戸山香澄、かわいいね。

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初投稿です。


One Step Away

 ─1─

 

 異性の幼馴染がいる、という環境は、他人にとっては羨ましく感じられるものらしい。中学まではいざ知らず、少なくとも高校時代にはそう言われることが多かった。「美人の幼馴染がいていいよな」とか「お前にはもう相手がいるもんな」みたいな絡まれ方をすることが増える。

 

 中学時代の異性関係には、どことなく恥じらいがあったと思う。カップルも少ないし、男女のグループには溝のようなものがあった。本心かはともかく男が嫌い、女が嫌いだと公言するやつもいて、良くも悪くも中学時代というのは思春期に入りたてのガキだった。

 

 高校生にもなると、思春期に入りたての暴走気味の全能感みたいなものは薄れてしまって、自分を客観視できるようになる。恋人が欲しいと公言するやつも増えるし、露骨に猥談が増えたような気もする。

 ただ何れにせよ、僕達の関係がそういった邪推を受けるのは、あまり好ましいことではなかった。

 

 

 彼女──戸山香澄と出会ったのは保育園の頃。同じ園にいたわけではなかったが、家が近所だという理由で親同士が仲良くなり、なし崩し的に遊ぶようになった。

 今思えば、性格的な相性はそれなりに良かったんじゃないかと思う。僕は臆病なタチで、あまり新しいことに挑戦したり、見知らぬ場所に行くことが得意ではなかった。それとは対照的にと言うべきか、香澄は物怖じせず興味の湧くものにどんどん突き進んでいくタイプだ。

 

 彼女はいつも、僕の手を引いてくれた。

 

 主導権を他人に握らせられるこの関係は、僕にとってはとても心地よいものだった。彼女はいつも、僕が仕方なく彼女に付き従っているように思っているらしいが、何よりこの関係に甘えているのは僕だと思う。

 

 新しいことをするには、必ず恐怖が伴う。行ったことのない場所へと行くにも、未知なる何かに挑戦するにも。それは生物として正しいことだ。慣れない環境や未知に警戒することは、人間の本能に備わった機能の一つに違いない。

 未知に触れることでそこから何かを得て、人間は成長するものだと思う。道中で乗り越えた恐怖も、挑戦に踏み出す克己心も、精神的な成長の糧になる。

 

 だから僕には、香澄のような人間が眩しく見える。自分から第一歩を踏み出す勇気を、僕は持ち合わせていないから。

 

 

 大学の講義を受けた帰りに、荷物だけを家で持ち替えて駅へと向かう。翌日は雪の予報だが、既に雨に混ざって雪がチラつき始めていた。

 いつも着ていた少し厚手のジャケットが、寒波の前では随分と頼りなかった。せめて手袋でも探してくるんだった、と少しの後悔。こんな後悔ばかりで僕の人生は飾られている。

 ノスタルジックなのは、地元に帰るからだろうか。それとも彼女に会えることを期待しているからか。

 

 スーツと革靴その他が入れられたボストンバッグが歩くのに邪魔だった。

 駅前まで来ると、石タイルの上で滑っている人が見えた。僕も電車に乗る前に尻を濡らすのは御免蒙りたい。

 少しばかり慎重に歩いた。スニーカーでは滑りもしないと思うが、一応。

 

 凍てつくように冷たい風が、真正面から吹き付けてくる。安物のビニール傘でも風は凌げるという事実が、まさかこれ程有難く感じられるとは。とっくに耳の感覚はない。いや、痛覚も感覚のひとつではあるか。

 

 結局、電車を乗り継いで地元の駅に着いたのは日もとっくに落ちた頃だった。いかにも地方都市といった賑わいの駅前は、日も落ちれば随分と静かになる。カラオケや居酒屋だけがまだ盛況で、ファストフードのチェーン店やパン屋なんかは静かなものだ。

 実家まで歩くにはけっこうな距離がある。すっかり駅までの徒歩で心が折れていたから、素直にバスを使うことにした。20分に一度のバスは、ちょうど5分前に出てしまったところだった。屋根が機能せず湿ったベンチに腰掛ける気にもなれなくて、時刻表の横に立ち尽くす。

 

 実家から最寄りのバス停には、10分程で着いた。後払いの運賃がベルトコンベアのような精算機に流されていくのを見送ってから、暗闇の中で傘を差す。車のヘッドライトと、ガソリンスタンドのスポットが住宅街への細道を照らしていた。

