暗がりから亡霊のように浮かび上がったのは古びた木目だった。しかし
手を至る所に付けた男の双眸が、鋭く此方に向けられた。
「任務は成功、といったところでしょうか」
「しかし随分と減ったなァ……」
森の中から一変し、移動した先は木で組まれた天井とレンガの壁に囲まれた部屋であった。
カウンターテーブルの前には数個の椅子が並べられ、奥の棚には酒瓶が所狭しと並べられている。しかしそれ以外に机や椅子はなく酷く殺風景であった。その形状から見るに、ここはバーを模したアジトといったところだろうか。
壁に視線を走らせると扉がいくつか確認出来るが、外へ通じるものがどれだかわからない以上迂闊に動く事は出来ないだろう。
そんな風に辺りの様子を観察していると操たちを覆い隠していた闇は一つに集約し、カウンターの向こう側で人の形を形成する。その上に吊り下げられた明かりが、静かに揺れていた。
「ごほっ……げほっ……」
「……誰だそいつ」
「ステ様の妹です!」
「あ? んで連れて来たんだよ……」
「色々あってオマケで入手したのさ」
「いらねぇ……邪魔だから殺しとけ」
熱を帯びた手が首から離れたと思うと、操は思わず床に座り込んで咳き込んだ。一瞬とはいえ高温の炎で焼かれた肌は刺すような痛みが走り、血中では驚く速さで血栓が作られていく。それを阻止しようと操作しても、頭部は殴られたような痛みを感じて個性を使うことができなかった。
傷口から滲んだ黄色い体液が首を伝って襟口に染みていく。粘ついた汗が全身から噴き出し、呼吸が早くなる。
「ならば討ち果たすのは俺の役目!」
「え! 私が切り刻んでチウチウしたいです!」
「待ってください」
スピナーが口元を歪めながら意気揚々と操の首筋に刃物を充てがった。するとセーラー服を着た少女も刃物を取り出し、操に向かってそれを振りかぶろうとする。
──頭が痛い、首が痛い。
共鳴するように腹部や背中も痛みを訴え、全身の筋肉が切断されたような疲労を感じている。頭の中は鉛や泥が詰まっているかのように重くぼんやりとして正常な判断が出来ず、糸が切れた操り人形のように身体の力が抜けていく。
要するに操は体力の限界がきていた。それでも意識を薄く繋いでいるのは、"倒れたら死ぬ"と警鐘を鳴らす気力のおかげだろうか。
「死柄木弔。ステインの妹をこちらに引き込めば、ヒーロー社会に亀裂を走らせることが出来ると思いませんか」
「あー……なるほどなァ?」
店内の電球は幾つか消耗しているのか、明るさにムラがあった。チカチカと点滅する蛍光灯が操の視界をより曇らせる。
ぼやけた視界で近くにある足を辿って見上げれば、そこには口を固く引き結んだ爆豪の姿があった。その首にはまだヴィランの手が添えられている。
──誘拐されたのは私と爆豪の二人だけだろう。それに対して、ヴィランは何人いる……?
何故爆豪が誘拐されたのかわからないが、ここに長居をする事はよくないとわかっている。しかしこの状況を打開する事はほぼ不可能近いだろう。何故なら操は自力で動くことができないし、爆豪は蒼炎の個性を持った男に掴まれているからだ。
「──……!」
回らない頭でそんなことを考えていると、操はある臭いを嗅ぎとった。そして身体は冷水を掛けられたように、一瞬にして強張っていく。
近くで刃物を突きつけるヴィランがいるとか、操について話をしているとか、そんなもの全部どうでもよくなった。
操は長年油を指していない機械のように、ぎこちなく顔を横に向ける。すると火傷によって引き攣った首元の皮膚は裂け、体液や血液が滲みだす。けれどそんなもの、どうでもよかった。
「……ラグ、ドール?」
仮面ヴィランの足元に床に横たわっていたのはプロヒーローの一人、ラグドールだった。操にとって大切な人である、知床知子だったのだ。
彼女の身体からはとめどなく血が溢れ、それは瞬く間にフローリングを汚していく。瞳は固く閉ざされ、その身体はピクリとも動かない。
それを目にした途端、操は目を見開いて息を呑んだ。身体が震え、冷たい汗が全身からブワッと噴き出してくる。
操は確かにラグドールの血の臭いを嗅ぎとった。それは今ではなく、森の中でだ。彼女の救助を後回しにし先に進むことを選んだ結果、彼女は攫われてしまったのだろうか。
動かないラグドールを見つめていると操の呼吸が速く、浅くなっていく。今すぐ駆け寄って血を止めて、体力を回復しなくてはならない。けれど、どうやって……?
──体力も個性も底をついているというのに、どうやって助ければいいの?
操がラグドールに釘付けになったまま思考を巡らせていても、それはヴィランに関係ない。連れ去られたということは目的があるということで、黒い影は彼女に近寄って緩やかに霧を広げていく。
操は嫌な予感がして、背中につうっと冷たい汗が流れた。
「おい……ラグドールをどこへ連れていく気だ……?」
「あ? お前には関係ないだろ。さっさと行けよ、黒霧」
「承知しました、では──……」
「ッ、ラグドール!」
操はワープを阻止するために慌てて立ちあがったが、すぐに地面に叩きつけられた。背中の上に足を乗せ、ぎりぎりと力を込めるのは側にいたスピナーだった。
操はそれでも身体に力を入れて地面を這って、必死に手を伸ばした。ここで動かないと一生後悔すると思ったから、惨めだと笑われようが何だってよかったのだ。
「起きろ、ラグドール!……起きて、……っ起きてよぉ!!」
伸ばした手は踏まれて痛かった。
それでも操は力を振り絞ってそれを払い除け、背中の足を跳ね除けた。震える腕に力を込めて、気力のみで立ち上がる。立ち上がったところを別のヴィランに倒され地面に伏せても、何度だって繰り返し、手を伸ばす。
痛みを訴える喉を酷使しながら、何度だって彼女の名前を呼んだ。喉が裂けても潰れてもいいから「どうか起きて」と願って、必死に言葉を紡いだ。戦うことなく名前を呼び続けるだけなんて、何の意味もない時間だったろう。
それでも、それは
そんな光景はヴィランたちにどう映ったのだろうか。あまりに滑稽で、笑えてくるものだったろうか。
「寝てる場合じゃない!ラグドール、起きてよ!早く起き……ッ!」
「──うるせえなァ、暫く寝てろよ」
頭部に痛みを感じた途端、肉体と精神の輪郭が歪み、薄くなっていくような感覚に陥った。
意識が暗い闇に落とされていく中で、ラグドールは徐々に小さくなっていく。必死に手を伸ばしても、遠ざかってしまう。
踏まれた手は地面に縫い付けられた。黒い霧に包まれたのはラグドールか、それとも操の意識が先かわからなかった。
──ただ、薄れゆく意識の中で伸ばした手が届かなかったことだけは理解できたんだ。
カアイイものや好きなものは何ですか。そう聞かれたら、あなたは何て答えますか?
ふわふわのぬいぐるみ、キラキラしたコスメ、甘くて美味しいパンケーキ? それともきゃらきゃらと笑うお友達でしょうか。抱きしめると温かい犬や猫、自分の為に尽くしてくれる恋人でしょうか。
私は違います、血が好きです。
一定の粘度を持ってぬらぬらしてて、誰もが持っているあの血が好きです。噴き出した時は真っ赤なのに、時間が経つとどす黒くなって罅割れるあの血が好きです。血に塗れたいきものは、とってもとってもカアイイです。
『どうして普通になれないのよ貴方は……!』
みんなと違うことは、悪いことなんでしょうか。それは"悪"で、"罪"なんでしょうか。
テレビでは政治家やヒーローが「様々な個性を持つ人がいるから差別してはいけません」「多様性を認め合おう!」なんてよく言ってますけど、私は
『その笑い方は不気味だ、やめなさい!』
努力しました。好きじゃないものを好きになろうと、たくさんたくさん努力しました。自分の心に蓋をして、
でも、ダメでした。
思い出すと、心が騒ぐのです。真っ赤でカアイイ鳥さんが、手のひらの中で冷たくなっていくの。羽毛を赤く染める血をチウチウすると、私もカアイイ鳥さんと同じようになれた気がしたの。
真っ赤な血はキラキラしていてとても綺麗でした。キラキラに塗れた人はみんなカアイイです、だから、もっとみんなカアイクなれば良いと思っていました。もっともっと、カアイイを見たいと思いました。
『──まるで異常者だ!!』
誰もが肯定される世界なのに、私一人が殺される。自分はこんなにも辛くて、苦しいのに、みんなは楽しそうに笑っている。私の痛みなんて知ることなく、楽しそうに笑っている。
いいなぁ、いいなぁ。
私もみんなみたいに普通に好きなことをして、生きていたいだけなのにな。どうして毎日自分の心に刃を突き立てて、首を絞めて、好きじゃないものを好きと偽らなければならないのでしょう。
苦しみが付き纏うだけの世界で、空っぽな私は、生きている価値があるのでしょうか?
