「……え?」
──ヒーロー殺しステインがまた被害者を出した。被害に遭ったのは、うちのクラスの飯田の兄にあたる人物だ。
真っ直ぐ
噛んでも噛んでも噛みきれなくて、喉に詰まってしまいそうだから?それとも喉に蓋がされていて、飲み込んでくれなかったから?
──ううん、違う。受け入れ難いから、自分の意思で飲み込まなかったのだ。
兄が人を襲って、その被害者が飯田の兄。
その事実を受け入れたくなくて、飲み込みたくなかったんだ。
「赤黒!」
「……あぁ、大丈夫、ちょっと疲れているだけで……」
臓物がぐるりと掻き回されたような気がして、
まるで糸が切れた操り人形の様に座り込んだので相澤は咄嗟に駆け寄ったが、操は身体中に土嚢を括り付けられたように身体が重たくなって、立ち上がることができなかった。
冷たい床が足元からじんわりと身体を冷やしていくけれど、心臓は鉄板の上に置かれているように物凄く熱かった。口の中は乾いているのに、手のひらは汗をかいている。
相反する身体の症状を落ち着かせるようにゆっくりと息を吸って吐いた。それなのに、落ち着く気配は一向に無かった。
「先生。襲われたヒーローの名前、なんだっけ」
「……ターボヒーローインゲニウムだ」
「インゲニウム……」
その名前をどこかで聞いたことがあるような気がしたのだが、その場で思い出すことは出来なかった。
テレビで見たのだろうか?ワイプシの面々とタッグを組んでいたのだろうか──ダメだ、思い出せない。
操はふと教室でスマホをいじる耳郎の姿を思い出して、傷の付いていない新品同様のそれをポケットから取り出した。スマホで簡単に調べられる時代なのだ。特にヒーローともなれば顔写真くらいは出てくるだろう。
そう思って調べようとしたのだが──。
「あ、れ……?」
操は思わずスマホを落としてしまった。手からこぼれ落ちたスマホは膝を滑って、音をたてて床に叩きつけられる。
体育祭の疲労で落としてしまったのだろうか。そう思いながら疲労回復のために血液を回し、再びスマホに手を伸ばすが──伸ばした手は小刻みに揺れていて、上手く掴むことができなかった。
狙いが定まらず、揺れる指先に弾かれたスマホはさらに床を滑っていく。けれど体は重くて動かなくて、それ以上腕を伸ばすことができなかった。
「あれ、あれ……おかしいな……?」
「……赤黒、もういい。とりあえず今日は帰るぞ」
その状況を見兼ねた相澤が包帯の巻いていない手でスマホを拾って、それを机の上に置いた。どこからどう見ても、操は精神的にダメージを受け動揺している。
相澤は体を震わせ目を見開いたまま浅く呼吸を繰り返す操の背中に触れ、どうしたものかと顔を上げる。すると扉の向こう側からこちらを覗くミッドナイトとプレゼントマイクの姿を見つけ、自分一人では手に負えないと判断した彼は二人にアイコンタクトで応援を要請した。
「赤黒さん大丈夫?立てる?」
「うん、へいき……」
それを受けて直ぐに駆けつけたミッドナイトは、操の横に寄り添うように膝をつく。そして優しく語りかけるのだが、操は返事をしたものの何もない地面を真っ直ぐに見つめて動かない。
腕をひいて立ち上がらせようとしても、膝に力が入らないのか座り込んでしまう。その様子に、ステインの犯行は思っていた以上に精神的なショックを与えているのだと三人は実感せざるを得なかった。
入学前ワイプシから提出された報告書に目を通し、操が「ステインの犯行に責任を感じている」事は知っていた。しかしあの赤黒操がこれ程までになるとは思っていなかったのだ。
彼女の精神面を考えると、泣いて怒鳴り散らしてくれた方がよっぽどよかった。塞ぎ込まれるより、よっぽどよかった。
──こんな状態の操を家に帰すわけにはいかない。彼女は一人暮らしなので、家に帰すということは精神的に不安定な子どもを放置することと同義である。
言葉にしなくともミッドナイトはそう思ったのか、個性を使用して操を眠らせた。崩れ落ちた小さな身体を受け止めて、これからどうするべきか三人は話し合ったのだった。
「起きたか居眠りガール!」
「体育祭で疲れてたんでしょう……おはよう、気分はどうかしら?」
気が付いたら眠っていた。
操が目を覚ますとそこは学校で、驚いて飛び起きたところにプレゼントマイクとミッドナイトがやってきた。どうやらここは仮眠室で、私は突然眠ってしまったらしい。
制服のネクタイと第一ボタンは外されていて、ブレザーも脱がされていた。体育祭のせいか髪の毛は砂埃で汚れていて、所々絡まっている。
──なんで学校で寝ていたんだ?
ぼんやりとして回らない頭の中、ミッドナイトから手渡されたペットボトルの水を受け取った。冷たい水が喉を通っていくのを感じながら徐々に鮮明になる思考。そして意識が解けていくように、眠る前の出来事を思い出した。
──あぁ、そうか。お兄ちゃんがまたヒーローを傷付けたと聞いたんだっけ。
あまりのショックに気絶でもしたというのだろうか。そう考えながら、操はミッドナイトから手渡されたブレザーに腕を通す。
窓枠に四角く切り取られた空は黒く塗り潰されていて、そこから深い闇がこちらを覗いているようだった。
「もう遅いし何か食べて帰ろうぜ。赤黒は何食べたい?奢るから遠慮はするなよ!」
「……何でもいい」
──何でもいいだと?
プレゼントマイクは顔には出さなかったものの、操の返事に酷く驚いていた。
生徒と食事を共にする機会は滅多にないが、プロヒーローランチラッシュが学食を切り盛りしている事から昼食中の生徒はよく話題になる。その中でもよく名前が上がるのはA組の赤黒、芦戸、葉隠の三人なのだ。
彼女たち三人は学食制覇を狙っているらしく、よく日替わり定食の座を賭けて仁義なき戦い──ジャンケン──を繰り広げているという。
「通常メニューは変わることがないので全員で日替わり定食を頼めばいいのに、彼女たちはいつだって全員で違うメニューを頼んで分け合っているんですよ」とランチラッシュが笑いながら話すのを覚えている。
そして三人はいつだって「美味しかったですー!」「今日もいい味付けだ……褒めてやろう!」「明日も楽しみにしてます〜!」と言葉を残して去っていくというのだ。こんな気持ちのいい生徒たちが話題にならないはずがない。
授業中は淡々としているかドヤ顔しかしない赤黒操が唯一満面の笑みを浮かべるのがご飯を食べている時なのだ。その操が「何でもいい」とは、先ほどの件が余程精神にダメージを与えていると窺える。
プレゼントマイクはミッドナイトと視線を合わせた。そんな二人に気付くことなく、操はゆっくりとネクタイを結んでいた。
操はプレゼントマイクとミッドナイト、そして合流した相澤と共に職員室で出前の蕎麦を食べた。
その後プレゼントマイクが運転する車に乗せられ家まで送って貰ったのだが、何と声をかけられたのか全く覚えていない。そしてその日は心身ともに疲れていたのか、気付けば操は眠ってしまっていた。
次の日、水分が足りずひび割れた大地の様にカラカラに乾いた喉が痛みを訴えて、操は昼過ぎに目を覚ます。
砂埃と汗を落とすためシャワーを浴び、濡れた髪をそのままに放置して水を飲み、ぼんやりとした思考のままテレビを付けてみると──ニュースではヒーロー殺しステインの事件について放送していて、思わず動きを止めて見入ってしまった。
『今回被害に遭ったターボヒーローインゲニウムですが──』
その言葉と共に映し出されたヒーローの姿に、操の脳裏にとある記憶が蘇る。
陽が射さず湿気の多い路地裏、痩せ細った見窄らしい猫。そしてその風景に溶け込んだ、サイズの合わない服を着た
それは赤と黒に彩られた、幼い頃の
「てか、アンタだれ?」
「俺か?俺はターボヒーロー、インゲニウムだ!」
「だから誰?知らないんだけど」
「はは、知らないか!俺もまだまだだな」
ガンダムみたいなフルフェイスヘルメットを被ったコスプレじみたヒーロー、インゲニウム。
操が酔っ払った若者に絡まれた時、間に割って入った男。蛸の個性を暴走させた市民を迅速に抑え、怪我をした操を手当てした男。
確かそのヘルメットの下の素顔は──。
「──あぁ、だからか。飯田に見覚えがあったのは」
点と点が繋がったような、埋まっていなかったパズルのピースが嵌まったような気がした。
操は、インゲニウムに会ったことがある。兄がまだステインになっていない時に、会ったことがあるのだ。
手に持っていたグラスが滑り落ちて、足には水がかかって濡れる。そして床に叩きつけられたグラスは悲鳴をあげて壊れてしまった。
一歩進めばガラスの破片を踏んでしまったけれど、操は気にせずそのまま歩いた。その破片はぷつりと皮膚を突き破って肉を裂く。赤い血液がフローリングの床を汚していく。
その全てを無視して、操は事件のあらましを話すテレビを食い入る様にジッと見つめていた。
ターボヒーロー、インゲニウム。
彼は保須市内で遭遇したヒーロー殺しステインによって襲われたものの、奇跡的に一命を取り留める。しかし彼を手術した医師によると、あと数分治療が遅ければ命を落としていたという。
インゲニウムの所属するヒーロー事務所『チームIDATEN』によると、インゲニウムは後遺症が残る可能性があるため今後のヒーロー活動は未定とのことだ。
一つの未来が、音を立てて崩れ落ちた。
操はその事実に目の前が真っ暗になったような気がした。
インゲニウムだけではない。インゲニウムに関わる家族やサイドキックの未来も、今回の事件で歪ませてしまったのだ。
他の誰でもなく操の兄が、人々の未来を葬ったのだ。
窓から光が差し込む正午、操はテレビの向こう側にいるアナウンサーが別のニュースを読み上げていても、ただその場に立ち尽くして呆然としていたのだった。
ヒーロー殺しステイン。
五年ほど前に現れた彼は一般市民を狙うのではなく、その名の通りヒーローを狙うヴィランであった。その実態はこれまで十七人を殺害し、二十三人を再起不能に追い込んだ凶悪犯である。
彼が何故ヒーローを狙うのか、そしてどのような個性を持っているのか。それを警察が掴んでいるのか否かは不明だが、少なくとも一般市民にその情報は開示されていない。
故にステインが罪を重ねる度にネットは良くも悪くも騒がしくなり、彼の個性や思想について議論になっていた。
そして皮肉なことに、インゲニウムが襲われた日は雄英高校の体育祭が開催されていた。
雄英体育祭は高い視聴率を誇る年に一度の人気イベントである。それ故、その日のネット上では雄英体育祭とステインの事件、その二つの出来事が中心となって飛び交っていた。
そこでとある人物がインゲニウムの弟が体育祭に参加していることに気が付き、その内容をSNSに投稿する。そして別の人物がステインの本名は赤黒血染なのではないかと推測して──そこからはネット上でさらに議論が繰り広げられた。
そもそも赤黒血染の事を知っている人は少なく、とある人物がネット上に纏めた情報によると「五年前にヒーローを殺し、まだ捕まっていない男」である事がわかる。
そしていつかのニュースで赤黒血染を"ヒーロー殺しステイン"として警察が行方を追っているのだと聞いた覚えがあると投稿があり、そこからは赤黒血染イコールヒーロー殺しステインと
そしてその議論は体育祭で活躍していた一人の人物と結び付けられる。