 

 ビニール傘越しに懐かしの地元の風景を眺めながら、家路を急ぐ。寒さが邪魔をして、思考に耽けることすら覚束無い。

 明治文学を読んでも大して共感できなかったノスタルジアだが、この里帰りこそがそうなのかもしれない、と思った。

 

 暗闇の中鍵穴を探り当てて玄関の扉を開ける。揚げ物の匂いがして、昔はこの匂いに夕飯への期待を膨らませたものだと思い出した。

 不動産のCMみたいだ、と一人で苦笑する。

 

 

 ─2─

 

 今年の成人の日は雪が降った。朝一番から交通網は片っ端から麻痺してしまったらしい。

 そりゃあ都会の人間は雪に備えてなんかいないからな、というのは雪国から出てきた友人の言だ。滅多に降らないのだから対策する必要が無い代わりに、1度降ったら大惨事になる。それはそれでどうなのかと思うが、費用やら手間やらが絡んでくるのだろう。車ひとつにおいてもスタッドレスをわざわざ買うのは相当の金銭負担だろうから。

 

「楽しんできなさいね」

 

 わざわざ成人式の会場まで送ってくれた母に礼を言って、ぼんやりとした緊張感に不快感を覚えながら人だかりへと足を向けた。

 出身中学で概ねグループが作られているらしく、古い知り合いはすぐに見つかった。五年も会っていなければ印象は変わるもので、垢抜けた同窓生達の姿は結構な衝撃だった。特に女子は、振袖を着て化粧をされると正直誰が誰だか分からない。当時仲が良かった何人かがわかったくらいで、地雷を踏むのが怖くて在り来りな会話しかできなかった。

 

 暖房の効きが悪いホールで市長の祝辞を聞いて、また中学のメンツで集まる。高校時代の友人にも何人か出会ったが、そちらはつい一年半ほど前まで会っていたからかあまり新鮮味がなかった。

 

「なぁ、お前、カノジョは連れてきてねぇの?」

「彼女?」

「戸山だよ戸山。仲良かったろ」

 

 中学の友人に言われて、そういえば会っていなかったなと思い返す。存在を忘れていたわけではなかったが、家が近いのだからいつでも会えるだろうという認識が今でも残っていた。実際、後で向こうの親とも会うことになるだろうし。

 

「一緒に来たわけじゃないからね。でもこういうイベントは好きなはずだし、高校の友達といるんじゃないの」

「そんな感じなのか。てっきりまだ付き合ってるもんだと思ってた」

「一度も香澄と付き合ったことはないけど。記憶が改竄されてないか?」

「……え?」

 

 そういえば付き合ってるだのなんだのと揶揄されたこともあったな、と思い返す。本気でそう思っているやつもいたのかもしれない。

 

「お前、あんな美人の幼馴染がいて、付き合ってなかったの?」

 

 マジで? と呆れたような目を向けられる。

 

「香澄は恋愛ごとに興味なかったみたいだし、僕も別にって感じだったからね」

「勿体ねぇ〜! それはほかの男子に恨まれても仕方ないぞ」

「知らないよ」

 

 僕と香澄の間にあったのは、恋とかそういった甘酸っぱい感情よりももっと単純な、友情とか親愛とかそういったものだったように思う。男女の区別はあったし、互いに異性として弁えていたとは思うが、それでも僕らの関係は性別に依らないものだったはずだ。

 僕の場合、それに加えて尊敬だとか憧れだとか、そういったものも混ざっていたわけだが。

 

「噂をすればあっちで喋ってんじゃん」

 

 指された方を向く。そこには確かに、幼馴染の姿があった。

 振袖によって普段の快活な印象を一転させた彼女は、端的に言って相当な美人へと変貌していた。僕の記憶にある彼女との差異に頭をガツンと殴られたような気がして、束の間、なんと反応したものか困ってしまう。

 

「あ、高校の友達見つけたから行ってくるわ。それと、中学の同窓会って来るよな?」

「あー、うん。行くつもりだけど」

「なら良かった。また後でな」

 

