巻いた。過剰装備はシスネも同じで、以前と変わったのは倉庫から持ちだす短銃が一丁減っただけだ。
レーベンが専用の鞄を開け、中から取り出したのは黒銀の刀身を持つ一振りの剣。刀剣に疎いシスネでも分かるほど異様な形をしているそれの大きさはひどく中途半端で、片手剣とも両手剣とも呼べない。柄には奇怪な仕掛けが施され、そこから二本の引き金が柄へと伸びる機械仕掛けの剣。レーベンしか扱えず、そしてシスネがいなければその真価も発揮できない、そんなどうしようもなく異質な剣だ。
唯一、常に身につけたままの銃を右脇から抜く。銃身がずるりと長い、単発式の異様に大きな短銃。かつてレグルスがある狂人に依頼し、そしてシスネに贈られた自決用の短銃。それは未だシスネ自身を穿つことはなく、代わりに何体もの魔女を穿ってきた大短銃だ。どこまでも武骨な銃身を指先で撫でてからホルスターへ戻し、そしてもう一丁の私物も取り出した。
「相変わらず派手だな」
「本当に」
その短銃は教会から貸し出される物とまったくの同型で、その性能も何ら変わらない。むしろ、無駄に増やされた重量のせいで性能自体は劣化しているとすら言えるだろうか。銃身に施された
全ての準備を終えたシスネとレーベンは出入口へと向かい、それをファイサンが心底うんざりした顔で見送っている。
「ではなファイサン、いつも世話になる」
「いつもごめんなさい、必ず直して返しますから」
「そういう問題じゃない」と、そんな言葉すら聞こえてきそうな顔で溜息をつくファイサン。今度なにか土産でも渡そうと心に決めながら、シスネはレーベンの黒い背中を追って階段を登った。
その背に、聖性と共にそっと触れながら。
※
この半年で旧聖都ポエニスは、いやカエルム教国は変わった。
まず何よりも、あの激戦で多くの人々――聖女と騎士以外の者達が魔女と戦ったことが大きな要因だろう。
「銃があれば魔女を狩れる」
「聖女と騎士でなくとも魔女と戦える」
「もっと非聖性技術の開発を進めるべきなのではないか」
只人でも魔女と戦えた、そして狩ることすら出来たという事実と実感。それらが魔女に対する恐怖と結びつき、護身の為にも銃を市井の人々にも配るべきだと意見が出始めた。それらを半ば発散させるような目的の下で銃隊が再編され、そして非聖性技術を開発する技術棟の勢力は増してきている。
「聖女も騎士も数は半分以下まで減ってしまった。銃隊にも魔女を狩らせるべきだ」
「もはや銃隊こそ魔女狩りの要だ。数を揃え、運用を工夫すれば騎士よりも優れた戦力となり得る」
「そもそも聖女を、女を戦わせる必要はあるのか」
もはや聖女と騎士は不要なのではないか。そんな言葉すら聞かれるようになって久しい。
「愚かな。聖女とは魔女狩りの為だけの役目ではない」
「暗黒時代を忘れたか。あの凄惨な女狩りを」
「女を再び、魔女を生み出すだけの害悪へと戻す気か」
だが聖女がいなくなれば、全ての女たちはただ潜在的な魔女というだけの存在になる。同じく女からしか生まれない聖女という象徴があったからこそ、この国は魔女禍という災厄をかろうじて乗り越えてこられたのだ。その薄氷の如き均衡を維持するのか、それとも。
「ドーラは何者だったのだ。何故あそこまで巨大な魔女が生まれたというのか」
「アスピダ山脈の向こうには何がある。その調査を進めるべきだ」
「シルト海もだ。海の向こうから、また第二のドーラが現れないと誰が言い切れる」
教国を外界と隔てていた二つの壁。その向こうから現れたドーラの存在は、数多の人々に消せない恐怖と好奇心を植えつけた。
「魔女禍とは何だ。魔女とは、聖性とは」
「もはや神話など御伽噺に過ぎない」
「我々は変わらなければならない。停滞の時代は終わらせなければ」
カエルム教国は変革の時を迎えていた。
だが変革に痛みは付き物であり、時にそれは流血すら伴う。
それでも進まなければならないのだ。さもなければ、皆がこの狭い世界の中で終わることとなる。
魔女によって始まり、聖女によって終わらせられた暗黒時代。
それから長きに続いた、平穏と停滞の時代。
ならば、今これからは――変革と混迷の時代と呼ぶべきだろうか。
そして。
そんな時代の始まりと同時に、契りを交わした聖女と騎士がいた。
◆ ◇
「碌な死に方をしないだろうな、俺は」
ナダ平原の中を、二人だけで歩く。