──雄英体育祭一年生の部で三位になった赤黒操は、ヒーロー殺しステインの家族なのではないか、と。
ある者は憤り、面白がり、不信がりながらもその情報はインターネット上を勢いよく駆け巡っていった。
ステインによって再起不能に追い込まれた人々の証言では「ステインの個性は血液に関するものなのではないか」という情報があったので、操血の個性を持つ操とは面白いほど一致する。
騎馬戦で対峙する操と飯田の写真を引用しながら「兄同士が対峙する中、弟と妹も対峙していた!」と面白おかしく投稿する者もいた。
こうして検証したり議論する者が現れ、いろいろな憶測が飛び交い、さらにそれを検索する人が増えた為「ステイン」「インゲニウム」「赤黒操」「飯田」の言葉はとあるSNSでトレンドに入ってしまった。
──それは裏を返せば、誰もが目にすることが出来るという事で。
テレビで放送され、それをSNSによって拡散された赤黒操の顔。ステインがインゲニウムを殺そうとしていた時、彼女は弟である飯田天哉を殺そうとしたのではないか。
以前雄英高校にヴィランが襲撃する事件があったが、それは彼女がスパイだから起きたのではないか。
彼女はヒーロー科に属するがそれは兄に差し出すためのヒーローを吟味しているからだとか、彼女の自宅付近にバラバラになった猫の死骸がよく見つかるとか。とにかく根も葉もない噂が急速に広がっていった。
ステインによって家族や友人を殺された人々からしたら、赤黒操は恨みの矛先を向けるいい的となった。
体育祭で楽しそうに笑っていたことから無意識に被害者を煽ってしまったのだ。「自分達は大切な家族をステインによって奪われて笑うことすらできないのに、お前はよく笑っていられるな」と。
これは凶悪なヴィランの加害者家族によく降りかかるものであるのだが「加害者側は被害者のことを考えろ。被害者は辛いのに加害者が平気で笑っているのはおかしい」と感じてしまい、その気持ちは「お前も一緒に苦しめ」という形へ変貌する。
そう言った心理の背景には社会心理学の『公正世界信念』が関わっている。
それは良い行いは報われ、悪いことは罰せられる公正な世界に我々は存在しているという考え方を指すもの。この考えが強いと、加害者家族が楽しむ姿を見て「不公平だ」と「加害者家族が幸せに暮らすことは許せない」と思ってしまうのだ。
今回の事件で悪いことをしたのはステインであって操ではない。
しかしそこを一緒にしてしまうのがこの心理の問題点で、これは個が家族の中に埋もれてしまう『家族の連帯責任』といった考えが影響しているのだろう。
加害者は家族の一員だから加害者家族にも連帯責任があるのだと、人格も何も違う存在なのに同じ"ヴィラン"だとグループで一括りにしてしまう。
だから犯罪に関係している操と関わりたくない、許せないと忌み嫌う人が増えてしまうのだ。
こうした家族への厳しい態度の背景には「十分な個人が確立されていない日本の特殊性」が関係しているだろう。
ヒーローの子はヒーローのように立派なのだろうと勝手に想像するのと同じで、ヴィランの子はヴィランだと勝手に決めつける。
そして子どもがヴィランになったならば親のせい、教育のせい、家庭環境のせいだと一括りにして家族全員を非難するのだ。
最悪なタイミングが重なりに重なって、さらにステインが凶悪犯ということもあり──あの日から、赤黒操は世間からバッシングの集中砲火を食らっていた。
「はい、雄英高校でございます。はい……はい……赤黒操は在籍しております。ですが、こちらから個人情報をお伝えすることは致しかねます」
雄英高校は体育祭が終わってから赤黒操について情報開示を求める声や、苦情の電話がひっきりなしに鳴り続け対応に追われていた。
勿論雄英高校の教員であるヒーロー達は赤黒操がヒーロー殺しステインの実の妹だということは知っている。しかし彼女はヴィランではなく、自分達が守るべき子どもだということも理解している。
彼女の入学を受け入れてから知られるのは時間の問題だと思っていたし、覚悟はしていた。弾糾されても彼女は立派なヒーローの卵だと言い切る自信もあった。
しかし今回ばかりはタイミングが悪かった。その上ステインが襲ったヒーローの親族が同じクラスにいるという最悪の組み合わせになってしまったのだ。
「オイオイこれ明日から大丈夫かァ?」
プレゼントマイクが疲れた顔をして机に突っ伏している。目の前にある電話はすぐに大声をあげて泣き出すが、彼は突っ伏したまま直ぐに受話器をとらなかった。
相澤は横目でその様子を見ながらも、自分のクラスにいる二人の生徒を思い今後のことに頭を悩ませた。
操は体育祭後、明らかに様子がおかしかった。休ませて食事を摂らせた後とりあえず家に帰したが、彼女は借りてきた猫のように大人しく、そして上の空だった。
自身とプレゼントマイク、そしてミッドナイトの連絡先を操のスマホに登録し「何かあったら直ぐに連絡しろ」と言えば頷いていたが、果たしてちゃんと聞いていたのか疑問である。
試しに何度か電話をかけているが、彼女は一向に電話に出ない。それか電話中のために繋がらないのだ。
自分達ではなくワイプシや友人など他に相談できる人がいて、そこを頼っているなら別にいい。ただ塞ぎ込んでしまって誰にも頼っていない、なんて恐ろしいことは考えたくなかった。
そして飯田の家族には、飯田の精神面が不安定なら学校を休んでもいいと伝えてある。精神的なケアとしてカウンセラーも既に呼んであるし、万が一休んだとしてもカリキュラムには影響がないように手を回してはいる。
今回のインゲニウムの事件を踏まえ、雄英高校では適切な対応をしなければならない。
まずは被害者家族である飯田に対する配慮だ。ここまでSNS上で大々的に赤黒操とステインの関係性について書かれてしまっては、飯田やクラスメイトも目にしている可能性は高い。確実に関係性について問われるだろう。
その場合問題になってくるのは被害者家族である飯田と、加害者家族である操を同じ教室で学ばせるのかということについてだ。
何度だっていうが、悪いのはステインであって操じゃない。
しかし被害者家族への配慮を考えると、飯田の視界に入る位置に操を置くわけにはいかなかった。
教員内でその議論になったとき「赤黒操はB組で受け入れます」とブラドキングが声を上げたが、その意見は多数のヒーローによって却下される。
操がB組に移籍した場合、B組所属の生徒たちに精神的な負担を強いることになるからだ。彼らはヒーローを目指しているとはいえまだまだ未熟で、守るべき子ども。だから悪い噂ばかり書かれている操を簡単に移籍させることはできなかった。
しかしここで操を手放す事だけは絶対にしてはいけない。
赤黒操をここでヒーローの庇護下から出してしまったら、考えられるであろう最悪なケースが訪れる可能性があるから。
一つめは誹謗中傷に耐えきれなくなった操が自殺する可能性だ。これは残念なことに、世間からバッシングを受けた加害者家族がよく辿る未来である。
体育祭後の操は泣いていなかったものの手は震えて体に力が入らなくなっていて、明らかに精神的なショックを受けていた。ワイプシからも過去何度もステインの報道がされるとショックを受けて自暴自棄になっていたと耳にしている。
そんな不安定な精神状態で誹謗中傷に晒されたら、誰だって心が折れてしまうだろう。被害に遭ったのがクラスメイトの家族というのも操にとっては計り知れないダメージであったはずだ。
無辜の死だけは、絶対に回避しなくてはならない。
二つめは正義感を抱いた市民やヴィジランテによって操が物理的な制裁を受けることだ。
良くも悪くも今の時代がヒーロー社会であるからこそ、そしてステインが大量殺人犯であるからこそ、資格無き者が物理的に正義を振りかざす可能性はあるだろう。
操を排除したところでステインには何も影響がないのに、被害者の気持ちを汲んだ事件とは関係のない第三者が操を裁こうと力を振るう。それを正義だと信じて疑わず、自身の行いに疑問を抱かない。
操が一般人相手にそう簡単にやられるとは思わないが、個性を使って抵抗すればそこを逆手に取られ今よりも追い込まれる可能性はある。
これは人数が多ければ多いほど「自分達は正しい」のだと錯覚してしまうため、手がつけられなくなる危険性がある。
そして三つめは孤立した事によって、操がヴィランになってしまう可能性があることだ。
ステインは有名なヴィランだ。ステインの妹、そして元雄英高校の生徒がヴィランになればヒーローや社会に大きな打撃を与えることになるだろう。それを目論み、孤立して弱った操に悪の手を差し伸べるヴィランがいてもおかしくはない。
USJを襲撃してきたヴィラン連合という組織も存在するし、操を孤立させればそこに引き込まれる可能性だってある。
加害者家族というだけで不遇が生じ、どんどん深い闇へと落ちていって、最終的には犯罪に走ってしまうかもしれない。
人を助けるために行動を起こせる操の未来をそんな闇の中に捨て去る程、雄英高校のヒーロー達は腐っていなかった。
故にヒーロー達は、赤黒操を絶対に自分達の庇護下から追い出してはいけないと結論付けたのだ。
しかし被害者家族の要望があれば、雄英高校以外の学校に編入させることも考えなくてはならない。
被害者家族を優先しつつも加害者家族である操も守る。それが雄英高校にいるヒーローが出した答えだった。
「イレイザー、赤黒電話でたか?」
「いや……でない」
相澤の手の中には『留守番電話に接続します』と淡々と機械音声が流れるスマホがある。聞き飽きたその言葉にため息をついて、スマホをポケットにしまった。
渦中の操は、この二日間一度も相澤の電話に出る事はなかった。
体育祭が終わり、二日経って月曜日。
ブラウン管の向こう側は雄英体育祭やステインの事件に染まり、操はこの二日間まるで人形のように呆然と過ごしていた。──要するにあまり記憶がない。
床に散乱したガラスの破片、怪我をした足の裏、食べかけの食事に溜まった洗濯物と部屋は酷い有様だったが、空高く登る朝日を見上げ「学校に行く準備をしないとなぁ」とぼんやり考えていた。
そして準備を終えた操はドアを施錠しマンションのエントランスを抜けたのだが──刹那、フラッシュを焚かれて思わず目を閉じる。
その後も大量に焚かれる閃光に耐えながら薄目を開ければ、視線の先には沢山の人がいて、皆一様にカメラとマイクを向けていた。
勿論、操に向かって。
操はこの二日間ただ息をする人形のように過ごしていたため知らなかったのだが、SNSでは操とステインの関係性が問いただされていたため、何故か特定されていた自宅は記者に張り込まれていたのだ。
「赤黒さんがヒーロー殺しステインの妹だというのは本当ですか?」「何故ヒーローになろうと思ったのかお聞かせ願えますか!?」「雄英高校襲撃事件について関係があるというのは本当でしょうか?」「お兄さん……ヒーロー殺しステインと連絡は取れますか?」「体育祭で人を傷つけていましたが、抵抗はなかったのですか!?」「一言でもいいから何かお聞かせください!」
向けられる好奇の視線と言葉の数々。そしてそれを収めようと必死にフラッシュを焚き、言葉を逃すまいとマイクを押しつける。
──なんだ、これは……!?
