家庭訪問編
足音を立てないよう、ゆっくり歩く。しかし枝や落ち葉を踏むと気をつけていてもくしゃりと乾いた音がしてしまうので、その度に二人は辺りを見渡した。時折後ろの方で葉が踏みしめられる小さな音が聞こえる。きっと夜の動物たちが息を殺し、こちらの様子を窺っているのだろう。
落とし穴のようにぽっかりと開いた森の入り口に足を踏み入れてから、どれほど時間が経っただろうか。森の中は想像通り暗く、上を見上げても葉が茂っていて月明かりすら届きはしない。闇の中はいつだって不気味で、二人の心を掻き乱していく。カラスが枝から枝へ飛び移るたびに、洸汰はその薄い肩を跳ねさせていた。
「み、みさお……」
「大丈夫だ……静かに、な」
何時間も緊張を張り詰めていたからか、洸汰の表情には疲れが浮かび上がっていた。数日前に森の中でヴィランの襲撃に巻き込まれたのも関係しているだろう。そう思って「少し休もうか」と声をかけるが、彼はかぶりを振って力強く歩き出す。
操は洸汰の気持ちを汲み、黙って木々を見上げた。クヌギやコナラの木を見つけては上から下まで全体を眺め、別の木に視線をやる。その繰り返しだった。
二人の首には何も入っていない虫籠が寂しげに揺れている。繋いでいない手に持った網も、今か今かと出番を待ち侘びている。そんな時に二人はあるものを見つけて息を呑む。そして次の瞬間、瞳を輝かせた。
「「カブトムシだ!!」」
ずっと探していた虫を見つけて二人は思わず歓声を上げた。そして目を見合わせると黙ったまま頷き合う。──言葉はいらない、やるべき事はわかっている。二人は意気揚々と虫取り網を構え、じりじりと距離を詰めていく。そしてごくりと唾を飲み込んだ。
──足音を殺せ、息を殺せ、気配を殺せ。もはや空気となり、決して存在を気付かせるな。
二人はこの数日間何度もシミュレーションしたのを思い出す。何度だって虎の背後で気配を殺し、バレないように網を振り下ろした(全敗して受け止められ、操はそのまま地面に転がされたが)。あの日々は決して無駄ではなかったのだと、これをもって証明してみせる!
「(いくぞ操!)」
「(ああ!さん、に、いち──!)」
そしてカブトムシ目掛けて、思いっきり網を振り下ろしたのだった。
八月中旬はまだ陽射しが強く、全てを溶かしそうな熟れた熱気が容赦なく降り注いでいる。真夏の光を遮るために操と洸汰は黒いキャップを被っていたが、汗で蒸れるため時折それを脱いでは頭部に風を送らなければならなかった。汗を拭いたタオルは気温のせいかすぐに乾いた。二人はそれを首にかけながら、切り株の上に置いた虫籠を眺めている。
とある夏休みの午前中の出来事だ。早起きしてカブトムシを捕まえた操と洸汰は、まだ寝ていたワイプシ四人を叩き起こしてそれを見せびらかし、ようやく落ち着いて座ったところだった(因みに寝起きのピクシーボブは叫んでいた)。
通っている幼稚園の宿題なのか、洸汰は地面に広げた絵日記に色鉛筆を走らせてカブトムシを描いている。その横に赤い棒人間がいたが、どうやらそれが操らしい。──私の要素、血しかなくないか?
そう思ったが絵を描く洸汰の横顔が思いのほか楽しそうなので、操はどうでもよくなった。なんなら赤い全身タイツを着てもいいくらいには機嫌が良くなり、にこにこと笑っていた。
「なにニヤけてんだよ」
「いや……今度赤い全身タイツを着ようかと思ってな」
「え……キモ……」
「素で引かれた!?」
洸汰のドン引き顔を見て、操は頭の中にあった全身タイツにバツ印をする。そして絶対に着るものかと決意した。
視線を絵日記に戻した洸汰に倣い、操も彼から視線を外す。そして辺りを見渡せば、一部が焼け焦げ無惨な姿になった森が視界に入った。それを眺めながら、操はこの数日間を思い返す。
操と爆豪が拐われたあの事件から既に数日が経過していた。ワイプシの所有地であるこの森は昨日まで警察が滞在し証拠集めに勤しんでいたが、ヴィランの足掛かりは掴めなかったようだ。
ワイプシの四人は操と洸汰の心のケアを優先し、拠点を事務所のある街中に移そうとしていた。しかし二人がそれに静止をかけたのだ、「まだカブトムシを捕まえてないから待って」と。
あの時の四人のぽかんとした表情を、操は今でも覚えている。まるで宇宙猫のようだったし、洸汰にも「あれが宇宙猫だ」と説明したほどだ。
ヴィラン連合が襲撃した夜、操は洸汰とカブトムシを捕りに行く約束をしていた。約束の日である"明日"はとっくに過ぎたが、約束は約束。二人が心の整理をつけるためにも、この約束を果たすのは重要だった。
そのために二人は警察から許可された一部の森を散策し、数日前からカブトムシを探していたのである。
『なあ、洸汰。あれコーカサスオオカブトじゃないか?』
『ツノねェしカブトムシじゃないだろ』
『いやよく見ろあの黒光……絶対カブトムシだ!しかもコーカサスオオカブトだ!とりあえず捕まえてみよう!』
『どっからくんだよその自信!?ちょ、待って、おい……!』
『あ、違うわ。見てみろ、ゴキブ──』
『うわああああ!!!!』
『ギャフッッッ』
手に持った大きなゴキブリを洸汰に見せようとすると、振り向き様の顔面に「ダンッ!」と虫取り網が容赦なく叩き込まれた。迷いのない、いい網捌きだった。網のフレームが眼球に当たって痛かったが、
──なんてこともあったが、それもいい思い出である。イマドキの子どもはカブトムシが平気でもゴキブリは苦手、そう学んだ瞬間であった。雄英高校の宿題に日記があったら操も熱く語っていたことだろう。
「洸汰ー!みーさーおー!」
森やカブトムシを眺めながらそんな事を思い返していると、後方からラグドールの声が聞こえて二人は顔を上げる。そこには麦わら帽子を被ったラグドールが大きく手を振っていた。