 話題を振っておいて満足したのか、さっきまで話していた旧友はふらふらと別の所へ行ってしまった。

 他にも会場に知り合いがいないわけではないが、少し手持ち無沙汰になってしまってどうしたものかと会場を眺める。

 どうしても先程の衝撃が大きかったせいか、香澄に視線が引き寄せられた。

 

「あ! 久しぶりだね!」

 

 向こうも視線を感じたのか、すぐに目が合った。

 2年前には何を気負うでもなく話していたはずなのに、刹那、言葉がつっかえた。笑顔を向けられてようやく、金縛りが解けたように思考が回り出す。

 

「……久しぶり。元気だった?」

「うん、いつも通りって感じかな。キミも、……すこーし背が伸びた?」

「そんなに変わってないと思うけど。革靴履いてるからじゃない?」

「あ、そっか。また身長差が開いちゃったかと思ったよ」

 

 彼女がやけに小さく見えたのも、多分革靴のせいだ。ロマンティックな脳内補正が掛かっている訳では無い。

 えへへ、と頬をかく仕草が記憶のままだった。

 角のような髪型も、紫がかって輝く瞳も、跳ねるような声音も。

 

「20センチ差くらいだっけ。もう変わらないだろうね」

「昔は私の方が高かったのに」

「そりゃあ僕も男だからね。むしろ負けてたら悲しいよ」

 

 香澄の身長は──155センチとかそれくらいだった気がする。さすがにそれより小さかったら、僕は身長にコンプレックスを抱いていただろう。現時点では身長なんでどうでもいいと思っているが、持たざる者になれば羨ましく感じるに違いない。

 

「振袖、よく似合ってる」

「ほんと!? ありがとう!」

「うん。すこしお転婆なところが隠しきれてないけどね」

「ひどい!」

 

 本当に、よく似合っていた。昔の独り善がりな想いを思い出しそうになるくらいには。

 振袖の柄は、桜だろうか。振袖の柄の意味は知らないが、桜からは品性のある美しさが滲んでいる。僕の拙い語彙では似合っているか否かくらいしか評価ができないのが口惜しい。

 

「さっきは見かけなかったけど、バンドの人と会ってたの?」

「うん! みんな元気だったよ。とはいっても、最近も会ったんだけど」

「それは良かった。まだ活動はしてるんでしょ?」

「……頻度はだいぶ落ちちゃったけどね。まだたまにライブもやってるよ」

 

 高校は別々だったから、香澄のバンドメンバーとの面識はほとんどない。ライブに行った時に顔を見たり、香澄といるところに出会(でくわ)したりして少し言葉を交わしたことがあるくらいだ。

 

 彼女らに抱いている感情は、ほんの少しの親近感と嫉妬だろうか。

 僕と香澄の関係は、僕が従で香澄が主だ。上下関係では無いけれど、いつだって手を引くのは香澄の方。香澄は僕の人生を変え得るが、僕は香澄の人生の転機となり得ない。

 それでいいとは思うけれど、そうは言っても羨ましく感じることはある。

 

 Poppin’Partyのメンバーは、全員が対等であるように見えた。全員が全員の根幹を支え合っているような。僕は彼女らのことをよく知らないが、香澄の口振りからなんとなく窺えることもある。

 

 だから、羨ましいなと思う。その程度の話だ。

 

「キミは? 大学ってどんな感じ?」

「うーん、結局そんなに高校までと変わんないかもね。友達を作るのがちょっと大変かもしれないけど……香澄には無縁の話かな」

 

 君は友達を作るのが上手いから、と言外に付け足す。

 

「香澄は、どう? 就職したんでしょ」

「うーん、まだ覚えることが沢山あって大変だよ。それでも楽しいんだけどね」

 

 すぐに地元を出たから詳しい話は知らないが、香澄はライブハウスに就職したと聞いた。いかにも覚えることが多そうで専門知識も必要とされそうなものだが、それなりにやれているらしい。

 勉強は苦手だったのに、そういう方面の知識は吸収できるのかもしれない。

 

「キミが来る時はサービスしてあげるねっ!」

「僕がライブハウスを使うことはなさそうだけどなぁ。楽器ができるわけでもないし」

「今からでも覚えればいいんだよ。キミは頭がいいし、コードもすぐに覚えられるんだろうなぁ」

「僕は……いいかな。聴いてる側が楽しいんだ」

 

