何故彼女は笑わなくなったのか。

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笑うウマ娘、ダイタクヘリオスが笑わなくなった日

 雲一つ無い空。一等星よりも明るい太陽が芝を照らす。

 

 辺りは熱狂に包まれている。観客の熱狂は地響きとなり、そして一点へと注がれていた。

 

 重賞、毎日王冠。G2を冠するそのレースは数多存在するウマ娘の中でも一握りのそのまた一握りである、選ばれたウマ娘のみ出走を許される。

 

 最終コーナーを曲がって残りは直線のみ。スタートから先頭をひた走るのは、俺の担当するポニーテールと青メッシュが特徴的なウマ娘。

 

『ダイタクヘリオス逃げ切れるか!? さあ残すは二百メートル、後に控える秋のG1戦線へ狼煙を上げられるのか!』

 

 並外れた脚力で芝を蹴り続ける。幾多の轍を残しながら、彼女はゴールの一点を目指した。

 

 行け、と叫ぶ暇すら無かった。

 

『ダイタクヘリオスです! ダイタクヘリオス、後続を突き放して一着! な、なんとレコードタイムです! まさに圧巻の走り! これは来たるマイルチャンピオンシップにも大きな期待が持てる素晴らしい結果です!』

 

 左耳につけたイヤホンからそんな実況が流れる。

 

 そう、マイルチャンピオンシップだ。俺達が目指す先は来月下旬に控えたそれにある。

 

 当然今目の前で行われた毎日王冠もハイレベルなレースだ。しかしマイルチャンピオンシップは今回の比ではない。

 

 重賞は勿論、定められたレベルは毎日王冠を超えるG1。名前の通りマイラーの中でのチャンピオンを決める格式高いレースであり、勝てばマイラー最強の称号を得られる。

 

 

 

 ──そして俺は、()()()()()()()()()彼女のもとへ向かう。

 

 

 

「お疲れ、ヘリオス。一着おめでとう」

「トレーナーもおつぽよ! 何かチョーあげみざわってかやばたにえん? ウチ今いい波乗ってるかも!」

「来月のマイルチャンピオンシップは大丈夫そう?」

「もち! 今年もウチが勝てば連覇は史上二人目なんしょ? そんなんバイブスブチアゲじゃん!」

 

 ヘリオスはいつもの調子でピースする。青メッシュや話し方から分かるように、彼女は一見すると俺みたいな人間からは話しかけ辛いギャルだ。だけど底抜けに明るい人柄はどんな人からも愛されていて、しかもそんな彼女に歴史に名を残す程の実力も伴っているときた。

 

 いわゆるカリスマというものが、彼女には備わっていた。

 

「ほーら、トレーナーもアゲてけアゲてけ〜!」

 

 ヘリオスに連れ出され、客席を一望出来るターフに引っ張り出される。ウマ娘でもない俺がさっきまで高い次元で(しのぎ)を削っていた彼女達のための芝を踏むのは躊躇われたが、ヘリオスに言わせれば「マジメすぎっしょ!」とのこと。恒例のこれもそろそろ慣れてきた。

 

「応援してくれたみんなー! あざまる水産!」

「「「わぁぁぁぁぁぁ!!!!!」」」

 

 観客は賞賛の歓声を上げる。どこか萎縮する俺を他所にヘリオスは笑顔で堂々と手を振った。

 

 

 

 “笑うウマ娘”。それが彼女を表す二つ名だ。

 

 

 

 だから、漠然とこの先もずっとこうなのだろうと俺は安心しきっていた。

 

 

 

 ──それは、毎日王冠から数日後に起きた。

 

 

 

「ねえ、トレーナー。……信じらんないかもしれないけど、ウチさ」

 

 いつもの時間。いつもの練習。いつもと変わらない日常。

 

 

 

 いつもと違うのは、彼女が笑っていないこと。

 

 

 

「何か、走るの嫌になっちゃった」

 

 

 

 彼女は一切の笑顔を浮かべずに、そう言ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「一応、理由を聞かせてもらって良い?」

 

 俺は逸る心臓を抑えながら、努めて冷静に訊く。指導者はどんなことがあっても焦ってはならない。選手が競技において頼れる相手は指導者だけだ。そんな相手が焦っていると本音なんて聞けるはずもない。

 

 俺の真剣な様子に、ヘリオスは佇まいを改めた。

 

「今日のウチのタイム、どうだった?」

 

 タイマーに視線を落とす。これ以上無いくらいとは言えないまでも、来月のマイルチャンピオンシップへ照準を合わせると。

 

「悪くないタイムだね。このまま調子を上げていけば二連覇も夢じゃない」

「このまま調子が上がっていけばっしょ?」

 

 ヘリオスの含みのある発言。彼女は俺が考えるよりも早く二の句を継いだ。

 

「ほら、ウチ本格化を迎えてもう三年経つじゃん? 自分じゃわかんだよね。何かウチ遅くなっていってるなーって」

 

 本格化とはウマ娘に存在する成長期のようなものだ。世のウマ娘は人間とは比べ物にならない力を持っているが、中でも本格化を迎えたウマ娘はさらに一線を画す。

 

 レースの道に進むウマ娘のほとんどは本格化を迎えたタイミングでデビューする。

 

 その理由は、本格化の儚さにある。

 

「本格化は数年で絶頂期を迎え、そして緩やかに役目を終えていく」

「ウチってトレーナーのおかげでいろんなレースに出れたじゃん? んで悔しいこともあったけどそれでもいっぱい勝てたじゃん? だからもうこの辺が潮時かなーって思ってたんだ」

「でも毎日王冠は勝ったぞ」

「勝って終わるってチョー綺麗じゃん!」

 

 言い分はわかる。確かにヘリオスの本格化は終わりつつあった。スランプやプラトーとは違う、ウマ娘なら誰しも経験する花火のような輝きの終わりが、最近のヘリオスにも見て取れた。

 

 だけどまだ諦める時期ではない。俺個人としてはそう考えていた。

 

「なあヘリオス」

「どしたし!」

「それが本音か?」

 

 いつもは使わない強い語気にヘリオスは思わず閉口する。

 

 ヘリオスは「走るのが嫌になった」と言った。事実嫌になるであろう実感をヘリオスは伝えてくれた。

 

 だけどそれは言わせてみれば、いわゆるただの()()()()だ。

 

 笑うウマ娘とも言われた彼女がそれだけで走りたくなくなるとは、三年間連れ添った俺からするとどうしても信じられなかった。

 

 ヘリオスは何かを言うわけでもなく、ただ俯く。嘘のつけない正直な彼女だ、他に理由があることはそれだけでわかった。

 

「……今日は練習やめにするか! 友達と遊んできたらどう?」

「良いの?」

「何が?」

「練習しなくても」

 

 辞めたいんじゃなかったのか。気を抜けば口から出そうになる最後通告を、俺は理性で以て飲み込む。

 

「丁度どこかで休みを入れたかったしな! とりあえず一週間は休みにするから、その間に言いたいことをまとめておいてくれたら助かるよ」

「出走登録の済んでるレースはどうするの?」

「秋天とマイルチャンピオンシップのこと? ……んー、まあそれはおいおい連絡するよ。なんせG1だからね。ヘリオスは勝って終わりたいって言ってたし、その要求を飲むなら無理に出る必要も無いとは思うよ」

「……ん、そっか! んじゃおつ! トレーナー!」

「お疲れ」

 

 ヘリオスは一目散に更衣室へと駆け出す。相変わらず歪だけど教えた通りの豪快なフォームだ。

 

『学園内は静かに走るべし』

 

 トレセン学園じゃなきゃ絶対に聞かないであろう校則を、彼女はこんな時でも律儀に守る。

 

「……まだまだ走れそうなのに」

 

 一人になった途端に漏れ出た本音は、晩秋の風となって消えていった。

 

 

 

 

 

 

 時刻は午後五時過ぎ。夕日が辺りを照らす頃、俺は日課であるランニングをこなしていた。

 

 学生時代からの習慣は十年経った今でも抜けない。数年前に新調したくたびれているジャージで、これまた学生時代からのランニングコースである河川敷を流していた。

 