深緑のような長髪は緩い三つ編みで一つに括られ、風通しの良い素材で作られたワンピースが風に揺れてスカートを豊かに広げている。ラグドールはまだあまり見慣れない、私服姿であった。
「なーにー?」
「もうすぐお昼の時間だにゃん、だからあちきが呼びにきた!己の飯は──」
「己で作れ!いくぞ洸汰!ご飯を食べるため、作るんだ!」
「ケッ、いちいちうるせぇ……」
"お昼イコールご飯"と直ぐに結びつけた操は勢いよく立ち上がると、洸汰に手を差し出した。その手は取ってもらえると当然のように思っていて、もはや視線はラグドールの後方にあるキッチンに向けられている。
洸汰はまだ素直にその手を取る術を知らない。だから憎まれ口を一度挟みつつ、その毒を一切気にしない操に安心感を覚えて手を重ねるのだ。
当然のように握られた手に緩んだ口元を必死に隠して、同じように力を込めて握り返す。そして「あは、ニワトリみたい」と笑う操の腰を叩いてから、ラグドールの下へ引っ張って歩いていく。
「ヤワラさん〜、今日のご飯なに?」
「唐揚げとポテトサラダとカレーとオムライスだ」
「エッ!?ワッ!やった〜〜〜!!」
「何だよそのメイン料理の殴り合い……」
「来るの遅いー!アンタたち唐揚げ係ね!」
「フ……仕方ないな!」
「なんか嬉しそうだにゃん?」
「フフ、そんなことないぞ?」
「フツー子どもに揚げ物任せねぇだろ」
「来るのが遅いからいけないの!ホラ、さっさと取り掛かる!」
「あ、ちょっと二人とも!先に手を洗ってきなさい!」
「はーい。行こうか、洸汰」
「フン……」
手を洗った二人は早速唐揚げ作りに取り掛かった。操が肉を切り、洸汰が味を揉み込んでいく。粉を塗したら油を熱して、その中に鶏肉を泳がせていく。
鶏肉がジュワジュワと揚がる音は聞いているだけで涎が出そうだった。徐々に狐色に変わっていく姿も、何度見ても飽きない。
操は二度揚げから帰ってきた唐揚げたちをバットの上に寝かせると、味見と称して一つ口に入れた。表面はサクッとしているのにお肉は柔らかく、歯を立てると肉汁が溢れだしてくる。口の中に広がるニンニク醤油が肉汁と絡まって、絶妙な旨味に変わっていく。そのあまりの美味さに、操は瞳をキランキランに輝かせた。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
「あ、おい!」
「ほら、洸汰も」
「もが!」
摘み食いを注意しようとした洸汰の口に唐揚げを放り込めば、彼は急いで俯いて咀嚼する。揚げたてで熱いのか熱を逃しながら食べているが、唐揚げはふうふう言って食べるのが美味いと操は思うのだ。
此方を睨みつけながら唐揚げを飲み込む洸汰に「これで共犯だな!」と笑えば無言で足を蹴られたので、操は片足をあげて華麗に避けた。そして「もう一つ味見しようかな」と一つ手にすると、此方に近づく影があることに気付いて振り返る。
「見ちゃったにゃ〜ん」
そこには手で丸を作り、そこから望遠鏡のようにして此方を覗き見るラグドールがいた。しかし「悪い子にはオシオキが必要かにゃ?」と首を傾げるその口にすかさず唐揚げを押し込めば、彼女は黙って咀嚼する。
"唐揚げ摘み食い犯"である操と洸汰は目を見合わせると頷き、ラグドールを逃がさないよう包囲した。そして無事飲み込んだのを確認するとニッと笑って、彼女を脅す。
「トモコさん、今食べたよな?美味しかったよな?」
「にゃっ……!」
「一緒に怒られるか、黙ってるか選べよ」
「……にゃははは!じゃああちきも共犯!」
足をバタつかせながらふくふくと笑うラグドールに、摘み食い犯である二人も笑った。三者の口元は犯行の証拠としてテカっていたが、ティッシュで拭って証拠隠滅を謀る。これでもう、誰にも指摘されまい。
こうして摘み食い犯は二人から三人になり、バレることなくその場を後にした。しかし騒がしいその光景に残りの三人は勿論気付いていた。三人の摘み食いに呆れてため息をつきつつも、その口元は柔く緩んでいる。
数日前に絶望の淵に立たされたからこそ、敢えて見逃しているのだ。──楽しそうだからいいか、と。
こうして穏やかながら笑いの絶えない昼食を終え、片付けに取り掛かってすぐ洸汰は寝てしまった。連日午前三時に起きては森の中を散策していたので、疲れが溜まっているのだろう。マンダレイは彼をそっとソファに横たえると、身体を冷やさないようにブランケットをかけた。
時計を見上げると午後二時で、"約束の時間"だとマンダレイは洸汰をその場に残して部屋を離れる。ラウンジに向かえば既に他の三人と、カブトムシにゼリーをあげている操の姿があった。その横で虎が「防腐剤がたくさん入っているからそのゼリーは食べるなよ」と注意している(操はへらっと笑ってから目を泳がせていた)。
外から聞こえたエンジン音に、マンダレイは扉を開けて出迎える。するとそこには車を降りるイレイザーヘッド──相澤消太とオールマイトの姿があった。
「来たわねイレイザー。それに……オールマイト」
彼らはスーツ姿で、マンダレイを視界に入れると真っ先に頭を下げようとした。しかしそれを手で制して、マンダレイは二人を施設内に招き入れる。彼女の服装もまた、合宿前と違って私服だった。
扉を閉めると熱気は遮断され、それと同時に降り注ぐような蝉の声も小さくなっていく。
穏やかな夏休みは、終わりに近づいている。
「家庭訪問、か……成程。これから三人でタルタロスにでも向かおうか?」
操は正面に座る相澤とオールマイトに向かってそう告げるが、二人は何も言わずに真っ直ぐ此方を見つめるばかりだった。張り詰めた空気に居心地が悪くなった操は思わずへらりと笑うが、手のひらはしっとりと汗ばんでいる。
