そんな話を3話程やらせていただきます
皆、誰かの死を背負っている。
それは友人かもしれないし、恋人かもしれないし、親族かもしれないし、ペットかもしれないし、顔を見たくもない位に嫌悪している他人かもしれない。
だが、人と人とのが繋がりが万人に存在する以上他者の死から逃れる事は不可能だ。
違いはその時が早いか遅いかだけであって、自覚のあるなしに関わらず何れは直面する事になる。
その時が訪れたとして、どう向き合うのか。
或いは、どう付き合っていくのか。
それが人生と言うものだろう。
では、もし────
この世に生まれ落ちたその瞬間から誰かの死を背負っている者がいるのだとしたら。
昨今の過疎化によって住人が一人残らず失せ、明日にでも解体されてしまいそうな程老朽化した2階建てのアパート。
錆びきった鉄骨の階段を登った先、薄暗く家具すらマトモに置かれていない角の部屋にその音は響いている。
ごりごり、ごりごりと何かを削るような「それ」の蹄鉄が床を削る音だ。
時折外を走る車のライトがカーテンによって閉め切られた部屋を照らす中で、「それ」は蹄鉄が嵌められた灰色の爪先をひたすらに床へと打ち付けている。
──オルフェノク
ギリシャ神話に登場する詩人オルフェと創世記に登場する聖人エノクを組み合わせた名を付けられたこの異形は、人が死ぬ時にごく稀に蘇生する事で誕生する存在であった。
つまり、どうしようもない程に姿形がかけ離れていても彼は元来人間なのである。
しかしオルフェノクは何をするでもなくただ爪先で床を削り続けていた。
食事を摂らず、睡眠も行わず、まるで機械のようにその彫刻じみた灰色の躯体を部屋の真ん中で直立させていた。
まるでそうする必要があると言わんばかりに。
そうしなければ自分がどうにかなってしまうとでも考えているかのように。
だが、傍らに投げ捨てられていたスマートフォンから突如無機質なバイブレーションが放たれた。
床を削っていた爪先が止まる。
それはオルフェノクにとって久方ぶりに聞く自身以外の音であり、同時に反復行動を阻害する堪らなく不愉快な振動音だった。
止めなければならない。
オルフェノクは緩慢な動きでスマートフォンを拾い上げ、電源を切ろうとして──誤って受話器のボタンをタップしてしまう。
人間の指よりもずっと太いそれを持たされたが故の、ちょっとした弊害であった。
とは言え、押してしまったものは仕方がない。
オルフェノクはまた緩慢な動きでスマートフォンを持った腕を人間なら耳があったであろう位置まで持ち上げる。
──殺せ。
途端、オルフェノクの頭に飛び込んできたのは低くくぐもった不気味な声だった。
声の主の心当たりは全くない。
男でも女でもなく、若いのか老いているのかすら判別出来ないおぞましい声音が、しかし明確に彼を認識して語りかけてくる。
──何をしている。何故人間を襲わない。殺せ。人間を殺せ
心の底から、不愉快だった。
声はまるでオルフェノクであるにも関わらず人を襲っていないのが異常だとでも言いたげであった。
不運にもオルフェノクに覚醒してしまっただけの「誰か」は、間違いなく人間なのに。
普通に生きていれば、人間は人間を殺したりはしないのに。
──殺せ。殺せ。人間を殺せ
しかし一方で、声は彼の代弁者でもあった。
こうして電話に出ている時もそうでない時も、本当はずっと声は彼の耳に囁き続けていたのだ。
つまりは、衝動だ。
人類の進化系であるオルフェノクとしての本能が、「声」となって旧種族を淘汰するように命じているのだ。
彼がオルフェノクとなってからほんの数日しか経っていないが、ずっとその声と戦い続けてきた。
抗い続けてきた。
爪先を床に打ち付けていたのも、声を聞こえなくするようにする為のやむを得ない措置だった。
その甲斐もあってか、これまで彼は声の発言に従った事はない。
──たった1回の、例外を除いて
男はある小さな出版社に勤める編集者だった。
これと言って優れている訳でもなければ才能がある訳でもない至って平凡な冴えない社会人だったが、彼は己の職業に対しては家財すら投げ出してしまう程に並々ならぬ情熱を持っていた。