『チウ……チウ……』
あの日は我慢できませんでした。好きな人の中に流れる血がどんなものなのか、気になって仕方がありませんでした。舌に乗せて味わいたいという気持ちが抑えきれなくて、好きが溢れてたまりませんでした。
真っ赤に染まった彼はカアイクて、啜った血は美味しくて、でも少しだけしょっぱかったけど……私はあの時、本当の私を取り戻せたの。
あの日私は私になって、たくさん満たされたの。
『正さねば──……誰かが血に染まらねば……
『来い、来てみろ贋物ども!!』
『俺を殺していいのは
真っ赤に染まってボロボロなあの人は、たった一人で世界を変えようとしていました。自分の望む世界に、作り替えようとしていました。初恋の人には似てなかったけど、すぐ好きになりました。
いいなぁ、いいなぁ。
私もあの人になれたら、世界を変えられるかな。あの人になれたら、私は私のまま生きていけるかな。苦しみを必死に耐えるしかない"生きづらい"この世界を、生きやすい世界に変えられるかな。
『お願いだから
──本当はね、■いのです。
ヒーローはたくさんいるのに、誰も私を■■てくれないのです。お願いですから、あなたがヒーローなら、どうかわたしを、■■てよ。
「──操ちゃんっ!」
「……っ、!」
目を覚ますと見知らぬ天井と少女が視界を占めていて、操は慌てて起き上がった。
全身を駆け巡る鈍痛に思わず息を漏らすが、目の前の少女は恍惚な表情で操に熱い視線を送っている。それに睨み返しつつ足に力を入れて彼女から距離を取ろうとするけれど、木目で出来た古い床に肌を傷付けられるだけだった。
「ごほっ、げほ、……ぅ、」
喉は焼き切れたように熱を持ち、掠れた悲鳴を上げている。咳き込むだけで刺すような痛みが走り、全身が鉛のように重たくなるが、それでも咳は止まらない。生理的な涙が滲むけれど、ふーっふーっと呼吸を整えて落ち着かせる。
疲労は濡れて重くなった外套のように身体を包み込むが、操は個性を使ってそれを脱ぎ捨てた。頭の中に巣食う倦怠感もかき消し、血管を内側から修復していく。血中に出来てしまった血栓を分解し、エネルギーや栄養を増やして傷口に回していく。すると空気が抜かれたような身体はみるみるうちに元の調子を取り戻していった。
──痛みはどうにもならないが疲労は回復出来たし、傷も少しだけ治せたか。
けれど空っぽな胃袋と乾いて張り付いた喉が苦しみを主張していて、操は酷く腹が減っていることに気が付いた。吐き気がするくらい激しい空腹感に襲われ、寒くもないのに手が小刻みに震えている。
それは思考の邪魔をして理性を食い尽くす、酷く懐かしい感覚だった。
「操ちゃん、お水飲みますか?」
「……ある、なら」
「はいっ、どうぞ!」
両手で水の入ったグラスを差し出す少女に礼を言ってから、操は躊躇なくそれを飲んだ。喉を通り胃を濡らす水に、操の思考も僅かばかりすっきりとする。空腹感はどうにもならないが、乾きは幾分マシになった気がした。
グラスを床に置きながら辺りを見渡せば、操の目の前にしゃがむ少女以外にもこの部屋にはヴィランが何人かいて、操の行動に驚いたように目を見張っている。「毒とか薬を盛られたと思わないのかしら」とサングラスの男が薄く笑っているが、毒も薬も血中で分解できるから問題ないのだ。
しかしそれを伝える必要はないだろう。今は少しでも体力を回復させるため、何か口にしないといけない。
部屋には腕を拘束され椅子に座らされている爆豪、壁に寄りかかる異形の男、カウンター席に座るツギハギの男と仮面の男、近くに立っているタイツの男にサングラスの男、そして目の前の少女がいるだけだった。
死柄木と黒霧、そしてラグドールはここにいない。それが歯痒く、操は奥歯を噛み締めた。
──私は一体、どれだけ気を失っていたのだろう。個性が使えるようになっているから、少なくとも数時間は寝ていた筈だ。
部屋に視線を走らせても時計は存在せず、窓のないこの部屋では時間の経過がわからない。操がそんな風に辺りを観察していると、目の前にいた少女が身を乗り出して視界の中に入ってきた。
「操ちゃん、私はトガです!トガヒミコ!」
「……私は赤黒操だ」
「知ってます、ステ様の妹ですよね? 初めて見た時も今も、ボロボロでとってもカアイイです!」
「……ス、
上体をぐっと近付ける少女はトガヒミコというらしい。周りの反応からして彼女も立派なヴィランなのだろう。そんなことより、彼女の発言に操は思わず顔を引き攣らせてしまった。
──ボロボロなのが可愛い? いや、それよりステインを"ステ様"って言ったのか? 彼女は一体何を言っているんだ……?
彼女が発した言葉は情報量が多すぎて、操はすぐに理解することができなかった。しかし"ステインに充てられたヴィラン"という言葉を思い出し、彼女もその類なのかと当たりをつける。
しかし彼女──トガはそんな操の様子など気に留めず、両手を上下に動かして忙しなく言葉を紡いでいく。
「お話ししましょう! 恋バナとか、好きなものの話とか、操ちゃんといっぱいしたいです!」
「…………ああ、いいだろう」
「わー!やったぁ!」
「──うぐっ、」
勢いよく抱きついてきたトガを受け止め、操は脂汗が滲むような痛みに襲われた。悲鳴をなんとか飲み込んで痛みに耐えても、彼女はそれを気にすることなく操の身体に腕を回してぎゅっと抱きしめる。
近距離で操を見つめるトガは無邪気で、純粋に楽しんでいるように見えた。左右に結われたお団子の毛先がぴょんぴょん跳ねていて、まるで喜びを表しているようだった。
操は「トガが何故ここにいるのか」、そして「何故ヴィランになったのか」が気になったから彼女と話をしてみたいと思ったのだ。この時間をただの雑談で終わらせるつもりなんてない。
「おい危ないから近寄るなよ!もっと近寄れ!」
「……そいつの個性は"操血"だぞ」
「そうなんですよねぇ、だからチウチウ出来ません」
彼女は残念そうに言葉を溢すと、密着したまま操の背中にナイフを押しつけた。
そして徐々に頬は赤く色づき、吐息は荒くなる。弓なりに歪む瞳は酷く焼け爛れた首元や、皮膚や肉が裂けた傷口に注がれている。
ナイフを握る手にぐっと力が篭るけれど、それは操の肌を傷付けないようなんとか抑えられていた。
「私、血って大好き!」
「……奇遇だな、私も血は好きだよ」
「お揃いだぁ!ねぇ、ねぇ操ちゃん!チウチウしてもいいですかっ?」
「……やだ」
「え〜〜!」
残念そうに眉を下げる彼女は、それでも楽しそうだった。操から離れるとナイフをしまって、頬に両手を当てて呼吸を落ち着かせている。
──血が好きで、目を逸らしたくなるような傷を見て恍惚とした表情になる。もしかして彼女は血を見ることで高揚し興奮してしまうヘマトフィリアだろうか。それとも個性の関係で血に強い執着を持っているのか、生きるために他人の血が必要なのか。
情報が少なくまだ推測の域を出ないが、操の個性が"操血"でなければ刺されていただろう。けれど普通に会話をし、水を差し出してくるあたり敵意は感じなかった。それは操がボロボロで可愛いからか、それともステインの妹だからか。
「なぁ、なんでボロボロなのが可愛いんだ?」
「私の好みです!私はボロボロで血の香りがする人が好きだから、切り刻んでカアイクしたいのです!血塗れな人は、とってもとってもカアイイです!操ちゃんはもっとカアイクなれます!」
「……」
「操ちゃんはステ様のこと好きですよね? 私と一緒です!」
「……、は? いや別に好きでは──」
「私ステ様大好き!
「……、なんで?」
──好きなのに、殺したい? 嫌いだから、恨みがあるからではなく、好きなのに殺したいのか?
操は話せば話すほどトガがよくわからなくなった。けれど彼女が嘘をついている様には見えず、喜びのあまり思いの丈をぶつけているように感じるから、本当のことを話しているとは思っている。だから彼女の次の言葉を待って、黙って耳を傾ける事にした。
しかしこの時、操はまだ知らなかった。
目指す夢が人それぞれであるように、愛の形も人それぞれなのだと。
「ファンなんです!ボロボロで血塗れなのがカアイかったし、真っ赤に染まって生きづらいこの世界を変えようとしているのが素敵でした!だから私はステ様のファンだし、大好きだし、殺したいって思うんです!ステ様になれば生きやすい世の中になると思います!だから私はステ様を殺してステ様になりたいです!」
彼女の言葉を聞いていた操だけでなく、ヴィランの大半も顔を歪めてそれを聞いていた。通常では理解が及ばない考えに、彼女の言葉をうまく飲み込むことができない。操は少し前に戦ったマスキュラーを思い出し、思わず息を呑む。
人が逃げ惑う姿を甚振るように追い詰め、最終的に殺してしまう彼も血が好きだった。
──けれど彼女はマスキュラーとは違うと思った。彼は生きやすさとか関係なく、弱肉強食の世界で弱者を甚振るのが楽しくて楽しくて、そうして嬲り殺して嗤っている男だったから。
トガの好みがボロボロで血塗れな人だというのは、共感は出来ずとも「そういう趣味なのだろう」と理解はできる。しかしどうしても理解できないのは「ステインを殺してステインになる」という言葉だった。
好きな人や大切な人の意識が自分以外に向かないよう殺したいと考える人は、悲しいことに一定数存在する。身勝手な独占欲で相手を支配し、傷付けて殺害してしまうケースだってある。
けれど殺したその人になりたい、というケースはあまり聞かない。──食人とか宗教とか、そういった類だろうか?