思い詰めた表情の二人を和ませようと冗談を言ってみたが、全くウケなかったのである。つまりスベっていた。
──実際お兄ちゃんの所に行っても「どうでもいい」「そいつは俺の妹じゃない」と言われるのがオチだな。んんー、なんか自分で考えて悲しくなってきたぞ……。
操は少し眉を下げながらピクシーボブが準備してくれた麦茶に手を伸ばす。しかしそれに触れる前に、正面に座っていた相澤が頭を下げた。それに続いてオールマイトまで頭を下げるので、操は思わず目を瞬かせて二人の後頭部をじっと見つめてしまった。麦茶に伸ばされた手は、歪なまま動きを止めている。
「守れなくて申し訳なかった」
「私も……助けるのが遅くなり、本当に申し訳ない!」
「はぁ……?……え、なに?」
操は思わず部屋の入り口付近に立つ四人に視線を向けて助けを求めるが、彼女たちも眉を下げ「今回は私たちも貴女に頭を下げる側よ。守れなくて、ごめんなさい」と告げた。その様子に操は疑問符を浮かべて混乱していたが、彼らが頭を下げるのには当然の理由がある。
操の身体は、あの日多くの傷が刻まれた。腕や肋骨には無数のヒビが入り、鎖骨は折れていた。首元は火傷のせいで現在も包帯を巻いているし、複数の切り傷はほぼ自傷によるものだったが、その傷は体内から体外に飛び出すといった常軌を逸するもの。それに彼女はあの時確実に心が壊れかけた。粉々に砕けても、おかしくなかった。
ここにいるヒーローたちは、操にそれをさせてしまった"責任"がある。だから頭を下げるのだ。
「うーん……」
けれどそもそも、操は怒っていなかった。ここにいるヒーローに責任があるとも思っていなかった。
マスキュラーによって負った傷は洸汰を守るためのもの、そして自分たちが死なないために刻まれたものだ。荼毘による火傷は操の行動が迂闊だったせいだし、自傷なんて完全に自分の責任だ。ラグドールの件は操の発言がきっかけであるし、悔やんでも悔やみきれないけれど。
それでも今回の事件で責任の所在を明らかにするのなら、洸汰が言ってくれたように「ヴィランのせい」だと言えるだろう。少なくとも操はそう思うようにしている。
ヒーローも生徒もみんな出来る範囲でやるべき事を必死にやっていた。幸運なことに勝己も、洸汰も、ラグドールも、操も全員無事なのだ。だから生きていることに幸福を感じても、ヒーローに対しての不満など一切ない。
けれど操には相澤やオールマイトが頭を下げる理由もわかるのだ。操が失言でラグドールを殺して罪悪感を抱いているように、彼らはプロヒーローであり教師である。だからこそ責任を問われ、感じ、罪悪感や無力感に苛まれているのだろう。
ならば「気にしていない」とその気持ちを受け入れないより、「許してやる」と受け止めるのもまた操の役目だろうか。そう考えた操は背もたれに寄りかかると腕を組み、ニッと笑って踏ん反り返った。
「まぁ、操ちゃんは寛容だからな。許してやろう──……と、言いたい所だが……」
「……」
「先生、顔をあげてくれ。少し聞きたいことがあるんだ」
「……何だ?」
そこでふと、クラスメイトの姿が脳裏を過って操は姿勢を正す。すると二人は顔を上げ、此方を見る。相澤のつむじではなく静かな眼差しが見えたことに少しだけ安堵しつつ、操はあの日のことを思い出した。
あの夜、操は芦戸に抱きとめられた。八百万に声をかけられ、轟に背負われた。熱と痛みに浮かされてぼんやりとした思考の中、オールマイトの戦いを目にした。
「あの日、神野には三奈と焦凍と百……あとは出久と飯田と、切島もいたな」
「……!」
「あいつらを行かせたのは先生、もしくはヒーローの指示か?」
「違う」
相澤はその言葉を真っ直ぐ否定した。オールマイトに視線を向けると、彼は勢いよく首を左右に振っている。──つまり、六人の行動は独断というわけだ。
操はそれを聞くと思わずため息を吐いた。そして静かに目を伏せ、机の木目をじっと眺める。
「強すぎる
「……そうだな」
六人が何を考えてあの場に来たのかわからない。何故あそこにいたのか、操は知らない。
ただ、瓦礫となった街の中でたくさんの人が死んだ。ベストジーニストは殺されかけた。そんな中五体満足で生き延びたのは、本当に幸運だと思うのだ。
「不思議なことに報道は一切されていない。まぁ……報道されたらヒーローの沽券に関わるし、雄英はさらに非難されるだろう」
相澤やオールマイトが揉み消したとは思っていない。しかし様子を見る限り六人があの場にいたことは知っているのだから、上が揉み消したのを黙っている状況なのだろうか。それとも──。
操は一度目を閉じると、職場体験で世話になったヒーローのことを思い出した。彼は操の前で「疲れたからヒーローを辞める」と言っていたが、実際は監督不行届の責任を取ったようなものだった。エンデヴァーやグラントリノ、マニュアルだって大小の責任を取ったはずなのに。
「飯田たち三人は保須市の件でも注意されたのにな。あそこにいたのは、強すぎる正義感故か……?」
小さくなった氷がカランと音を立てる。グラスは汗をかいていて、机をゆっくりと濡らしていく。
ごくり、とオールマイトが唾を飲み込んだ。細い喉が上下に移動したのを視界に入れると、操は表情の変わらない相澤を見つめる。
「先生、私はな……自分の命が無くなったら守りたいものは守れないと思っている。だから死なないために訓練をするし、頑張ろうって思う」
全力を出しても、身を挺しても、勝てないほど強いヴィランはたくさんいる。けれどその時守るべき人や自分の大切な人のために生き抜く選択をするのも、ヒーローとしての務めだと思うのだ。
ヒーローですらない六人があの場に来たのはあまりに無謀で、愚策。それをわからないほど彼らは子どもではないだろう。「わからなかった」「知らなかった」では済まされないことを、彼らはしてしまったのだ。