何故なら、彼が担当する雑誌はスポーツ関連、取り分け「ウマ娘」について取り上げる機会が多かったからだ。
ウマ娘の魅力について語るには、彼女らについて見解を深めている男であっても全てを述べるのは難しい。
しかし事実として人間──即ちホモ・サピエンスに酷似していながら、決定的に異なる外見的特徴と身体能力を保持する彼女らによって行われるレースは、100年以上前から全世界的に流行するスポーツだった。
単に車よりも速い速度で疾走する「ウマ」に惹かれるのか、或いは年頃の少女達がデッドヒートする様に興奮を煽られるのか、それともレース後のライブで引き込まれるのか。
例え世代が入れ替わろうと、時が経とうとその人気が途絶える事はない。
男はそんなウマ娘達のように風を切って走りたいと考えながらもそうはなれない己を知り、「ヒト」として応援する事を望んでいたのだ。
だが、出版社が男に望んだのはウマ娘の醜聞を広める事であった。
既に傾きつつある出版業界の中でも中小に分類される男の会社が存続する為にはありふれた記事では太刀打ち出来ないのだ。
固定の客を得る為にウマ娘の「良かった事」ではなく「悪い事」を刺激的に取り上げる事が男には求められていた。
──冗談じゃない、そんなバ鹿な話があるか
その叫びは男の魂からの悲鳴であり、脳からの拒絶反応だ。
何が悲しくてレース場にでも駆け付けて応援したい彼女達を自分の手で貶めなければならないのか。
何が悲しくて全く問題の無い事柄を問題があるかのように囃し立てねばならないのか。
編集者としてのプライドがどうとかウマ娘ファンとしての良心がどうとか、そう言う次元の話ではない。
それ以前に、人間として最低だ。
絶対にやってはならない行為であり、告発でも何でもして防ぐべき暴挙だ。
なのに。
それを理解していながら、結局男は。
──アドマイヤベガ、靭帯炎により再起不能か。記者が迫る
何が再起不能だ、バ鹿バ鹿しい。
確かに彼女は左脚に不安を抱えているが、今すぐにどうこうなるような話ではない。
現に弥生賞では惜しくもナリタトップロードに敗れたものの、上がり3ハロンでは誰よりも速く駆け抜けていたではないか。
取材の記録を見る限りではトレーニングそのものはアドマイヤベガ本人が全て決定したが、さりとてトレーナーのケアが不足していたと言う事もない。
偶々病院へと赴く所がカメラに引っ掛かっただけで、再起不能など少しでも彼女を知る人間であれば鼻で笑い飛ばすだろう。
しかし、男はどうしようもない位に社会の歯車でしかなかった。
出勤の度に胃の内容物を空になるまで戻し、ストレスのあまり不眠症を患いながらも遂にその記事を載せてしまった。
その結果が「コレ」だ。
──アドマイヤベガ、6着
皐月賞。
芝2000メートルの大舞台を、体調を崩したアドマイヤベガは6着で終えた。
男が掲載を許可した記事による根も葉もない噂の払拭に追われ過剰なストレスを抱えてしまったのかは不明だが、彼女には何の過失も存在しない大敗であった。
何もかもが、男が犯した罪による惨事だ。
そしてそれを男が知った日、彼はICレコーダーに社長の発言等を全て収め捨て身の告発を敢行し──それを止めようとした社長と揉み合いになり、階段から突き落とされた事でオルフェノクとしての覚醒を遂げたのである。
──殺せ
オルフェノクは恐怖で腰を抜かした社長をまるで神に生け贄を捧げるかのように高く持ち上げ、足から順に四肢を引き抜いていった。
人間の肉体を素手で引きちぎるなど到底不可能な話だったが、オルフェノクの巨大な手であれば容易だった。
そうして激しい苦痛に痙攣する社長を、オルフェノクは先程自分がされたように階段から下へと投げ落としてやった。
ぐしゃり、と嫌な音がして血と脳漿が飛び散る──それが男の記憶している限りだ。
ふと気付いた時、彼は自宅に戻って呆然と突っ立っていた。
──殺せ……殺せ……殺せ……
しかしそれこそが男がオルフェノクとしての本能に逆らえた理由である。