 少し寂しそうな顔をする彼女だが、この誘いを受けるのももう何回目だろう、と思うくらいには楽器をやろうと誘われている。彼女がギターに触り始めてからずっとだ。彼女が何かしようとして、ついでに僕を誘う。僕たちの関係はずっとこうだった。ただ今回限りは断ったという、ただそれだけの話だ。

 

 楽器を触ることを検討しなかったわけではない。楽器が弾ける人への憧れというのは人並みに僕にも備わっていたし、専ら聴き専ではあるけれども、音楽は好きだ。

 それでも香澄の誘いに乗らなかったのは、僕がずけずけと()()()()の関係に入り込んでしまうことを恐れただけだ。もちろんこれは単なる杞憂に過ぎないだろう。ただそれが脳裏に過ぎってしまった時点で、僕は後込みしてしまった。

 

 結果として、僕の判断は正しかったと思っている。現状の関係に不満がないからだ。別々の高校に進学したときから、僕らは仲が良かっただけの幼馴染という関係になりつつあった。友人ではあるし親愛を抱いてはいるけれど、最優先事項にはなり得ないくらいの距離感。親友未満、と言うべきか。

 

「でも香澄の歌は好きだよ。またライブには行きたいな」

「ほんと!? じゃあ長期休暇でライブやる時はぜったいに誘うねっ!」

「うん。楽しみにしてる」

 

 長期休暇というと春夏のどちらかになる。ライブに行くのは純粋に楽しみだった。

 

「この後の同窓会は香澄も来るの?」

「うん。一旦着替えてからだけど──あっ、お母さんに迎えを頼んだんだった!」

「早く行きなよ。また怒られるよ?」

「うん、じゃあ、またあとでね!」

 

 振袖姿でばたばたと走っていく後ろ姿をハラハラしながら見送る。めぼしい相手とは大体話したし、僕も帰るかと迎えを頼む連絡を入れて、しばらくホールをぶらつく。

 5年近く経っても覚えている顔が多いものだと、自分で感心した。見渡せば部活で一度試合をしただけの相手や、強いからと印象に残っていた相手なんかの名前までわりかし思い出せる。

 最後に中学のメンツにだけ声をかけて、ホールを出た。

 

 外ではまだ雪がチラついている。ほとんど積りはしないだろうが、それでもあちこちてんやわんやだろう。

 アスファルトに薄らと叩かれた雪化粧の上に、足跡が残った。

 

 

 ─3─

 

 個人的には、成人したことを実感させてくるのは自動車免許と飲酒だった。とは言っても、普段あまり運転する機会はないけれど。地元に進学したならいざ知らず、都市圏では自前で車を持たずとも公共交通機関によってある程度どこにでも行けてしまう。それでも、自分でハンドルを握ることには大人になった実感を与えるのに充分な重みがあった。

 

 もうひとつ、酒を介したコミュニケーションは、実を言うとあまり好きではなかった。20の誕生日に酒を口にして、それから時々は飲んでもう随分慣れはしたものの、僕は根本的にアルコールとは分かり合えないようだった。

 酒という新しい味に触れた感動も分かるし、酔う楽しみもわかる。けれどアルコールによって理性の箍が緩められるような感覚が、どうにも好きではなかった。いつか大きな失敗をしそうで、どうにも。

 

 それはそうとして、今日は飲むのだが。

 祝い事には酒を飲むという風習は、いったい何千年前から人類に刷り込まれてきたのだろう。それとも案外、ここ数世紀のことなのかもしれない。

 

 同窓会は、中学三年の頃の面子で開かれた。32人ほどのクラスだったはずだが、参加者は25人。それなりに出席した方ではあるのだろう。

 居酒屋の大部屋を貸切って、食べ放題飲み放題で3時間。そこそこ会費は痛かった。

 

 式典では振袖だった女子たちは全員私服に着替えて、ようやく見分けがつくようになった。5年経ったとはいえ、メイクと髪型でみんな化けすぎだろうというのが冴えない男の感想だ。

 

「おーいリア充代表! 最近はどうなのよ」

「それ昼間も訊かれたけど、別に昔から僕は誰とも付き合ってなかったろ」

 

 肩を組まれて、早速今日で聞き飽きたネタを振られる。まず最初に振られる話題がこれな辺り、僕と香澄がセットでいるというイメージが余程深く残っているらしい。あるいは、中学の頃よりも男女関係にオープンになった弊害かもしれない。