「相澤先生、六人の行動は罰するべきだ。彼らが死んでしまう前に、きちんと対処するべきだ」
「あ、赤黒少女……!?」
「先生はどう思う?」
「……あの場に赴いた
「そうか……でも、六人を除籍処分にしないでくれ」
「エッ!?」
「…………」
オールマイトは目を丸くし、相澤と操の交互に視線を走らせていく。しかし操は彼を気にせず、真っ直ぐ相澤を見つめ続けていた。対する相澤は、先ほどの言葉を咀嚼してすっと目を細める。──六人の行動は罰するべきだが、除籍処分にはするな。その言葉の意味を、見極めようとしているのかもしれない。
操はその視線に屈さないよう、机の下で拳を強く握りしめる。そして不敵に笑って見せた。
「話を戻そう。私は先生たちの……
許すも何も、怒っていない。不信感なんてない。今だってずっと、相澤のことを信頼している。掬い上げてくれたワイプシの事を好きでいる。救けてくれたオールマイトの事を、尊敬している。
でも操は自分のために、
「……だから相澤先生、お願いします。今回の件であいつらを除籍処分にしないでください」
「赤、黒……少女……」
「お願いします」
操は笑みを消し、深く頭を下げた。
これはみっともない懇願だ。自分本位で身勝手な哀訴だ。一蹴されてもおかしくない戯言だ。それでも相澤が再び口を開くまで、操は頭を下げ続けた。
「……お前は、ルールを破った六人を肯定するのか?」
「しない、するわけない」
「あいつらの行為が除籍処分に該当しないとでも?」
「除籍は妥当だ。あいつらは雄英やヒーローだけでなく、自らの命も危険に晒したんだから」
「なら、除籍処分にしたくない理由は?」
顔を上げると、相澤は先程と変わらず静かな瞳をしていた。怒っていない、呆れてもいない、責めてもいない。ただ操の意見を聞くために、耳を傾けている。
操を真っ直ぐ貫く視線に、嘘はつきたくないと思った。
「頭では、ルールを破った六人が悪いってわかってる。でも、それじゃ私の心が追いつかない。納得がいかないんだ」
「納得がいかない、ね……。それが理由でルール違反を見逃すのか」
「……それは、」
「それがお前の"成るべきヒーローの姿"か」
「……!」
兄が、操を見下ろしている。
寂れ、真っ暗なアパートの一室で、首筋に日本刀を突きつけながら操の事を見下ろしている。そして告げるのだ。『ヒーローになるなら、必ず本物になれ』『決して道を違えるな』と。
操はその刃を握りしめ、押し退ける。そして刀身を真っ赤に染めて笑うのだ。『私は私の道を行く』『私は──』。
「私は
何のためにヒーロー免許があるのか。何のために学校があって、訓練を積むのか。六人が自覚しないというのなら、操が悪役になってでも叩き込んでみせる。──操のせいで大切な人が死んでしまうのは、二度と御免だから。
民間人はたくさん死んだ。六人が死ななかったのは奇跡だった。そして爆豪や操が死ななかったのは、救けにきてくれたヒーローや警察官、そして緑谷たち六人が必死になって最悪の中の最善を掴み取ってくれたからだ。
──なんて、そんなものは建前。本音はもっとシンプルで、自分勝手なもの。
「……嫌なんだ。救けに来てくれた六人が学校からいなくなるの、すごく嫌だ。だって、私は、私は──……!」
操はそこで言葉を区切ると、勢いよく立ち上がった。そして相澤をじっと見つめてから再び頭を下げる。「お願いします」の言葉を添えて。
これはみっともない懇願だ。自分本位で身勝手な哀訴だ。一蹴されてもおかしくない戯言だ。それでも操は、お願いせずにいられなかった。
「あいつらのこと、好きなんだ」
規則を破った六人が悪いのはわかっている。操が身勝手な我儘を言っているのもわかっている。あまつさえ"六人のため"ではなく"自分のため"だなんて、自己中心にも程がある。それでもぐちゃぐちゃな感情が行き着く先は一つだけで、「A組が好きだから除籍にしてほしくない」のだ。
──大切なんだ。私がステインの妹でも「それがどうした」と跳ね飛ばし、「守ってあげる」と言ってくれた
本音を隠して
「……たとえ俺が除籍処分にしなかったとしても、報道されたらどうしようもないぞ」
「そしたらオールマイトが何とかしてください」
「え、私!?」
「出来ますよね?」
「え、その、うーん、えっと……!」
「……なんとかねぇ、」
「お願いします」
命懸けで救けてくれたヒーローを、心の底から心配してくれた先生を、操は汚く利用する。
──私を許さなくていい。私のことを嫌いになっても、いい。……本当は、嫌だけど。嫌われたくない、でも六人を除籍にしてほしくない。何とかしたい、でもあの場に来た事を肯定したくない。
心の中で散らかった感情は自分でもうまく分別出来なかった。けれどハッキリとわかるのは、正しいとか正しくないとか抜きにして操はあの居場所を奪われたくないと思っている事だけ。
こんなこと、兄に言ったら問答無用で斬り殺されるだろう。相澤には二度と「ヒーローになる」と言ってもらえないかもしれない。それでも──。
「除籍に、しないで……」
自分の心を殺して前に進めるほど、操は強くなかった。
そうやって頭を下げていると、深いため息が聞こえてくる。言わずもがな、相澤からである。呆れられているのだろう。もしかしたら、失望されているのかもしれない。
それでも操は机の木目をじっと眺めながら頭を下げ続けた。相澤が「わかった」というまで何時間も、何日も頭を下げてやる。操はそこまで考え、あることに気が付いてハッと息を呑んだ。
──待て、この状況……先生は座っているが私は立っている。頭を下げていても、先生より高い位置にあるんじゃないか?