 走ることは良い。緩やかに走る時の徐々に身体が温まっていく感覚も、スプリントの時に感じる風を切る感覚も、全てが心地良かった。

 

 もしも俺がウマ娘のように目にも止まらぬ速さで駆け抜けられたら。何度描いたかわからない白昼夢を、俺は必死に消し去る。

 

 河川敷を走ること十五分。そろそろ折り返すかと思った矢先、俺は不意に声を掛けられた。

 

「あー! トレーナーのお兄ちゃんだ!」

 

 振り返ると、そこに居たのは年端もいかないウマ娘の子だった。この子は最近ランニングしているとよく見る子で、何度か話すうちにトレーナーであることを言ってしまったのだ。

 

 何故“言ってしまった”なんて表現をするのか。それは──

 

 

 

「──今日も教えてよ、走り方!」

 

 

 

 こうなるからである。いつもはヘリオスのトレーニングや仕事があるから会うこともないが、休みの日や今日のように突発で出来た隙間時間にランニングをしていると、出会った時には毎回教えを請われるのだ。

 

 だけどそんな無邪気なお願いを、俺に断れるはずもなく。

 

「良いよ。じゃあ今日もフォームの確認からしよっか」

「やった!」

 

 彼女は嬉しそうに飛び跳ねる。人間がその高さを跳べたらバスケやバレーなんかじゃ重宝なんて言葉じゃ済まないくらいに大活躍するだろうな、なんて世迷言を思った。

 

「あのね、今日は教えて欲しい走り方があるの!」

「お、良いじゃん。誰の走り方?」

 

 言いながら俺はスマホを取り出す。子どもに教える時は前傾姿勢の角度や腕の振り方などを細かく指示しても伝わらない。だからまずは参考になるウマ娘の走り方を動画で確認して、実際に俺がそのフォームで走ることによってまずは『見て覚えさせる』のだ。細かいところはその後説明すれば良い。

 

 さておき、彼女はどんな走り方を知りたいんだろう。

 

「えっとねぇ、ダイタクヘリオスさんの走り方! 最近まいにちおーかん? で一等賞になったウマ娘さんの走り方を出来るようになりたい!」

「っ、そっか」

 

 一瞬狼狽えるが、すぐに落ち着きを取り戻す。

 

 そうか。そう言えば俺がトレーナーであることは伝えたけど、ヘリオスのトレーナーとまでは言ってなかったな。

 

 俺は気付かれないように深呼吸する。

 

「よしわかった! ヘリオスの走り方なら俺に聞くのが一番だぞ!」

「えー? 嘘だぁ」

「本当本当! ヘリオスに聞くよりも上手く教えられる自信がある!」

「そうなの!? やったぁ!」

 

 幼いウマ娘の彼女は両手を広げて喜ぶ。

 

 俺の言ったことに誇張は無い。ヘリオスの走り方は他でもない俺が考えて教えたことだ。

 

 ……まさかこの子に教えることになるとは思わなかったけど。

 

「毎回言うんだけど、もし君がレースの世界に飛び込むとして。誰かに憧れてるから誰かの走りを真似するっていうのはやめるべきだよ。ウマ娘にはその人に合った走り方が存在する。特にヘリオスの走り方は世間一般で言う綺麗なフォームとは掛け離れてるからね」

「そうかなぁ」

「まあとりあえずやってみるよ。……このくらい離れてたら良いかな」

 

 俺はいつもの忠告をしながら二十メートル程彼女から距離をとる。

 

 そして、一気にアスファルトを蹴る。

 

 頭は高く、それでいてストライドの長さよりも回転数を意識。特徴的な笑いながら走るのは……これは関係無いか。

 

 三秒に満たない速度で二十メートルを駆け抜ける。一部始終を見ていた彼女は手を叩いて喜んでいた。

 

「凄い凄い! ダイタクヘリオスさんみたいだった!」

「前に教えたストライド走法とピッチ走法、覚えてる?」

「うん! ストライド走法は一歩をぐんってして、ピッチ走法はバーって走るやつ!」

「そうだね。一歩を長くとるのがストライド走法で、足の回転数を意識するのがピッチ走法。ヘリオスはピッチ走法が得意だったんだよ」

 

 というのもヘリオスは逃げを作戦とするウマ娘の中でもさらに逃げに特化した、いわゆる大逃げを得意としている。最初から全力疾走を是とする彼女は自然とピッチ走法をマスターしていたのだ。

 

「後は頭を上げてると重心が高くなるから安定するんだよね。ピッチ走法は足がもつれることもあるし、その方がヘリオスにとっては合ってたんだよ」

「そうなんだ!」

「定石は頭を低くする走り方なんだけどね。オグリキャップとかもそうでしょ?」

「……そうかも!」

 

 わかってなさそうだけど、まあここは重要じゃないから良いか。ともかくヘリオスの走り方はとりあえずこの二点を押さえていればそれっぽくはなる。

 

「じゃあ行くよー!」

 

 知らない間に俺と同じく二十メートル程の距離をとった彼女は、声を張り上げて俺へ合図する。

 

「よーい、ドン!」

 

 彼女はとてつもない速さで駆け出す。

 

 たった二十メートル。俺ですら三秒もかからない距離。

 

 しかし彼女はウマ娘だ。人間の俺なんかじゃ逆立ちしても敵わない存在。

 

 二秒と経たず、彼女は俺の正面を横切った。

 

「どお?」

 

 嫌味なんて存在すら知らなさそうなあどけない顔。俺は少しの間何も言えずにいた。

 

「……どうしたの?」

「あ、ああ! ごめん考え事してた!」

「もー、見てなかったの?」

「み、見てた見てた! 凄かった!」

「出来てた?」

「バッチリ!」

 

 笑顔でそう伝える。彼女はそれを聞くとまた嬉しそうに笑った。

 

「やったぁ! じゃあお兄ちゃん、勝負しよ!」

「競走はダメ。友達のウマ娘としなさい」

「もー、またそれ? お兄ちゃんの意気地無しー」

 

 ぶーぶー言いながら彼女は河川敷に降り、さっき教えた走り方の練習を始める。曰く河川敷は芝生になってるからターフに近いはずとのこと。

 

 俺は元気に走り回る彼女を見て、静かにため息をつく。

 

 人間がウマ娘に勝てるはずがない。

 

 当たり前のことを思いながら、俺は辺りが暗くなるまで彼女を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 練習を休みにしてから三日経ったある日。トレーニングが無ければヘリオスと話すことも無いんだなと自覚した昼下がりに、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り終わるのも束の間、俺個人に宛てがわれたトレーナー室のドアがノックも無しに勢い良く開けられる。

 

「トレーナー! ご飯食べよ!」

 

 姿を見せたのはヘリオスだった。いつもと変わらない様子は三日前引退したいと言ってきた彼女と似ても似つかない。

 

「良いけど、友達は大丈夫?」

「へーきへーき! いつメンにはぴえんしてきた!」

「ぴえんするなら友達と食べた方が良くない?」

「トレーナーとご飯食べれない方がぴえんだし!」

 

 指で作ったブイを俺に見せつける。そう言ってくれるのなら一緒に食べることもやぶさかではない。俺はデスクに広げていた資料を片付けた。

 

「トレーナーは何してたん? 仕事?」

「とりあえず秋天に出走予定のウマ娘のデータをまとめてたんだよ。今回はあのトウカイテイオーの復帰レースでもあるしね」

「ん、そっか! じゃあランチしよ!」

 

 ヘリオスは手提げの弁当袋をデスクに置き、来客用の椅子を持って隣に座る。もう三年の付き合いだから流石に取り乱したりはしないけど、担当したての頃はよく注意したものだ。

 

「ってトレーナー、またそれ? カロメは身体ギャン萎えするからこれ食べろし!」

「もごっ!?」

 

 蓋を開けた弁当箱から何かを口に突っ込まれる。これは卵焼きか……? ほんのり甘い。

 

「今食べたのってヘリオスの手作り?」

「そ! 朝練無いのに早起きの癖抜けなくて!」

「もし暇なら朝練くらいは付き合うよ」

「でもウチ引退するじゃん?」

 