 

「もう顔が赤いけど、弱いのか?」

「んー、あんまし強くないかも。お前も少し赤いぞ」

「僕もそんなに強くないからね。食べる方がメインかな、今日は」

 

 甘辛いタレをかけられた手羽先に手を伸ばす。ハイボールと唐揚げで一人テンションが上がっているやつを尻目に、ちまちまと肉を剥ぎ取った。

 

「お前の彼女もだけどさー、みんな美人になったよな」

 

 ビールとカクテル1杯ずつで既に出来上がっているやつが、談笑する女子の方を眺めながらぽつりと言った。

 

「まあね。正直、一瞬誰か分からなかったりする」

「オレちょっと話しかけてくるよ。彼女欲しいし」

 

 ああいうのが酒での失敗として黒歴史になるんだろうな、と思いながら、特攻していく旧友を見送った。彼女が欲しいと言ってここで女漁りをしようとする度胸には感服させられる。当然、見習いたくはない。

 

 成人式とその後の盛り上がりは、毎年ニュースになる。そして、羽目を外した新成人の蛮行もまた。そうでなくとも、成人式のやらかしエピソードなんてものはどの世代でも一つ二つくらい持っているような気がする。

 酒を入れて逆立ちしているやつも、人にウザ絡みしているやつも、あとはもしかしたら吐きそうなやつも。

 

 新成人の集まりでやらかした奴は、今後一生同窓生からの印象がやらかした奴として固定される、という話をよく聞く。実際その通りになるだろうし、一生モノの黒歴史になるに違いない。被害者が出ないといいなと願いながら、はしゃぐ集団の1歩外でぼんやり眺めていた。

 

 頼んだ日本酒は、上等じゃないだけあってあまり美味しく感じられなかった。初めて高い日本酒を飲んだときの口当たりの良さに感動してしまって、あまりこういう場で日本酒は頼まない方がいいことに気が付いた。

 

 香澄は──と思って視線をめぐらせると、相変わらず女子の集団の中心に彼女はいた。そういえば彼女は酒に強いのだろうか。結構な子供舌だった記憶があるから、アルコールの独特な味は好まなさそうだ。

 

 僕の高校はそれなりの進学校だったから同級生のほぼ全員が大学生になったが、さすがに中学の同級生にまで遡るとその生活は結構バラバラだった。高校自体を中退して働いていたり、専門学校にいたり。思ったよりも大学生の割合は低く、自分の見ている世界は偏っているのだと気付く。

 少しだけ、就職組が羨ましくもあった。就活を控える身としては、どうしてもそうなりがちだ。

 

 かつて仲が良かった数人と談笑しながら時間を潰す。会費の分は食ってやると言い切ったやつは、飲み過ぎて部屋の角で蹲っている。案外みんな飲み慣れていないらしい。それか、ハイになって羽目を外しすぎているだけかもしれないが。

 

「結局さ、中学のとき戸山のこと好きじゃなかったのか?」

「どうだったかな。一時期は惚れてたけど、結局そういう関係には至らなかったから。ほんの一瞬だけだったかもしれない」

 

 口が滑ったな、と言い切ってから思った。やっぱり酒で口が緩むのは避けられないらしい。

 

 惚れるとか恋とか形容される感情も、何パターンかに分けられると思う。

 付き合いたてのカップルや、拗らせた片想いのような燃え上がる恋愛感情もあれば、僕のような幼馴染への淡い想いや、大人の恋愛のような緩やかな恋愛感情もある。僕の場合は恋などではなくて単なる執着や憧憬だったような気もするし、本当に恋というものは曖昧な感情だった。

 思い返せば鼻で笑えるような話だが、当時は自己嫌悪で少し悩んだことを思い出した。与えられる側だった僕が与える側を縛ろうとするのは、些か烏滸がまし過ぎる。

 

 結局、そんな恋愛感情もいつの間にか霧散してしまった。きっかけがなんだったのかも覚えていないが、幼い頃の感情なんてその程度のものでしかないということなんだろう。

 

「おーい! 二次会カラオケ行く人〜!!!」

 

 赤らんだ顔で幹事が手を挙げた。カラオケかぁ、と思案している間に香澄を含め半分以上が手を上げていて、それなら僕もついて行くかと手を上げた。最悪抜け出して帰ればいいや、という甘い考えもある。