何であろうとヴィランはヴィランだ。彼らは罪を犯し、罰を受けずに逃げる犯罪者だ。
けれど生まれた時からヴィランではないと操は知っている。ヴィランにも大切な誰かがいて、大切に思ってくれる誰かが一人や二人はいるだろうと願っている。
どうして彼らがヴィランになろうと思ったのか、ヴィランに変貌せざるを得なかったのか紐解きたかった。繰り返さないためにも、知るべきだと思った。
だから操は真っ先に感じた疑問を解くため、ゆっくりと口を開く。
「好きだったら、
「──……」
そう告げた途端、彼女は先程と一変し真顔になってしまった。
口角は上がったままだ。大きな口からは八重歯が見え、目つきだって変わっていない。けれど確かに纏う空気が先程と変わったことに気付いたから、操は納得したのだ。
それは複雑に絡まった一つの紐が、解けた瞬間だった。
「……そうか、それがお前にとっての
俄に信じ難いが、彼女は本当に血塗れでボロボロな人が好きらしい。好きな人を傷付けて悦ぶのではなく、血塗れでボロボロな人が好きなのだ。
相手のルックスや性格、どんな会話をして自分と関わってきたかを重視するのではなく、血塗れでボロボロであれば好きになってしまう。それが彼女にとって当たり前で、"普通"なのだろう。
大切なのは自分の趣味嗜好より、倫理観だ。
それでも彼女は"そういうもの"として生まれてしまった。普通に過ごせないこの世界は苦しくて、だからこそ生きづらいと口にして、世界を変えようとしたステインに憧れを抱いたのだろう。
「……そうなの、うん、そうなんです」
再び操に手を伸ばしたトガは左手首の古傷をつつ、となぞる。深く刻まれ血が滲んでいない自傷跡を、何度も何度も指の腹でなぞっていく。
こてんと首を傾げると、彼女のお団子から飛び出した毛先が一緒に揺れた。深い闇が渦巻く瞳は、操を捉えて離さない。
「操ちゃんは、私と同じ? 大好きなステ様のこと、たくさん殴ってましたもんね」
「……あれはただの兄妹喧嘩だ。好きだから傷付けたわけじゃなくて、向き合うために殴ったんだよ」
「……んん? よくわかりません」
「私は好きな人には笑ってほしいし、側にいて欲しい。それが私にとっての普通だよ」
「……」
普通は人によって異なる。それでも人は集団で生きているからこそ他者を思いやって尊重し、助け合って生きていかなければならない。
相手の都合や気持ちを考えない
"多様性を認め合う"ことはあくまで法律を守り、他者を害さない上で行われることだ。全ての人間の"普通"を認め、受け入れる言葉ではない。
「じゃあ、なんで私は普通のことをしたらいけないんですか?」
「──!」
でもその考えは彼女にとって「私たちの"普通"を押し付けただけ」だと気付き、操は思わず息を呑んだ。
──この少女は純粋な好意で人を傷つける、だってそれが彼女にとっての普通だから。
そういった"普通"を持つ人は我慢して生きていかなければならないのだろうか。自分の"普通"を守るために戦わなければならないのだろうか。彼女はそのために、ヴィランになったのだろうか。
罪は罪だ。彼女の"普通"を許せば、口実さえあれば何でも許されると思われてしまう。
けれど一般常識と反した"普通"を持って生まれた少数の人間を「悪」だと攻撃しているのは、似ている"普通"を持って生まれた多数の私たちだ。
──わからなかった。ヴィランを捕まえ彼らの未来を導くヒーローになりたいと思っていたけれど、操は目の前の少女が幸せになる方法がわからなかった。
「そうよねぇ、趣味嗜好は人それぞれでみんな違ってみんな良いって? うふふ、反吐が出るほど綺麗事! 結局は
「……お前は、」
「やだぁ、睨まないでよ。飼い猫ちゃんには怪我させたけど、私も妹ちゃんに攻撃されたしどっちもどっちじゃない」
「……それと一緒にしてほしくないな」
「アハハ。 ヴィランがヒーローを攻撃するのは"悪"だけど、ヒーローがヴィランを攻撃するのは"正しい"って? ……そうやって上から目線で正論吐き捨てて、
「……」
操を見下ろすサングラスの男の瞳は隠されていてわからない。ただ鋭い雰囲気が彼の感情を教えてくれたので、操はこれ以上刺激しないように口を噤む。
──いいや、違う。
彼の言葉に反論できなかったから、口を閉じるしかなかったんだ。
「ヒーローにとって
「私たちがどうしてヴィランになったのか、お高く止まった貴方たちには理解できないでしょうね。まァ、理解しようとも思わないんでしょうけど」
「経緯なんて関係なく、
「簡単だろ? いや簡単じゃねえよ!」
「ねぇ、操ちゃんはどうして"そっち"にいるんですか?」
「──そうだ、この際妹ちゃんもヴィランになっちゃいましょうよ。貴方を否定し、貴方を認めない人たちを、貴方が命をかけて守る価値があるのかしら?」
たとえ血中のエネルギーを増やしたとしても、思考を回して処理能力を上げたとしても、それらは飢えという強敵には敵わない。正常な判断がまともに出来ない中、操の脳裏には数ヶ月前の出来事が鮮明に蘇った。
ポストの蓋が閉まらないほど溢れかえった手紙。
ドアの落書きと「出ていけヴィラン」「人殺し」の貼り紙。
鋏が刺さったままの、ズタズタに引き裂かれた猫のぬいぐるみ。
一足先に屋上から落ちていった、母親の影。
嗤って操の心を傷付ける、名前も知らない赤の他人。
声にならない痛みは、確かに操の中にあった。嫌な記憶ほどずっと心に染みついて簡単に消えることはない。何かあるとすぐに顔を出して、心に負の感情を撒き散らして操を嘲笑う。
そして問うのだ、「このままでいいのか」と。
「……私は、」
「ごちゃごちゃうるせェな……ちったぁ静かに出来ねえんかクソカス連合!」
ヴィランに囲まれて数多くの視線を浴びながら操が口を開けば、背後から一際苛立った声が飛んできた。振り返るとそこには椅子に座らされたまま眉を顰めた爆豪がいる。
操と同じようで違う色をした赤い瞳が、鋭さを増して此方を射抜いていた。それはまるで「それ以上喋るな」と言っているようで、操は思わず口角を上げる。
心配せずとも、こんな問答で揺らぐほど操の信念は脆くない。
「──なァ、
しかし操がそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。何故なら先程までずっと黙っていた男が、操より先に口を開いたからだ。
その声を聞いた途端、身体の芯から冷えるような顫動が全身を駆け巡った。ゆっくり視線を移すと、一人の男が操をまっすぐ見つめている。
自身の個性で焼け爛れたのか、ケロイド質で覆われた全身の皮膚を金属で"無理やり"繋ぎ止めているその身体は見るに耐えず、異様で異質だった。操はまだ医者として未熟もいいところだが、それでも何故彼がその身体で生きていられるのか不思議で仕方がなかった。そして何故操を下の名前で呼ぶのか全くもって意味がわからなかった。
彼の瞳の奥では今も蒼炎が燃え盛っている。
「お前は轟焦凍と仲が良いのか?」
──質問の意図を考えろ。
対象が焦凍に限定されている時点で操に関しての興味ではなく、焦凍に関しての質問だ。仲が良いと答えれば、焦凍にとって不利な情報が引き出されてしまうかもしれない。
それともトガがステインを好んでいるように、この男は焦凍の──もしくはエンデヴァーのファンなのだろうか。そうだとしても"仲が良い"と告げる必要性は皆無だろう。
「
「そうか、そりゃ
「……」
操が平静を装って答えれば、男は深追いをすることなくあっさりと引き下がった。その表情は読み取れず、声色からも全く残念そうには見えない。
ただ興味を無くしたように視線を逸らされるとそれまで全身を駆け巡っていた不気味な何かがふっと消え去ったから、操は誰にもわからない程小さく息を吐く。
操だけに聞いた轟に関する問い。これには必ず理由がある筈だと思い、操は彼の吐き出した言葉を一言一句脳に刻みつけるように記憶していった。
「おや、どうやら全員いるようですね」
「「!」」
しかし何もなかった空間に黒い霧が現れたことで、ヴィランとの問答は強制的に終わりを告げた。
部屋にいたヴィランの視線は一瞬にしてこの場に現れた仲間に向く。その隙を突いて操はトガの手を振り払い、一歩後方へ下がった。言わずもがな、爆豪との距離を埋めるためだった。
至る所に手を付けた男──死柄木弔──は操と爆豪、そして仲間のヴィランたちを一瞥するとゆったりとした動きでカウンター席に腰掛ける。そして身体を爆豪へ向けると、初めて
「早速だが……ヒーロー志望の爆豪勝己くん。俺の仲間にならないか?」
「……!」
「寝言は寝て死ね」
「……オイ、こいつ本当にヒーロー志望か?」
「だから勧誘してんだろ……まァ、先に面白いもんでも観ようか」
──ヴィラン連合の目的は、爆豪を仲間にすることだったのか……!
誘拐された目的を知って操は思わず息を呑むが、間髪を容れずに暴言を吐いた爆豪に少しだけ安心して止めていた呼吸を再開する。
少なくともヴィランたちに爆豪を殺す意志はない。操はここに来た当初「殺せ」と言われていた気がするが、現時点で生かされている事から何かしら利用価値はあるのだろう。なら、まだ勝機はある。
じり、と少しだけ後方に下がれば何人かの視線が操に注がれる。そんな緊迫した空気の中、黒霧は側にあったテレビの電源を入れた。
《──では先程行われた雄英高校謝罪会見の一部をご覧ください》
そして操と爆豪は、その画面に釘付けになってしまった。
そこにはボサボサの髪をきっちりとまとめて髭を剃り、スーツを着て深々と頭を下げている相澤がいたからだ。その横には同じように頭を下げるブラドキングと、根津校長の姿もある。
彼らが数秒間頭を下げている中、まるで見せ物かのように数多くのフラッシュが焚かれていた。それはこれから追い詰める罪人を逃してなるものかとデータに焼き付けているようにも見える。ご丁寧に画面の上部には「フラッシュの点滅にご注意ください」の文字が映し出されていた。
《この度、我々の不備からヒーロー科一年生28名に被害が及んでしまった事、ヒーロー育成の場でありながら敵意への防衛を怠り社会に不安を与えた事を、謹んでお詫び申し上げます。まことに申し訳ございませんでした》
《NHAです。雄英高校は今年に入って4回生徒がヴィランと接触していますが、今回生徒に被害が出るまで各ご家庭にはどのような説明をされていたのか、又具体的にどのような対策を行っていたのかお聞かせください》
《はい。まずは周辺地域の警備強化、校内の防犯システムの再検討。強い姿勢で生徒の安全を保証する……と説明しておりました》
《……説明した、では済みませんよね? 現に守れていません。その事については──》
「不思議なもんだよなぁ……何故
それを見た死柄木はわざとらしく両腕を広げ、不思議そうに疑問を口にした。しかしその言動は形だけで、声色からは愉快で仕方ないのだと読み取れる。見ている此方からすると非常に不愉快であった。
マスコミが事件の報道をするのは、被害者の悲しみや事件の全貌を社会と共有する事で"他人事"にせず、再発防止に向けた議論を促すため──だと操は思っている。
しかし経験談から言わせてもらうと、マスコミが行っているのは競争意識に駆られた報道合戦を繰り広げているだけだ。そこに被害者や加害者に対する配慮はなく、尊厳を簡単に踏み躙り、いつだって心無い言葉が飛び交っている。
「奴らは少し対応がズレていただけだ! 守るのが仕事だから? 誰にだってミスの一つや二つある!現代ヒーローってのは堅苦しいなァ……爆豪くんよ」
誘拐された生徒がいる時点でプロヒーローが在籍する雄英高校が謝罪会見を開くのは仕方のない事だろう。
しかし操と爆豪はまだ保護されておらず、本人を含め事件に関わった人々はみな不安と恐怖のどん底にいるというのに。そんな人たちを置き去りにし、マスコミはヴィランではなく失態を犯したヒーローを責め立てている。
──そんな事よりやることがあるだろう。操は奥歯を噛み締め、ぐっと握り拳に力を入れた。マスコミに対して抱いていた嫌悪感が、ここぞとばかりに膨張していく。
「守るという行為に対価が発生した時点でヒーローはヒーローでなくなった。これがステインの教示!」
「人の命を金や自己顕示に変換する異様さ。それをルールでギチギチと守る社会。敗北者を励ますどころか責め立てる国民!」
確かに、操は酷いヒーローに出会ったことがある。話題性がないからと見捨てられ、ゴミのように見下されたことがある。
だけどそんなヒーローは一部だし、ヒーローだって人間だと操は知っている。
命を懸けて戦うことはボランティアじゃ務まらない。戦うために身体を作り、生気を養い、コスチュームを揃えるためにはどうしてもお金が必要になってくる。
ただ国民はヒーローに対して異常な期待と信頼を寄せ過ぎているのだ。ヒーローがなんでも解決してくれると、それが当たり前の社会なのだと他人事に捉えすぎている節がある。
「俺たちの戦いは"問い"だ。ヒーローとは、正義とは何か。この社会が本当に正しいのかを一人一人に考えてもらう!俺たちは勝つつもりだ。──君も勝つのは好きだろ?」
死柄木はそこまでいうと鍵を取り出した。そしてそれを火傷の男──荼毘──に投げて渡すと「拘束を外せ」と言葉を続ける。
荼毘は鍵を片手に爆豪を見つめると、ゆっくりと死柄木に視線を戻した。
「は? 暴れるぞこいつ」
「いいんだよ。対等に扱わなきゃな、スカウトだもの……それに、この状況で暴れて勝てるかどうかわからないような男じゃないだろ?雄英生」
「……トゥワイス、外せ」
「はァ俺!? 嫌だし!」
荼毘がタイツの男──トゥワイス──に鍵を渡すと、彼は文句を言いながらも爆豪の足元に膝をついて拘束具に触れる。操はサングラスの男に視線で牽制されながら、爆豪の拘束が外されるのを今か今かと待っていた。
──この状況で暴れて勝てるかどうかわからないような男じゃないだろ?