 まるでもう決まったかのような口ぶりに、俺は言葉を詰まらせた。

 

 引退。もう構えないでもその言葉を口に出来るのか。

 

 個人的な意見としては信じたくないのが本音だ。だけどそれを選手に押し付けるのは違う。

 

 

 

 しない後悔よりもする後悔なんて、する後悔を選んだ人間が自分の選択を正当化するための詭弁だ。ぼんやり描いていた青写真は一度捨てたらどんな選択をしようと等しく後悔する。

 

 

 

 何となく、俺は何も言えなくなった。選手とトレーナーなんて共通の話題が無くなればこんなもの。それが何だか寂しいような、だけど当然だと納得してしまうような。

 

 居心地の悪い静寂を割いたのは、ヘリオスだった。

 

「ウチ、言葉まとめてきたよ!」

「引退したい理由?」

「そ。聞きたい?」

「そりゃ勿論」

「じゃあ先に謝っとくね。GM!」

「じーえむ……?」

「ごめんってこと!」

 

 一体何を謝る必要があるのだろうか。そう訊ねるよりも早くヘリオスは二の句を継いだ。

 

「一番デカい理由は言えない! だってどうすることも出来ないし!」

「本格化の話……ではなさそうだね」

「てかごめ、あん時のは半分嘘! だって遅くなったとしてもウチ走るのは好きだし! じゃなきゃ笑うウマ娘とか呼ばれないっしょ!」

「だったら何で引退するんだ? どうすることも出来ない理由でも聞けるなら聞きたい」

「……それは無し! ちょい考えたけどやっぱ言わない! ちなみに怪我とかじゃないよ!」

「丈夫だもんな、ヘリオスは」

「今年なんてほぼ毎月出てるしね! 他のトレーナーじゃ絶対許してくんないペース的な?」

「ヘリオスの意思が最優先だからね」

「そんなトレーナーだからウチはここまでアゲっぱなしで走ってこられたよ! ありがと!」

 

 改まった感謝の言葉に、そうか、本当にヘリオスは引退するんだなという実感がここに来て初めて湧いた。

 

 だけどここで俺が我儘を言ったとして、それはヘリオスのためにならない。彼女の意思を尊重しない選択はこの先確実にお互いが後悔する。

 

 ……ここが潮時だ。秋天の資料も捨てるか。そう決意し、俺は改まる。

 

「こちらこそ、俺をヘリオスのトレーナーに選んでくれて……」

 

 そこまで言い、しかし思わず閉口してしまう。

 

 別に感情が昂ったとか、そういった大層なものではない。

 

 たださっきと同様、思い切りドアが開けられたのだ。

 

「ヘリオス!!!」

 

 怒りを滲ませながら入ってきたのはウェーブのかかった鹿毛をポニーテールに揃えたウマ娘。“爆逃げコンビ”としてヘリオスの対を成す存在である、メジロ家の令嬢である一人。

 

「パーマー? どしたんそんなおこな顔して!」

 

 メジロパーマー。半年程前の宝塚記念では初めてG1勝利を飾った中距離を得意とする強豪ウマ娘だ。

 

「聞いたよ! 引退するってどういうこと!?」

「あー聞いちゃった? まだジョーダンにしか言ってなかったのにもう知ってるとかマジウケるんですけど!」

「私ら爆逃げコンビでアゲてくって言ってたじゃん! なのに何で私に黙ってたの!?」

「そんなのパーマーが秋天出るからに決まってんじゃん? パーマー優しいからウチのこと聞いたら心配しちゃうっしょ?」

 

 ヘリオスの言うことは正しい。ギャルだからなんて色眼鏡を掛けるつもりは無いが、そういった目線を抜きにしてもメジロパーマーは情に厚いと聞く。

 

 そんな彼女のことだ、唯一無二の親友が辞めるなんて一大事を、レース前の大事な時期に知って欲しくなかったんだろう。

 

 ……出走を取り下げれば嫌でも知ることになる、という詰めの甘さはさておくとして。

 

「……ねえヘリオス。私はヘリオスとかジョーダンみたいに勢いだけでやってけるタイプじゃない。レースだって逃げる前は考え過ぎるくらい考えてから本番に望んでた」

「知ってるよー」

「だから今回のこともさ、ただ我武者羅に引き止めるだけじゃダメだって思ったの」

 

 メジロパーマーはヘリオスの大きな瞳を真っ直ぐ見つめる。

 

 まるでゲートが開く直前のような冷えた空気。流石のヘリオスも余計な口は挟まずに、メジロパーマーの言葉を待っていた。

 

「……引退する本当の理由、まだトレーナーには言ってないんでしょ?」

「ちょっ、それは!」

「全部聞いたんだから。私これでもメジロ家の人間だし、恥を忍めば事情を知ってそうな人から聞き出すことくらい出来るよ。引退するかどうかはそのことについてちゃんとトレーナーと話し合ってからの方が──」

 

 

 

「ダメ!!!」

 

 

 

 鼓膜に突き刺さる凄烈な叫び。見るとヘリオスは普段の彼女とは似つかない鋭い目つきで、そして今にも零れ落ちそうな涙を堪えていた。

 

「……トレーナーはダメ。トレーナーだけは、絶対にダメだからね」

「気持ちは分かるけどさ……」

「俺からも良いか?」

 

 口を挟むならここだ。嫌に冷静な頭でそう判断する。

 

「確かに俺はヘリオスが引退する理由を知らない。だけど本人がそうしたいって言ってるんだ、トレーナーとして選手の意見を尊重しない訳にはいかない」

 

 二人は口を挟まない。俺はさらに続ける。

 

「そりゃ叶うことなら知りたいよ? だけどそれは今じゃなくても良い。何年後か何十年後か、ヘリオスの気持ちに整理がついたら話してくれれば俺は満足だ」

「……ヘリオスの選択が、自分自身の意見すら尊重してないとしてもですか」

「それは、どういう」

「ヘリオスは誰よりも優しいんです。そんな子がトレーナーにだけは言えない事情を抱えてることに、何の疑問も抱かないんですか」

 

 メジロパーマーのあまりにも真に迫った気迫に、俺は尻込みしてしまう。

 

 彼女の示す意味は単純明快だ。要はヘリオスが俺に引退する理由を伝えないのは、俺を気遣ってのことじゃないかという話。

 

 より自虐的に言い換える。

 

 

 

 ヘリオスは俺のせいで引退せざるを得ない状況に陥っているのではないか。

 

 

 

「……まあ、考えなかったわけじゃないよ」

 

 本格化の終焉が理由ではなく、どこか怪我をした訳でもない。何より走ることは今も好きなまま。

 

 であればレース以外、それも俺にだけ言えない理由ならば俺に関する何かであることは自明の理。

 

「でもヘリオス自身が言いたくないんだ。ならどうしようもないだろ?」

「……わかりました。ねえヘリオス」

「ん、何?」

 

 さっきの取り乱した様子とは打って変わって、ヘリオスは至極落ち着いている。やはりもう気持ちの整理はつけているのだろうか。

 

「私らズッ友だよね」

「もち! パーマーはウチのズッ友だよ!」

「……本当はこんなことしたくないってことだけは覚えておいてね?」

「? うん」

 

 何を言うつもりなのか。メジロパーマーは仰々しい前置きをして、一度咳払いした。

 

「私、引退のことをズッ友に黙ってるような人はズッ友って思えない」

「っ! そ、それは違うじゃん! てか理由知ってんしょ!? なら別にパーマーを信用してないとかそんなんじゃ……!」

「うん。たったこれだけで嫌いになる程薄情でも無いよ。今の私があるのはヘリオスのおかげだもん」

「じゃ、じゃあ良いじゃん! はいこの話はコレで終わり!」

「逃げないで」

 

 静かに、しかし質量を伴った彼女の言葉はヘリオスを縛る。

 