操は突然のことに驚き動くことができなかった。しかし記者にとって操の心情など関係はなく、動けないのをいいことに囲むようにしてその距離を埋めていく。
大勢の人に見下ろされ、見せ物のようにカメラを向けられ──ようやく異常事態に気付いた操は個性を使って身体能力を底上げし、記者を押し退けその輪から出ることに決めた。
「待ってください!無言は肯定ということでよろしいんでしょうか!?」
「貴方は、被害者やその家族に申し訳ないと思わないのですか!?」
「──!」
後ろから投げかけられたその言葉に思わず足を止めてしまいそうだった。
しかし操は振り返ることなく、記者を振り切って足早に学校へと向かったのだった。
「無視かよ、態度悪いな」
「本当、親の顔が見てみたいわね」
立ち去る操に、記者たちの間ではそのような冷たい意見が飛び交っていた。
一方操は、家の前だけでなく通学路の至る所に待ち伏せしていた記者によって足止めを食らい、雄英高校へ辿り着くのに予想以上の時間がかかってしまっていた。時計を確認すればホームルームが始まる数分前である。
──これは教室に着くなり飯田に「遅いぞ赤黒くん!時間ギリギリじゃないか!」と怒られるだろうなぁ。
そう思ったところでふと足を止めた。飯田は、私のことをどう思っているのだろうと気になったからだ。
テレビではステインがインゲニウムを襲ったことについて語られていた、そして操はインゲニウムが飯田の兄という事は知っている。しかしテレビで操がステインの妹だと報道はされていなかったはずだ。
──なのに何故、先ほどの記者たちは私が「ステインの妹」だと知っていたのだろう。
ブワッと体の至る所から汗が噴き出るような感覚がした。理解したくなかった、でも理解してしまった。──バレていると。
どく、どくと心臓が嫌な音を立てて走り出す。血液を操作しても、不思議なことに心臓は走ることをやめなかった。
──いつかバレるとは思っていた。
その覚悟で雄英に来て、体育祭で目立とうと決めたのだ。だけど想像していたよりはるかに心臓がうるさいのは、取り返しのつかないことになってしまったのが原因だろう。
──兄が襲ったのがクラスメイトの家族とか、笑えないだろう。
そう思いつつも操がA組に向かってしまったのは、一筋の、首の皮一枚ぶんの薄い希望を抱いていたからなのかもしれない。
被害者家族のことを考えられなかった操の浅はかさが、クラスメイトとの溝を深めるとは知らずに。
「ステインの妹が何で雄英にいるんだよ」
下駄箱で靴を履き替え足早に教室へと向かっていた所、操は突然肩を掴まれて無理矢理後ろを向かされた。投げかけられたのは氷のような冷たい視線に、鋭い言葉。
辺りを見渡してみれば彼だけではなく、その場にいた見知らぬ生徒たちは全員操に対して冷ややかな視線を向けるか、まるで害虫でも見るかのように眉を歪めている。
「ヴィランの妹ねぇ……体育祭の時クラスメイトのこと殺すつもりだったんじゃないの?」
「なんか容赦なかったもんね〜」
「ヒーローっていうよりヴィランっぽかったし」
明るくて楽しい学校のはずなのに、この場に漂う空気はひどく淀んでいた。その空気を吸うのは久しぶりで、なんだか息苦しく感じた。
「出てけよヴィラン!」
「ヴィランを入学させるとか、雄英は何を考えてるんだ!?」
──ヴィラン……ヴィランかぁ。
私はステインの妹である一般人ではなく、
「よく平気でいられるよなぁ……考えられねえわ」
「なぁお前、なんで平然と学校に来ているんだ?」
──……なんでだろうね?
受かったから、退学になっていないから、授業が始まるから?
ホームルームの時間が迫っているからか、操の周りにいた生徒たちは返事を聞く事なく、言いたいように言葉を吐き捨てたら直ぐに目の前から去っていった。操はその後ろ姿を呆然と眺めながら、一人で理由を考える。
私はヴィランなのだろうか、だから学校に来てはいけないのだろうか。そんなことを考えてから慌ててかぶりを振った。そして止めていた足を無理やり動かして、教室へと向かう。
──落ち着け、ヴィランと思われているだけで、私はヴィランじゃないのだ。
そう自分に言い聞かせるけれど、心臓がうるさくて仕方がなかった。
言葉という刃は操に深々と刺さっていて、刺した後にねじられ、そこからはとめどなく血が溢れていた。
それは目に見えなかったけれど。確かに操には、深々と刃物が突き刺さっていたのだ。
「見失うな……私は、お兄ちゃんを止めに……」
──止めにきたのだから。
友達と楽しむために学校にいるのではないのだ、だから見失うな。そうやって傷口を塞ぐように、操は自分に言い聞かせた。
茨の道と覚悟の上で
別に今更──友達がいなくたって、私は一人でも生きていける。
楽しかった日々はもう戻れない日々なのだと、記憶を、友達の笑顔を無理矢理かき消した。笑顔を期待したら心がもたないと思ったから、虚勢を張ってなんとかその場を凌いだのだ。
──正義とは時として、悪魔へ変貌を遂げるものである。
ようやく辿り着いたA組の大きな扉を開けると、騒がしかった室内は一変し静寂が訪れた。
教室にいるクラスメイト達から向けられる視線には戸惑いの色が見え隠れしていて──あぁ、やっぱり知られているよなぁ。操は彼らの態度にそう思った。
少しだけその様子に落ち込んでいる自分がいたが、操が悲しむのはお門違いだろう。そう思ったから操は顔を引き締め、落胆を表情に出さないように努めた。
この数十分で覚悟したはずだ。記者や他学年、他クラスの生徒からあのような言葉をかけられるということは何処かで情報が漏れているということなのだから。
それを都合よくA組の生徒だけ知らなかった、なんて事にはならないだろう。
──わかっていた、わかっていたことなのに。
刃物で抜き差しされるように痛む心が、それを認めたくないのだと唯をこねている。それをなんとか無視して平常心を保ちながら机の上に荷物を置いていると、操に影がさした。
「ちょっといいか?」
見上げるとそこには飯田がいた。
彼は見たこともないような、感情を削ぎ落とした能面のような顔をしていた。けれどその瞳は相反してぐつぐつと煮えたぎっている。
クラスメイト達はその様子を、固唾を飲んで見守ることしか出来なかった。彼らは皆飯田の抑え切れていない怒りにとても驚いていたから。
「率直に聞こう、赤黒君。君はステインの妹か?」
操の脳裏で、過去に出会ったインゲニウムが眉を下げて笑っている。
──飯田をこんなふうにしてしまったのは、兄の、私のせいだ。
だから逃げるのではなく向き合って真摯に応えるべきだと思った。例えその結果、大切なものを失ったとしても。
「ああ、そうだよ。私はヒーロー殺しステインの妹だ」
そう答えた瞬間、飯田から溢れ出した殺意。
それに驚く暇もなく、操は胸ぐらを掴まれて壁に叩きつけられた。
何人かの女子が小さな悲鳴をあげ、クラスメイトには動揺が走る。しかし操は抵抗しなかった。するべきではないと判断して、個性は使わなかった。
締め上げられて息が苦しい、壁に叩きつけられた背中が痛い。けれど──私よりも飯田の方が苦しそうな顔をしていたから、苦しいなんて思ってはいけない、そう思った。
ぐつぐつと怒りで煮えたぎる瞳を見つめて、それを受け入れることにした。
「──キミは、キミは!!僕の兄さんが被害に遭ったというのに平気な顔をしてここにいるのか!?」
あまりの剣幕に、クラスメイトは誰も飯田を止めることができなかった。
彼からとめどなく溢れ出す悲しみが、苦しみが、殺意が──この狭い教室内に渦巻いている。
「兄さんはあと二分助けが遅れていたら死んでいたんだぞ!なのにどうしてキミはそんな平気な顔をしてここにいられるんだよ!!」
──平気なわけないじゃん。
それを口にする事は出来なかった。ただ返す言葉もなく、操は黙って飯田の言葉を飲み込むしかない。苦しくても、全て飲み込むべきなのだ。
そんな操の反応に更に怒りを滲ませた飯田は、掴んでいた手に力を込めるが──。
「席につけ、時間過ぎてるぞ」
そんな空気を一刀両断したのは担任である相澤だった。
いつも通りの彼の雰囲気にクラスメイト達は胸を撫で下ろし、飯田は悔しそうに歯を食いしばりながらも乱暴に操を離して席に着く。操も緩くなったネクタイをそのままに、とりあえず席に着いた。
こうして最悪な雰囲気の中、時は止まる事を知らずに進んでいく。
緩くなったはずのネクタイが首に絡まって、首を締めているように感じた。それがとても苦しかった。
──でもきっと、私なんかより飯田の方がずっと苦しいはずだ。そう思ったから、操は苦しくないと自分に言い聞かせた。
ぐるりと胃の中がかき混ぜられた様な気がした。口の中がカラカラに乾いて、でも手は汗が酷くてちぐはぐだった。それを隠すかのように操はただ前を向く。
これが、あの日ステインを止められなかった操の代償であった。
ホームルームが終わるとすぐにミッドナイトが教室に入って来て、操は相澤に連れ出され廊下を歩いていた。
たまに生徒とすれ違うが相澤が隣にいるからなのか、先ほどのような言葉や視線は飛んでこない。しかし操にはそれを気にしている余裕などなかった。今の心の中は天気で例えるならば夜の嵐で、操はずぶ濡れで泥だらけであったから。
そんな操を気にしつつも、相澤はなるべく平然を装って手短に要件を伝える。その内容は「A組には飯田がいるから、暫く赤黒はA組から離れてもらう」というものだった。
それを聞いて酷くショックを受けつつも、少しだけ安心したような気もして自分の感情がよくわからなくなった。