爆豪はヴィランにそう言われていたが、操は確信していた。爆豪は操と同じで「勝てるかわからないから大人しくしているのではなく、勝つために暴れる男」だと。
「強引な手段だったのは謝るよ……けどな我々は悪事と呼ばれる行為に勤しむただの暴徒じゃねえのをわかってくれ、君を攫ったのは偶々じゃねえ。ここにいる者は事情は違えど人に、そしてルールに、ヒーローに縛られ苦しんだ。君ならそれを──」
仮面のヴィラン──コンプレス──の言葉が最後まで紡がれることはなかった。何故ならば、拘束を解かれた爆豪は何の躊躇いもなく死柄木に向かって個性を使用したからだ。
耳を劈く爆音と煙の臭いが部屋の中に立ち込める。死柄木の顔についていた手が爆風に攫われ、べしゃりと音を立てて地面に転がった。
──近付いたからわかったが、あれは
操は知りたくなかった事実に気が付いてしまい、息を吸い込むのを忘れるくらいの衝撃を受けた。あまりの悍ましさに全身から冷たい汗が噴き出して、それは身体と心を冷やしていく。
床に落ちた手から距離を取るよう一歩、二本と下がればいつの間にか隣にいた爆豪が一歩前へ出た。
「黙って聞いてりゃダラッダラよぉ……!馬鹿は要約出来ねぇから話が長ぇ!要は"嫌がらせしたいから仲間になってください"だろ!?──無駄だよ。俺はオールマイトが勝つ姿に憧れた。誰が何言ってこようが、そこはもう曲がらねぇ!」
予想に反した動きをする爆豪に静まり返る室内だったが、一部のヴィランは戦闘態勢に入るべく腰を落とした。両者の睨み合いが火花を散らし、この場を戦場に塗り変えようとしていく。そんな張り詰めた空気の中、テレビの中にいる人々は空気を読まずに喋り続けていた。
操は相澤の言葉の途中で、死柄木が「お父さん」と呟いたように聞こえた。
《生徒の安全……と仰ってますが、イレイザーヘッドさんは事件の最中生徒に戦うよう促したそうですね。その意図をお聞かせください》
《私共が状況を把握出来なかった為、最悪の事態を避けるべくそう判断しました》
《最悪の事態とは? 26名もの被害者と2名の拉致は最悪と言えませんか?》
《……私があの場で想定した"最悪"とは、生徒がなす術なく殺害される事でした》
操はそこで初めて死者がいない事を知り安堵する。そして呼吸をしながら、緊張感を高めていった。
攫われたのはここにいる二人とラグドールだけだ。ラグドールの行方は追えないが、一先ず爆豪と二人で逃げれば"勝ち"が確定する。そう判断して、血液を全身に巡らせていつでも動けるように準備を進めていく。
《被害の大半を占めたガス攻撃は敵の個性から催眠ガスの類だと判明しております。拳藤さんや鉄哲くんの迅速な対応のおかげで全員命に別状はなく、また生徒らのメンタルケアも行っておりますが深刻な心的外傷などは今のところ見つけられません》
《それが不幸中の幸いとでも?》
《未来を侵されることが"最悪"だと考えております》
《攫われた爆豪くんと赤黒さんについても同じ事が言えますか?》
爆豪勝己。
雄英高校体育祭一年の部で優勝し、中学生の頃ヘドロ事件の被害者になった少年。彼はその事件で強力なヴィランに単身で抵抗を続け、経歴こそタフなヒーロー性を感じさせる。
しかしその反面体育祭の決勝で見せた粗暴さや表彰式に至るまでの態度を鑑みると、精神面の不安定さが見受けられるのも事実だった。
《もしそこに目をつけた上での拉致だとしたら? 言葉巧みに彼を勾引わし悪の道に染まってしまっていたら? まずは彼の未来があるという根拠を、お聞かせください》
クラスメイトですらヴィランみたいだと口にする彼の言動を、体育祭しか目にしていない人々が「彼はオールマイトのような立派なヒーローになるぞ!」と判断することはないだろう。
記者の言葉は攻撃的で、挑発的だった。必死になって出ている杭を探しているようにも見える。そんな中、テレビの中にいる相澤は言葉より先に頭を下げた。どれだけフラッシュが焚かれていても、彼がその姿勢を崩すことはなかった。
《行動については私の不徳の致すところです。ただ……体育祭でのそれらは彼の"理想の強さ"に起因しています。誰よりもトップヒーローを追い求め、もがいている。あれを見て"隙"と捉えたのならヴィランは浅はかであると私は考えております》
《……根拠になっておりませんが? 感情の問題ではなく具体策が──》
「ハッ、言ってくれるな先生も……そういうこったクソカス連合!言っておくが俺ァまだ戦闘許可解けてねえぞ!」
厳しい言葉にも屈さずはっきりと言い切った相澤の言葉は、二人にとって追い風となった。爆豪は両手を構え、戦闘態勢をとってヴィランに対峙する。操もその横でヴィランを見据えた。
操は爆豪に比べて傷が多くヴィランにとって利用価値は低い。ヴィランは7人もいる上に判明している個性はどれも強く、決して油断はできない。けれど簡単に負けるつもりはないから敢えて口角を上げて笑ってみせたのだ。
「ヴィランは7人か……4人と3人、勝己はどっちがいい?」
「舐めんな、 7人まとめて俺がぶっ殺したるわ!」
「じゃあどっちが早く7人倒すか勝負だな……!」
「自分の立場……よくわかっているわね!小賢しい子!」
「刺しましょう!」
「いや……馬鹿だろ」
「その気がねえんなら懐柔されたフリでもしときゃいいものを……やっちまったな」
「したくねぇモンは嘘でもしねえんだよ俺ァ。こんな辛気くせーとこ長居する気もねえ」
「……手を出すなよお前ら、こいつは大切なコマだ」
同じく戦闘態勢をとった仲間に死柄木は睨みを効かせて手で制す。そして床に落ちた"誰か"の手のひらを拾うと、それをまた顔面にくっ付けて操に向き合った。
彼は面倒臭そうに頭をがしがしと掻いて、気だるげな雰囲気を醸し出している。それでもこの男が相澤の腕を破壊したヴィランだと知っているから、操は彼の一挙一動を見逃さないように注視した。
「ついでにオマケにも聞いてやるよ。俺の仲間になる気はないか?」
「!?」
「ステインみたいに根本的に合わない奴ならムカつくからさっさと殺しちまいたいが……お前にも一応利用価値はあるからな、ステインの妹」
「……利用価値?」
「操ちゃん、一緒にヴィランやろうよ!ステ様になって世界を変えよう!」
「俺は賛成! やっぱり反対だ!」
「俺は反対だ!奴を生かすことはステインの信念に反し、意志に背くことになる。誰が何と言おうと奴には引導を渡すと決めている!」
「でも"ステインの妹"なんて肩書き、ヒーローとして生きづらいだろう?それに、ほら──」
ヴィランが指差すテレビの中では、記者が操について質問をしているところであった。
──赤黒操も爆豪勝己と同じく体育祭では粗暴な言動が目立ち、そして彼女は"ヴィランの妹"である。凶悪ヴィランであるヒーロー殺しステインと数年間共に暮らし、その境遇から悪に染まっていても全く不思議ではない。
何より、対策した合宿先をヴィランが突き止めたのは何故か。
《ヴィランが雄英高校の強固な防犯システムを掻い潜り、保護者にさえ秘匿にしていた合宿先を突き止めたのは"彼女がヴィランと繋がっている"からだと考えた事はないのでしょうか?》
「……な、」
《雄英高校の生徒やその保護者の中には彼女が在籍している事に不安や疑問を抱く者も数多くいる筈です。その事についてどのように考えているのか、お聞かせください》
──私が内通者だと思われている……?
記者の言葉にドクリと心臓が脈打った。喉が乾いて飢えが思考を支配して、それなのに汗ばかり噴き出してとても気持ちが悪かった。
記者の冷酷な視線は相澤に向いているはずなのに、カメラ目線のそれは操に向けられているようで
ポストの蓋が閉まらないほど溢れかえった手紙。
ドアの落書きと「出ていけヴィラン」「人殺し」の貼り紙。
鋏が刺さったままの、ズタズタに引き裂かれた猫のぬいぐるみ。
一足先に屋上から落ちていった、母親の影。
嗤って操の心を傷付ける、名前も知らない赤の他人。
刃物のような鋭い視線が操を射抜く度、冷たく厳しい言葉をかけられる度、心がとても痛かった。人々から避けるよう隠れて生活する度、まるで自分までヴィランになったかのようでとても惨めな気持ちになった。
「……可哀想だよなぁ、ヴィランの妹ってだけで犯人扱いだ。お前は俺たちと何も関係ないのになァ?」
──違う、私じゃない……!
合宿先をヴィランに伝えて生徒たちを危険に追いやったのも、ピクシーボブが怪我をしたのも、ラグドールや爆豪が連れ去られたのも、操は何も関わっていない。
操は幼い頃兄の犯行を見て見ぬ振りをした。だからそれに対して責められるのは仕方ないと受け入れたけれど、内通者だなんて、これはあんまりじゃないか……!