どれだけ洗ってもこびりついて全く取れない血が、夢を駆ける少女を傷付けてしまった罪悪感が辛うじて彼を人間たらしめていたのである。
だが、これがいつまで続くのかは彼自身にもまるで想像が出来ない。
声は時間が経つに連れて段々と大きくなるばかりか、電話のように手段を変えて囁いてくるのだから何時狂ってしまうのかなど想像もつかなかった。
「お前なんて、知るもんか」
故にこそ、男は躊躇いなく電話を切った。
こうして声に構って無為に時間を消費するよりも、男には先ずやるべき事がある。
1つは、己と社長がアドマイヤベガに対して行った仕打ちの告発。
社長が死んだ以上男の行いを妨げる者はいない。
男自身こうした所でアドマイヤベガへの償いになるとは到底思えなかったが、しかしやらない訳にはいかなかった。
1人の、何の罪もない少女の人生を破壊しかけた責任を男は取らねばならない。
もう1つは、警察への自首。
確かに社長は屑だ。
アドマイヤベガを飯の種にして食い繋ごうなど死んでも当然だと、男は今でも考えている。
しかしだからと言って実際に殺して良い筈がない。
人が人を殺してはならないのだ。
そんなごく一般的な社会常識に従って、異形の怪物と化した男は自らの身を精一杯の贖罪に捧げようとしていた。
しかし兎にも角にも、変身を解かねば告発するにも自首するにも話が始まらない。
化け物が他の出版社にスクープを垂れ込もうとしたって先に警察を呼ばれるのがオチでしかなかった。
だからこそ、今一度男は人間の形を取り戻そうとして──
──殺せ
偶然、スマートフォンの待ち受けに設定していたアドマイヤベガの写真が目に入った。
レースを終えた直後の、無表情で汗を拭っている姿。
男が所属している会社とは別の会社が特集していた期待の新人一覧に、トップで載っていたこの写真。
それが凄まじいまでの「格好良さ」を男に感じさせたのだ。
何なら一目惚れと言い換えても良い。
男が死んだのが偶然であったように、男が少女に惚れ込んだのもまた競合他社を調べる中での偶然だったのだ。
それが一体、どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
──殺せ
突然襲いかかってきた後悔と寂寥感に、男は両手で頭を抱えてさめざめと泣き始めた。
本当に、一体、どうして。
ただ彼女を応援したかっただけなのに。
ただ遠くから眺められればそれで良かったのに。
手を振って欲しいとか声をかけて欲しいとかそんな贅沢は言わないし、最前列で喝采を送りたいとも思わない。
ただ。
ただ、流星のように駆ける彼女を見ていたかっただけなのに。
──殺せ!
そうして一頻り泣いた後、よろよろと立ち上がった男はもう人間の心を喪っていた。
1度命と共に砕け散った精神は、一見正常に見えても写真1枚で再びバラバラになってしまう程脆かったのだ。
それ故に、部屋の真ん中に立っているのは暇さえあればテレビに齧り付いて競バを見ていた冴えない雑誌の編集者ではない。
死によって再誕した者にして、人類の進化系であるオルフェノクの一端──即ち騎バの意匠を持つ異形、ホースオルフェノク。
──人間を殺せ
最早電源を切る必要もなく、ぐしゃりと握り潰されたスマートフォンは床に打ち捨てられた。
今まで床を蹴りつけるだけだった剛脚が、遂に本来の用途である歩行へと用いられる。
──人間を殺せ!
建て付けの悪い玄関の扉をオルフェノクの腕力で難なく抉じ開け、廊下へと歩み出た異形はそのまま夜の闇へと消えていく。
そして彼の後を追うように物陰から1体、また1体と多彩な形状の異形達が姿を現す。
それらは男が社長を殺害した後に出版社の人間を虐殺した結果生まれた成果であり、殺害をトリガーとして人間の中に潜むオルフェノクの因子を活性化させた事で生まれた存在だ。
つまりはおよそ100人の中から偶然にもその資格を手にした、「選ばれし者」なのだ。
誇るべきでもあり、忌むべきでもある。
しかし────
──人間を殺し尽くせ!