「引退するなとは言わないよ。事情を知ればそう思っちゃうのも仕方ないかもって思えるから。……だけどこのままトレーナーと話し合わずに引退するのは、違うと思う」

「……パーマー……」

「だから秋天で勝った方が意見を通せるっていうのはどう? ほら、言うても私らウマ娘じゃん! こういうのはレースで決めるのが道理っしょ!」

「……秋天、かぁ」

 

 彼女の言うそれはつまり、最低でもあと一戦は走れという脅迫。その勝負を飲むこと自体が既にメジロパーマーの要求を一つ受け入れることになっているが。

 

「……パーマーには心配掛けちゃったし、一戦くらいなら……うん。良いよ」

 

 誰よりも優しいヘリオスならば、そんなことは考えるまでもなく引き受ける。予感を超えた確信がそこにはあった。

 

「で? 内容はどうすんの?」

「ヘリオスが勝ったらその日にでも引退して良いよ。だけど私が勝ったら」

「勝ったら?」

 

 

 

「ヘリオスのトレーナーに全部を伝える。引退するのはその後」

 

 

 

 メジロパーマーは僅かに唇を噛みながら、絶対にヘリオスが望まないであろうことを口にする。

 

 ……まだ子どもの彼女に悪者になってもらってしまった。胸が傷む。

 

 だけど俺じゃそれを言うことすら叶わない。ウマ娘と人間じゃ勝負の土俵に立つことさえ出来ないのだ。

 

「ま、ヘリオスが勝てば良いだけの話だよ。私からはそれだけ。何かある?」

「ううん。無い」

 

 二人はそう言葉を交わすと、他に何かを言う間もなくメジロパーマーはトレーナー室を後にした。

 

 思わぬ方向で引退が伸びたわけだが、俺は何故か動揺していなかった。この期に及んでまだヘリオスは走るだろうと言う無責任な確信が頭の隅に残っていた。

 

「トレーナー」

「どうした?」

 

 いつになく真剣な様子。これだけ鬼気迫るヘリオスは初めて見た。

 

「ウチ、秋天に勝つんじゃなくてパーマーに勝ちたい。パーマーに負けて二着になるくらいなら、パーマーに勝って十七着になりたい」

 

 それはつまり秋天の結果などどうでも良く、目の前にある負けられないレースにだけ勝ちたいという捨て身の覚悟。

 

「パーマーへの勝ち方、教えてくれる?」

「勿論」

 

 指導者は選手の意志を尊重する。

 

 それが俺の、教育哲学だ。

 

 

 

 

 

 

 乾いた風が肌を撫でる秋晴れの日。どこまでも広がる蒼穹は実にレース日和だ。

 

 来たる十一月一日。何の因果か秋天の名に相応しい日に天皇賞・秋は開催された。

 

 トレーナーはターフへ繋がる通路の直前までしか同行を許されない。出走するウマ娘はそこでレース展開や注意事項など最後の確認をするのだ。

 

 隣に居るヘリオスの調子は可もなく不可もなくといったところ。

 

 しかしいつにも増して真剣な表情をする彼女を、俺は三年間担当してきて初めて見た気がした。

 

「今日のレースは楽しめそう?」

 

 だから俺はあえて、いつもは聞くまでもない質問を彼女に問い掛けた。

 

「もち! ……って言いたいところだけど、今日のはわかんないかも。でも負ける気は無いよ」

「悔いは無いようにね。もしかすると今日のレースが最後になるかもしれないんだし」

「二人で話してるところ悪いけど、私がそうはさせないからね」

 

 俺達の会話に割って入ってきたのは他でないメジロパーマーだった。トレーナー視点から見ると少し構え過ぎていて危ういが、それは敵側の俺が言うことではない。

 

 ただし目の奥に宿る闘志は、この場の誰よりも光を放っていた。

 

「勝負だよ、ヘリオス」

「うん。絶対負けないから!」

「先行ってるね」

 

 鬼気迫る様子は、例えるならかつての春天のライスシャワーを思わせる。メジロパーマーと同じくメジロ家のメジロマックイーンが賭けた三連覇を、観客が発する期待を、その身一つで破ったあの日の気迫。

 

「ヘリオス」

 

 もうすぐレースが始まる。その前に俺は一つだけ、トレーナーとしての責務を果たす。

 

「ヘリオスは今日のレースじゃなくてメジロパーマーに勝ちたいって言った。そしてそのための作戦はもう伝えてある」

 

 指導者は選手の意志を尊重する。たとえそれが世間の求める正解では無かったとしても。

 

「今日のレースの主役はトウカイテイオーだ。復帰レースがG1だからこそ注目は間違いなく彼女にある。現に彼女は一番人気だしね」

「ウチは三番人気だったっけ?」

「ああ。注目こそされてるけど主役のトウカイテイオーと次点のナイスネイチャに比べれば今回のレースでの人気は劣る。だから何も気負わず、自分のしたいレースをすれば良い。……ただ」

 

 トップ二人に劣るとはいえヘリオスもある程度注目はされている。

 

 それが何を意味するか。

 

「今日のレースが終わった時、もしかするとヘリオスは望まない評価を得てしまうかもしれない。それも引退レースで」

「ウチがそんなんでビビるわけないっしょ! 作戦を聞いた時からそれくらいは覚悟してっし!」

「……なら良いよ。思う存分走っておいで」

「おけまる! じゃあまた後でね!」

 

 ヘリオスはビシッと敬礼するとターフへ歩いていく。

 

 忠告は要らなかったかな。そう思うくらいには、彼女の覚悟は決まっていた。

 

 今日の秋天は間違いなく後世に()()()()()()()()。それくらい荒唐無稽な作戦を、俺は彼女に伝えた。

 

 全ては彼女の望んだ、ライバルであるメジロパーマーだけに勝つため。

 

「……距離適性を考えたら、普通は勝てないレースなんだけどなぁ」

 

 中距離以上が苦手だからクラシック路線を諦めたヘリオスが、宝塚記念で勝利したメジロパーマーに勝つためのレースを無視した作戦。

 

 俺は出走ウマ娘のトレーナーに用意された席へ、静かに向かった。

 

 

 

 

 

 

 ガコン、とゲートの開く音がスピーカーから響く。レースは思ったよりも呆気なくスタートした。

 

 最初の直線はそれぞれのペースに合わせて縦に伸びる。各々位置取りが確定すると、ヘリオスは二番手ながらとんでもないハイペースで逃げていた。

 

 教えた通り、そして読み通り──

 

 ──一番手にはメジロパーマーが負けじと飛ばしていた。

 

 ……ヘリオスはメジロパーマーに勝つことを望んだ。だがそれは相手も同じ。

 

 彼女が秋天の結果とヘリオスに勝つことを天秤にかけた時、後者を取ることは既にわかっていた。

 

 メジロパーマーには悪いが、これはその心理を突いた言わば彼女専用の作戦だ。

 

 左耳につけたイヤホンから実況が聴こえてくる。

 

『さあレースは第二コーナーを回ります! 一番手は……おおっとここでダイタクヘリオスが立ちました! 得意の逃げが今日も炸裂しています! ハナを譲ったメジロパーマーは二番手!』

 

 ヘリオスに伝えた作戦は“最初にスパートをかけろ”だ。

 

 それだけ聞くといつもしている逃げ展開のように聞こえるが、スパートと言っても()()()()()()()()だ。

 

 メジロパーマーは中長距離で真価を発揮する。なので短距離の経験は無いとは言わないが、彼女はそのペースに慣れていない。

 

 普段なら冷静なレース展開を繰り広げるだろう。

 

 だがどうしてもヘリオスに勝ちたいと息巻いていたら?

 

 同じ土俵に立って、その上で完膚なきまでに打ち勝とうとしていたら?

 

 

 

 しかしそのペースに付き合った相手が、短距離とマイルでは圧倒的過ぎる実力者だったら?