操は今になって、麻痺していた傷の痛みに顔を歪めた。火傷した首も強く打ち付けた背中も腹部も、痛くて痛くて仕方がなかった。
「どうやら奴らにとってお前は
テレビ画面に釘付けになる操を見て、死柄木はほくそ笑んだ。
偏見は誰にだってある。人が人を殺す非日常に対して人々が恐怖を抱くのは正常な判断だ。けれど加害者家族も等しく犯罪者だというその偏見は、彼らをより追い込み人殺しの道を歩ませると知っている。
あとは簡単だ。傷付き弱った人に刺さった棘を優しく抜いてやればいい。そうしながら「お前を傷付けたのはあいつだ」「辛かったよなぁ、憎いよな?」「なら一緒に戦おう」と手を差し伸べる。そうやって寄り添う姿勢を見せればいいと先生は言っていた。
死柄木弔はヒーロー殺しステインが嫌いだ。けれどその妹である赤黒操をヴィランに引き込めば「やっぱりヴィランの家族はヴィランになる」といった"偏見"を植え付けることが出来る上に、ヒーロー社会に亀裂を入れられる。
オマケとして偶々手のひらに転がり込んできたコマは、思った以上に美味しい存在だったのだ。
「ヒーローになったら奴らも守らなきゃいけない。どんなに人を助けてもお前の努力は報われないまま、奴らはお前を──」
「断る」
「何度だって非難し──……あ?」
「自分が質問した内容をもう忘れてしまったのか? ヴィランになるのを断ると言ったんだ」
操はテレビ画面から視線を外して真っ直ぐ死柄木を見つめた。指の隙間からギラつくその視線を受け止めながら、同じように鋭い眼差しで彼を射抜く。
操は両親や兄のような身勝手で自己中心的な人間には絶対になりたくなかった。そして自分の価値観で善悪を判断し、断罪することは正義ごっこの末の暴力にしかならないと
「……ステインの妹って肩書きは、正直息苦しいよ。でも、」
ここから日常に戻れば次は「内通者」や「ヴィランに加担した」と責められるかもしれない。それは想像を絶するほど苦しい未来だろう。もしかしたら足が震えて、歩けなくなってしまうかもしれない。
──でも、操は知っている。
立ち止まって下を向いた時、「帰っておいで」と言ってくれる人がいる。
打ちのめされて苦しんだ時、「守ってあげる」と抱きしめてくれる人がいる。
今後操が転んで倒れた時は、「真っ先に駆けつける」と約束してくれた人がいる。
「それを背負うと決めたのは、他でもない"私"だ」
操がヴィランにならなかったのは奇跡だ。
あの時ワイプシの四人が操を保護すると決めなかったら今頃彼らの仲間としてこの場にいたかもしれない。操が犯行に至らなかったのは側で助けてくれる人が数多く存在した事と、誰かの役に立つ事の喜びを相澤が教えてくれたからだ。
この世界は辛くて厳しいだけじゃないと操は誰よりも知っている。だからたとえ犯人扱いされようと、その時は誰かが助けてくれると信じているから何も問題はない。
《彼女はヴィランではありません。しかし言動については私の不徳の致すところであり、在籍する生徒やその保護者の方々を不安な気持ちにさせるのも、我々雄英高校に勤務するヒーローの責任です。申し訳ございませんでした》
つけっぱなしのテレビから、淡々とした相澤の声が聞こえる。
もしかしたらクラスメイトや相澤に内通者だと思われているかもしれない。けれどそんな恐怖に負けないくらい、操は大切な彼らを裏切りたくないと思っている。
この先の未来、努力しても努力しても社会から蔑まされ拒絶され、報われず、日々の生活さえままならないかもしれない。
それでもヒーローになると決めたのは自分だから。自分が自分であるために、操はヒーローを目指すのだ。
《ただ……彼女は誰に何と言われようと、やると決めた事は必ずやり遂げます。彼女は必ずヒーローになる。悪の道に染まる筈がありません》
──……でもさ、やっぱり。
信じてもらえるのは嬉しいよ、相澤先生。
《赤黒操はそういう人間だと、彼女と関わったヒーローは私を含めそう認識しております》
──私はその言葉だけで、報われる。
もうテレビからは何も聞こえなかった。記者がまだ何かを言っていたが、操にとってはどうでもよかったのだ。
不思議と痛みを感じなくなった身体で、正面から死柄木に対峙する。血液を回していつでも戦えるように、全身を強化していく。
「……成程なァ。 かっこいいぜ、イレイザーヘッド」
死柄木の表情は全く読み取れない。ただ先程より声色が幾分冷たくなったのは誰が聞いてもわかるだろう。だから操は彼を視界に収めながらも徐々に視野を広げて、ヴィラン全員を視界に収めていく。
──少しでも隙を見せたら動こう、きっと爆豪なら上手く合わせてくれる筈だ。そう思って集中力を極限まで高めていく。
「出来れば少し耳を傾けて欲しかったな……わかり合えると思っていた。けど、わかり合えないなら"わかって貰う"しかないよな?」
「……ハッ、んなモンねえよ」
「同じく。何度話そうと平行線のままだが、諦めた方がいいんじゃないか?」
操と爆豪はまだ余裕のある死柄木に警戒しながら隙を窺っていた。けれどそんな二人の心境などお見通しであるヴィランたちは隙を見せまいと視線で牽制している。
いつ燃えてもおかしくない導火線はこの部屋の空気として張り詰めたまま、ずっと鎮座していた。
「ステイン妹。もう一度聞こう、俺の仲間にならないか?」
「何度も言わせるな、断る」
「あー……なんだっけ、ラグドールだったか。じゃあお前がヴィランにならないならそいつを殺す事にしよう」
「な、……!?」
「さて、どうするヒーロー。お前の選択次第で一つの命が救えるぜ?」
死柄木の言葉に、操は一気に背筋が寒くなるのを覚えた。寒いはずなのに額には汗が浮かび上がり、その言葉を何度も咀嚼すると言い知れぬ不安が脳を埋め尽くしていく。
──こいつ、脅してきやがった……!
ニタニタと笑う男を前に、逃げ出そうなんて余裕はすっかり無くなってしまった。
ラグドール──知床知子は、操にとって大切な人だ。彼女は笑うことができなかった操に喜びの感情をくれた人であり、赤の他人にも拘らず深い慈しみを注いでくれた人。大好きで大切で、守りたい人と思う人だった。
二年のたった短い時間しか共に過ごしていないけれど、それは操にとってはかけがえのない時間だった。彼女たち四人と過ごした時は操にとってキラキラとした宝物であり、絶対に失いたくないもの。──でもそれ以上に、汚したくないと思うもの。
「……私は、お前みたいなタイプが、一番嫌いだ……!」
「それは結構な事だなァ。で、どうする?」
「──断る」
「……へぇ? あの女を見殺しにするのか!?それが本当にヒーローのやる事かよ! ハハ、ハハハハ!」
死柄木の笑い声を浴びながら、操はぐっと奥歯を噛み締めた。
──こんな言葉、冗談でも言いたくなかった。
吐きそうだ。泣きそうだ。それでも操は奥歯を噛み締めて、それをなんとか堪えてみせた。心は血だらけで苦しいけれど、それを悟られるな、決して弱みを見せるなと自身に言い聞かせる。
ヒーローはヴィランに屈してはならないと操に教えてくれたのは彼女たちワイプシだ。それなのに「ラグドールを救う為にヴィランになりました」なんて、そんなものは美談にすらならない。そんなの、戦いを放棄しただけだ。
操は自身をここまで導いてくれた光を汚したくなかった。戦い方を教えてくれた彼女に泥を塗りたくなかった。だから目の前の男には絶対に屈したくなかった。
死柄木は何が面白いのか、腹を抱えながら笑っている。操はそれを黙って聞きながら視線を左右に走らせた。
操が今すぐ実行しなければならないのは"この場から離脱してラグドールを探す事"だ。この問答は彼女がこの場にいないことが唯一の救いだったのだ、だから早く彼女を救けに行かないと──。
今にも動き出しそうな操に気付いた死柄木は笑いを堪えながら、必死に言葉を紡ごうとする。
「残念な事に、契約は決裂しちまったなァ……」
「……それが残念に思っている顔か?」
「ハハ、思ってるよ。なァ、黒霧……
「承知しました」
「……な、にを──」
黒霧の個性が霧散し集約するのを見ていると、酷い胸騒ぎがしたのを今でも覚えている。操はその頃から漠然とした恐怖を感じていたけれど──既に手遅れだった。
集結した暗闇から現れたのは衣服を身に纏っていないラグドールだった。
全身ずぶ濡れの彼女はその場に力無く膝をつくと、糸の切れた操り人形のように地面に沈む。その瞳は虚で、何も映していなかった。
死柄木がラグドールに手を伸ばすより先に操はその場を飛び出した。躊躇いなく個性を使って腕を伸ばすが、何故か壁際に引き寄せられラグドールから遠ざかっていく。
言葉にならない叫びを上げた。それでも死柄木は止まらなくて、その手は彼女の頭に触れる。
その瞬間、何も映していなかった瞳が操を捉え、小さく微笑んだような気がした。
「待っ──」
「──待たねえよ!」
それは一瞬の出来事だった。
全身に罅が入ったかと思うと彼女はそこから砂のように崩れ落ちていく。身体を形成していたはずの血肉は影すら見せず、等しく塵となり、崩壊していく。
その場に残されたのは、跡を留めていない砂の山だけだった。
「…………え……あ、?」
「あーあ、死んじまったなァ」
一歩足を踏み出せば、ふらりと身体は傾いた。けれど操は覚束ない足取りで駆け寄ると、その場に迷わず膝をつく。
指の間をすり抜けてサラサラと落ちていく彼女は、彼女だったものは、次第にドロドロと崩れて操の手のひらの中で消えていった。
跡形もなく消えて、まるで夢のようで、でも夢でないことは操がよくわかっている。嫌でも、理解してしまった。
「あ、 あああ、あ……」
脳裏に浮かんだのは楽しそうに嗤う死柄木の姿。そして彼が操に提示した二つの選択肢だった。
『あー……なんだっけ、ラグドールだったか。お前がヴィランにならないならそいつを殺す事にしよう』
「あ、」
『さて、どうするヒーロー。お前の選択次第で一つの命が救えるぜ?』
「う、あ……ああ……」
それに私は、何と答えたっけ?
「──、」
ラグドールが、死んだ?
誰のせいで? 私の、私のせいで──?
「あ、ああ、」
「──あああああああああああ!!!!」
操はその場に蹲って頭を抱えた。
慟哭が喉を引き裂いて、心のままに雄叫びをあげていた。そうでもしていないと心がバラバラに崩れ落ちて壊れてしまいそうだったから、そうするしかなかったのだ。
──いや、それはもう手遅れかもしれない。
部屋の中は荒れ狂う獣の叫びと勝ち誇った高笑いが充満していた。激しい慟哭が鋭く耳を破ろうとするが、死柄木は構う事なく操に近付いていく。
「オイ……立て赤黒……!」
爆豪の言葉はかき消され、操に届くことはなかった。
ゆらりと歩み寄る死柄木は冷たい手を伸ばすとそのまま操の首を掴む。震え続ける喉の感覚に口元を歪めながら爆豪に向き直れば、そこには全身汗だくの彼がいた。
死柄木はそれにニヤニヤと笑みを浮かべ、選択肢を与えるのだ。
「次はお前の番だ、選べよ爆豪くん。──ヴィランになるか、こいつを見殺しにするか」
「……、頭イカれとんのか?」
「無駄口を叩く暇があると思ってるのか?」
──ごめんなさい、ごめんなさい。
救けるつもりでいたんです、本当は死んでほしくなかったんですこんなつもりじゃなかったんです。
強くなければ戦えない、勝てないと自覚したあの日から私は何も変わっていないとよく実感しました。強くなったつもりでいました、努力しているつもりでいました。終わりのない
ラグドールに手は届かなかったじゃないか!