彼らもまたホースオルフェノクと同じように、衝動に突き動かされるまま何を言うでもなく彫像の如き肉体を夜闇に沈めていった。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園中央校、略してトレセン学園。
国民的エンターテイメントである「トゥインクル・シリーズ」への出場を目指すウマ娘ならば誰もが入学を志す、走る為の最高学府である。
「
そして、この日は6月1日。
数多のウマ娘達の中でも特に中距離を得意とする者が心待ちにしていた一世一代の大舞台、日本ダービーまで残り1週間を切った所だ。
皐月賞、菊花賞と合わせて三冠競走を構成するこのレースは国内でトゥインクル・シリーズに関わる者ならば誰もが憧れる最高の栄誉の1つであり、出場が決定した何人かは夜間照明が点灯するような時間帯になってもメニュー通りないしは自主的にトレーニングを継続している所からも影響力の大きさがハッキリと分かるだろう。
「……」
そんな彼女達を横目で流しながら、トレーニング上がりの少女は学園外へと通じる道を黙々と歩いていた。
控え目に言って、人気のある場所へ出れば百人中百人が振り向く事は間違いないと断言出来る美少女であった。
1本に纏めて尚踝まで届く茶髪と怜悧さを感じさせる瞳は見る者全てにクールな印象を与え、身に纏う雰囲気が常人からかけ離れている事を否応なしに認識させる。
されどそんな己にまるで頓着しない彼女の名を、アドマイヤベガと言う。
学園の生徒である彼女がその敷地の外へ向かおうとしているのには、理由が2つある。
1つ、人気の無い場所を探すため。
アドマイヤベガは騒々しい場所を嫌っており、どちらかと言えば静かな──見上げれば星空が見えるような静かな場所を好んでいた。
賑やかで、活気があって、騒がしい。
見学に訪れた者からそのような評価を受けやすいトレセン学園が、彼女にとって何とも言い難い施設であるのは否定し難い事実だった。
故に、時折ではあるが学園のすぐ外にある自販機で飲み物を買って一息つくのをアドマイヤベガはルーチンとしているのだ。
──何故
そして、学園に居辛いと言うのがもう1つ。
皐月賞の直前に出版されたある雑誌は、彼女の心に上手く言語化出来ない「何故」を残していった。
彼女には走る理由──いや、走らねばならない理由がある。
何より大切な、重要な理由だ。
それ故に、ウマ娘としての最盛期である今この時期に引退など毛頭考えた事がなかった。
しかし、根も葉もない噂によってアドマイヤベガの「走る」行為そのものに異議が唱えられている。
──何故
1度考え始めたら、際限なく転がり続ける疑問は止められない。
何故自分なのか。
何故謂われ無き中傷の標的に自分がなったのか。
何故自分が走るのを妨げられねばならないのか。
何故、
其処に思い至れば、もう走れない。
走ったつもりでも現に皐月賞は6着だった。
そんな自分を周囲の同級生達は気遣うから、尚の事居心地が悪いのである。
あのいまいち何なのか分からないトレーナーは噂の払拭に奔走し、オペラオーも、ドトウも、皐月賞で1着だったナリタトップロードでさえそれに協力していた。
誰もが善意で行動していたが、それ故にアドマイヤベガの心はささくれ立っているのだ。
そして、3つ目。
再度グラウンドに視線を送れば、やはりナリタトップロードは今日も走っていた。
何処までも真っ直ぐ、前だけを見て。
(……熱い)
それを遠くから眺めているだけで、アドマイヤベガは体が疼くのを感じるのだ。
そうあるべきではない、そんな感情を抱く資格などないと自戒しつつも心は走りたいと思っている──ような気がする。
考えても理由は分からない。
そうして思索に耽っている内にもアドマイヤベガはグラウンドを通り過ぎ、校門をも通り過ぎて5分程にある自販機から出てきたホットティーのペットボトルを手にしていた。
「……熱い」
今度は精神的にではなく、物理的に。
6月ともなれば日中はそれなりの気温と湿度をしているものだが、日が暮れればやはり肌寒く感じる事があった。
よってアドマイヤベガは温かい飲み物を購入しているのだが、やや猫舌である彼女は中々口をつける事が出来ずにいる。
簡単な飲み食いさえ儘ならない。
全く以て、生きるとは斯くも難しい事なのかと少女は嘆息するしかなかった。
「……はぁ」
ぼんやりと見上げた空に映るのは、都内の空気にも負けない輝きを放つ一等星と飛行機が点すナビゲーションライトのみ。
プラネタリウムで見られる人工の煌めきにすら遥かに劣り、本来其処にある無数の星々を肉眼が捉える事はない。