そう思った操は勢いよく上体を起こすと椅子を蹴散らした。そして素早く相澤の横に移動し、床の上に正座する。見上げた先には目を丸くした相澤がいたが、それでも操は正座をしたまま真っ直ぐ彼を見つめて口を開く。
「頼み事をする姿勢ではなかった、もう一度やり直させてくれ」
そう言って床に手のひらをつけようとしたところで、操は腕を掴まれ無理やりその場に立たされた。突然のことに思わずよろめくが相澤に支えられ、すぐにその手は離れていく。操を見下ろす瞳は珍しいことに、困惑したような目つきであった。
相澤はぶつかっていた視線を逸らすと、頭を掻きながら隣の椅子を引く。そして操に座るよう指示すると、自分も椅子に腰を下ろし、再びため息を吐いた。
「普通だったら、お前が何と言おうと俺はあいつらを除籍する」
「……」
「ただ、今回はオールマイトが引退する。今雄英から人を出すわけにはいかない……まァ、かろうじて首の皮一枚繋がった状態って事だ」
「……そう、か」
除籍はしない。遠回しなその言葉に操は強張っていた身体の力をゆっくりと抜いていった。そして力無く背もたれに寄りかかり「よかったー……」と呟けば、相澤の後ろにいるオールマイトと目が合って、彼はサムズアップをしながらニコッと笑った。
操が「何とかしろ」と頼む前から、彼は日本の人々をずっと守ってきた。引退し、戦えなくなった今でも。──私たちが攫われなければ、貴方はまだ戦えていた?
その言葉は、音にする前に飲み込んだ。そして操もオールマイトに向けて、とびきりの笑顔を見せるのだ。
「……それに俺も人の事言える立場じゃないしな」
「……?それはどういう、」
しかし操がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間で、相澤の不穏な言葉に思わず首を傾げてしまう。そしてオールマイトが言いにくそうに吐露した言葉に、目を見張ることとなった。
相澤とブラドキングは解雇若しくはヒーロー免許剥奪の可能性があったらしい。その理由は「免許を持っていない子どもたちを戦わせた」こと、そして「生徒が連れ去られた」ことにある。要するに責任を取らされるという事だ。
それを聞いた操は愕然としてオールマイトから相澤に視線を戻す。そしていつも通りのなんて事のない顔をした相澤がA組からいなくなることを想像し、操の目の色は徐々に変わっていった。
「……そんな……次はどこを脅せば……」
「脅すな」
「(脅してる自覚、あったんだ……)」
相澤にギロリと睨まれ、操は思わず身を縮めて視線を床に落とす。飼い主に悪事がバレてしょぼぼ顔になった猫のようになっているが、その雰囲気は先ほどに比べて明るい。
誰一人欠ける事なく再び学校に通えるということが、それほど操の中では大きな事なのだろう。相澤は微笑むオールマイトと視線を合わせると、何度目になるかわからないため息を吐いた。
操は雄英高校一年A組が好きだが、それは担任が相澤であることも含めて好きなのだ。だから生徒が残っても、相澤が欠けてしまっては意味がない。
操は勢いよく顔を上げると前のめりになって相澤に詰め寄った。相澤には少し鬱陶しそうな顔をされたが無視し、気になることを全部聞こうと思う。
「先生も含めて、誰も欠けない?」
「驚く事にな」
「透と響香は?意識不明って聞いたけど、元気か?」
「昨日会ったが、元気そうだったよ」
「あっ、出久は?出久も怪我酷かったよな?この間あった時よく見てなくて……」
「緑谷少年と昨日会ったのは私なんだけど、無事だから安心するといい!そもそも赤黒少女が一番じゅうしょ──……」
「そっか、よかった……!」
「……」
いつものような勝気な笑みではなく、眉を下げて頬を緩ませ、心の底から安堵する操を見て教員の二人は何とも言えない表情になった。
それに気付かない操は机の上に手を伸ばすと、氷が溶けて薄くなった麦茶を一気に呷る。そしていつものように勝気な笑みを浮かべ、腕と足を組み、今更ながら踏ん反り返った。
「フ、ならこれからもよろしくな!」
「(軽いな……)」
──次は負けないし、二度と攫われない。そのために操は明日から、大切な人を悲しませない為に訓練を積むのだ。
満面の笑みの裏に僅かばかりの悩みと決意を隠して、操の家庭訪問はここからようやく始まっていく。その後はワイプシを交えて寮に必要なものを確認したり、今後の雄英の方針について語り合う時間となった。
操は途中から起きてきた洸汰とカブトムシを眺めたり、昼の残りのポテトサラダを食べていたりしたが、概ね良好に話は進んでいく。そして陽が傾いた頃、相澤たちは帰るため車に乗り込もうとしていた。
「相澤先生」
しかし運転席に乗り込もうとした相澤を引き止めたのは操だった。車体は夕日に照らされ、淡い朱色に反射している。その場に立ち止まった二人も同じように照らされていたが、操の顔はにやにやと緩み、それを隠す様子は微塵も感じられない。
操はヴィラン連合のアジトで見た謝罪会見を思い出していた。あの時相澤は「ヴィランと繋がっているのではないか」と言われた操の疑惑を真っ向から否定し、「必ずヒーローになる」「悪の道に染まるわけがない」と言い切った。それを思い出して、喜びを抑えられるわけがなかった。
「信じてくれてありがとう、すっごく嬉しかった!」
「……思ったことを言っただけだ」
「でも、本当に嬉しかったんだ。マスコミとか知らない人にさ、ヴィランとかステインの妹とかスパイとか……もう何言われても良いやって思った」
怪訝そうな顔をする相澤に、操はニッと笑って見せる。
これは諦めからくる言葉ではない。誹謗中傷を受け入れたわけでもない。あの日のように言い切ってくれる
「これから行動で示すよ。ヒーローになるのを"認めてもらう"んじゃない、"認めさせてやる"。必ずな」
操は相澤の返事を聞かず、助手席側に立つオールマイトの下へ向かった。いつものように見上げている筈なのに、その姿は随分と小さく見える。