この場にいないからと安心していた、ヴィランの脅し文句だと決めつけていた。どうして? どうしてそう思ったの? なんでそう思ったの? どうして最悪の可能性を考慮して発言できなかったの!?
遅いよ、遅すぎる。失ってからそれを気付くなんて遅すぎる。
「殺してヒーローになるか、救けてヴィランになるか……さっさと選べよ。選択次第ではどうなるか、よくわかってるだろ?」
「……クソが……!」
──許さない、許さない、許さない!
ラグドールが死んだのはお前のせいだ!お前らヴィランのせいだ!! そう叫んで喚き散らしたかったけれど、手の中に残る砂の感触が「それは違う」と告げてくる。
ああ、そうだよ。一番許してはならないのは私自身だ。私の甘さが原因だ。ヴィランに責任転嫁して、怒りをぶつけている私が一番悪いんだ!
悔しい、悔しい、悔しい、悔しい!死なせたくなかった、死んでほしくなかった。こんな結末は望んでいなかった。何が何でも救けたかった!
けれど嘆いたところで
『いいか、操』
怒りと悲しみ、罪悪感の濁流に飲み込まれる中で誰かの声が聞こえた気がした。
その途端、操は現実に引き戻される。切り離されていた感情と身体が癒着して、現在の状況を操に無理やり伝えてくるのだ。
死柄木の手はいつの間にか操の首を掴んでいる。指を一本浮かせて、いつても壊せるようにそこにあった。
『ヒーローになるなら、必ず本物になれ』
戦えと焚き付けるのは誰だ、戦わなければ勝てないと頭の中で囁くのは誰だ。
それは最早一種の強迫であった。
操を一生縛り付ける、約束という名の呪いだった。それでも操はその呪いに何度も助けられてきた。何度も、奮い立たされてきた。
『道を違えてみろ、他の贋作共々貴様も粛清対象とする』
「──ぅ、あ、ああああああ!!」
その瞬間、意地悪く嗤っていた死柄木の表情が急に強張った。
真っ赤な花が咲き誇る。
操の首から、死柄木の手を貫通して真っ赤な花が咲いている。
「──ッ!?」
死柄木は慌てて距離を取るが、その手のひらは既に刃物が貫通していた。逆の手でそれを破壊しても、パックリと裂けた肉からは血が滴るばかりだった。刺すような、そして焼けるような激しい痛みが己に襲いかかるだけだった。
操は俯きながらゆらりと立ち上がる。もう何もない手のひらを握りしめて、己の足で立ち上がる。
部屋の中に満ちていた叫びと笑いは、跡形もなく消えていた。
「はぁ……はっ……」
どんなに慟哭に堕ちようが、何とか理性を保つ努力をする。冷静でいろと己に言い聞かせる。しかし抑えきれない鋭さで操は死柄木を貫いた。その瞳の奥には真っ赤な血液が燃えたぎっている。
驚くことにその首からは刃物が飛び出していて、死柄木はそれが自身の手を貫いたのだと気が付いた。そして"操が体内で刃物を作り、自らの肉を貫いて自身に傷を負わせた"のだと理解した。
「…………知ってるか? 首には太い血管と重要な神経が集まっているが、そこを避ければ大した事はないんだ」
「……ハハ、イカれてんじゃねぇのこいつ」
「残念ながら正気を取り戻したばかりだ……!」
その言葉が紡がれるや否や、操の体内から大量の刃物が飛び出した。首、腕、手首、腹部、背中──様々な部位から飛び出した刃物は鞭のようにしなり、蠢き、彼らに襲い掛かっていく。
血管から体内の肉を突き破って刃物が飛び出している筈なのに操は一滴も血を流していなかった。ただ噎せ返るような血の臭いだけが辺りに立ち込め、鼻腔を刺激する。
操の身体に咲き誇る無数の花は想いを無駄にするものであった。それはまるで咲いても実を結ばない無駄な花──徒花のようであった。
「……ヴィランの妹だから、簡単に折れると思ったか?」
自傷をしないように、おまじない。
彼女たちワイプシはそう言って操にレザーのバングルをくれた。自傷を続け癒えぬ傷痕となった手首を隠して、その上から再び傷をつけないようにと願いを込めた。
それを操の手首に巻いたのはラグドールだった。
「私の大切な人を殺せば! ヴィランに屈するとでも思ったか!!」
自身に刻み込むよう操は吼えた。
大切な人が自分のせいで死んでしまっても、この心だけは折れてはならない。ここで操が折れたら、それこそラグドールは無駄死にになってしまうから。
──折れるな、染まるな、屈するな……!
声にならない痛みは確かに操の中にあった。それでも傷だらけで血塗れなそれを、操は両手で抱えて立ち上がろうとする。痛くて苦しくて悲しくて気が狂いそうだったけど、もう引き返せない道に立っているから自分で這い上がって前に進むのだ。
「来いよ」
「来てみろヴィラン連合!」
「──折れるものなら折ってみろ!!」
胸の中を灼熱の想いが貫いた。血液に燃え移ったそれは全身を駆け巡り、自制できない程の忿怒となって身体を震わせ咆哮を上げる。
その場にいた者は操から溢れ出した何かに思わず足を止めてしまった。それはまるで地面に縫い付けられたかのように動かなくなり、
死柄木は苛立ちを隠せず舌を打って頭を掻きむしる。刃物のような鋭い視線に誰かの影を見て、無性に腹が立って仕方がなかったのだ。
「本当、兄妹似ててムカつくなァ……! 先生、力を貸せ」
「先生ぇ……? てめェがボスじゃねえのかよ、白けんな……!」
「黒霧、コンプレス。爆豪君はまた眠らせてしまっておけ」
「ねェ弔くん、操ちゃんは?」
「いらねぇ、ムカつくから殺せ」
「やったー!刺し殺してチウチウしましょう!」
「上等だ、やるぞ勝己」
「うるせェ、言われなくてもこっちははなっからそのつもりだわ!」
その言葉とは裏腹に爆豪は冷静になって思考を巡らせていた。死柄木の言う"先生"が何かわからず、黒霧がラグドールを連れてきたことから他にもヴィランが現れる可能性があり、現状不利な事に変わりないからだ。
ワープゲートや圧縮をいち早く潰してこの場から離脱するのが理想だが、先程の出来事で正気を失った操がどう動くかわからない以上一人で行動に移す事は出来ないだろう。
普段の操なら状況を見極め此方の動きに合わせるだろうが、今の彼女は逃げる意志がないのかそれが頭に浮かばないのか、抑えきれない想いを個性に乗せて振り翳しているから放っておく事は出来ない。
焦りと苛立ちが募る中、一歩後ろに下がって外に通じる扉との距離を埋めた。操は相変わらず血を刃に変えてヴィランを狙っているが、まだ手が届く距離にいる。
──動けるだけまだマシだ、無理やり引き摺って行くしかない。そう思った時だった。
「どーもォ、ピザーラ神野店です──」
この状況を一変させたのは軽快なノック音と実に呑気な言葉だった。
この場にいる全員がその言葉を咀嚼する事が出来なかった。何故なら、その言葉を理解する前に耳を劈く炸裂音と共に建物の壁が勢いよく破壊されたからだ。
降り注ぐ瓦礫が、その力の凄まじさを知らしめている。
「何だぁ!?」
「黒霧!ゲート──」
「先制必縛!ウルシ鎖牢!」
瓦礫の合間を縫って伸びてきた木は的確にヴィランを捉え、彼らを拘束していく。蒼炎が揺らめいたかと思うとすかさず背後に回ったヒーローが強かに首を打ち、荼毘の意識を刈り取った。
それは瞬く間の、一瞬の出来事であった。
「もう逃げられんぞヴィラン連合……何故って!?」
壊れた壁からは月明かりが差し込んだ。
粉塵は光を受けてきらりと輝き、ゆらゆらと地面に落ちていく。月明かりを背に立つのは三人のヒーローだった。シンリンカムイ、グラントリノ、そして──。
「──我々が来た!」
「オールマイト……!」
屈強な肉体を持って君臨する、ナンバーワンヒーローの姿だった。
「…………え、オールマイト?」
「爆豪少年、赤黒少──その怪我は……!」
操は状況も忘れて立ち尽くし、ヴィランから目を離して彼を見上げていた。しかし何度瞬きをしてもオールマイトに変わりなく、これは夢ではなさそうだった。
ヴィランから視線を外して生徒二人を見たオールマイトは表情を強ばらせた。爆豪に怪我はないが、操には"報告になかった"怪我が幾つも増えていたからだ。
彼女は体内から無数の刃物が飛び出しているのに痛みを感じていないのか平然としていて、血の流れない傷口は悲鳴をあげることすら許されていない。その瞳は爛々と光っていて、悪の脅威に立ち向かおうとするその姿勢にヒーローとして情けなく、とても歯がゆい気持ちになった。
「オールマイト……オールマイトが、来たのか……?」
「ああ……赤黒少女、遅くなってす──」
「オールマイト、私ね、誰も助けに来ないと思っていた。戦って勝つしか生き延びる道はないと思ってた」
「……それは……!」
ヒーローは助けに来ない。それはずっと昔から操に根付いた偏見だったが目の前には確かにヒーローがいて、それが信じられずに操は何度も目を瞬かせる。
何度かそれを繰り返していくと爛々と輝いていた瞳は落ち着きを取り戻し、身体から飛び出していた刃物は血となって体内に戻っていった。そして操の様子に息を呑むオールマイトに向かって微笑んだ。
「……
ガリガリにやせ細った赤ん坊の操が、体中に痣を抱えた幼児の操が、気が付いたら言葉を発していた。
