生まれ育った町を追い出された二人の子どもの旅物語。
古代中国の雰囲気を感じて頂ければ嬉しいな、って作品です。
荘厳、その一言に尽きる。
真っ白い絨毯は遥か下を流れていき、果ての見えない雲海から突き出した岩山は苔や常緑樹、雪に彩られて懐かしいような美しさがあった。
頬を撫でる風はやや湿り気を帯びていて、身が引き締まる心地よい冷たさを感じる。
それが時折口のなかにも入ってきて、舌を、喉を、これもまた心地よく痛めていく。じんじんするけれど、痛がゆいけれど、澄んだ泉の水を飲んだ時のような清々しさ。
さあっと鳥が駆け抜けていく音だけが時折こだまする静寂の世界。
ごつごつした岩の感触を足に感じながら目の前を見れば、そこには僕の背丈ほどもあろうかという琥珀色の瞳が僕を覗き込んでいた。
※※
僕ら二人が旅に出たのは、確かリンのしっぽが大人だと認められる長さの半分くらいまで伸びたときだから、もう三年以上前だろうか。
何の変哲もない、都会でもなければ田舎でもない本当に何の特徴もない町で生まれた僕らは物心ついた頃にはもう仲良しで、近所の道路や山を駆けずり回っては泥だらけになっていた。
リンが、『無明症』を発症するまでは。
昔から伝わる童話に、こんなものがある。
『黒い瞳は信念。揺るぎのない確固たる意思。
赤い瞳は激情。己を燃やす心の力。
青い瞳は冷静。感情を捨てた合理性。
緑の瞳は慈愛。穏やかで優しい心。
透明の瞳は邪悪。なにものにも染まる淫らな存在。』
リンの瞳は、明るい緑色をしていた。
けがをしたタヌキを見つけては連れ帰って手当てをしてやり、木の枝から落ちた小鳥の巣を見つければ十メートル以上の木へも迷いなくよじ登る。
ふさふさのしっぽとふわふわの耳に表れるとおり、包み込むような優しさを持った少女だった。
宝石のように透き通った緑は、はじめのうちこそその美しさに町の女たちがきゃあきゃあ騒ぎ立てていたけれど、少しずつ色が薄くなっていくことに気付いた者がそれを言いふらした次の日には遠巻きにひそひそと陰口をささやくようになった。
それからひと月と経たず、夕食時に僕の家の玄関をノックしたリンが両親に家を追い出されたと聞いて、僕はその日のうちに家を出た。
目的地などなかった。
ただ、誰も味方がいないあの町にはもういられないと泣き腫らしたリンの顔を見て思っただけだ。
人間の残酷な素顔を見せられてなお、これから自分たちを待っている世界が希望に満ちた明るいものであると思えたのは、僕だってまだまだ子どもだったからだろう。
でも、まあ、あの頃の高揚感は今でもはっきりと思い出せる。
楽しい時期だった。
※※
僕を覗き込む瞳は瞬きひとつなく、差し込む日の光にゆらゆらと色を変えていく。
「僕は、君を助けられたんだろうか」
彼女は、何も言わない。
一文字にきっと引き締められた口はもちろん、揺らめく瞳も、穏やかに息を吐く鼻も。
長年に渡って旅路を連れ添ったのに、こうして向かい合っていても彼女のことが何も分からない。
後先考えず連れ出して、向こう見ずにそこら中を走り回って、結局はそれも僕の自分勝手だったんだろうか。
「答えを君に求めるのも、僕の甘えか」
わざと大きな声でそうつぶやいても、彼女は何も反応してくれなかった。
※※
丘を吹きわたる風が自分たちの行く先を祝福してくれていると思えたのははじめの一週間くらいまでだった。
勢いよく飛び出してきたはいいものの火の起こし方も分からず、安心して眠れる寝床ひとつ作れず毎晩交代で見張りを続けるような生活に、リンよりも先に僕が参ってしまったのだ。
ああ、情けない。
「ねぇ、だいじょうぶ? 」
しかし、リンの一言が僕の心に火をつけた。
幸い僕には狼を思わせる鋭い爪と闇夜に紛れる黒い毛並み、そして他の動物を恐怖のどん底に叩き落とす力強い遠吠えがあった。
足りなかった気合いを補って余りあるその言葉に背中を押され、僕が狩りを始めるようになって食料の問題はひとまず解決した。
獲ってきた獲物を解体して食べられるようになるまでには、かなりの試行錯誤を要したけれど。
そんな調子で次の一週間が過ぎた頃、なんとか町へたどり着いた。
二人そろって持ってきた雀の涙ほどの貯金でなんとかリンの眼を隠せる偏光ガラスのメガネと数日分の宿代を工面して、僕たちは初めて見る外の世界を心ゆくまで堪能した。
建物、食べ物、衣服、言語、種族、どれも初めて見るものばかりの心弾む光景。