しかし操はB組に行くわけでも、普通科やサポート科に行くわけでもないらしい。突然他のクラスに入ってもそのクラスの生徒が困惑するため、しばらくの間は別教室で一人授業になるそうだ。
操を見下ろす相澤の視線はいつもと変わりない。その瞳の色がいつ変わるのか怖くなって、操は視線を逸らした。
「いいよ、私より飯田を優先してほしい」
「……」
「というか、退学にならないのに驚いてるんだけど」
「する理由がないだろう」
「兄と繋がっているかもしれないのに?」
「繋がってんのか?」
「……繋がってないけど」
「なら問題はねえだろ」
そんな会話を挟みながらも、これから使うことになるひとりぼっちの教室に向かって歩く。そこは他のクラスも、移動教室もないような辺鄙な場所にあった。
大きな扉を開ければ広い教室にぽつんと机がひとつ。そしてそれを挟むようにセットの椅子とパイプ椅子がひとつずつあるだけの、酷く寂しい教室だった。
パイプ椅子があるという事は操が一人で自習をするのではなく、教師もマンツーマンで授業をするのだろうか。それは操のせいで教員が各時間に一人ずつ、仕事が増えるということだ。
「……私のせいで先生たちに迷惑かけてごめんね」
「赤黒のせいじゃないからそんなことは考えなくていい」
思わず口をついて出た言葉に、即座に返された言葉。一見冷たく感じるそれに、見えない温かさを感じる者はいたかもしれない。
けれど操は──先生の本音はどうなんだろう、と相澤の真意がわからなくなってその言葉を素直に受け取れなくなっていた。
わからないからこそ操はとりあえず俯いて話を終わらせた。文句を言えるような立場ではないし、本音を聞くのも怖かったから。
相澤はそんな操の態度を見て、ため息を噛み殺した。
「んじゃまァ授業始めていくぞ!赤黒にはこれからコードネームを決めてもらうぜ!アァユゥレディ〜!?」
「うん」
──オイオイテンション低いぜガール!と普段のプレゼントマイクなら言っていただろう。しかし彼はこの場の空気を読んで言葉にする事はなかった。
何故なら今、この教室にはプレゼントマイクと操の二人しかいないからだ。
体育祭が終わって職場体験前にヒーロー名、所謂コードネームを決めなくてはならないが、ステインの事件もあって操はしばらくの間一人授業。故に、コードネームも担当教員であるプレゼントマイクとマンツーマンで決める事になったのだ。
実は今日、登校したら真っ先に職員室に来いと操には伝えていたのだが……相澤の予想していた通り操は話を聞いていなかったようで直接A組に向かってしまい、被害者家族の飯田と一悶着あったようだった。
登校中にもメディアに追いかけられていたそうで、まだ一限目だというのに心身共に疲れ切っているし、酷く落ち込んでいた。
腫れ物のように扱っても良いが相澤曰く「自分のせいで周りに迷惑をかけていることに責任を感じている」そうなので、プレゼントマイクは敢えて普段通りに接することに決めたのだ。
テンションの低い相手にハイテンションで接するのは中々骨が折れるが、プレゼントマイクはヒーローとしても教師としてもプロである。故にウザがられるまでこのノリを続行することに決めた。
自分達教員だけでも、ステインの妹ではなく赤黒操として接しているのだと彼女が理解してくれると良いのだが……。
「赤黒が聞いて驚くようなイレイザーの秘密を教えてやろう!実はイレイザーのコードネームはこの俺が考えたんだぜ!」
「そうなんだ」
「俺は他にもコードネームの名付け親として色々な依頼を受けていてな!赤黒も困ってたら頼ったって良いんだぜ?」
「うん、でも今考えてるから静かにしてて」
「シヴィー!」
プレゼントマイクは額を抑え戯けてみせるが、目の前にいる操はぼんやりとフリップを見つめたまま手を動かす気配はなかった。──それも仕方ないとは思う。
兄の犯行に責任を感じている妹が「こんなヒーローになりたいな!」と自信満々にコードネームを発表してきたら、それこそ驚いてしまう。別に悪いことではないが、現在の操を見ている限りすんなりコードネームを決めることは極めて難しいだろう。
だからプレゼントマイクは別の話を差し込むことにした。手元の資料をまとめて操に差し出して、操の視線が動いたところで口を開く。
「決まんねぇなら先にこっちを見るか!」
「……何かのリスト?」
「そうだ!赤黒には体育祭を見たヒーローから指名が来てるぜ!」
「……」
プレゼントマイクが差し出した指名のリストは、正直にいうと三位という順位としては過去最高に少ないものであった。言わずもがな、ステインと血縁関係であることが指名にも影響している。
良くも悪くもここ二日間で目立った操をわざわざ受け入れようと思うヒーローは少ない。指名キャンセルの連絡すらあったほどだ。
しかし物好きなのか気にしていないのか、操を指名するヒーローは何人かいる。差し出したプリントにはその僅かなヒーローや事務所の情報が記載されていた。
「……私、職場体験に行っていいの?」
「ヒーロー科として当然の権利だぜ?まぁ、行きたくなければ無理に行く必要はないから相談しろよ!」
「……うん」
通常であれば「行きたくない」という言葉は通用しないのだが──今回操と飯田だけは特例だ。心の中でそう思いながらも、プレゼントマイクは顔には出さないようにニッと笑った。
そんなプレゼントマイクの笑顔を見て、操は手元の資料に目を落とす。片手で数えられる数ではあるが、操に学んでほしいと思ってくれるヒーローがいることに驚いていた。
──私はヒーローになっていいのかな……。
今日は朝から何度も心無い言葉を浴びせられた。でもそれは彼らが意地悪をしているわけではなく、操がステインの妹だからだ。それを理解しているからこそ、操は迷っている。
──私は
相澤は気にするなと言った。でもさ──気にするに決まっているじゃん。
教師に迷惑かけて気を遣わせて、飯田には不快な思いをさせている。あの場にいたクラスメイト達もあまりの空気の悪さに居心地は良くなかっただろう。一度も会ったことのない人でさえ不快な顔を隠さなかったのだ、私はここに存在するだけで全ての人に迷惑をかけている。
それに気づいてしまったからこそ操には迷いが生じていた。ヒーローになる事に、不安を感じていた。
存在するだけで周りの人を不幸にするヒーローなんて聞いたことがないし、自分の行動や選択に疑問を感じてしまったのだ。
兄を止めるためにヒーローを目指した。でもワイプシと出会い、クラスメイトと出会って──操のヒーローになる目的は変化していった。
側で苦しんでいる人を、悲しんでいる人を助けたい。
それなのに現状はどうだ?私のせいで苦しむ人も悲しむ人もいて、迷惑をかけているじゃないか。
──私がここにいるのは正解なのだろうか。
操は一時間、ずっとその事を考えていた為にコードネームは決まらぬまま、無情にも時は過ぎていった。
けれどいくら考えても答えは出なかった。
それからの操の学校生活は言うまでもなく、以前と比べて激変したものとなっていた。
通学は早くし、帰宅は遅くした。いつだって記者に追いかけられてしまうため、少しでも同じ時間に登下校する生徒に迷惑をかけないように時間をずらす事にした。先生に車で送っていこうかと言われたが断った。これ以上、仕事を増やしたくないし迷惑をかけてはいけない。
自宅のポストには蓋が閉まらないほど郵便物が詰め込まれていて、中身を確認すると嫌がらせの手紙が大半であり、誹謗中傷がこれでもかと思うほど書き込まれていた。中にはカッターの刃が入っているものもあって操はうっかり指を切ってしまう。
じわっと紙に染み込む血液を眺めながら、操は片手では持ちきれない手紙を両手で抱えエレベーターに乗って部屋に向かった。
向かった先の部屋の扉にはスプレー缶による落書きで「死」と書かれている。そのほかにも「出て行けヴィラン」「人殺し」などの張り紙もしてあって、思わずドアの前に立ち竦む。
扉の前にはズタズタに引き裂かれた猫のぬいぐるみが落ちていて、引き裂かれた布からは綿が飛び出している。ご丁寧に綿は赤い色で染まっていて、それは血肉を連想させた。
操は突き刺さったままのハサミを引き抜いて、ぐちゃぐちゃになった猫を抱き上げた。
家の中も何者かに荒らされたのかと思うほど酷い有様だったが、朝に家を出てから変化のないそこに思わず安堵の息を吐く。郵便物と猫のぬいぐるみを机の上に置いて、操はネクタイを解いたのだった。
これがここ数日の操の日常である。
流石にズタズタに引き裂かれたぬいぐるみがあったのは初めてだが、それ以外に概ね変化はない。
学校にいる間、生徒から突き刺さる視線は厳しいものの教員の態度は以前と変わりない。ただ、ミッドナイトや一部の教員からは「大丈夫?」と気遣うような言葉をかけてもらう事が多く、それに一抹の罪悪感を抱いてしまう。
なんだかんだ毎日あの教室に顔を出す相澤ともいくらか会話をするが、自分なんかのために気を遣われている事に申し訳なくなる。
今日も普通科の生徒からすれ違い様に「お前のせいで先生たちは迷惑している」と言われたばかりだ。本当、その通りだと思う。
操が雄英高校に入学しなければ、ステインの妹でなければ──こんな手間を増やす事はなかったのだから。
時々廊下ですれ違う生徒たちに引き留められ、人気のないところで暴言を吐かれることもあったが──受け止めなければならないと思い全部聞いた。「何か言えよ」と苛立ちながら肩を押されるが、反論なんてない。全てその通りだと思っている。
操のせいではない、操に責任はないと教師達は言ってくれるけど、それは違う。操の
兄がスタンダールになる前には"予兆"があった。