心底安心した微笑みに、オールマイトは全身をぷるぷると震わせながらもその薄い肩に大きな手を置いた。そして奥歯を噛み締めてから、どうにか言葉を絞り出す。
「遅くなってすまない!──私が来た!怖かったろうに……よく耐えた!爆豪少年も……ごめんな、もう大丈夫だ!」
「こっ……怖くねえよ、ヨユーだクソッ!!」
二人はオールマイトにぎゅっと抱きしめられた。少しだけ息苦しかったけれど、二人とも抵抗はしなかった。オールマイトに抱きしめられたのはこれで二回目だったが、一回目とは違った包容力に操は少しだけ瞼を下ろす。
そうしている間にも室内には続々とヒーローや警察が突入してヴィランを包囲していく。安心した操や爆豪に反して怒りや苛立ちを隠しきれない死柄木は、声を震わせ言葉を紡いだ。
「せっかく色々こねくり回したのに……何そっちから来てくれたんだよラスボス……仕方がない、黒霧!持って来れるだけ持ってこい!!」
「……すみません死柄木弔……所定の位置にあるハズの脳無が……ない……!!」
「……!?」
「やはり君はまだまだ青二才だ死柄木!」
「あ?」
「ヴィラン連合よ、君らは舐めすぎだ。少年と少女の魂を。警察のたゆまぬ捜査を。──我々の、怒りを!」
笑っているのに笑っていない、そんな表情を浮かべたオールマイトは周りの空気を震わせた。その瞳は烈火の輝きで燃え盛っている。
その場に立っているだけなのにヴィランには重苦しく、被害者には絶大な安心感を与えるヒーローはそういない。操は改めてオールマイトの偉大さを肌で感じ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「おいたが過ぎたな、ここで終わりだ死柄木弔!」
「終わりだと……?ふざけるな、始まったばっかりだ……正義だの……平和だの……あやふやなもんでフタされたこの掃き溜めをぶっ壊す……その為にオールマイトを取り除く……仲間も集めた……ふざけるな……ここからなんだよ……!」
しかし彼が頼ろうとした黒霧はプロヒーローエッジショットの攻撃によって気絶し、彼らはこの場から離脱する事が出来なかった。木の個性に対抗できる荼毘も気絶しているし、コンプレスが個性を使おうものなら一瞬にして取り押さえられてしまうだろう。
警察は壁際、そして扉の外で包囲していつでも発砲出来るよう彼らに銃口を向けている。四人のプロヒーローもヴィランの動きに警戒し、いつでも応戦できるよう準備はできている。
──「詰みだ」。そんな言葉が脳裏をよぎって、死柄木は悔しそうに唇を噛んだ。
「ふざけるな……こんな……こんなァ……こんなあっけなく……ふざけるな……失せろ……消えろ……!」
悔しそうに顔を歪めるヴィラン連合と譫言のように呪詛を吐き出す死柄木に操は目を伏せた。
彼らの行いを決して許してはいけないし、許すつもりはない。けれども少し対話をして気が付いたのは、きっと彼らも苦しみの中で必死にもがいていると言う事だった。操には助けてくれた人がいたけれど、彼らにはそれがなかったということだ。
張り詰めていた集中力が切れたからか、操の膝はかくんと力が抜けてしまった。オールマイトの大きな手に支えられて倒れる事はなかったが、攫われた時よりも傷を負った身体は痛みを主張して悲鳴をあげている。
特に
こうして、激動の数日間はオールマイトによって幕を閉じた──誰もがそう思った時だった。
「奴は今どこにいる、死柄木!」
「お前が!嫌いだ!!」
「──な、脳無!?」
死柄木がオールマイトへの嫌悪を口にすると、何もなかった空間から黒い泥が噴出されてそこから脳無が現れた。屈強な肉体を携えた化け物は知能なんてなさそうに見えるが、明確にヒーローへ視線を向けている。
目を見張るヒーローたちは黒霧を確認するが、彼は依然として気絶したまま力無く項垂れている。──ならば別の
「シンリンカムイ、絶対に離すんじゃ──」
「お゛!?」
「ごはっ……!」
「!! 爆豪少年、赤黒少女……!?」
操は腹の底から迫り上がってきた何かに耐え切れず吐き出すと、それは墨のような泥のような黒い液体であった。苦しみから身体をくの字に折り曲げるが、吐き出しても途切れることのない液体に苦しみばかりが増していく。
隣には同じような液体を吐き出した爆豪の姿があった。二人の赤い瞳が合わさるが、お互いの身体が黒い液体に飲み込まれていることに気付くと目を見張る。言い知れぬ不安が湧き上がり液体をどうにかしようと腕で振り払うけれど、それは意味をなさなかった。
「なん、……やめ……!」
「っだこれ、体が……飲み込まれ……」
「NO!!」
そしてオールマイトの悲鳴ともとれる言葉を最後に、二人は完全に暗闇に飲み込まれてしまった。
上下左右の判別がつかない闇の中は息苦しく、自分が何処にいて、何をしているのか全くわからなかった。しかし地面に足が着いたかと思うと自身を覆っていた闇は晴れ、それはビチャビチャと音を立てて地面に落ちて消えていく。
「ゲッホ!!くっせぇぇ……!」
「ごほ、げほ……っぐうぅ……」
全身の痛みと息苦しさから操は膝をついて咳き込んだ。咳き込む度に全身に痛みが走り、思わず顔を歪めて痛みに耐える。
爆豪も同じように隣で咳き込んでいて一先ず安心したが、操は自身が座り込む地面が先程と違うことに気付いて背筋が凍るような思いをした。
「んっじゃこりゃぁ……!」
「悪いね、爆豪くん」
「あ!!?」
次は一体何処に飛ばされたんだ、その言葉は脳内で消えて言葉になる事はなかった。
二人の目の前にはスーツを着込み、歪なマスクを被った男がいた。彼の見た目は変わったマスクを除けば清潔感もあって物腰は柔らかそうだった、それなのに形容し難い恐怖と不安が渦巻いて二人に重くのし掛かる。全身から噴き出した汗が「こいつは危険だ」と根拠のない警鐘を鳴らしている。
月明かりは静かに男を照らしていた。男の表情はマスクによってわからなかったがその瞳は狂気に満ちた光を放っているように錯覚してしまい、身体が勝手に震え出す。
それにこの場所は気分が悪くなるほど
「また失敗したね、弔」
二人の背後で水が弾ける音がしたかと思うと一気に人の気配が増え、ヴィラン連合もこの場に連れてこられたのだと理解する。
前方を不気味な男に、そして背後をヴィラン連合に挟まれた二人は直ぐにでもこの場から離れないとならないが、男の威圧感がそれを許してくれそうにない。
せめて操は痛みを噛み殺しながら、震える足を無視してその場から立ち上がった。動いたことで傷口が開いたけれど、個性のおかげで血が出ることはなかった。
「でも決してめげてはいけないよ、またやり直せばいい。こうして仲間も取り返した。いくらでもやり直せ、その為に
二人はそこで死柄木の言っていた"先生"の正体を知る。
ヴィラン連合の裏にこんな化け物がいたとは思わなかった。それに彼らが使役していた脳無は実はヴィラン連合のものではなく、おそらくこの男のものだろう。そう考えるとこの男がいかに危険な存在か嫌でも気付いてしまうだろう。
この場から動くことすら躊躇う巨悪に二人は成す術なく、気配を殺して息を呑む事しか許されなかった。
「……やはり来てるな」
「全て返してもらうぞオール・フォー・ワン!!」
「また僕を殺すか、オールマイト」
しかし空高くから飛来したオールマイトによりその場の空気は破壊された。
マスクの男──オール・フォー・ワン──と取っ組み合いになったオールマイトはお互いの威力を殺し切れず、周りの地面を破壊してそれらを吹き飛ばしていく。その衝撃波に耐え切れず爆豪も、ヴィラン連合の面々も地面に転がってしまった。
「あか──」
しかし体重が軽く怪我により体勢を整えられなかった操は予想以上に遠くへ飛ばされてしまった。伸ばされた爆豪の手は空を切り、操はヴィランの上を一人吹き飛ばされていく。
隣にいたはずの爆豪の声は一瞬にして聞こえなくなった。操は少しの浮遊感を味わった後地面に身体を叩きつけられ、それでも力を殺しきれずに地面を跳ねて転がっていく。
地面に擦った肌は傷つき玉のような血が溢れるが、それは直ぐ瘡蓋に変化してそれ以上酷くなることはなかった。しかし全身の打ち身と刺し傷、首の火傷の傷はここぞとばかりに痛みを主張し、操は倒れたまま起き上がることが出来なくなっていた。
「……ぎっ、うぅ……」
もう眠ってしまいたかった。それでも起きあがろうと身体に力を入れるのは、このままでは危険だと理解しているから。
操が飛ばされた場所は一層血の臭いが酷く、ここに来る前に誰かが殺されたのだと察してしまう。そんな場所で呑気に寝ていられるほど操は図太くない。だから個性を回して体力を回復し、気力と根性を駆使して上体を起こしたのだ。
「…………え?」
けれどそこにあったのは無惨な死体ではなかった。出血量から死体だと思っていた、死体だと思い込んでしまった。
そこに倒れていたのはプロヒーロー、ベストジーニストだったのだ。
彼のコスチュームは胸元から腹部にかけて大量の血液でぐっしょり汚れていた。しかしよく見ると浅く、そしてゆっくり身体が上下していることがわかる。
──この出血量で、生きている……?