 

 

 

『さあ1000メートルを通過しました! ハナを切るダイタクヘリオスのタイムは……えっ!? な、何と57秒5です!? これは前代未聞の超ハイペース!!! ダイタクヘリオス止まらない!!!』

 

 

 

 彼女は笑わない。ただ与えられた作戦を忠実にこなしている。たとえその様子がいつもの彼女とは掛け離れていても、結果は後から追いついてくる。

 

『メジロパーマー、ここで二番手をトウカイテイオーに譲ります!』

 

 無茶なペースに付き合ったメジロパーマー。後はもう後続へ沈んでいくだけだろう。この時点でヘリオスの目的は達成されたと言っても良い。

 

 しかし今、実況は二番手をトウカイテイオーに譲ったと言った。

 

 この後起きるであろう展開が、悪名として歴史に名を刻むことになる。

 

『と、トウカイテイオーが二番手!? このハイペースに付き合っても大丈夫なのでしょうか!?』

 

 トウカイテイオーは春天で骨折をして以来の復帰レースだ。身体は取り戻せたとしてもレースの勘は薄れゆく。

 

 普通のレース展開ならばこうはならなかった。もしかすると復帰レースがG1でかつ勝利という、前代未聞の偉業を成し遂げていたのかもしれない。

 

 

 

 しかしそれは今ではない。何故ならレースの勝敗に拘っていない歪な不確定要素がレース展開を生み出しているから。

 

 

 

『最終コーナーを回りましたが……ついにダイタクヘリオス失速! 次いでトウカイテイオーも後続に次々と抜かれていきます!』

 

 こうなることは作戦を思いついた時から既に見えていた。彼女達は圧倒的な能力を持つウマ娘だが、同時に年端もいかないただの子どもだ。どんな状況でも冷静な判断を自然に下せるようになる頃には、既に本格化を終えてしまっている。

 

 それが人々を魅了するレース展開を生み出すし、時には利用されてしまう。

 

 ヘリオスのトレーナーが俺でなければ、あるいはこうはならなかっただろう。だけど俺は選手が望めば権威ある秋天を捨ててしまえるトレーナー失格の人間だ。

 

 最終的にヘリオスは八着でゴールを切った。

 

 遅れてゴールインするメジロパーマーは十七着。彼女達の勝負は火を見るより明らかだ。

 

 二人は、どちらも笑っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 ウイニングライブが終わり、俺とヘリオスは夕焼けの中閑散とした観客席から二人で整備されるターフを眺めていた。

 

「ねえトレーナー! ネットニュースヤバくない? ウチめっちゃ叩かれてる!」

 

 ヘリオスは叩かれてる張本人とは思えないテンションでスマホの画面を見せてくる。

 

 “トウカイテイオー敗れる。理由は爆逃げコンビの暴走か?”

 

 “ダイタクヘリオス乱心! 思考停止の大逃げウマ娘の末路とは”

 

 “爆逃げコンビのハイペースはレースをぶち壊すためのものだった?”

 

 どれも事実無根の乱文。画面の向こうにいるライターの落胆が悪意となってヘリオスに向けられていた。

 

 ……まあ、こうなるよな。お互いそうなることを覚悟して秋天に臨んだのだ。

 

 ただ、それでも少しは労ってくれても良いのに。まだ子どもの彼女の胸中を思うと、どうしてもそう感じずにはいられなかった。

 

「……今日のレースはどうだった?」

 

 俺は半ば無意識にそう訊ねる。結果は散々なものだったが、当初の目的は達成出来た。

 

 だからいつもの明るい返事が返ってくるだろうと、何となくそんな予想をしていた。

 

「パーマーに勝ったのに何かテンサゲ。レースってこんなにアガんないものだっけ? ウケる」

 

 ちっとも楽しくなさそうな顔でそう呟く。

 

 何となく、過去のトラウマが刺激された。

 

「でもそっか、パーマーには勝ったんだよね」

「これで心置き無く引退出来るな」

「トレーナーはウチに引退して欲しい?」

 

 不意に思ってもない質問が投げかけられる。

 

 ヘリオスが引退するべきか。

 

 一瞬だけ、言葉が詰まった。

 

「俺個人としては、まだ早い気もしてる。今日は事情が事情なだけにこんな結果だったけど、今月の下旬に控えるマイルチャンピオンシップは充分勝てる仕上がりだし、時期尚早だとは思うよ」

「そうじゃなくて」

 

 言ってる意味がわからず、ついヘリオスと目を合わせる。

 

 彼女は大きな丸い目をまっすぐ俺へ向けていた。

 

 

 

「トレーナーは、ウチにどうして欲しい?」

 

 

 

 ──その問いは、俺が必死に考えないようにしていたものだった。

 

 

 

「……俺の考えじゃなくて、俺の気持ちってことだよね」

「そ! なんだ、わかってんじゃん!」

 

 ヘリオスは友達にツッコミを入れるかのごとく、俺の背中をポンと叩いた。

 

 俺はトレーナー、つまり指導者だ。指導者は選手のためにあるべきで、私情を挟むべきではない。そう考えている。

 

 少しでも私情を持ち込めば、選手の望まない選択をさせてしまいかねないから。

 

 慎重に言葉を選ぶ。

 

 ここが分水嶺な気がした。

 

「知っての通り、俺は選手を尊重したい人だ。だって最前線に立つのは指導者じゃない。選手の選択が俺にとっての最善で、それを軸にどうするか考える。俺が何を思うかはそこからだし、そこまでに俺の気持ちは存在しない」

 

 そう言いながら、どこか違和感を感じた。

 

「……違うね。そこまでにある俺の気持ちは存在しないものとして扱う、かな」

「トレーナーは何でそこまでウチのために尽くしてくれるの?」

「俺が昔そうしてもらったからだよ」

 

 昔話をするのは今日が初めてだ。今まで自らは誰にも言ったことがない。

 

 何故なら、それは思い出すのも嫌な苦い思い出だから。

 

「少しだけ自分語りをするけど、良い?」

「むしろウチからおなしゃす!」

「……そうだな、どこから話そうか」

 

 俺は既に色褪せ始めた過去の記憶を辿っていく。

 

 ()せ返りそうな暑さを幻視した。

 

「俺さ、中学生の頃から高校二年生にかけて陸上部だったんだよ。種目は四百メートル」

「うん」

「実はこれでも結構結果も残してたんだ。中二の頃に初めて全中に行ってから、高校生になっても二年連続インターハイに出場。高一の頃は全国三位にもなった」

 

 レース前の緊張は今でも思い出せる。走るのはウマ娘のような芝のターフや砂のダートではなく合成ゴムで出来たタータンだけど、それでも一歩ごとにタータンが押し返してくれる力と生み出される風を切る感覚は、忘れるにはあまりにも甘美過ぎた。

 

「当時の一位と二位は二人とも高三。つまり二年になった頃にはインハイ制覇がもう目の前にあったんだよ」

「なれたの?」

「なれなかったよ。……というより、ならなかった? こう言うと少し自意識過剰にも思えるけどね」

 

 脳裏に過ぎるのはあの日の河川敷。

 

 俺が陸上を諦めた瞬間だ。

 

「インハイの一週間くらい前かな。俺は日課のランニングをしててさ」

 

 今でも続くそれは、都合十年以上のもの。身体に染み付いた習慣は未だに辞められる気がしない。

 

「ある女の子と出会ったんだよ」

「うん」

「多分四歳の子くらいかな。名前も分からないけど、走ってる俺を見ていきなり勝負しようよって言い出したんだ」

 

 当事者だから言い切れないけど、恐らくその光景は微笑ましいものだ。小さい子のかけっこに付き合ってあげる高校生という状況は、一点の解像度をそのままにしていたらトラウマになんてなるはずもないもの。

 

 だけど俺は、そのかけっこをするべきじゃなかったのかもしれない。

 

「その子はウマ娘でさ」

 

 ウマ娘と人間にある能力の差は、たとえ陸上で将来を期待されるレベルの男子高校生であっても覆らない。

 

 当然、結果は見えていた。

 

「負けたよ。俺が一番力を出せる四百メートルで、それはもう無惨に」

 

 夕焼けは夕暮れになり、空が暗くなっていく。

 

 俺の自嘲は加速した。

 

「当然ウマ娘がどれ程凄い存在なのかは知ってたつもりだよ。そもそも陸上を選んだ理由が風を切る彼女達に憧れたからだし」

 

 ヘリオスは口を挟まない。静かに続きを待っている。

 