ヒーロースーツの入ったアタッシュケースに「言葉で伝わらないのなら、俺が断罪者になればいい。そう思って用意した物だ」という言葉。操はそれに気付いていながら何もしなかった。
そして、人を殺す引き金を引いてしまったのは操が原因だ。操がグズでノロマで弱いから、あんな男に捕まって、兄は人殺しへと変貌を遂げたのだ。
それからの日常で兄は人を殺すとか、これから人を殺しに行くとは言わなかったけれど、操は兄が人を裁いた事に気が付いていた。だって兄に付着した返り血を操作し、それを隠蔽したのは操なのだから。
故に、操にはビックリするほど反論の余地はなく、言われる通り「操が悪い」のだ。
だから今更止めようとヒーロー面して奮闘している操に文句を言うのは理解できる。「なぜもっと早くに止めなかったのだ」と言われるのは、決して間違いではない。
あの時男に捕まらなければ、兄に行く先を伝えずに家を出れば、手足を切り落としてでも兄を止めていたら──と「もしも」を考えた所で何も解決はしないけれど。
──だからこれは操が受けるべき正当な制裁なのだ。
「お前、どういう神経で学校来てんだよ」
「クラスメイトの飯田だっけ?アイツの家族は死にかけたのになぁ」
手のひらに刺さるカッターの刃も、冷たい視線も言葉の数々も。過去の操が悪いのだから、因果応報として全部受け止めるべきだ。
全てを受け止めるしか、罪を償うことは出来ないのだ。
──受け止めたところで亡くなった人は生き返らないけれど。それでも、操は受け止めなければならない。
「どうせ楽して支援金で腹一杯飯食って生きてきたんだろ?この人殺し」
「生きている事に申し訳ないと思──」
「おい」
人気のない廊下、上級生に囲まれていたところに割って入ってきたのは聞き覚えのある声だった。
操も、操を囲んでいた上級生も肩を揺らしてその声の持ち主の方へ振り向く。そこにはA組の担当教師である相澤がいて、珍しく眉間に皺を寄せ低い声であり──彼はどうやら怒っているようだった。
突然現れたプロヒーロー、そして教師という存在に上級生達は慌てて駆け出すが、相澤はその背中が見えなくなるまで彼らを記憶するようにじっと見つめ続けていた。
──プロの前で振りかざすことのできない正義なんて、本当の正義ではない。
相澤はそう思いながらもため息を殺し、静かに立ち尽くす操の元へ歩み寄った。
ステインの罪を非難するならまだしも、本当か嘘かわからないSNSの情報だけで過去を推測し、操に非難を浴びせることは間違っている。
それを正しいと信じて疑う事なく、自身は事件とは関係のない第三者であるにもかかわらず、加害者家族に対して正義という刃を振り翳すのは大いに問題があると思った。ヒーローの前で貫けないなら尚更だ。
雄英高校に在学する生徒は、特にヒーローに対して誇りを持つ者や、過度な期待や憧れを持つ者が多いからこそそれが顕著に表れやすい。彼らがヒーロー科だったら問答無用で除籍していたレベルだ。
──しかし今はそんな事を考えている場合ではない。どう考えても今の言葉は暴力だったから、彼らを追うより操のケアをするべきであった。
今までも教員が気付かなかっただけで、操はこのような事を言われてきたのだろうか?こうやって何か言われても、じっと耐えてきたのだろうか?そう心配になって、相澤は俯く操の顔を覗き込んだ。
「おい赤黒、お前──」
「先生!こんなところで会うなんて偶然だね〜!」
顔を上げた操はパッと人の良さそうな笑みを浮かべていた。それを見て相澤は心臓が掴まれたような思いになる。
赤黒操は、こんな風に綺麗に笑う子どもじゃない。出会ってからたった数ヶ月しか経たないが、それだけは知っていた。
しかし相澤の返事も待たずに視線を逸らした操は、背を向けて勢いよく駆け出した。
「待て、」
それは取り繕うこともない、完全な"逃亡"であった。
例え今ここで予鈴がなったとしても、誰かに呼び止められたとしても、今は操を追い掛けるべきだと判断して相澤は迷う事なくその背を追う。このまま放置してはいけないのだと教師として、そしてヒーローとして思ったから。
しかし追跡に気付いた操が女子トイレの中へ逃げ込んだ為、流石にたたらを踏まざるを得なかった。どうやら彼女には捕まりたくない事情があるらしい。
暫く外で待ってみても一向に出てくる気配はなく、相澤は隠すことなくため息をついた。操が何かを隠す理由も、逃げる理由もわからなかったから。ただ、彼女が通常の精神状態ではないことはわかった。
──こういうのはあんま得意じゃないんだがな……。
教師に向いていると笑った友人の顔を思い出しては、その記憶を直ぐにしまい込んだ。
そして爆豪、緑谷、峰田に続き、操の事もA組の問題児リストにぶち込んだのだった。
「……先生、流石にトイレには入ってこないよな?」
女子トイレの扉を見て罪悪感を募らせつつ、操は窓を開けてそこから外へ飛び降りた。幸い二階だった為怪我する事なく脱出できたので、操の逃亡は成功したのである。
相澤に取り繕った笑みを見せた操の心境は荒れに荒れていた。
操が受けるべき制裁に割り込んだ相澤の存在に、あろうことか安心してしまったのだ。そんな自分に無性に腹が立つし、あのまま側にいたら脆い操が顔を出して弱音を吐いてしまいそうだった。
そして安心したのと同時に恐怖も湧き上がっていた。相澤の瞳が、他の生徒と同じように冷たいものに変化したらと思うと──きっと耐えられない。だから情けないことに、操は彼の前から逃げ出さずにはいられなかったのだ。
罰を受けるべきだ、でも苦しい。弱音を吐いてはいけない、だって私はステインの妹だから。迷惑をかけてはいけない、かけたくない。酷いことを言われると疑いたくない、でも信用するのも酷く恐ろしい。
ぐちゃぐちゃに渦巻く感情の判断が自分でも出来なくなっていた。何が正しくて何がいけないのか、どうしたらいいのかわからない。
──ただ一つだけわかるのは、自分に非があるということだけ。
操はこの数日間で、正しく感情を分別出来なくなっていた。
「あっ……操ちゃん!」
そして逃げるといえばもう一つ。
辺りは暗く、海のような夜の底が空に広がる時間帯のことだった。操はそんな暗闇の中、数日振りに芦戸と葉隠の姿を見た。
飯田と接触しない為、操の行動や時間割は雄英高校によって徹底的に管理されている。そして登下校の時間を自主的にずらしている事から、この広い雄英高校で操と狙って会うのは困難なことであった。
しかし一つだけ確実な方法がある。芦戸や葉隠が現在実行しているように、操が必ず通るであろう下駄箱で待ち伏せすれば彼女と会うのは可能であった。
二人はそのために、授業が終わってから何時間も操を待ち続けていた。
「操ちゃん、私──」
久しぶりに見る芦戸と葉隠の姿は懐かしく、まるで数年会っていないような、操はそんな風に錯覚してしまう。
──フフ、久しぶりだな!随分と寂しそうな顔をしているじゃないか。
そう笑って隣に並べたらどれだけ幸せだったろう。
「加害者が笑ってんじゃねぇよ」「ヴィランの友達はヴィランなんだろうね」「ちょっと話しかけないでくれる?ヴィランが移るじゃない」
側には誰もいない筈なのに、耳元で囁く声が聞こえるのだ。お前に幸せになる資格も笑う権利もないのだと──そうやってどこからか私を睨みつけているんだ。
「待って、待ってよ……操ちゃん!」
だから操は二人と目も合わせずその横を通り過ぎ、そのまま個性を使って二人が追いつけない速度で走りだす。
後ろから聞こえる声に心が悲鳴をあげているような気がしたけれど、その言葉には耳を塞いで無視をした。
「話をしなくてよかったの?」
「……私と話したらヴィランだって思われるし。二人の未来まで潰したくない」
「ふーん?」
隣を走る母が、艶やかな髪を靡かせて月を見上げている。
安い化粧品を駆使した目蓋はキラキラと光っていて、睫毛は上を向いている。その瞳を弓なりに歪めて、視線だけを操に向ける。
「二人のため、なんて言ってるけど本当は自分のためでしょう?」
「……」
「嫌われたくないから先に突き放しただけの癖に」
「……それは、」
「自己中的で身勝手、さすが私の娘ね」
見たこともない笑顔で笑った母は、泡沫のように夜の闇に溶けて消えていく。
操は一人、誰もいない道端に立ち尽くして誘蛾灯に集まる蛾を見上げたのだった。
「──そうだね」
だって今日は空一面雲に覆われていて、月なんて見えなかったから。
操の言葉は誰に拾われることなく、夜闇に溶けて消えていった。
「ヴィランに売るものはねぇよ!帰れ!!」
操はここ数日、買い物をすることが出来なかった。理由は言わずもがな台詞の通り、売ってもらえないからである。
近所のコンビニもスーパーもダメ。少し先の駅ビルもドラッグストアも、操に気が付くと店員も客もどちらもすごい剣幕で操を追い出そうと躍起になるのだ。
追い出そうとする中で居座るほどメンタルは強くないし図太くもないため、操は大人しく店を出る。そしてため息を吐きながら帰路に着くのだった。
『今日午前、立て篭もり事件が発生しましたが、オールマイトの活躍によって人質は無事解放されたようです──』
家電量販店の前を通り過ぎると、ブラウン管の向こう側でアナウンサーがオールマイトの活躍を讃えていた。今日もオールマイトは人々を救ったらしい。しかしその内容は、操の耳には入ってこなかった。
いつものようにポストの中身を回収し、両手で抱えて階段を登っていく。増えているドアの落書きと貼り紙はそのままに、山積みの机の上にまた一山作るように腕の中の手紙を積み上げていった。