操の目の前に立つ彼は筋骨隆々とした姿とは程遠い、骨と皮だけの身体だった。しかし動きに不自然な点が見当たらないことから、彼は"この状態に慣れている"のだろう。
今思えばオールマイトは授業に遅刻していたり、授業後すぐにいなくなる事が多かった。個性であの体型を維持していたのか、どんな仕組みなのかはわからない。いつからそんな姿だったのか、その姿を隠して戦い続けてきたのかなんて想像がつかない。
「オールマイト…… 救けにきてくれてありがとう」
「当然のことをしたまでさ。しかし、遅くなって本当にすまなかった」
ただ一つわかるのは、オールマイトが救けに来てくれたこと。そして操は助かったということだった。それだけで充分だったから、操は余計な詮索をしない事にした。
操はふっと笑うと、腕を伸ばしてオールマイトの手を取る。皮と骨だけの手はカサついて、傷だらけで、ボロボロだった。思わずそれを撫でると、オールマイトは驚いたように目を丸くする。
「あ……赤黒少女……?」
「遅くなった事については……そうだな。さっきの"お願い"は誰にも言わないでくれ。それでチャラだ」
──子どもの頃から、私はずっとどこかでこの人の助けを待っていた。
オールマイトなら何とかしてくれる、必ず助けてくれると信じる民衆の一人だった。ヒーローを目指しても尚、そう思っていた。
でもそれはもう、おしまいにする。
「ずっと守ってくれてありがとう」
平和の象徴は潰えた。
潰したのはヴィランか、勝己か、操か。わからないけれど、操はこの手に救われたからこそ、やらなければならないことがある。
「これからはお前を、お前が生きるこの世界を、私たちが守るぞ」
彼が安心できるような未来は
ヒーローは一人ではない。平和の象徴が一人である必要はない。欠けたものは全員で補い、支え合い、助け合って生きていけばいい。
操はオールマイトの手をそっと離すと、身を翻して車から距離をとる。見渡す限りに広がる深緑の森は、燃えるような夕映えに包まれていく。あと数時間も経たないうちに空から赤は消え失せ、薄い藍色へと変化していくのだろう。
相澤とオールマイトは車に乗り込むと、夜の方角に向かって走り出す。サイドミラーを確認すると、操はワイプシと並んで車が見えなくなるまでずっと手を振っていた。だからオールマイトは彼女の姿が見えなくなるまで、ずっとそれを眺めていた。
「……相澤くん」
その姿が見えなくなると、オールマイトは正面の山道に視線を移した。そして代わり映えのない道を眺めながら、運転席の男に声をかける。
相澤から返事はない。ただそれは無視をしているのではないとわかっているから、オールマイトはそのまま言葉を続けていく。
「赤黒少女は人の心配ばかりで、自分の怪我については何も言わなかったね……」
「……」
今回の事件に巻き込まれた生徒の中で、心身共に深手を負ったのは彼女だろう。職場体験の時は「ヒーロー科をやめる」と言っていた。今回ヒーロー科は辞めずとも「雄英高校をやめる」と言ってもおかしくはなかったのに。だって雄英は、二度も操を守れなかった。
オールマイトは自身の手のひらを見つめる。薄くて細くて、情けない手のひらだった。けれど彼女はそれを労るように、大切なものを包み込むように握りしめていた。あの笑顔や行動に嘘なんて見当たらない。
赤黒操はステインの血縁とは思えないほど、人間味に溢れた子どもだ。けれどその"性質"は他人が思っている以上に、あまり変わらないのかもしれない。
「彼女は今後
その言葉の先を、オールマイトは紡げなかった。
言葉が消え、静かになった車内でエンジンの音は絶え間なく流れている。車が森を抜けて塗装された道路に差し掛かった頃、相澤はため息を吐いてハンドルを握り直した。
「本当……うちのクラスは問題児が多くて困りますよ」
この道を走るのは二度目であるのに、日が沈んだからか違う道を走っているように感じた。信号の少ない山道を行き交う車はまるで川の流れのようで、それぞれ一定の距離を保って走っていく。
都会では見る事のない星空が、頼りなく大地を照らしている。そんな中、二人を乗せた車は夜の道路を駆け抜けていった。
「やっぱり、ここにいたのね」
「シノさん」
マンダレイが宿泊施設の屋根に登ると、予想通りそこには操がいた。彼女は夜空を見上げながら屋根の上に腰を下ろしている。その髪は先程風呂に入ったからか少し濡れていて、マンダレイは「湯冷めしないのか」という言葉をかけようとして飲み込んだ。何故なら、個性のおかげで身体を温められると思い出したからだ。
よいしょと操の隣に腰を下ろしたマンダレイは同じように空を見上げる。見上げた先では星が降ってくるような、圧巻の夜空が広がっていた。
「操」
「ん〜?」
「何か、悩んでる?」
「……」
随分と気の抜けた返事だった。それは気を許している証拠で、出会った当初に比べたら彼女は物凄く人間らしくなった。その成長はとても尊く、奇跡のようなもの。様々な人と出会い、話し、色々なことを経験したから得たもの。けれどその成長は時に悪い方向にも転がっていく。
操は悩みや苦しみを打ち明けず隠す傾向にある。それに気付いたのは、彼女が職場体験に行った辺りだろうか。
驚いたように目を丸くした操は空から視線を外してマンダレイを見ると、ふっと笑う。その表情は少し寂しげで、思い詰めたものだった。
「……神野で、ヴィラン連合のやつらと話したんだ」
「うん」
知っている。爆豪勝己の証言で操が彼らとどんな会話をしたのか記録されているから、マンダレイはそれを知っている。けれど何も知らないフリをして、操の次の言葉を待っていた。
操はあの日を思い出すように、何もない
「己の価値観が一般的な価値観とかけ離れていた場合、それを抑えて生きるのは幸福であるのか。そう言われて、少しわからなくなった」
血塗れの人に好意を"抱いてしまう"ヴィラン、トガヒミコ。
集団で生きていく上で大切なのは己の趣味嗜好より倫理観だ。けれど一般的な"普通"を強要することで抑圧される人が生まれ、その人だけが苦しむ世界は正しいのか。異質な普通を受け入れて欲しいと願うことは罪なのか。その果てに武器を取ることは、悪なのか。