「……でも、流石にその時は応えたんだよ。俺がどれだけ頑張っても彼女達には勝てない。走り方もめちゃくちゃでペース配分なんて知りもしない小さなウマ娘に、能力の差だけで負けるんだ。何か走るのがバカらしくなったんだよ」

「……辞めたの?」

「そうだね。そのことを正直に伝えたら、先生も受け入れてくれたよ。そういう理由で辞める人は少なくないんだとさ」

 

 誰も俺を引き留めなかった。当人の俺が選んだ選択を、みんなは尊重してくれたのだ。

 

「後悔は無いよ。あのまま続けてインハイで優勝したとして、待ってたのは空虚な喜びだけだっただろうし」

「……だから走るのを辞めた?」

「その子のせいってわけじゃないよ。ただ俺が弱かっただけだ」

「ううん。その子のせいだよ」

 

 およそヘリオスの発言とは思えないそれに、俺は思わず目を見開く。

 

 誰かのせいにするなんて、ヘリオスらしくなかった。

 

「い、いや。でも現に俺は自分で辞める決断をしたわけだから……」

「違う。絶対その子のせい」

「……どうしたんだよ。別に俺が陸上を辞めたのなんてどうでも良いことで──」

 

 

 

「──そのウマ娘の子が、ウチだったとしても?」

 

 

 

 ヘリオスは今にも泣きそうな顔で俺を弱々しく見つめる。

 

 まるで叱られる直前の子どもみたいだ。そんなことを思った。

 

「……色々聞きたいことはある。……けど、とりあえず先に。何でその子が自分だったって思ったんだ?」

「トレーナーさ、最近小さいウマ娘の子に走り方教えてるっしょ? それ前に一回見たんだよね。あん時はパーマーの走り方を教えてたよ」

 

 確かにメジロパーマーの走り方を聞かれたことはあった。あの日はランニングのついでなどではなく帰宅途中だった覚えがある。

 

「ウチトレーナー見つけて声かけようとしたんだけど、女の子が競走しよって言ってるとこ見て隠れたんだよ。トレーナーって走るとどんな感じなのかな? って好奇心? 的な?」

 

 確かにヘリオスの前で本気で走ってみせたことは一度も無い。走り方を説明する時ならまだ軽くは見せたこともあるが、競走となるとトレセン学園の人間には誰一人として見せていない。

 

「だけど断ったっしょ? しかもそん時もうウマ娘の子と走るのは嫌なんだーって言ってたじゃん? だから気になって色々調べたし」

「……まあ、出てくるよな」

「そ! トレーナーってウチが思ってるより有名人で、辞めた理由についても色々書かれてた! 多分いくつかは適当な嘘なんだろうけど、マジモンっぽいのは一個だけだったよ」

「……小さなウマ娘にすら勝てない自分が嫌になった、だったっけ」

「それ。んで調べてくうちにいつもトレーナーがルーティーンで走ってた河川敷とかも出てきて、ビックリした」

 

 その理由は、もう聞くまでもない。

 

「ウチが小さい頃に走ってた河川敷と一緒。んで競走したのも思い出した。……そんでさ。あー、ウチがトレーナーから走ることを奪っちゃったんだなーって自己嫌悪。全部知ったのは丁度毎日王冠の次の日だったかな」

 

 ヘリオスは夕日の沈んだ遠くの空を眺めている。彼女の後悔に彩られた横顔は、この場には相応しくない感想だけど、どこか美しく感じた。

 

「……言うつもりはなかったんだけどなぁ」

「それがメジロパーマーの言おうとしてたこと……だよな」

「ウチせっかく勝ったのに自分から言うとかあたおかじゃん。やばたにえん!」

「引退、俺のせいだな」

 

 あまりにも直球な言葉。彼女は無理に明るく振舞っていたテンションを静めた。

 

「違うよ。ウチが引退するのはウチのせい」

「……なあヘリオス。何であの時のことが引退のきっかけになるんだ? 別に俺はヘリオスに陸上を奪われたなんて思ってない」

「ウチは走ることが好き。だからレース中は笑っちゃうし、“笑うウマ娘”なんて二つ名も貰えた。……でも誰かから走ることを奪って走り続けるなんて、ウチには出来ないよ」

「だから俺はそんなこと思って──」

 

 

 

「──これからもそうって言える? 自分から走ることを奪ったウマ娘が担当だって知って、この先も一緒にやっていくなんて(つら)いでしょ?」

 

 

 

 ヘリオスは優しく諭し、そして静かに怒る。内容はやっぱり誰かのためで、今回は俺。

 

 自分の選手生活を終わらせたウマ娘を担当するなんて皮肉を、これ以上背負わせられない。

 

 本当にヘリオスは、どこまでも優しい子だ。

 

「……それにさ? ウチもそれを抱えながら走っても多分楽しくないってか……まあ本格化も終わるし良いタイミングじゃん? だからウチは引退したいんだよ」

「……だったら」

「え?」

「だったら何で、俺にどうして欲しいかなんて聞くんだよ」

 

 いつもは使わない強い語気。引退について話し合うとつい出てしまう。

 

「本当は走りたいんだろ。だけど負い目を感じてるから辞めるなんて、そんなの俺に失礼だ」

「っ、そんなんじゃ!」

「勝手に俺が辛いって決めつけるなよ!!!」

 

 大人気(おとなげ)なく、俺は一回り若い彼女に叫ぶ。あまりの勢いにヘリオスはハッとした。

 

「……俺が何でこの職に就いたかは考えなかったか?」

「……トレーナー、に」

「確かに当時は嫌気が差して選手であることは諦めた。だけど同時に、いやそれ以上に! 俺はウマ娘に魅入られたんだよ!」

 

 重ねた言葉はまるで子どもの言い訳。だけど本心だからこそ、俺は止まれなかった。

 

「考えてもみろ! 俺に引導を渡したウマ娘の担当につけたなんてどれだけ嬉しいことか! ヘリオスは俺が成しえなかった夢を背負ってるって何で気付いてくれないんだよ!!!」

「……でも、でもさぁ! 今はそう思うかもしんないけど今後はわかんないじゃん! ウチはトレーナーのことズッ友以上に想ってる!」

「だからなんだよ!!!」

「嫌われたくないんじゃん!!!」

 

 ヘリオスは大粒の涙を零す。彼女の必死な様子に、ようやく我に返った。

 

 嫌われたくない。そんな幼稚で根源的で、そして当たり前の感情に、俺は今まで一度たりとも考えたことがなかった。

 

「……やだよぉ……。このまま走り続けてトレーナーに嫌われるくらいなら……走るなんてもうどうでも良いし……」

「……ヘリオス」

「……っ、ごめ、っ!?」

 

 俺は静かにヘリオスを抱きしめた。

 

 それは親が子を安心させるように。

 

 友達が友達を慰めるように。

 

 

 

 あの日泣きながら辞めることを伝えた俺を、優しく受け入れてくれた先生のように。

 

 

 

「……嫌いになんてなるはずがないだろ? ヘリオスは俺の担当するウマ娘だ」

「……そんだけ?」

「……それだけじゃなかったら問題になるよ」

 

 意図することはわかる。このくらいの年齢の子ならそう思うこともあるかもしれない、なんて心の中で少し大人ぶってみた。

 

 たとえそれが思い上がりだとしても。俺はまだここではトレーナーでいることを選んだ。

 

「ほ、ほら俺トレーナーじゃん? 別にヘリオスも恋愛感情とかそういうのじゃないだろ? あとこれたづなさんに言うことだけは勘弁してくれよ。理事長はともかくあの人はこういうのに凄いうるさいから」

「……ぷっ、あっははは! 何それウケる!」

 

 ヘリオスは笑う。腕の中で遠慮なく笑顔を浮かべる彼女は、伝う涙の意味も変えているようだった。

 

「やっと笑ってくれたな」

「ふふ、言われてみれば最近笑ってなかったかも?」

 

 空気が弛緩する。秋の夜長はどんどん気温を下げていくにも関わらず、身を寄せ合う俺達はお互いの体温がお互いの身体を温めていく。

 