ほとんどお金のなかった僕たちは店先でじっと眺めていることしか出来なかったけれど、そして営業妨害だとか迷惑だとか言われて追い払われることもあったけれど、心優しい店主に値段をまけてもらったり気前よくタダで商品を渡してもらったりもした。
たとえ十回追い払われても、一回の優しさをもらえればとても嬉しい気持ちになって、初めての食べ物を二人で楽しんだ。
気っ風のいい肉屋の店主などは捕まえた獲物を捌いて下処理をして町の店に買い取ってもらえる方法まで教えてくれた。実際のところ、路銀のほとんどはこの方法で賄っていたのだからあのオヤジにはいくら感謝しても足りないくらいだ。
結局、予定よりも長めに滞在したその町にも五日目の朝に別れを告げた。
四日目の朝に、リンが急に「早く町を出よう」と言い出したのだ。
僕はまだ肉屋の店主に小遣い稼ぎの方法を教わっている途中だったし、唐突すぎる言葉に戸惑いはしたけれど、ただならぬリンの様子に慌てて旅支度を済ませて町を後にした。
リンが理由を教えてくれたのは、町を出てしばらく歩いて、音もなく流れる細い川べりについたときだ。
周囲に人の目がないことを確認すると突然、リンは服を脱ぎ始めた。
あっという間のことで、時間的にも精神的にもそれを静止する暇のなかった僕はせめてもと顔を両手で覆う。しかしそれも、リンに強引に引っ張られて引き剥がされて。
ひらけた視界の中心にあったのは、柔らかな毛皮に包まれた年相応の少女の、何の変哲もない裸体 ―― ではなく。
心なしか厚みを減らしたように見える乱れた毛並みと、全身をまばらに覆う銀色の結晶。
鱗だった。
※※
本来は吉兆とされる幻の獣、麒麟にちなんで付けられたリンの名が、よりにもよってすべての災いの源とされる龍の鱗に通じるものになってしまったのは皮肉としては痛烈すぎる。
『龍になる』病は遥か昔から奇病として伝わっていたもので、その時は僕もリンも詳しく知らなかったのだけれど、
『一年で、全身が鱗に覆われ激痛を伴う。
二年で、牙とたてがみが生え揃い、人里には住めなくなる。
三年で、手足を失い龍の身体へと至る。』
というのが大まかに伝わる病状。それは子どもを叱るときの定型句みたいなものだったので、さんざん悪さをしては怒られていた僕らには頭の底にこびりついたような認識になっていて、リンが僕に対して怯えたような態度を取るのも無理のない話だった。
「あの時は、正直ショックだったんだ。僕に対する君の信頼はそんなものだったのか、って。今考えればむちゃくちゃだよなって思うけどさ。君の気持ちを、少しも分かっちゃいなかった。ああも追い込まれれば、疑心暗鬼になって当然なのに」
瞳の中で揺らぐ光が、動きを止めた。
僕とは全然大きさが違う鼻から、ふっと息が吐き出される。都会のビル風のように吹き下ろしたそれが僕の前髪を撫でる。
「 ……… 分かってる。悪いのは、ずっと僕の方だよ」
大きな口の端が、少し歪められた気がした。
※※
『龍になる』病は僕らの町では『登龍病』と呼ばれていて、古い文献の中に少しだけ記載がある程度の、単なる迷信や言い伝えに過ぎないものだと思っていた。
しかし、こうして目の前にしてみるとそれが真実であることは疑いようがなく、とにかく僕は寒さと恐怖で震えるリンに自分の上着を羽織らせて服を着るように促した。
「テツは」
「なに? 」
僕が強引に隠れさせた岩陰で着衣を整えるリンが、細く弱々しい声を出す。
努めて優しく暖かい言葉で、口調で答えるよう心がけたが果たしてうまくいっただろうか。
「私を見捨てない? 」
ずむ、と心臓が重みを増した気がした。
「バカなこと言うなよ」
リンの言葉が途切れる。
もちろん、治療法がないと言われる難病をふたつも抱えたとあればそう思うのも無理はないが、リンの場合は違う。
『登竜病と無明症の両方を抱える者が現れれば、世界は滅びる』
もちろん、迷信だ。
きっとそうだ。
なんとかっていう胡散臭い学者の世界滅亡予言に指定された日付はもう十年以上も前に過ぎてしまったし、古代文明の神話に登場する破壊の神様は隕石落下の比喩だったと判明している。
世界がそう簡単に壊れるものか。
そもそも世界が滅びるってなんだ、わけが分からない。
衣擦れの音がなくなったのをしっかり確認して、僕は岩陰にまわる。
そして、リンの肩を両手でがっしりと掴んだ。
「何があろうと僕は君と旅を続ける。行くあてもないし頼るツテもない、終わりの見えない旅だけど、絶対に君を捨てたりしない。信じて」
じっ、と視線がぶつかったまま動かない。
ばくんばくんと心臓が音を立てている。まさかリンにまで聞こえてはいないだろうか。