冷蔵庫を開けると調味料とハムとチーズしかなく、米びつももう少しで底を突きそうであった。
「……まあ、食べれるだけマシだよね」
何も食べることができなかった幼少期。食べ終わって冷たくなったカップラーメンの汁を啜ったあの日々に比べたら、炊いたお米を食べられるだけ恵まれている。
そう思った操は米に何もかけずに食べるのだが──何故かお腹が空いてなくて、箸は進みそうにない。
「残すの?」
「うーん……やっぱ味気ないし、お腹空いてないし、今日はもういいかなって」
米が入った茶碗にラップをかけて冷蔵庫にしまう。そんな操の足元で、サイズの合わない薄汚れた服を着た、痩せ細った幼い操がじっと見上げてくるのだ。
「私はなにもたべてないのになぁ」
「……」
そんな幼い操を放置して、操は手紙の山の前に座る。
分厚い便箋の封を切ると体育祭の写真が大量に入っていた。しかし操だけ黒いマーカーで塗り潰されている。また別の封筒を開ければただ一言「責任をとって死ね」と書かれていたり、別の封を切ればバラバラに破られた操の写真が入っていた。
ゴミ箱に入り切らない開封済みの手紙達を床に放置して、操はまた別の手紙を読もうと手を伸ばす。
質感のいいそれは、珍しいことに差出人が書かれていた。
「……ヴィランの家族を支援する会の会長か」
久しぶりに見る名前に特に何も思うことはなく、操は他の手紙と同様に封を切った。
『今日は何となく筆をとってみました。電話じゃなくたまには手紙もいいでしょう?良かったら手紙で返事をくれたら嬉しいな』
脳裏で会長のシルエットは思い浮かぶのに、顔は塗りつぶされたように思い出せない。
品の良い女性だった気がするが──彼女はどんな表情をしていたっけ。
『辛いことはない?』
「……別にないよ」
『約束したけれど、無理にヒーローにならなくてもいいのよ。やめたくなったら、いつでもやめていい。やめても私たちはあなたの味方です』
「どうせ楽して支援金で腹一杯飯食って生きてきたんだろ?この人殺し」
「──!」
自分以外の人間はいないはずなのに、どこからか声が聞こえて操は辺りを見渡した。だけどやはり誰もいなくて、気配もしない。
それが不気味で、操は押し入れを、ユニットバスの扉を開けていく。けれどやはり家の中には自分以外誰もいなくて、心臓が忙しなく走り回り、鼓動が煩いくらい鳴り響いていた。
汗が吹き出るのに手足は冷たくて、水の中ではないのに息が苦しかった。手の中で手紙がぐしゃりとひしゃげて潰れている。
けれどそれに気付くことなく、操は声の正体を探すべく引き出しや戸棚を全て開けていくのだった。
結局自分以外の存在を見つけることができなかった操は扉や棚をそのままに、眠りにつこうと目を閉じる。
しかし不思議なことに、目を閉じていると飯田の姿が見えるのだ。彼は瞼の裏にでも住み着いているのか、眠ろうとするといつも闇に浮かび上がってそれを阻止しようとする。
目をあければ手紙や衣服の散乱した部屋に戻ってこれるのだが、再び目を閉じると操はA組の教室へ飛ばされる。そして、目の前の飯田に胸ぐらを掴まれてこう言われるのだ。
「人殺し」
あれから毎日。操は部屋と教室を行き来して、闇の中を彷徨っている。
ヒーローになるべきではない、でも退学になってないから学校に行かなきゃいけない、兄を止めなきゃいけない、人を不幸にしたくない、雄英高校に行くと決めたのは私だから行かなきゃいけない、加害者なんだから逃げてはいけない。
苦しみたくない、傷付きたくない?──甘えるな。
受けるべき痛みを享受しろ。被害者はもっと痛くて苦しいのだから。
未来を失った被害者達の苦しみは味わうことのできない痛みだろう。だから私は少しでもそれを理解するために、彼らが笑って過ごせるように罰を受けなくては──。
玄関の扉を、外側から叩く音が聞こえる。ここから出ていけと、いつも同じ時間に聞こえる言葉が、外から聞こえる。
ああ、どうやら朝が来たようだ。カーテンを開ければ朝日が目に染みて少しだけ痛かった。それでも操はゆらりと立ち上がって、学校に行く準備をする。
暗闇と朝日に心は溶かされて、徐々にすり減っていく。
電源のつかないスマホとズタズタに引き裂かれた猫のぬいぐるみをブレザーのポケットに突っ込んで、操は手紙の山を蹴飛ばして、靴を履いて家を出た。
スマホは体育祭が終わった後の二日間ずっと鳴り続けていた。知らない番号からかかってきた電話に出れば、電話の先では知らない人が呪詛のような言葉を吐き続けるだけで、気付けばスマホは呪われて死んでしまったのだ。
──可哀想だから猫と一緒に埋葬してあげよう!
スマホと猫のため善意で家を飛び出した操は、陽のあたる通学路でふと立ち尽くす。
陽のあたる通学路が、とても綺麗に見えたのだ。
操は何故か外に出たことに罪悪感を抱いて、せめて綺麗なものを汚さないようにと出来るだけ塀に沿って日陰を歩いた。
数日前から、A組には空席がある。
芦戸は目の前にある空っぽの席を眺めては眉を下げた。言わずもがな、空席は操の席であった。
体育祭が終わって帰宅したら、A組の生徒の大半は疲れてすぐに眠ってしまった。そして目を覚ました時、テレビで自身の活躍を目にしたりSNSで中学の友達から連絡が来てたりして、ちょっと有名人になった気分で暫く過ごす。──通常だったらそうなる筈だった。
勿論そんな連絡もあったのだが、それ以上にSNSを賑わせていた存在がいたのだ。
ヒーロー殺しステイン、ターボヒーローインゲニウム。そして、クラスメイトの赤黒操と飯田天哉だ。しかしクラスメイトの彼らが目立っているのは決して体育祭の出来事が原因では無かった。
クラスメイト達は飯田の兄が生死を彷徨っている事に心配したし、何よりもあの赤黒操が大量殺人鬼であるステインの妹と言われている事に衝撃を受けたのだ。
SNSを使い慣れている数名は出所を探し、あくまで仮定の話ということは突き止めたが──それを知らずに赤黒操はヒーロー殺しステインの妹だと信じて疑わず、誹謗中傷を書き込む人があまりにも多かったのだ。
正直に言おう。A組のクラスメイト達は、操がヒーロー殺しの妹だとは思わなかった。そもそもヴィランの家族がヒーロー科にいるとは思えなかったし、ステインと操は歳が離れているから無理があるのだ。
思ったことを言葉にするから口が悪いし、小さいくせに態度はデカいし、容赦なく戦うからまぁ勘違いされてもおかしくないかなァ……と思った。でも操よりよっぽど爆豪の方がヴィランっぽいと思う者が大半だった。
『か……可愛い?そ、そこまでいうならもう少しだけ着ていてもいいけど?』
チアの衣装のままはしゃぐ姿やご飯を美味しそうに食べる姿は見ていて飽きないし、普段とギャップがあって可愛いと思う者もそれなりにいる。
本人に言ったらドヤ顔になり調子に乗るから言わないけど──癖は強いがそれなりに可愛がられているクラスメイトなのだ、赤黒操というのは。
だからそうやって標的にされても「馬鹿め、嘘に踊らされるとは愚か者よ」と踏ん反り返って笑っている。そう信じて疑わなかったのに──。
『ああ、そうだよ。私はヒーロー殺しステインの妹だ』
操は噂の通り、ステインの妹だったのだ。
その事実には勿論衝撃を受けたしショックだった。そしてあの真っ直ぐな飯田があれほど怖い顔をして操に掴みかかるとは思っていなかった。普段なら容赦なくやり返すであろう操が大人しかったのも、クラスメイト達の不安をさらに煽っていた。
こうして最悪な雰囲気のまま授業は始まるのかと思ったが、担任である相澤が操を連れて行ったきり彼女が戻ってくることはなかった。
あれから数日経つが、クラスメイト達はどう動けばいいのかわからないでいた。
緑谷、麗日は飯田と共にいるけれど、操に敵対しているわけではない。飯田も平然を装っているが、無理をしているのは何となくわかる。
そしてSNSを見れば操に対する誹謗中傷は嫌でも目についた。ヒーロー殺しステインの妹と、その被害者であるインゲニウムの弟。操が悪いわけではない、それでも被害者家族の気持ちを汲んでしまうと、飯田が怒るのは理解できてしまう。
しかし操をまるでいないようなものとして扱うのは、とても心苦しかった。
──私達は友だちのために何ができるのだろう、何もできないのだろうか。そのような悩みや無力感が、日々蓄積されていく。
SNSで書かれているように、操がヴィランだとは思わない。USJでも守るために必死で戦って、体育祭でも勝つために真剣だった。そんな彼女がスパイだなんて誰も思っていない。
何より、あんなにも楽しそうにレクリエーションではしゃぐ操を、兄が殺すヒーローを吟味しているだなんて誰が思うのだろうか。
「操ちゃんね、体育祭参加するの初めてだったんだって」
緑谷達に飯田と共に先に帰宅してもらった教室で、葉隠がぽつりと言葉を落とす。その表情は窺えないが、声色からとても落ち込んでいることがわかった。
葉隠と芦戸は昨日の夜、下駄箱で操を待ち伏せしていた。
随分と痩せたように見えた。真っ白な肌が夜の闇に溶けて消えてしまいそうな感じがした。その目は虚で、何も見ていないかのように焦点があっていないような気がした。
久しぶりに会った操の姿に、二人は愕然としたのだ。そっくりさんの別人と言われても納得してしまう程、数日前まで一緒にいた操からあまりにも激変していたから。
「ステインの妹だから、今まで体育祭に参加できない様な環境にいたのかな……」
「……初めてだから、楽しかったのかな」
ネットには操の住所が晒されていて、こんな手紙を送ってやったという悪質な悪戯が写真に残され拡散されている。家の近くにはよく猫の死骸が見つかるとか、中学の頃は常に刃物を持ち歩いていたとか、本当か嘘かわからない内容だって飛び交っている。