「なあ、ヘリオス」

 

 畏まった俺の呼び掛けに、ヘリオスは抱きしめられながら顔だけを俺に向ける。まるで二人ともキスをする直前のような体勢だ。

 

「俺個人がどうして欲しいか、言ってなかったよな」

「うん。まだ聞いてない」

「俺は走って欲しい。ヘリオスが笑いながら走る姿、好きなんだよ」

「……ふふ、何それ? 告白? 好きピ?」

「ヘリオスがもう少し大人になったらな」

「何それ! まあ良いけど!」

 

 そう言いながらヘリオスは抱きしめられるだけだったところを自らも抱き返す。お互い余すところなく密着した。

 

「ねぇトレーナー。ウチが走っても辛くなんない?」

「なるわけないだろ。あとヘリオスがさっき言ってた“走ることを奪った”発言だけど、俺暇な日は走ってるぞ?」

「え!? 嘘!?」

「あの河川敷でウマ娘のあの子に話しかけられたのはそれがきっかけだし。別に競技の最前線だけが走ることじゃないだろ?」

「あは、何それ! もっと早く言ってくれたらこんなに悩まなくて済んだのに!」

「サイレンススズカなんかはよくすれ違うよ。あの子も同じところ走ってるし」

「浮気!!!」

「ちがっ力強い痛い痛い!」

 

 降参だとヘリオスの背中を軽く叩くが緩めてくれる気配は一向にない。

 

 ただ、ヘリオスが直近のマイルチャンピオンシップを走ってくれるかどうかは、このハグが言外に物語っていた。

 

 

 

 

 

 

 冬の訪れを感じさせる肌寒さは十一月も下旬の日。京都競バ場に詰め込まれた十二万人は今か今かとレースを待ち望んでいる。しかしそれも当然だ。

 

 マイルチャンピオンシップ。前回の秋天の結果により惜しくも二番人気となったが、今日は担当ウマ娘であるヘリオスが史上二人目となる連覇を成し遂げるかもしれないのだ。

 

 ターフへ繋がる通路にて、俺は今日の出走者の一人であるヘリオスと話していた。

 

「今日は大外十八番だ。だから最初から無理に先頭に立つ必要はない。良い感じに走って良い感じに逃げ切るんだ」

「あはは! 何それウケる! トレーナーが言う指示じゃないっしょ!」

「じゃあめちゃくちゃ難しく言おうか? まずは大外の強みである視界の広さを生かして先行するウマ娘の位置取りを確認してだな……」

「訳わかんなくてウケる!」

「まあ、とりあえず勝ってこい。それだけだよ」

「おけまる水産!」

 

 ヘリオスは毎日王冠の時と同じようにピースを向ける。調子はもうわざわざ確認する必要もない。

 

「勝ったらハグ!」

「「「!?」」」

「ちょ、声デカいな!?」

 

 これから出走するウマ娘達とトレーナーの面々は一気に俺達へ視線を向ける。たづなさんの耳に入ったら折檻どころじゃ済まないってのに……。担当ウマ娘とは節度を持った距離感を、とは毎年行われるコンプライアンス説明会でのたづなさんの言葉だ。

 

「ハグはともかく」

「ともかくとかぴえんするかも!」

「……まあそれは勝ってから考えるとして! 今日はいけるんだな?」

「もち! 期待して待ってて!」

 

 ヘリオスは待ちきれないと言わんばかりに通路を駆けていく。あまりの良さそうな調子に周りのみんなは改めて気を引き締めていた。

 

 だけど負ける気はしない。ヘリオスの調子はそれくらい仕上がっている。

 

 ……期待して待ってて、か。相変わらずわかりきったことを言う。

 

 言われずとも期待してる。

 

 心の中で、俺はそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 そして、ゲートは開く。

 

 ヘリオスは指示通り無理に先頭に立つことはなく、淀の坂を迎えてもまだ三番手だった。

 

 二番手のイクノディクタスが良い位置にいる。無理なペースアップは禁物だが、流石のヘリオス。感覚でそれを理解していた。

 

 左耳のイヤホンから、興奮気味の実況が聴こえてくる。

 

『さあ下り坂! ダイタクヘリオスはここで先頭に立ちました! 大外十八番でどうなることかと思われましたが、ここから彼女の大立ち回りが始まります!』

 

 もう心配する必要は無い。この先に待つのはヘリオスの得意な最終コーナー。

 

 まるでワープしたと錯覚するようなコーナリングは、彼女の代名詞である逃げに隠れた大きな武器だ。

 

『最終コーナーを回って先頭に立つのはいまだダイタクヘリオス! 流石にキツいか!? いやそれでも進む!』

 

 最後の直線、スタートから今までずっとスパートをかけるヘリオスが徐々に失速する。

 

 並のウマ娘じゃ、ここで差されて終わり。

 

 しかしハナを切るのはヘリオスだ。今では逃げウマ娘の代表と言えばマルゼンスキーと並んで名前の挙がる今日の主役。

 

 

 

 失速しようと追いつけない差が、そこにはあった。

 

 

 

『ダイタクヘリオス! ダイタクヘリオスが逃げる! ダイタクヘリオス一着! 史上二人目となるマイルチャンピオンシップ連覇を達成しました! ……今新しい情報が入りました! な、なんとレコード!? 毎日王冠に続きダイタクヘリオス、マイルチャンピオンシップでもレコードを打ち立てました!!!』

 

 彼女は笑顔だ。見ているだけで楽しくなるような姿はまさに“笑うウマ娘”。

 

 秋天のように、彼女を嘲る人はもうどこにも居ない。

 

「トレーナー!!!」

 

 ヘリオスは満面の笑みで俺の待つトレーナー席へ走ってくる。

 

 堪えきれず、俺は彼女達が今の今まで鎬を削っていたターフへ自ら足を踏み入れ、久しぶりの全速力で彼女のもとへ駆けだした。

 

「勝ったよトレーナー! ウチ勝ったよ!」

「ああ! ずっと見てた! 凄かったぞ!」

 

 俺達はどちらからともなく抱きしめ合う。この後たづなさんに怒られるとかネットニュースで色々言われるとか、今はそんなことを考える間もなく喜びを分かちあった。

 

「引退させないでくれてありがと! トレーナー!」

「……っ、そうだな! こちらこそ走ってくれてありがとう!」

「もしかして泣いてる感じだ! 顔見せて!」

「恥ずかしいからまた今度な!」

「わっ! もう、ハグで邪魔すんのズルいし!」

 

 俺は今の顔を見られまいとヘリオスを今よりもっと強く抱きしめる。ウマ娘の力なら引き剥がすことなんて簡単だろうけど、そうしないのはヘリオスの優しさだろうか。

 

 それとも思い上がるなら、今は抱きしめ合っていたいと思ってくれてるのだろうか。

 

 しばらく抱きしめ合った俺達だが、不意に声を掛けられる。

 

「ちょいちょいお二人さん? お熱いのは良いことだけど、観客置いてけぼりですよ?」

 

 そう言ったのは三着でゴールインしたナイスネイチャ。前回の秋天では四着、その前の毎日王冠ではこれまた三着と人気に違わぬ実力者だ。

 

 俺達は抱きしめ合うのをやめ、観客席に向かう。

 

 観客の沸く姿を見て、ヘリオスは大きく手を挙げた。

 

「みんなー! 今日のレースはアガったっしょー!?」

「「「おおおぉぉぉぉぉ!!!」」」

「バイブスぶち上がってるー!?」

「「「いぇぇぇぇぇぇい!!!!!」」」

 

 歓声はまるで地鳴りのように響く。快挙を成し遂げたヘリオスへの祝福は一斉に注がれる。

 

「あざまる水産よいちょまるー!!!」

 

 ヘリオスのコールにつられ俺は改めて観客の皆さんにお礼する。そんな彼女は俺に倣って同じ高さまで頭を下げた。

 

「なあヘリオス」

「どしたし!」

「今日のレースを見て、俺もまた走りたくなったよ」

「? 今も走ってんじゃないの?」

「そうじゃないよ」

 