力を込めた両手にじわりと汗が滲む。
喉がからからになって。
僕の頭に、小鳥が止まった。
あまりにもじっとして動かなかったから、電柱か何かと間違えたのかもしれない。
「 …… っ」
とたん、リンが吹き出した。
「くくっ、ふふふ、あはは …… 」
驚いた鳥が慌てて飛んでいく。それでもまだリンはお腹を抱えて笑っていた。
連られて、僕も笑い出していた。
「あはは、ふふ、ははっ」
静かな川べりに、品のない笑い声がこだまする。
ひとしきり笑って、久々に何の憂いもなく一点の曇りもない明るい顔をしたリンが頷いた。
「ありがとう」
そう、それでいい。
君が笑顔でいてくれさえすれば、僕は死ぬまでだって旅を続けられるだろう。
「っていうか、僕の方が不安なんだ。向こう見ずで頼りがいもなくて、行き当たりばったりな旅に君を連れ出して、こんなどうしようもない僕が見捨てられやしないかってさ」
「そんなわけないじゃん」
即答だった。
「テツはお父さんで、お母さんで、最高の友だちだよ。どこまでだってついていく」
この時の会話が、僕たちを縛り続けていたのかもしれない。
※※
「結局、僕はあれからずっと君を連れ回してただけだ。行くあてもなく、いたずらに時間を消費して、結論を先伸ばしにした。その結果がこれだよ。何も変えられず、君が病気で変わっていくのをただ見てるだけ。君を助けるなんて、無理な話だったんだ。僕なんかに、他人を助ける力なんてない。もう謝るのだって手遅れだ。本当に、僕は …… 」
押さえつけていた、リンの前では決して出すまいと思っていた偽りのない自分の姿をさらけ出してしまう。
なぜだろうか。
自分の方がちっぽけでどうしようもないやつなんだってことは昔から分かっていたはずなんだけどな。改めて目の前に突き付けられてようやく、本当の意味で自覚したってことなのかもしれない。
だとすれば、僕は本当にどうしようもない。
あの後、リンと一度だけ病院へ行った。
外で待っていたら、五分と経たずに涙を流しながらリンが飛び出してきた。
それから、二度と病院へは行かなかった。
もし、諦めずにそこら中の病院を手当たり次第に当たっていけば、ちゃんと診断してくれる医者がいたかもしれない。
それをせずに市販の薬だけで症状を抑えながら旅に連れ回したのは、本当に、ただの僕の身勝手だ。
もちろん、リンの身体のことが知られて石を投げられるのが耐えられなかったというのもあるけれど。
一番は、二人だけで過ごす旅程が楽しかったから。
「悪かった、本当にごめん。許してくれなくていい、僕はずっと謝り続ける。君の願いはなんだって叶える。だから」
「なら、お願い」
龍は。
彼女は、リンは、人間の姿をしていた時とまったく同じ声音で、同じ明るさで。
『願い』を、告げた。
「これからも二人で、旅を続けてくれる? 」
ふふ、と優しい笑顔で。
それだけは、僕の自惚れた勘違いでないことを祈る。
「でも、これまでの旅は君を傷つけただけで」
「そんなわけない」
大きな頭がふるふると左右に振られる。悲しげに目を伏せ、目尻に大粒の涙が真珠のように滲む。
「そんなわけないでしょ。目の色がなくなって、親にも捨てられて、鱗が出てきて、初めて会う人にすら白い目で見られるようになった私と、いつまでも一緒にいてくれたのはテツだけだよ。それに、私のせいでテツの人生を奪っちゃった。」
「何を言ってるんだ、僕は奪われたなんて思っちゃいない …… 」
「それは『これまで』の話。私は、『これから』を奪った。ねぇ、気付いてない?もうテツの目にも、色はなくなってるんだよ」
やっぱり、そうか。
病気が人に毛嫌いされるいちばんの理由は、『伝染る』から。
無明症は自覚症状がないから気付かないふりをしていたけれど、こうも長く接していれば当然、感染するだろう。
「私も、テツを傷つけた。これでお互い様、おあいこだよ。だから、ね」
テツ。
目に入るもの何もかもを食い尽くし、暴食の果てに死んだ獣、トウテツから取った僕の名前。邪気や病を食べてくれる獣でありながら、強欲や暴食を象徴する悪神でもある。
縁起の悪い変な名前をつけてくれたと常々親を恨んでいたものだが、こういうオチなら悪くない。
それに、昔からの言い伝えっていうのは案外正確にものごとを言い当てているらしい。
僕にとってのこれまでの世界は、確かに滅んだのだから。
登場人物がもふもふしてるのは作者が今ハマってるソシャゲの影響です。
これ以上は続きませんが、旅の道中はもっと書きたかったかも。