しかしSNSではそれを咎める者は少なく、一緒になって"正義"を振り翳す者ばかり。
そんな操を心配して声をかけたいと思うクラスメイトは多かったが、A組から離された操と偶然出会うことなどなかった。飯田のいる前で操の話をするのは憚られ、いない時を見計らって探す日々を続けていたが遠目で見かけるのが精一杯。
唯一接触した芦戸と葉隠は「無視されて目も合わなかった」と酷く落ち込んでいる。
「この間遠目から見たけど、なんか痩せてた気がする」
「上級生に囲まれて何か言われてたけど、その場に向かった時にはもういなかったんだよな……」
「学食にもいる気配ねぇし、どこで飯食ってんだアイツ……」
学食やグラウンドなど、他学年や他クラスとすれ違う機会が多ければ多いほどクラスメイト達は操に対する誹謗中傷を嫌でも耳にしていた。
そして何故みんなで寄ってたかって叩くのだと疑問に思っていた。なんで誹謗中傷を言いながら──笑っているのだと。
「……自分の家族が殺されて、犯人の妹がクラスにいたらって考えると」
「確かに許せない気持ちはわかっけどさぁ〜……」
「ウチらまで許さない必要はなくない?」
「罪を犯した人間なら、そしてその家族ならいくら叩いてもいい……本当にそうでしょうか?」
「それって俺たちの目指す
罪を犯していない操に制裁が加えられ、普通に生活できなくなる世界は間違っていると思うのだ。
そしてその状況を利用し、悪質な正義を振り翳してストレスの捌け口にするだなんて以ての外。
「でも飯田の前で仲良くすんのかよ?」
「そういうことを言っているんじゃないわ。でも、このまま嫌がらせをされているのを黙って見てるのって……私たちも加害者になるんじゃないかしら」
「そんなの嫌だよ〜!」
「……こうしてみると、赤黒もステインの被害者だよな」
勿論、被害者やその家族が加害者に怒りや憎しみを感じるのは当たり前のことだと思う。事件に対するやり切れなさや被害者への同情心から世間が声を上げるのは理解ができる。
しかし、SNSに投稿された操への誹謗中傷や制裁は、釣りなのかはわからないが本当に酷いものであった。
飯田が怒るのも、飯田の家族が怒るのも、今まで被害にあった関係者たちが操に怒るのもわかる。けれど、自分達まで操を寄ってたかって叩く必要なんてないし、操を守ってはいけない理由なんてないのだ。
振り翳した正義が、抱いた被害者への同情心が時に加害者への過度な誹謗中傷という間違った刃となり、歯止めが効かなくなっている。──今はまさにそうだと思うのだ。
「……ではこうしましょう。操さんを許せないと思う方はそのままでいいと思います。ただ、この現状が許せないと思う方は動きましょう」
「そもそも天下の雄英に通う生徒がこの様な蛮行をするとはな」
「操ちゃんの状況なら、誰かを頼りたくても頼れないと思うの」
「──だったら答えは決まってる!」
眉を下げていた者も、どう動いて良いのかわからなかった者も、皆真っ直ぐに前を見た。やるべき事は、やりたいと思った事は既に決まったから。
これだけの人数がいるのだ、いくらでも知恵を絞っていい方向に持っていける。自分達もこの問題に足を突っ込んで、関わるのだと覚悟を決めたのだった。
クラスメイト達がそう話している一方で、操は朝とは打って変わって低いテンションで休み時間を過ごしていた。
授業中は普段とさして変わる事なく淡々と過ごしているが、何もしていない時は余計なことを考えてしまい操の情緒は乱れに乱れまくっていた。
──私、この制服着ていてもいいのだろうか……。
今はそんなことを考えて一人で沈んでいた。
操が昨晩から幻覚を見たり幻聴を聞いたり、数日前から被害妄想が酷くなったのは誹謗中傷だけが原因ではなく、食事や睡眠をまともに取っていないことも関係しているのだが……操自身、それに気付く事はなかった。
──学校にいるより、ゴミを漁って時間を無駄に浪費しながら過ごす日々の方が私にはお似合いだよなぁ。
荒んだ過去の日々に戻った方が誰にも迷惑をかけないと思った。けれど、過去に戻ったところで兄は操を置いて先に進んでいく。操のことなど気にせずに、ヒーローを粛清していく。
だから止めないといけない。けど、ヒーローとして望まれていないからここから出ていったほうがいいのかもしれない。
そんな堂々巡りの自問自答に、操は目が回りそうだった。
全身が重たくて眩暈がする。幼い頃常日頃感じていた飢えが体全体を蝕んで、心が声にならない悲鳴をあげているようだった。
しかし腹部を殴りつけて飢えを無理やり殺しつつ、操は当ても無く校内を彷徨っていた。
自分の居場所を、探しながら。
「赤黒」
「……先生だ、昨日ぶりだねぇ」
そうして時間を潰していると、昨日逃げだしてからずっと会っていなかった相澤が操の目の前に立っていた。
目の前にいるのにまるで気がつかなかった。その事に驚きつつ、口元に笑みを乗せようとするけれど──何故だろうか、うまく笑えなかった。
相澤は昨日よりはるかに憔悴しきっている操の様子に、心臓を掴まれるような思いでいた。そんな操を見下ろして、その細く冷たい腕をしっかりと掴んだ。勿論、これは再び逃げられないための対策である。
実際腕など掴まなくても、今の操に走る気力は無さそうに見える。それでも掴んだ腕を離さないのは、目を話した隙にふらりとどこかへ消えてしまいそうな気がしたからだろうか。
そのまま腕を引けばふらりと頭が左右に揺れはするものの、操の足取りはまだしっかりしていてちゃんと歩いて相澤の後ろをついてきた。それを横目で眺めながら、ゆっくりとした歩調で相澤は比較的人の少ない廊下を選んで歩き出す。
本日授業を受け持ったヒーローが言うには、操は前日に比べて集中力の低下が著しく、質問を投げかけても反応が遅い時も多々あったという。しかし「大丈夫か」と問いかけても「大丈夫」としか言わないのだ、この
そんな操に危うさを感じて、相澤は実力行使に出たのだ。
ヒーローにしろそうでないにしろ、自分の弱さを見せられず抱え込み、潰れてしまう者はたくさんいる。自分の弱みを晒け出すのには勇気がいるが、それは時には必要な事だった。
操はヴィランの家族という特殊な立ち位置にいるからこそ責任を感じているのだろうが、そんな立ち位置は関係なくちゃんと本音を吐き出せる場所がないといけない。
ヒーローになるなら、誰かを守る前に自分の心を守れるようにならないといけないのだ。
操は現時点でそれが出来ないタイプなのだと分析し、口頭の問いかけだけでは無意味だと相澤は判断した。手を差し伸べる事に意味がないなら、こちらから手を伸ばして掴むしかない。
そして無理をしている事に一番気付かないといけないのは自分自身なのに、本人が全く気付いていないのだ。
その自覚の無さがなによりも問題で、危うさの要因だと思った。
相澤が操を引きずるようにして向かった先は職員室だった。昼休みであるからか教員は少なく、室内に残っている何人かはデスクの上でお弁当を広げている。
操は相澤の隣の席に座らされ、その光景をぼんやりと眺めていた。
蛍光灯が眩しくて視界がチカチカと点滅してしまう。脳が頭蓋骨の中でくるくる回っているような気がして、酷く気分が悪い。
そして鼻先を掠める食事の匂いに、身体からは汗が吹き出して必死に何かを訴えている。しかし胃の中はまるで嫌だと駄々をこねるかのように暴れ回っていた。
指先は冷たいのに手のひらにはじんわりと汗が滲み出していて、ちくはぐな感情に気が狂いそうだった。
「赤黒、おい……赤黒」
「……なに?」
「……お前まともに飯食ってねえだろ」
真っ青を通り越してもはや白い操の顔色は、陽の光を浴びてそのまま溶けて消えてしまいそうだった。
相澤はそんな操の手の中に、普段から常備しているゼリー飲料を押し付けた。「とりあえず今はこれ食っとけ」と、その言葉を付け加えて。
見下ろす視線は温度がないように見えて、実はこれでもかと言うほど優しさを孕んでいる。顔にも声色にも出さなかったけれど、これは彼なりの善意だったし、操のことを何よりも心配していた。
そんな相澤に対し、操は視線を徐々に落としていく。
手の中にある冷たい感覚に、脳を支配していた気持ちの悪さはスッと消えていった。それに反してお腹の底からふつふつと湧き上がる"何か"に、操は耐えきれなかった。
──プツンと、張り詰めていた何かが切れてしまったような気がした。
「……なんでこんな事するの?」
「は?」
「なんで、なんでこんな事するの!?」
その"何か"に突き動かされて、操は勢い任せに立ち上がる。そしてあろうことか相澤に正面から掴みかかった。
切れ長の瞳が驚いたように丸くなったけど、そんな事はどうでもよかった。
心の底から湧き上がる"何か"をどうにかしたくて、堪らなかったのだ。
「──先生のこと信じたくない!だから……だから!こんな事しないでよ!!」
ヒーローは私を助けてくれる。そう信じて裏切られた子どもの頃を、あの日の絶望を操は思い出していた。
あの出来事は操にとって一種のトラウマのようなものだった。先々で出会うヒーローを信じられなくなる、呪いのようなものだった。
中途半端に優しくされて、それに期待して、後で裏切られたらきっと操は耐えられない。それが相澤なら尚の事。
だから裏切るなら最初から優しくしないでほしかった。助けないで突き放してほしかった。教師たちが操を普通に受け入れてくれるから、操は
──そんなことないのに、私のせいで苦しんでいる人がいるのに!私には安全な場所にいる価値なんてないのに!!