「自分が生きやすい世界を創るために私や勝己を攫うのは間違いだ。神野区の人たちを巻き込んでおいて、自らの自由を訴えるのはお門違いだ。それはわかっているよ」
操は
けれど"わからなくなった"のはそこではない。操は気付いてしまったのだ。
「ヒーローは
ヒーローは必ず、誰かにとっての悪になる。誰かを救うために伸ばした手のひらで、別の誰かを滅ぼしている。
操は悲しむ人をどうにかしたかった。だからヒーローを目指した。けれど操が戦うことで悲しむ人が生まれることに違和感を覚えてしまったのだ。──ヒーローは全ての人を救えるわけではないのだ、と。
ヴィランが罪を犯した以上止めるしかない、それはわかっている。でもヴィランを止めた後でヒーローや社会は彼らを抑えつけて生きていくのか、それとも「彼らにとっての救い」を見つけられるのか。もう少しその点について考えたいし、考えるべきだと思ったのだ。
「……私は
操は力無く笑うと「悩んでいるとよくわかったな」と続けた。それを聞いて、マンダレイはなんとも言えない気持ちになって目を伏せた。
──あぁ、この子は本当に優しくなった。悲しいほどに、苦しいほどに。
一度しか会ったことのないヴィランの話を聞いて、この世に蔓延る悪を救いたいと考える。ヴィランを救いたいと思うのは彼女の血縁にヴィランがいるからか、それとも彼女がヴィランの家族だからか。マンダレイにはわからない。
ヒーローに憧れ、眩しい光を受けたまま突き進んでくれればよかった。「
けれどそれが出来ないから悩んで、考えているのだろう。だからマンダレイは数々の言葉を噛み砕き、無理やり飲み干した。そして心を鬼にしなければならない。
「……操、あのね」
「うん?」
夜の黒々とした空気に押しつぶされそうだった。こんなことは言いたくない、けれど操を大切に思うのなら言わなければならない。
顔を上げたマンダレイの鋭い視線が、操を射抜いた。彼女の瞳がそんなに鋭くなったのを初めて見たから、操は少し驚いて背筋を伸ばす。
「知子が殺された時、貴女はとても苦しい思いをしたわね」
「……うん」
「また同じことが起きた時、貴女は耐えられる?冷静でいられる?」
「……えっと、何が言いたいんだ?」
「その覚悟がないなら、ヒーロー目指すのやめな」
生温かな風が二人の髪を舐めるように攫っていった。それは次に木の葉を搔き鳴らし、森の奥へ通り抜けていく。やがて静寂に包まれると、動物や植物の息遣いが昼より鮮明に聞こえた気がした。
全てが闇に飲み込まれたこの時間帯では、月光の灯りだけが頼りだった。
──目の前の死に直面する覚悟はあるのか。ないのなら、やめたほうがいい。
マンダレイは表情を変えず、もう一度その言葉を口にした。ラグドールが目の前で死んだ時、彼女は一度壊れてしまったそうだ。それは人伝に聞いた話で、実際目にしていない。けれど体内に流れる血液を刃物に変えて体外に放出するなんて、正気の沙汰じゃない。
操は理性的な人間だ。自分が動けなくなるほど自傷をするだなんて、普段の彼女じゃ考えられない。でも最近の操を見ているとそうなってしまうのも頷ける。頷けてしまうのだ。
最初に出会った時は一切他人に興味がなく、自分がヒーローになる事だけを考えていた。
けれど操は他人を思いやるようになった。大切な人の前で笑い、怒り、悲しむ心の変化が生まれた。クラスメイトのために頭を下げ、土下座までするとは思わなかった。昔の彼女だったらきっと、彼らを切り捨て自分だけは先に進むような子だったのに。
凍りついた操の心は息を吹き返し、さまざまな世界を見て今も尚成長している。だからこそ恐ろしいのだ。大切な人が奪われた時、この子がどうなってしまうのか考えるととても恐ろしいのだ。
「誰が死んでもおかしく無いのよ。私も、知子も、イレイザーも……クラスの子たちも」
家庭訪問は終わった。明日から雄英高校に向かう手筈も整っている。それでも、覚悟が無いというのなら此処で無理やり止めるつもりでいた。
ヒーローになれば大切な人が目の前で死ぬこともある、守るために己の命を賭けることもある。そして、ヴィランが報われる事なく死ぬことだってある。
誰かに置いていかれる覚悟と、誰かを奪われる覚悟、そして誰かを残して死ぬ覚悟と、誰かを奪う覚悟は常に持っていなければならない。壊れる前に、そんな未来がある事を知ってもらわなければならない。
「あなたはその時耐えられる?誰かが死んだ時、正気を保っていられる?その覚悟はある?」
思春期の子どもは心が発達している途中であり、とても繊細だ。揺れ動く子どもの心を守るのもまた、ヒーローの役目であり、操を大切に思う大人の役目だった。
大切なのは、何かあったとしても自分で這い上がれる力。自分で這い上がって、自分で前を向いて歩いていく力。子どもである操にそれを求めるのは酷だが、そうでもしないと今後取り返しのつかないことになる。
だからこそマンダレイは心を鬼にして告げるのだ。「その覚悟が無いなら、ヒーローを目指すな」と。
「……大切な人が死ぬ覚悟なんて、一生できないよ」
操はラグドールが砂になった時のことを思い返して、正直に答えた。揺れるマンダレイの瞳を見つめ返して、自分の気持ちが少しでも多く伝わるように願う。
寿命で死ぬのは皆等しく、百年経てば誰だって骨になる。けれど奪われて無惨に殺される覚悟は、何年経っても出来るわけがない。
ヒーローは戦うのが仕事だ。だから命が削られ、危険に晒されるのは必然である。それを理解しても尚、誰かを救うために戦い続けるからヒーローなのだろう。
「私はシノさんが殺されたら泣き喚くぞ」
「……」
「でも泣いて泣いて泣き尽くしたら、立ち上がってみせる。だってヴィランを止めないと、また奪われてしまうから。二度と奪われないために、歯を食いしばって強くなる」
口先だけの言葉で未来を語っても、結局その経験をしない限りどうなるかなんてわからない。けれど操には数多くの友がいる。頼りになる先生もいる、こうやって心配をしてくれるマンダレイがいる。