 確かに今も習慣は抜けていない。だけどそういうことじゃない。

 

「ヘリオスと同じ、競技の世界で。俺ももう一度走りたくなった」

「……トレーナー、辞めるってこと?」

「無理なことだって自分でもわかってる。年齢的にピークは過ぎたし、一線から退いてもう十年経つ」

 

 ヘリオスの寂しそうな声音に、俺は少しだけ罪悪感が湧いた。

 

 ただ、本音でぶつからなければ今日は訪れなかった。

 

 だからその上で、彼女に一つあるお願いをする。

 

 

 

「あの河川敷で俺との四百メートルのレース、受けてくれないか? そこで俺を──どうか諦めさせてくれ」

 

 

 

 走ることが大好きで“笑うウマ娘”とまで言われたヘリオスだ。

 

 その走ることを頼まれて、彼女はやはり断らない。

 

「りょ! 本気で行くからね!」

 

 史上二人目のマイルチャンピオンシップを連覇したウマ娘に勝負を挑む。しかも挑んだ相手はウマ娘ですらないただの人間。

 

 それがどれだけ光栄なことか。俺は幸せ者だな、と思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 ウマ娘にとって最高峰のレースであるG1、マイルチャンピオンシップを終えたヘリオスに待つのはウイニングライブ。ピッチ走法を得意とすることからもわかる通り、元来リズム感の良いヘリオスには何の苦もない些事だが、それでも全力を出し切った後のそれは中々に辛いものがあるだろう。

 

 それらを承知の上で、俺はヘリオスを今日二度目のレースの場に立たせていた。

 

 夕焼けが辺りを照らす河川敷には俺達以外に一人も居ない。レースをするにはおあつらえ向きなシチュエーションだ。

 

 俺はストレッチをしながら、レース内容の確認をする。

 

「スタートは俺達が今立っている芝。ゴールは川を繋ぐ橋まで。そこがここから大体四百メートル先だ」

「おけまる水産! トレーナーとレースとかブチアガるんですけど!」

「それなら良かった。……あとヘリオスは知らないかもしれないけど、本来四百メートルはトラックを一周する。ヘリオスの得意なコーナーが無いのは……まあハンデってことにしてくれ」

「トレーナーは得意だったの?」

「俺は基本どこも得意だったよ。元々努力の人間だからさ、才能で負けてる分人より出来ることを増やしていってた」

 

 まあそれにしては出来過ぎな結果がついてきてくれたけどね、と付け加えた。

 

「……ヘリオスはまさに天才肌って感じだな?」

「わかんない! けどトレーナーに負けるつもりはないよ!」

「こちらこそ」

 

 諦めさせてくれとは言ったが、負けを考えて走るヤツがどこに居る。

 

 どれだけ能力に差があったとしても、俺は精一杯走りきるだけだ。

 

「じゃあスタートはよーいドンにするか」

「昔の再現? ウチは何でもいーよ!」

「ならそれで」

 

 そう言うとヘリオスはスタンディングスタートをとる。人間の千五百メートルなんかでもよく見る構えだ。

 

 だがこれは四百メートル。ギリギリ短距離に位置する種目でありこの競技でとるべきスタートはウマ娘によく見るそれとは異なる。

 

 俺は川沿いの芝生にしゃがみこみ、構えをとった。

 

「あ、それ見たことあるやつ! カッコイイやつじゃん!」

「クラウチングスタートな。ウマ娘のレースだと距離的に見ない構えだよね」

 

 傍から見ればウマ娘相手に、さらに言うならマイルチャンピオンシップを連覇した怪物級の彼女に真剣勝負を挑むなんて、無謀を通り越して馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

 

 だけどここで全力を出さなければ勝負を受けてもらった意味が無い。

 

 

 

 ──集中が臨界点を超え、周囲の音が消えていく。

 

 

 

「よーい」

 

 静かに呟く。腰を上げた。

 

 

 

 頭の中で空砲が鳴る。

 

 

 

「ドン!」

 

 一秒にも満たない先陣を切ったのは──俺だった。

 

 スタートの構えの差。刹那の瞬間だとしても、一瞬だけ、僅かにだが俺が勝っていた時間もあるにはあった。

 

 だが五秒もすれば彼女の背中は遠く小さくなっていく。

 

 俺が現役の頃には感じたことの無い圧倒的な絶望が、能力の差が、何より緩やかな敗北が精神を蝕む。

 

 ……子どもの頃のヘリオスにも負けたことがあるのだ。全盛期の彼女に勝てるわけがない。

 

 それでも俺は全力でゴールを目指す。

 

 

 

 風を切る感覚が気持ち良い。

 

 早くなる鼓動が心地良い。

 

 誰かと競争することが、堪らなく愉しい。

 

 

 

 残り半分を過ぎた頃、ヘリオスは既にゴールしていた。

 

 彼女が息一つ切らしていないことは遠くからでもわかる。

 

「トレーナー!!! まだアゲてけるっしょー!!!」

 

 ……負けが確定した相手への激励。これ程屈辱的なことはない。

 

 ヘリオスの応援は俺に結末を──そして力を与えた。

 

 勝負は既に決している。

 

 ただ彼女にだけは情けない姿を見せたくない。そんな一心で残り二百メートルを全力で走る。

 

 ……ああ、ようやく俺の陸上人生が終わるのか。十年前に置き忘れた結末が、もう目の前にある。

 

 残すはあと百メートル。トラックで言うと最後の直線だ。

 

 整備なんてされているはずもない芝を、一歩、また一歩と踏み締める。合成ゴムのタータンとはまるで感触の違うそれは、何だかウマ娘の世界の一端を見せてくれた気がした。

 

「ゴール! おめでと、トレーナー!」

 

 息も絶え絶えな俺にヘリオスは完走を讃えてくれる。タイムは測っていない上に条件も本来の四百メートルとはまるで異なるが、かつての自分の速さは既に失われているようだ。

 

 ……あの時辞めずに続けていれば。だけどそれは、自ら捨ててしまったあったかもしれない未来の一つ。

 

 みっともない言い訳の次に浮かんだものは、清々しい諦念だった。

 

「ヘリオスの勝ちだな。おめでとう」

 

 お互いがお互いを褒め合う図は他人から見るとどう映るだろう。ただ一つだけ間違いないことは、俺達にはどちらも後悔がない。

 

 やって良かった。それはヘリオスも同じように考えてくれているだろう。

 

「これで陸上は諦められた?」

 

 可愛い顔をして残酷なことを言う。俺は思わず苦笑した。

 

「ああ。ヘリオスのおかげだ」

「ウチのトレーナーで居てくれる?」

「引退するまでは、最後まで付き合い続けるよ」

「その後は?」

 

 思いもしない質問に少し戸惑う。そんなこと考えもしなかった。

 

 ……そうだな。もしヘリオスが引退したら、か。

 

「新しいウマ娘の担当……は出来る気がしないなぁ。俺の見たかった景色はヘリオスが全部見せてくれた」

「それは無し! トレーナーはトレーナーしてる時が一番楽しそうな顔をしてるし!」

「俺が他の娘を担当しても嫉妬しないか?」

「……する! けどそん時はウチが特別コーチとして見せつけるし!」

「はは、ヘリオスがコーチなんて似合わないな」

「全然いけっしょ! マジ見ててよトレーナー!」

「ま、それは来月のスプリンターズステークスを終えてからの話ね。……本当、トレーナーとしてこのハイペースはどうかと思うよ?」

「ウチがやりたいんだから全部おけおけ! 何か言われたらウチが怒ったげる!」

「それは心強いな」

 

 そんな会話もそこそこに、夕日は落ち夜の帳が降りる。

 

 暗い夜空に光るは一等星。しかし空を全て照らすには力不足だ。

 

「トレーナー! 帰って打ち上げしよ!」

 

 ヘリオスは腕を組んでくみながら、レースの時を彷彿とさせる満開の笑顔だった。

 

 その姿は、まるで空を照らす太陽のようで。

 

 太陽神の名を冠する彼女にはピッタリだな、なんてことを考えながら、俺達は帰路についた。

 

 

 

 


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