「お前がいるから雄英高校の評価はガタ落ちだ」と追い出してくれた方がよっぽど良かった。教師達のせいで脆い自分が顔を出してしまうから、もっと厳しく冷たく接してほしかった。
──傷口を撫でるように、優しくしないで欲しかった。
相澤に掴みかかったまま、操は唇を噛み締める。視界がチカチカ点滅していて相澤がどんな顔をしているのかよくわからなかった。でも今はそれでよかったのかもしれない。
職員室内は誰もが操の行動に注視し動きを止めていた。操のいいようの無い感情と教師達の心配が混ざって、異様な空気が漂っていた。
そんな空気を感じ取っても、操はもう自分を止めることが出来なかった。このまま「出ていけ」と追い出されてもよかった。むしろ、追い出して欲しかった。
要するに、操には
裏切られるのが怖くて、彼らに酷い八つ当たりをしているだけだった。
「赤黒が俺を無理に信じる必要はない」
「……は?」
「信じたくないなら、信じなくていい」
相澤を掴む手に力を入れても、無理矢理上を向かせても。彼は表情を変えることなく、そして怒ることもなかった。
避ける事はできただろう、今すぐ操の腕を振り解くこともできるだろう。なのに相澤は椅子に座ったまま、真っ直ぐ操を見て視線を逸らす事はなかった。
「信じてもらえないのは俺の力不足だ、お前は何も悪くない」
「……なんで、なんで怒らないの!?こんな事する生徒なんて除籍じゃないの!?」
「しない」
「だから何で!?」
「俺が、赤黒は良いヒーローになるって期待しているからだ」
「──!」
相澤の体内を流れる血液の一部は、かつて操のものだった。
それは既に相澤のものとなっているが、彼女の善意で与えられた血液は傷を塞いでエネルギーを回し、生きるために休む事なく巡り続けている。この体を維持する糧となっている。
操は良くも悪くも真っ直ぐで、融通が利かない時もある。顔に出やすく素直、けれどその根幹には優しい心を持っている。
操は地位も名誉も関係なく、助けたいと思った人に手を差し伸べることができる、そんなヒーローになれるだろう。少なくとも相澤は、操ならそんなヒーローになれると期待している。
だからこんなところで意味もなく潰されて、その未来と可能性を消し去りたくなかった。
クラスメイトが被害に遭って、沢山の人から誹謗中傷を受けて、辛かっただろう、苦しかっただろう。操はこんな風になるまで追い詰められているのに、相澤は何もしてやれていない。
──むしろこの言葉で、彼女を追い詰めているかもしれない。
相澤は今、ヒーローとしての力不足を感じていた。目の前でもがき苦しむ生徒を救えないのだ。これを無力と思わずに、何の言葉を当て嵌めればいいのだろうか。
ヒーローは助けを求められずとも苦しむ人を助ける、そんな職業だ。それなのにこの数日間、それをずっと出来ないでいる。
たくさんのヒーローがいながらなんて情けない話だろうか。ただ傷を負っていく生徒を見ているだけなんて。
操は泣いていないし、助けを求めていない。けれど彼女の心は、こんなにも血だらけで大怪我をしているのに。
──信じられないのは当然だろう。信じたくないと思うのは当然だろう。だって相澤は、守るべき生徒を守れていないのだから。
けれど、例え操が自分を信じてくれなくとも。ヒーローとして教師として、彼女の可能性を期待せずにはいられなかった。
「赤黒が俺を信じなくても、俺はお前を信じるだけだ」
世界の厳しさを誰よりも知っているからこそ、人の痛みを理解できる良いヒーローになれる。そう信じている。
相澤のその言葉に、操は掴みかかっていた手をゆるりと離す。そして一歩、二歩と後退りをして──そのまま職員室から飛び出していった。
勢いよく閉まった扉が激しく音をたてる。そして静寂が訪れると、張り詰めていた空気は霧散して消えていった。
「どうすんだイレイザー、また逃げちまったじゃねぇか」
操の瞳は困惑の色でいっぱいだった。相澤は昨日と同じように、また拒絶されたのだ。
けれど昨日と違うのは操の本音を聞き出せた事。取り繕う笑みを浮かべる事もなく、平気だと弱みを隠すわけでもなく、怒りとして本音を吐き出せた、それは大きな一歩だった。
──プレゼントマイクやミッドナイトのように寄り添えたら、ブラドキングのように真っ直ぐ向き合えたら、操は逃げなかっただろうか。
そんなことを考えても仕方ないのだと、相澤は気持ちを切り替える。
昔友人に教師に向いていると言われたけれど、こういったことはどうも苦手だった。けれど苦手なりに、ちゃんと最後までやろうと思っている。
相澤は乱れた首元を直しながら立ち上がった。
「どこ行くんだ」
「決まってんだろ、追いかけてくる」
相澤は人を慰めたり、励ましたりするのは得意ではない。けれどあの状態の操を放っておくつもりはないし、何よりようやく本音を吐き出してくれたから──それにちゃんと向き合わなくてはいけないと思った。
気持ちや感情を押し殺し、取り繕った表情を浮かべるなんて操には似合わないから。下手くそな笑顔を浮かべる方が、ずっと似合っている。
操が加害者家族としてステインの代わりに罪を引き受け犠牲になることは、一時的な世間の処罰感情を満たすだけであって根本的な事件の解決には繋がらない。
飯田や被害に遭ったインゲニウムを救いたいと思っても何もできない人々は、無力感に苛まれて過剰な正義を振り翳す。それは操を、加害者家族を不満の捌け口にしているようなものだ。
「被害者家族は辛いのに、加害者家族が幸せになるのは不公平だ」という気持ちはわからなくもないが、被害者への支援が不十分だからと言って加害者や加害者家族の人権が踏み躙られる、そんなことはあってはならない。
加害者や加害者家族の生活が破壊され、死を選べば償うことが出来るのか?と問われたならば相澤は「それは違う」と答えるだろう。これは感情論だ。
被害者やその家族がそれを口にしてしまうならまだしも、第三者が口にすべき言葉ではない。
操は昨日だって上級生に囲まれて言葉の暴力を受けていた。そして、今朝A組の生徒たちから「操の自宅にも嫌がらせの手紙が届いているかもしれない」とSNSを見せられたばかりだった。
人格を否定され死んで詫びろと言われ、おまけに本人はステインの犯行に責任を感じて塞ぎ込んでいる。そんな目にあって、思い詰めないわけがないのだ。
相澤には操の傷を全て理解することはできないが、心無い言葉をかけられないように火の粉を振り払うくらいはしてやりたいと思う。
教師として、赤黒操は排除すべき存在ではなく守られるべき存在だと思うから。そしてヒーローとして、傷付いている人を放っておけなかったから。
だから物凄いスピードで駆けていった彼女の背を追いかけたのだった。
「最低だ……最低だ……」
包帯が取れたとはいえ怪我をしていた相澤に掴みかかるなんて、本当に酷いやつだと思った。人の優しさを無碍にする最低なやつだと思った。
操はとあるビルの階段を登りながら、先ほどのことを思い返しては絶望の淵に立たされるような思いでいっぱいになっていた。
──むしろその淵から飛び降りてしまいたい、そんな風に思ってしまう。
期待される意味がわからなかった。ステインの妹に向ける信頼を、信用することが出来なかった。相澤が何でそんなことを言うのか理解できなくて、操は無性に逃げたくなったのだ。
「私、昨日から逃げてばっかりだ……」
自己保身に走って相手を傷付けている。母の言う通り、本当に自己中心的で身勝手だった。そんな自分が大嫌いだった。
逃げちゃいけない、逃げ出したい、逃げちゃいけない、逃げ出したい。その二つのこころに挟まれて押し潰れてしまいそうだ。むしろ潰れてしまった方が、いっその事楽だったかもしれない。
──そうだ、そうだよ。いっそのことこの世界から消えてしまえばいいんだ。
そうすれば誰かを不幸にする事もなく、悲しませる事も苦しませる事もない。
誰かに期待をされることだってないし、非難も受ける事もない。誰を信じる事もなく、誰に信頼される事もなく。兄のことを気にせず、一人泡のように消えてしまえたら。
「あは、あははは……!」
虎に、お前の進む道は茨の道だと言われたのに!覚悟の上で雄英高校に来たくせに!体育祭で自ら目立ったくせに!
覚悟が足りないのは自分が悪いのに、勝手に被害者面して苦しんで、こんなにも心が掻き乱されている。
──そしてこのザマだ!おかしくて笑ってしまう!
長い階段を登り、やっとの思いで辿り着いた先は屋上だった。操はそのドアをこじ開けて、澄み切った空には見向きもせず屋上のフェンスを飛び越える。
一歩進めば命綱も何もない操は真っ逆さまに落ちて地面に赤い花を咲かせるだろう。もう疲れたし、それもいいかもしれない。
「覚悟が足りなかった、私がいけないんだ……!」
ぐるぐる、ぐちゃぐちゃと脳の中で異物が掻き回されて不快でどうにかしたかった。チカチカと点滅する視界が気持ち悪くて仕方がなかった。
何よりも自分の弱さを受け入れられず、他のものに責任転嫁する醜い自分が嫌で消してしまいたかった。
──私は一体何のために生まれてきたのだろう。
結局その意味もわからぬまま、兄の背中に追いつく事も出来ぬまま、操は中途半端に、そして身勝手に人生を終わらせようとしている。
「──本当にそれでいいの?」
気が付けば、操の隣には母がいた。
数百円で購入した質の悪い服を着た、安い化粧品を顔に塗りたくった母がいる。背筋をしゃんと伸ばして操の隣に立っている。
そして一足先に、地面に落ちていった。
「あぁ……そうか、」
惨めで貧しくて欲に溺れて、散らかしてばかりの弱い母。父を刺した後、飛び降りて自殺した母。
──そんな母のようにはならないと。
私は、そう思ったじゃないか。
「……お母さんもこんなに苦しかったのかなぁ」
操はフェンスに寄りかかって座り込む。
脳内でぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた異物はスッと消え、地面に叩きつけられた筈の母も白昼夢だったのかそこにはいない。
操は奇しくもこの状況に陥ることで、昔は理解する事の出来なかった母の心に触れられたような気がした。
──痛みを分かつとは、こういう事なのかもしれないなぁ……。
私はどうやら睡眠も食事も摂らず、誹謗中傷に晒されて極度の心的ストレスに冒されてしまい、正気を保てなくなっていたらしい。
操より先に飛び降りた母親のおかげで、僅かばかりの正気を取り戻す事ができた。そう思いながら、操は地面に座り込んだまま空を見上げる。寄りかかったフェンスは鈍い音を立てていた。
「──……」
死ねずに吸い込んだこの息で、私は生きている。
ここにいる意味もわからないまま、私は今日も白々しく生きている。
幼い頃に、あれだけ焦がれていた空はいつまでも美しく。
──酷く汚れた私は焼き焦がされてしまいそうだった。
【職場体験編上:了】