手を伸ばして、夜風に晒された彼女の腕に触れてみた。そこは冷たくて、思わず手のひらで優しく撫でる。そのまま距離を埋めれば肩口に頭が乗せられた。背中に、腕が回される。
「だからさ……私が悲しんでいたら、また抱きしめてよ。その代わりシノさんが悲しい時は、私が抱きしめてやるから」
ワイプシに出会えていなかったら、きっと操はヴィランになっていた。操にとってそれほど大きく、唯一無二の存在。兄と血液の赤しか知らなかった操の世界に、ワイプシは様々な色彩を見せてくれた。
──貴女たちに救われたから、私は、貴女たちと同じように誰かを救いたいと思ったんだ。
「雄英に行ったら、絶対に辛い思いをする」
「行かなくても、きっと辛い思いをするよ」
「貴女が無理にやる必要ないの。頑張る必要、ないのよ」
「無理してないよ、やりたくてやってるんだから」
「……ヒーローになったら、」
「シノさん、もう手遅れだよ。だって私はワイプシもクラスメイトも先生のことも大好きなんだから」
好きだからこそ守る力を、そして戦う力を手に入れたいのだ。
操には、見て見ぬ振りをして兄を止められなかった過去がある。失言で大切な人を殺しかけた過去がある。──そんなの、二度と御免だ。
ヒーローとして戦い方を学び、医者として医学を学んだほうが大切な人たちを救けられる。そして今はまだ答えを出せないヴィランについても、きっと何かの手掛かりになるはずだ。
何もせずに後悔するくらいなら、とことんやることをやって後悔する。操は、そういう生き方しかできないのだ。
「……操、」
「ん?」
温もりはまだ腕の中にある。その温かさに寄りかかりながら、いつ消えるかわからない明日を大切にして生きていこうと思う。
選択だらけの人生で、なるべく悔いの残らない方を掴み取れるように。
「またみんなでご飯作って、一緒に食べようね」
「……うん!」
空には星が美しく煌めいている。
見上げた先で輝く星は、操を照らしてくれた彼女にとてもよく似ていた。決して一つじゃない無数の輝きは、いつだって操を導く光となる。
新幹線のホームには様々な人がおり、人々はそれぞれの行き先に向かうため右往左往していた。人混みを避けて歩くのは困難だったが、体格の良い虎のおかげか人々が此方を避けて歩いているような気がする。
夏休みはまだ中旬であるが、大きな荷物を持った人々がとても多かった。旅行か、帰省か。そんな人たちとすれ違いながら、操は手の中にあるお弁当を見つめてにっこにこしていた。
「じゃじゃーん!デラックスハンバーグ弁当に海鮮ちらし弁当〜!むふー!食べるの楽しみだ!!」
時刻は午前六時。操は始発の新幹線に乗るため、ワイプシたちと共に駅のホームに降り立っていた。
朝ごはんは施設で食べたのだが、何故か弁当を二つも購入している。到着までに一時間もかからないのだが、どうやら車内で食べるらしい。ピクシーボブはそんな操に呆れながらも、それが操らしいと笑うのだった。
「いつでも連絡してきなさいよー」
「うん」
「トレーニングのし過ぎには注意したほうがいい。休むことも大切だからな」
「わかってるって」
「えぇ……本当に?」
「信用ないなぁ……」
「日頃の行いが悪いんだろ」
「おい悪口!」
ピクシーボブ、虎、マンダレイ、洸汰と言葉を交わし、いつものように頬や髪を引っ張り合う。そうやってみんなで笑い合う時間はかけがえのないものだと私たちは知っている。今回の事件で、知ってしまった。
アナウンスが流れ、新幹線の細長い車体が滑らかに現れる。それはやがて停車位置で止まると、風を噴き出すようにして扉が開いていく。間も無く出発の時間だ。
「操、」
「ん?」
「あちきからは、ハイ!これ!」
「!」
大きなキャリーバッグを引き寄せ、新幹線の座席を確認している時だった。近くに来たラグドールの手の中にあったのは、真新しいバングル。言わずもがな、雄英高校入学前に貰ったレザーのバングルであった。
元々付けていたものは合宿中に無くしてしまった。後で強請ろうと思っていたが、色々あったので忘れてしまっていた。けれどずっと手首が寂しいと思っていたのだ。
ラグドールは手際良く、操の左手首にそれを巻く。するとそれまで見えていた傷跡は綺麗に隠れていった。
「解けちゃったから、もう一度おまじないをかけるにゃん!」
ラグドールはそう言うと、まだ傷の塞がっていない操の身体をそっと抱きしめた。
──操が今後、自分自身を傷付けませんように。誰かに酷く傷付けられませんように。戦いに行っても、無事に帰って来ますように。どうか無理をしませんように。
そう、願いを込めて。強く優しく抱きしめた。
「前と一緒で包帯の代わり!」
「守るためのアイテムだっけか?フ、懐かしいな」
操が笑えば、ラグドールも大きな口を緩めて笑った。深緑の髪がさらりと揺れ、風に乗って流れていく。
電車が間も無く発車するというアナウンスが流れ、操は彼女たちから数歩距離をとる。振り返ると、私服姿の五人が此方をじっと見つめていた。
引き裂かれるような思いをした。辛く苦しい体験をした。けれどそんな思いを抱くのは、彼女たちがそれほど大切だという証明であった。
五人の顔を見ると辛くて悲しい記憶より、笑顔の記憶が鮮烈に蘇る。だから操はやっぱり五人に出会えて良かったと思うのだ。彼女たちに出会えたから、操はこの場に立っている。
「シノさん、トモコさん、ヤワラさん、リュウコさん、洸汰!」
「行ってきます!」
悲劇と災難が突如降りかかった、忘れられない夏は終わりを迎える。
私たちは始まりも終わりも知らされず、今を歩き続けている。生命体である以上人はいずれ死んでしまうから、一緒にいられる時間はきっと短い。だから出会えた奇跡に感謝し、好きという感情を大切にしていきたいのだ。
「いってらっしゃい!」
振り返った先で、五人の笑顔が咲き誇る。
操は同じように笑顔で返して、足取り軽く新幹線に乗り込んだ。
【家庭訪問編 了】
三章は全面戦争直前(26巻)までいきます。
よろしくお願い致します。