 人前で歌うのは好きじゃないが、1部のやつが好きに歌うだろうという目論見の元、二次会に混ざった。

 

 会計を済ませて、二次会会場のカラオケまで15人くらいで連れ立って歩く。雪で滑る歩道に足を取られているのが数人。危なっかしくて見ていられなかった。

 

 もたつきながら大部屋を借りて、寒さに振るえていた面々が活力を取り戻した。マイクをとった男子が1番にデンモクで曲を打ち込んで、流行りのポップスを口ずさむ。本人だけではなく周囲も歌ったりするから、さながら斉唱のような有様。みんな、ドリンクを飲む回数とトイレに立つ頻度が高くなっていた。

 

 順番にデンモクを回していって、各々が好きな曲を打ち込んでいく。オタク丸出しの選曲をして顰蹙を買うやつもいれば(これも酔った人間の悪ノリではある)、思わぬ歌唱力を見せるやつもいる。そういえば中学時代にはカラオケに行って遊ぶなんてこともできなかったな、とふと思った。

 地域の条例で子供だけのカラオケが禁止されていたのもあるし、そもそも中学生にはカラオケは結構高く感じられるものだ。専ら公園でサッカーとか、友達の家でゲームをしていたような時分であったから余計に。

 

 デンモクが回ってくる少し手前で、手洗いに立った。歌いたくないから逃げ出しただけだ。冬とはいえ、暖かい店内では冷水もさほど気にならない。これが実家の水道なら両手が麻痺しているところだ。

 ついでにドリンクコーナーによって、ジンジャーエールのボタンを押す。ドリンクバーのサーバーでしか見たことがない、レモン果汁入りのジンジャーエール。少しだけ特別感がある。

 

「あ! ここにいたんだ」

「うん。香澄は何飲むの?」

「うーんと、同じのにしようかな」

「ジンジャーエールだよこれ。レモンのやつ」

 

 ドリンクサーバーを眺めて時間を稼いでいる内に香澄がやってきた。居酒屋のほうで結構飲んだのだろうか、まだ顔が赤い。

 

「キミは歌わないの? もうすぐ順番だよ」

「えー、僕はいいかな」

「……もしかして、楽しくなかった?」

「ううん、楽しいよ。ただ、歌うのに慣れてないからね。外してしらけさせたら悪いなぁと思って」

 

 キーが違ってまともに歌えない、なんてやらかしたら恥ずかしいというのがひとつ。

 楽しんでいる集団を一歩引いたところで眺めているのが好きな性分だというのがひとつ。

 

「そういえば、キミが歌ってるの聴いたことない!?」

「さすがにそんなことはないと思うけど」

「えー、歌おうよ! きっと楽しいから」

 

 ほら、と手を引かれる。右手のコップからドリンクが溢れそうになって、慌ててバランスをとった。

 部屋に戻ると、デンモクを手渡された。内心では思い切り顰め面をする。

 

「デュエットしねぇの?」

「え!」

「やだよ。僕が可哀想なことになるじゃん」

「へー、戸山って歌上手いのか」

「バンドのボーカルだよ。下手なわけあるか」

 

 えってなんだ。インディーズとはいえその筋では有名なガールズバンドのボーカルと、大して歌いもしないど素人が一緒に歌ったらどうなるのかなんて分かりきっている。

 履歴で被りがないことを確認してから、一昔前に流行ったJPOPの曲名を打ち込んだ。手渡されたマイクは既に手汗やらポテトの油やらで若干ヌメっている。うぇ、と思いながら握り込んだ。

 

 ──そういえば、恋愛映画の主題歌だったような気がする。

 

 

 ─4─

 

「……ごめんね、今日は」

 

 酔いを冷ます北風をマフラーで凌ぐ帰り道。もう雪は路上に僅かに残るくらいで、あとは大半が融けてしまったらしい。土が混ざって黒っぽくなった雪の名残を踏みしめて、車道側を歩く。

 

「なにが?」

「無理やり歌わせちゃったのかなって」

「カラオケに行って歌わないで済ませようとしてる方がわがままだろうし、そもそも絶対に嫌だったら断固拒否してるよ」

 