レーベン達がいま行っているのは魔女狩りではなく、ポエニス周辺の哨戒だ。魔女を引き集めていたドーラがいなくなり、再び魔女は国中で現れ始めた。被害と犠牲が出てから討伐に向かうのではなく、より積極的に魔女を探し討つべきだと、そういう声によって新たに出来た仕事として。
故にこうして何もない平原を二人で歩いている。この時間が、レーベンは嫌いではない。
「なんですか、いきなり」
そんな哨戒の最中、不吉な独り言を始めたレーベンをシスネは見やる。彼はまた、雪がちらつく暗雲をじっと見上げていた。
「今でも時々考えるんだ。アルバットの言葉は正しかったのか」
今この国は、あの狂人の望んだ通りに動き出しているようにレーベンは思う。非聖性技術が台頭し、聖女と騎士が過去の遺物になろうとしている。魔女禍の根が何なのかを探り、それを根絶しようと皆が動き出している。
聖女と騎士の時代が、終わろうとしている。
「……後悔していると?」
自分はどこまでも、レーベンに惨いことをしてしまっているのではないか。シスネはそんな風に思うことがある。あの時、何度も彼から死に場所を奪ったように。彼を、よりにもよって最悪の時代に騎士にしてしまったのではないかと。
その不安と罪悪感は、今でもシスネの胸に巣くっている。
「まさか」
レーベンは決して後悔などしていない。己はきっとどうしようもない馬鹿なのだろうが、あの時アルバットと
レーベンは世界を守る英雄ではなく、そして世界を変える狂人でもない。
何者でもない凡百の騎士。それこそが己が目指し、諦め、そして遂に至れたものだったのだから。
例え、それがこれから時代の混迷に飲みこまれ、すり潰されていくだけの存在だとしても。
騎士となったことを、後悔などしていない。
「最後が、悲劇だったとしても?」
聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。
それは聖女と騎士が生まれた時から今に至るまで、きっと一つの例外も許さなかった、この世界の無慈悲な摂理。英雄譚に謳われた聖女と騎士たちも、シスネ達が知る聖女と騎士たちも、無二の親友だったあの二人でさえも、誰も逃れられなかった。
ならばきっと、シスネとレーベンもそうなるのだろう。いつか、必ず。
それでも。
「その時は、まあ、あれだ――」
悔いていることがあるとすれば、こんなどうしようもない騎士の聖女となってしまった彼女のことだろうか。きっと碌な死に方をしないであろう己に、こんなレーベンの
そう、思って。振り返り。
黒い瞳が、まっすぐレーベンを射貫いている。
出会ったあの月夜から己を捉えて離さない、誰よりも何よりも美しい黒。
「――いっしょに、死んでくれると嬉しい」
「忘れてくれ」
「忘れませんよ、馬鹿」
逃げるように足を速める馬鹿を追って、シスネも小走りに草原を進む。面倒になって聖性を切ってやると、体勢を崩したレーベンが草地の中に転んで止まった。なんとも間抜けな騎士の姿に、シスネは声をあげて笑う。
「く、ふふ――、口説くにしても、もう少しマシなことが言えないのですか? この馬鹿」
「……馬鹿で誠に申し訳ない」
「本当に馬鹿ですよ。このばーか」
きっと奇跡など起きないのだろう。きっと悲劇で終わるのだろう。
何故ならこれは物語ではなくて現実で、例え物語であったとして、きっと二人に奇跡の出番は無いのだろうから。
「それで、返事はどうなんだ?」
「は? もちろんお断りです」
「ひどいな」
英雄でも狂人でもない二人の物語は、言うなれば前日譚だったのだ。
変革と混迷の時代に生まれるであろう、英雄であり狂人。
そんな誰かの、輝かしい物語の
「あぁ、本当にひどい話だ。見たまえよ、雲行きまで怪しくなってきた」
「良いではないですか、私達にはお似合いでしょう」
「違いない」
遠くの空は黒く濁り、雷鳴すら響いてくる。それはこの国の――レーベンの、シスネの未来を暗示しているようで。
それでも、レーベンは差し出された彼女の手を取る。
己を見下ろす、真っ白な髪と黒い瞳を持つ、全身に武器を括りつけた、まったく聖女らしくない女。
そんなシスネだからこそ、レーベンは。
「最後までよろしく頼む、聖女さま」
いつか悲劇で終わるその日まで、と。
閃光の如き速さで、眼前に銃口が突きつけられた。
目を見開けば、己を射殺すような黒い瞳で、聖女が笑っている。
どこまでも、どこまでも聖女らしからぬ笑みで。
「そんなこと――私がさせませんけどね?」