ただただ気分は落ち込み続けるばかりであったが────
「……?」
ふと、何者かの気配を感じ視線を下ろす。
背筋をざらついた何かが撫でるような、つまりは嫌な感覚。
しかし周囲を見回しても特段異常な事柄は見当たらなかった。
自販機と切れかけの電灯に照らされた、普通の薄暗い路地だ。
未成年の子供が出歩くには不安があるがそれ以上でもそれ以下でもなく、身の危険を感じさせるような物体や人物は確認出来ない。
「……何」
で、あれば尚の事アドマイヤベガは警戒を強めざるを得なかった。
──おぞましい
彼女の内に芽生えた感情はそれである。
ウマ娘としての勘が、アドマイヤベガの優れた知性が、まだ姿すら見せぬ何者かに対して最大限の警戒をするように促していた。
そして未知の感覚に唇を噛んだ彼女は1歩、2歩と後退り──遂に、「それ」の姿を明滅する電灯の下に認めた。
「は?」
それは概ね人のような形をしていた。
それの全身は複雑な紋様を持つ灰色で覆われていた。
しかしそれはコスプレや着ぐるみなどではなく、間違いなく生物の皮膚であった。
巨大な蠍を人に被せたような外見のそれは人類の進化系にして人類を滅ぼす者の一員──スコーピオンオルフェノクと言う。
今、異形の右腕がアドマイヤベガの眼前でゆっくりと持ち上がる。
握られているのは、オルフェノクの体色と同じ灰色の棒。
その先端から鉄球へと繋がる鎖がじゃらりと鳴り────
「────ッ!?」
常人では捉えられない速度で振り下ろされたフレイルの一撃をアドマイヤベガが避けられたのは完全に奇跡で、同時に必然でもあった。
人間とは比較にならないウマ娘としての身体能力と、レースの中で鍛えられた動体視力は鉄球の軌道を完全に捕捉していた。
これが必然。
しかし現代日本で殺意を持った攻撃を受けると言う現実に対して思考と肉体が反応出来たのは偶然でしかない。
如何に冷静なアドマイヤベガもこの事態、自身が取った咄嗟の行動には驚愕を隠せなかった。
「何なの、こいつ……!?」
じりじりと後退りしながら挙動を観察する限り、スコーピオンオルフェノクの動きは全体で見ると大して素早くはない。
ゆっくりと歩いてきて、態々目の前で振り上げてから振り下ろす。
逃げる猶予は幾らでもある。
しかし振り下ろす瞬間だけ、異形の動きは炸裂するのだ。
あたかも溜めていたバネが弾けるかのような、ウマ娘すら凌駕する爆発力。
そして気が付くいた時、彼女は既に2撃目を避ける事が出来ない状況へと追い込まれていた。
咄嗟に飛び退いたは良いものの、理解の追い付かない脳は彼女に脇目も振らずに逃げる選択肢を提示しなかったのだ。
正体不明の「何か」に対して何かしらの答えを見付ける事を優先してしまい──それが彼女にとって、最大の命取りとなる。
「ッあ!」
鎖がうねり、鉄球が跳ねる。
オルフェノクの剛腕によって宙を駆けた鉄球は僅かにアドマイヤベガの左肩を掠め制服を傷を付けただけに留まったが、その衝撃は人通りの多い通りに出ようと走り出した彼女を転ばせるには充分過ぎた。
──どうして、こんな
確かに、自身が生きている事に対する負い目はあった。
生まれる事すら許されなかった妹の全てを背負うアドマイヤベガは、己の人生を彼女の為に使うと定義している。
自分の人生は自分の物ではない、そう言う考えが根底にあるのだ。
──まだ、何も終わっていないのに
しかし──これは、あんまりだ。
だって、まだアドマイヤベガは何も為せていないのだから。
妹の代わりに走る事も、生きる事も、まだ満足に出来ていない。
たった十数歳の少女が、人生の何たるかに気付ける筈もない。
──死にたくない
少女は、心の底から「死にたくない」と願った。
まだ何も分からない。
罪を償えているのかも、走るナリタトップロードを見て胸の内で滾った熱が何なのかも、何故自分が走っているのかも、何もかも。
だから、死ねない。
それらについて明確な解答を得るまで、自分が何なのかを知るまでアドマイヤベガは死ねないのだ。
そんな彼女目掛けて、三度鉄球が振り下ろされ────
「おいッ!」
少女の背後から響いた鋭い叫びにオルフェノクの動きが止まり、目的を喪失した鉄球がアスファルトを無意味に砕く。
そして種の本能を妨げられた異形は、突然の介入者の正体を見極めるべく顔を上げて──アドマイヤベガを掠めるようにして突撃してきたバイクが、エキゾースト音と共に勢い良く撥ね飛ばす。
大質量による体当たりを真正面から受けた異形は道路をもんどりうって転がり、やがてうつ伏せのままピクリとも動かなくなった。