操は上半身を起こして、足を引き摺りながら彼に近付きその傷を覗き込んだ。
「──……ッ!?」
そしてその傷の酷さに言葉を失った。
彼は胸郭の下から腹部にかけて皮膚と肉が抉りとられ、折れた肋骨と中の臓器が剥き出しになっていた。月明かりに照らされた血肉はてらてらと光り、損傷した血管からは心臓の鼓動に合わせてとめどなく血液が溢れ出している。
血液は流体の臓器だ、全身を巡る命の源だ。失われれば忽ち生命は脅かされ、あっという間に死に至ってしまう。
ベストジーニストはまだ生きている。けれど今もその身体から命は溢れ出し、地面を汚している。たくさん命は流れ出して染みになっていく。
「……何で、こんなこと……!」
操はあまりの傷の酷さに酷く狼狽えていた。
今まで勉強のために映像や写真で生き物の体内を見たことはある。けれどそれとは違った悍ましさが彼の傷には深く刻まれていて、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
一体何があったらこれほど酷い傷を負ってしまうのか、操には想像も付かなかった。そして他者をここまで傷付けるほど戦う理由がヴィランにあるのか、理解できなかった。
──これは絶対に自分が"生きづらい"から戦っているだけじゃない。
「どうしよう……誰か……、」
操はここで初めて辺りを見渡したが、不自然なほど更地な一帯に恐怖を覚え眩暈がした。遠く離れたところに乱雑に積み上げられた瓦礫が、倒壊した建物が、ここで何があったのかありありと知らしめている。濃い血の臭いの正体に気が付いて嘔吐いてしまいそうだった。
爆豪はヴィランに囲まれていた。オールマイトはオール・フォー・ワンと戦っていた。ベストジーニストの側には操しかいなかった。
「…………誰かじゃなくて、私が……」
力無く投げ出された手を握る。
握りしめた手は冷たい。それは命が消えていく温度だった。
──でも、まだ生きている。
「……深呼吸をして。背筋を伸ばして、前を、見ろ……!」
ここにはいない誰かの声が聞こえた気がして、操はその言葉を声に出して繰り返した。押し潰されそうな心は大きな手を握り締める事でなんとか持ち堪える。
深呼吸をすると肺は震え、背筋を伸ばすと身体は軋んだ。けれど前を向けばオールマイトの背中が見えたから、操の顔つきは瞬時に変化した。救けられるだけじゃなく、救ける側の顔つきに変化した。
個性の使用は許可されていない。
けれど消えそうな灯火を前にして何もしない自分が、ヒーローになれるとは思わなかった。
「死なせて……たまるか……!」
操は
彼の血液型はAB型だ。B型である操は血中成分を操作すれば彼に輸血することが可能だが、操の血液も出血性ショックギリギリの量である事から満足な血量を供給することは不可能だ。──ならば彼の血液をそのまま使えばいい。
一秒にも満たない時間でそう判断した操は、まず彼の血管を治すことから始めた。
抉られた肉体は"修復する"というレベルではない。血管すら無くなっている身体に血液を巡らせるには操がずっと触れている必要があるが、何が起こるかわからない戦場で生死を分ける状況は出来るだけ作りたくなかった。
だから操は地面や彼の衣服に染み込んだ血液を操作し、それを洗浄して不純物を取り除く。そしてその血液を使用して血液が漏れないよう新たな血管を作ることにした。
切断された血管に血液を宛てがい、強化させた血中成分で結合部分を凝固させる。そしてそれを別の血管に繋いで、血液の通り道を作っていく。
その間並行して体内を流れる赤血球の量を増やし、酸素とエネルギーの供給量を上げていった。体温を上昇させ傷の再生を通常よりも早くし、損傷した臓器はどうにもならないが溢れ出す血は全て止め、正しいルートで巡るよう強制的に操作していく。
その甲斐あってか血液は体内を正しく巡り、弱々しかった心臓は強く躍動していった。一息ついた操は震えの止まらない両手でベストジーニストの手を握りしめながら、祈るように言葉を紡ぐ。
「死なないで、お願いだから……死なないで……」
握りしめた生ぬるい温度は心許なくて、操は自身の手のひらで温めるようきつく握り直した。
操は血液を操作できても、抉られた肉や剥き出しの骨はどうすることも出来ない。月明かりに照らされてらてらと光るそれは操の不安を煽ってくるが、操は自分が出来る限りの精一杯のことをした。
後はもう、彼の生命力を信じて祈ることしか出来なかった。
「────!」
「……?」
そう祈りながらベストジーニストの血中エネルギーを増やしている時だった。誰かに名前を呼ばれた気がして、操はふと顔を上げる。
ここは戦場だ。爆豪やヴィランの個性、そしてオールマイトの技の衝撃で様々な轟音が常に鳴り響いている。だから聞き間違いだろうと、そう思っていたのに。
瞬きをした瞬間、突如操とヴィランを隔てるように巨大な氷壁が出現した。一気に冷え込む空気に気を取られていると、もう一度声が聞こえてくる。
操の名前を呼ぶ、友の声が聞こえる。
「──操ちゃん!!」
桃色の光が視界の端で煌めいた。
声の方へ視線を向けると、そこには凄まじい速さでこちらに近づく
操も立ち上がって駆け寄って手を伸ばすべきだった。しかしどっと疲れた身体は突然のことに対応出来ず、ただぼんやりと彼女の姿を眺める事しか出来なかった。けれど──。
「行け……!」
「な、」
衣服を引っ張られる感覚に、操の身体は簡単に宙へ浮く。
意志を持って離された手のひらの先に視線を向けると、そこには個性を使用しているベストジーニストの姿があった。片手を動かすのも辛いはずなのに、彼は自身の傷を顧みず操の救助を優先する。苦しげに歪められていた目元が柔らかくなったのを最後に、彼の姿は見えなくなった。
操は芦戸に抱き止められ、視界は物凄い速さで移り変わりながら二人は戦場を離脱した。瓦礫の山を凄まじい速度で、けれど軽快に駆けていく彼女の足にはエンジンのようなサポートアイテムが装備されている。
芦戸は操を抱えたまま走ることに集中し、持ち前の運動神経を活かして戦場から距離をとっていく。どうしても避けられない瓦礫は個性を使って溶かす事で無理やり突破したが、たまに避けきれず身体を掠めることもあった。それでも腕の中にいる操は絶対に離すものかと力強く抱えて走り続ける。
操は柔らかな身体に強く抱き抱えられたまま暫く呆然としていたが、状況を理解すると少しだけ身動いだ。
何故この場に芦戸がいるのか、氷壁が見えたから轟もいるのか、爆豪を救けに行かなくちゃと、とにかく色々なことが頭の中でぐちゃぐちゃに絡まって言葉にする事が出来なかった。しかしすぐさま切羽詰まった声が飛んできて、動きを止めるしかなかった。
「操ちゃんじっとしてて!これバランス取るの難しいの!!」
「なん、で……」
「なんでって……約束したじゃん!」
『操ちゃんが苦しんでいたら、私たちが救けるよ!』
「……っ、」
少し前の約束を思い出して操は言葉を詰まらせた。
プロヒーローは瀕死の重体となり、瓦礫の山と化したあの場所で彼女はどれほど怖い思いをしたのだろう。ヴィランがたくさんいる中で操を救うためにどれほど勇気を振り絞ったのだろう。
危険だと嗜めるべきだ。無謀な事をしたと非難すべきだ。それなのに、操は自身を力強く抱き抱える手に酷く安心している。
「……ありがとう、三奈」
「うん……!」
走ることに集中している芦戸と目が合うことはない。けれど操を支える両手は力強くとても優しかったから、操は彼女を信頼して身体の力を徐々に抜いていく。
張り詰めていた気持ちを緩めると壮大な疲労が操を襲った。それは個性で打ち消せるはずなのに、消しても消しても消える事がないのは心労だからか、操には分からなかった。
全身が千切れてしまいそうな痛みと重くのしかかる疲労に、操は目を閉じて耐えることしか出来なかった。
「芦戸!」
「芦戸さん!」
「あっ、ヤオモモ!轟!」
勢いを殺さぬまま走っていた芦戸は曲がり角から飛び出してきた八百万と轟の目の前で立ち止まり、ほっと胸を撫で下ろす。
──二人も怪我なくあの場から離脱する事が出来た。きっと切島たちも上手くいっているはず。
芦戸はそう思って喜びを噛み締めたかったが、腕の中にいる操がやけに静かな事に気が付いて視線を落とした。そして、言葉を失った。
ぐったりとした操の呼吸は浅く、発熱しているのかその身体はとても熱かった。首の火傷は爛れてぐちゃぐちゃになり、滲んだ体液が街灯の光を受けてぬらぬらと光っている。首や手足、そして腹部など至る所に深々と刻まれた切り傷があり、それはパックリと開いて中の肉が見えていた。
血が出ていないから軽傷に見えていたが、この傷はどう考えても重傷だ。三人は唯ならぬ傷口に目を見張り、息を呑むしかなかった。
「操ちゃ……操ちゃん……っ」
「……うぅ、……」
「……っ八百万、傷薬と包帯作れるか!?」
「え……ええ! 少々お待ちください!」
ピクリともしない操に芦戸が涙目になって肩を揺すると、意識があったのか彼女は眉を歪めて身動いだ。それを見た轟は弾かれたように動き出し、八百万は躊躇なく傷薬やガーゼ、包帯を作って三人は操の手当てに取り掛かる。
ある程度応急処置を終えると操にパーカーを羽織らせてフードで頭部を隠した。そしてそのまま轟が背負って、三人は操を連れたまま避難誘導に従い数多くの住民と共に大通りを歩き出す。
八百万は飯田と連絡をとりながら共に避難をしている高齢者に手を貸した。轟は操の傷に障らないよう慎重に歩き、個性で身体を冷やした。芦戸はぼんやりとしたままの操に何度も声をかけて手を握った。しかしその手が握り返されることはなかった。
操は戦場から離脱した安心感と身体を侵す熱、そして数日に渡って与えられてきた恐怖と不安によるストレスから身体を動かせなくなるほどの心労に襲われていた。
そのくせ脳みそだけは元気いっぱいで、洪水のように流れ込む記憶はある出来事を何度も再生し続ける。目の前で大切な人が崩れ落ちる記憶が、何度も何度も繰り返されていく。
それが繰り返される度に操は罪悪感に苛まれ、怒りや悲しみ、後悔や自責の念でぐちゃぐちゃになっていく。塵のような泥のような、彼女の残骸がこびりついた手のひらをぎゅっと握りしめて、操の心は徐々に摩耗していく。
けれど叫ぶ気力はもうどこにもなかった。
《勝利!オールマイト!勝利のスタンディングです!!》
啜り泣く声と嘆き、そして悲しみ。一瞬にして奪われた日常に不安を抱える人たちと安全な場所を求めて歩き続けていると、大型スクリーンに映されたオールマイトの姿が視界に入る。
「オールマイトが来たなら安心だ!」「もう大丈夫!」、
そこに映されていたのは頬がこけて目は窪み、酷く痩せ細った血だらけの男だったから。それでも彼はオールマイトと呼ばれ戦場に立っていた。今にも折れてしまいそうな細い足で、その場に立っていた。
息を呑んだ三人と同様の衝撃を、疲れ果てていた操は感じる事が出来なかった。ただ血だらけの彼は見ていられなくて、視線を落として目の前の肩に顔を埋める。──操や爆豪が攫われなかったら、こんなことには。そう思わずにいられなかった。
《次は、君だ》
それは一つの歴史が終わりを告げた瞬間だった。
細く脆い身体で抱えきれないほどの期待と希望を背負ったヒーローが、最後の仕事を終えた瞬間だった。
明日からは新しい時代がやってくるだろう。平和の象徴が不在の、新たな時代が幕を開ける。
その未来がどうなるかは、今を生きる人々にはわからない。
「赤黒ォ!」
「赤黒さん……!?」
「操ちゃん、傷が酷くって……!」
「意識はあっても反応が薄いんですの……」
その後、時間はかかったが操たち四人は無事爆豪たちと合流する事ができた。しかし操は彼らに声をかけられても、何の反応も示さなかった。
まるで心がここにないような、魂をどこかに置いてきてしまったかのような面持ちでぼんやりと何処かを見つめている。そんな操の様子に
「一体何があったんだ、赤黒くん……!」
「…………」
「ね、ねぇかっちゃん……」
「……知るかよ、」
六人の視線は爆豪に向けられるが、彼は誰とも目を合わせぬまま背おわれた操の腕を掴んで引き摺り下ろした。そしてそのまま彼女に肩を貸し、少し先に佇む警察官の方へ向かって歩き出す。
二人はすぐ警察に保護され、パトカーの後部座席へ押し込まれた。自分自身を支えられない操は背もたれと爆豪に寄りかかりながら、ゆっくりと瞼を下ろす。
受け入れ難い現実の前で悲しみに浸る時間はどこにもなかった。頭が現実に追いつかない時は涙なんて出ない。だから彼らは多くを語らなかった。
言葉にしてしまうと気持ちに整理をつけてしまって、とめどなく溢れる感情を堰き止めることが出来なくなってしまうからだ。
パトカーは夜の道を静かに進んでいった。二人への配慮か、やけに静かな車内には人数分の呼吸音しか聞こえない。
けれど二人は酷く疲れているのに、何故か目が冴えてしまって眠ることができなかった。
【神野の悪夢編上:了】
●
体内の血液を操作して"自身の体内で刃を作り"、肉を突き破って体外に排出する技。
自傷技ゆえに使い所は少ないが、敵の不意をつける技。