でも心配はいらない、なんとかなる。
見えなくても触れられなくても、そこにあるから。
後は小さな勇気だけ。
同居が始まって、一年が過ぎた。波乱ばかりで月日は流れ、俺たちは揃って進級を果たしていた。まあ栄明はスポーツ私立高だから、よほど赤点連発でもしない限り留年なんかしないけど。
予定された期間は残り半分、まだ半分なのかもう半分なのかは難しい所だ。
俺も先輩も、一年前とは色々と変わった。相変わらず俺たちは俺たちなんだけど、多少は前に進めている……んだろうな。勘違いして距離感をバグらせて線を引かれたり、それが寂しくて変に意地を張ったり。そんなことを繰り返しながら、それでも俺たちはまだ一緒に居続けているから。
出ていく口実も理由もすぐ用意できるだろうけど、先輩はそうしなかった。こうやって猪股家で過ごしてくれている、それはとても嬉しいことだ。
最近になって、ようやく分かってきた事がある。
「先輩、ジャンプ読むなら自分の部屋持ってって下さいよ」
「や。ここで読む」
コロンと転がったままジャンプを離さない千夏先輩の姿、一年前なら想像も出来なかった。この人は完璧でストイックで、誰よりも強い人だと思っていた。でもそれは、先輩の一面でしかない。気を抜ききった「おうちモード」の千夏先輩は、ワガママで自堕落で丸っこい。要するに、可愛い。
ウィンターカップが終わって支えが無くなったのか、それとも気を張るのに疲れてしまったのか。年明けからこっち、猪股家での千夏先輩はすっかり脱力するようになった。母さんなんかは「ホントの家族になったみたい」と可愛い可愛い言っているし、油断しきってノーガードな先輩はあれこれチラチラ見えたりして目の保養もさせていただいております。
……しかし家族みたい、か。
千夏先輩は俺を弟みたいに思ってくれている、それは勿論悪いことじゃない。でも、それでも。俺は弟になりたかったわけじゃないんだ。
一年前からなにも変わっていない事、それは俺のバカさ加減だ。一年もあったのに、結局先輩に想いを伝えられていない。いつか気付いてくれるんじゃないか、と淡い期待をして待っているだけだ。シンデレラだって、自分で舞踏会に行かなければ王子様には出逢えない。今の俺はうじうじ言いながら窓の外を眺めてるようなもんだ、そこから王子様と目が合ったって、どうやってガラスの靴落とすつもりなんだ。
千夏先輩が卒業したあとも俺は、こうやって悩み続けるんだろう。連絡はいつだって出来るから、邪魔をしては悪いから、先輩の隣に立てるほどの人間じゃないから。そう言いながら、ずっと。
心のなかで溜め息を吐くと、どういうタイミングか転がっている先輩と目が合った。
「んー……大喜くん、どうかした?」
「いや、何でもないですよ」
そうかなぁ、と首を傾げながらジャンプに視線を戻す先輩。何でもなくなんか無い、言いたいことはある。なのに俺は、足踏みするばかりで何も出来やしない。ちっとも成長できていない、子供のままだ。
気分がどんどん沈んでいく。大好きな人が傍にいるのに、心が凍てついていく。
ああ、辛いな。こんなにも、好きなのに。
ぺちり、ぺちぺち。そんな音と小さな痛みで、ふと意識が現実へと引き戻された。
どういうわけか千夏先輩の手が、俺の顔を叩いているようだ。しかもリズミカルに。
「俺は打楽器じゃないです、先輩」
笑ってそう言っても手が止まないのが、可愛いけど困る。
そこまで痛くはないけど、顔面はやめて欲しい。
そろそろ逃げ出そうかな、なんて思ってみたその時。目の前を見たまま、俺の身体は固まってしまう。
すぐ前にいる先輩は頬を膨らませ、そして瞳に涙を浮かべていたから。
「――やだ。大喜くんがそういう風にしてるの、やだ。そんな顔しないで」
叩く動きがいつの間にか止まり、先輩の両手は俺の頬を包み込んでいる。優しく暖かい、そんな手付き。
潤む瞳は俺を見据えていて、吐息がかかる程に距離が近い。
「言いたいことあるなら、言って。私はちゃんと聞くから」
そして鈴の音みたいなその声は、優しさに充ちている。
言いたいこと。それは、一つしかない。でもそれを言ってしまえば、もうそこで終わってしまう。俺はそれが何よりも怖いから、ずっと蓋をし続けている。
なのに、この人と来たら。ワガママで無神経で、こっちの事なんか考えもしない。
全く、何処までもこの人は。もしかしたらここ暫くのユルさは、全て計算尽くだったりするのか。もしそうなら、完全に俺は策に嵌まってしまった。
引き摺り出された本心は喉を駆け上がり、舌を蹴り飛ばして外へと飛び出していく。俺にはもう、止められない。
「千夏先輩、……好きです」
あれだけ悩んで、それでも何も変わらない。あの日体育館で抱いた想いが、そのまま出ていっただけ。ずっとずっと胸の奥に引っ掛かっていた気持ち、それを形にしただけ。
結局俺には、それしかないから。
千夏先輩は僅かに狼狽えた顔をして、少しだけ沈黙して。そして――。
「ありがとう、嬉しいよ」
微笑みながら、俺を抱き締めてくれた。
あと一年。もう一年、まだ一年。それしか無い、そんなにも有る。どっちにしても、同じことなのだけれど。
俺たちはきっと、お互いをもっと知ることになるんだろう。
その先がどうなるかなんて、分からない。でも出来れば、一緒にいられる道を見付けたい。と言うか千夏先輩の事だから、どうにかしてしまうんだろう。この人はワガママで無神経で、完璧でストイックでそして――優しい人だから。
俺も千夏先輩の隣にいられるくらいに頑張らないと、な。
道は険しいけど、なんとかなるさ。