「──立てるか?」
活動を停止したように見える異形を呆然と眺めていたアドマイヤベガもまた、視線を上げる。
其処に──バイクに跨がっていたのは、中肉中背のラフな格好をした男だった。
ヘルメットのバイザーを下ろしており、顔立ちを窺い知る事は出来ない。
「────」
何を言うべきなのか、それとも言わぬべきなのか。
急展開の連続に硬直していると、男はバイクの後部にくくりつけられていたヘルメットを少女に投げて寄越す。
「え、と。あなたは────」
質問に答える代わりに、男は異形が転がっていった方を顎で指した。
うつ伏せだったスコーピオンオルフェノクが、いつの間にか上半身を起こし顔を少女達に向けている。
恐るべき事に猛スピードでバイクに激突されても命に支障はないようであった。
「取り敢えず、逃げるぞ」
故に。
短く言うなり人差し指でバイクの後部を叩いた男の言葉に、アドマイヤベガは頭が反応するより早く従っていた。
ここ最近、男がアルバイトをしている「西洋洗濯舗 菊地」はすこぶる好調な収益を叩き出していた。
元より創業100年の歴史を持つ老舗ではあったが、アフリカに行っていた店主が帰国したからか手伝いをしている店主の息子の
すると、である。
トレセン学園がそこそこ近くにあるからか、普通の衣服に混じってウマ娘達がGⅠレースのようなここぞと言う大一番で着用する衣装──即ち勝負服が持ち込まれるのが散見された。
何でも「一見すると走り辛そうでも実際着れば不思議な力が湧いてくる」らしい勝負服を専門でもない個人経営の洗濯屋が洗ってしまって良いものなのかと男は疑問に感じたが、どうやらウマ娘が着ない限りは普通の衣服なので問題ないらしい。
オカルトと言うべきか、何とも不思議なモノだと男は首を傾げていた。
「真理のやつ、人をいいように使いやがって……」
信号待ちの最中に、思わず愚痴が漏れる。
男はクリーニングが完了した衣服を宅配する役目を押し付けられていた。
理由は単純で、彼が一番暇だからだ。
洗濯は一通りこなせるものの店主がいれば彼に任せる方が断然良いし、酷く無愛想な男に接客を任せられる筈もない。
されど穀潰しを居候させておく訳にはいかないからと、同居人の1人である園田真理によって半ば押し付けられる形で渋々配達をやっているのだ。
男はやたらギラギラした装飾が施された衣装をトレセン学園の寮監へ届け帰路に就く所だった。
何でも本番に備えて試着して走っていたら汚してしまったとかであり、既に日が沈んでいるにも関わらず男はバイクを駆る羽目に陥っているのである。
そんな訳で、男はただでさえ悪い目付きを一層鋭くしながら信号が変わるのを待っていたのだが────
「……!」
そう遠くはない、しかしすぐ其処とも言えない程度の距離でぐしゃりと何かが砕ける音。
硬質な物体がアスファルトに激突し、粉々に粉砕する音。
つまりは、
「クソ……ッ」
信号が変わったその瞬間、男が操る赤銀のバイクは唸りを上げて交差点をUターンしていた。
音の発生源は男の背後──今しがた勝負服を届けたばかりのトレセン学園がある方角からだった。
つまり、狙われているのはウマ娘。
人間を遥かに超越した身体能力を持つが、精神はごく普通の少女達が命の危機に晒されているのだ。
例え襲われているのが誰であっても男は駆け付けただろうが、彼女達がオルフェノクに攻撃される可能性があるのならば尚更行かない理由はない。
──間に合うか?
いや、間に合わせろと自答する。
遠くはない、しかし相手がオルフェノクであれば近いとも言い難い。
速度制限を無視してバイクをかっ飛ばしているが、オルフェノクが誰かの命を奪うまでに辿り着けるかは分からない。
それでも、男に駆け付けない選択肢はなかった。
そして、男は見た。
何度か十字路を曲がった先、トレセン学園から少々離れた薄暗い路地。
鎖つきの鉄球を振り回している異形の姿と、倒れながらも必死の抵抗を見せる少女の姿を──だが、それすら男を躊躇わせる理由とは成り得なかった。
「────おいッ!」
注意を惹き付けるべく叫ぶと同時にスロットルを全開にする。
鉄騎のエンジンが勇ましく唸りを上げ、450馬力と言う通常のバイクでは決して有り得ない出力によって207kgの鉄塊が弾かれるように射出される。
瞬きの内に視界一杯を異形の体躯が埋め尽くすが、男は決して異形から目を逸らさない。
何故なら、男は────乾巧は、「元」仮面ライダーなのだから。
感想とかこれ設定的におかしいな、みたいのがあればどしどしいただけると助かります。