 何人かは三次会に行くらしいが、流石に香澄は疲れ果ててしまったようでうつらうつらとしていたので帰路に着いている。じんわりとした頭痛に涼風がよく効く。ちょっと飲み過ぎたらしい。

 

「どうしたのさ、急に。そんなにネガティブでもなかったでしょ」

「うん。ちょっと疲れちゃったのかも。それに、キミに会えたのが嬉しかったのと、懐かしくって」

 

 あまりに寒そうだったので手渡した使い捨てカイロを握り締めながら、香澄が白い息を吐いた。白っぽい街灯の明かりに照らされたそれが、夜に溶けていく。

 

「みんな変わっていくんだね。私も、ポピパも。だんだん会えない日が多くなって、少し寂しくなっちゃった」

「そういうもんだよ。それでも、少し意外だな。香澄は小さい頃から、変化を恐れない子だったのに」

「そうかなぁ」

「うん。でも、変化を恐れるってことはそれだけ幸せだったのかもね。香澄にとっての高校生活が、それだけ充実してたってことなんじゃない」

 

 変わることを恐れるのは、専ら僕の方だった。知らない場所に行くのも、初めての人に会うのも、新しいことをやるのも、全部香澄からだった。

 

「月並みなことしか言えないけどさ。立ち止まるって、そんなに悪いことじゃないよ。そりゃあ、前に進み続けるに越したことはないのかもしれないけどさ。ずっと歩き続けられる人なんていないんだから。後ろを振り返って感傷に浸ってみたっていいんじゃない」

「……うん。でもキミは、変わらないね。それで安心したのかも。みんな仕事について忙しくなったり、新しい楽しみを見つけたり、夢に向かったりしてる。ポピパのみんなが見ている方向も、少しずつバラバラになっていってるような気がするんだ」

 

 変わらない、というのは褒め言葉なんだろうか。それこそ、悲しい言葉のように聞こえてしまう。

 

「僕は香澄のバンドについて何も知らないようなものだけど、そういうのって、だんだん帰る場所のようになっていくんじゃないかな。人が変化すれば集団も変化していくものだし、それでも大切に思われているのであればきっと変わりながらも残っていくんだよ。それか、寂しいなら寂しいって言ってしまえば? 案外、呆気なく解決するかもね」

 

 無責任な言葉が口をついて出た。そう思っていることは本当でも、上から目線で口にすべき内容ではなかったかもしれない、と言ってから後悔した。

 Poppin’Partyのことは香澄が一番わかっているだろうし、僕が口を出すべきことじゃなかった。

 

「僕もね、今日、楽しかったけど、少し寂しかったよ。みんな大半が社会人になって、僕だけ学生のまま取り残されているような気がした。香澄が僕のことを変わらないって言ったのは、僕が学生のままだからじゃないかな。それくらい、身に纏う雰囲気がみんな変わってた」

 

 話のノリが社会人組と大学生組で変わったかといえばそうじゃない。同じようなことで笑うし、同じような話題にもなる。それでも、学生のまま停滞している僕たちと、社会人として今まさに適応している最中の香澄たちでは顔つきが違うように思えた。

 

「どうしたって、高校生の頃とは変わっちゃうからね。毎日会うわけじゃないし、同じような生活を送るわけでもない。物理的にも精神的にも距離は遠くなるし、互いを想うことも減っていく。でも、大切なものは大切なままでしょ」

「……うん、そうだよね。みんなも、同じ気持ちだといいな」

 

 君たちの眩しさはその程度で褪せないだろうという押しつけだった。高校生の頃、招待されて覗きに行ったライブでの衝撃を覚えている。

 熱気が迸って、汗が弾けた。それはまさに青春の躍動だった。表情が、声色が、一つ一つの仕草が、「楽しい」という感情を僕に叩きつけた。

 

 あの日、笑いあっていた彼女たちの絆が、たかが就職程度で揺らぐはずもない。そんな子供じみた信仰が僕の中に巣食っていることは否定できないだろう。

 

「酔って感傷的になってるだけだよ。ほら、もう着くから」

「ほんとだ。ぼーっとしすぎたかなぁ」

「風邪ひかないように、早く寝なよ。一度寝たらきっと忘れられるから」

 

 僕の家のすぐ近く。門の前まで彼女を送り届けて、玄関の鍵を開けるのを確認してから踵を返した。多分僕もかなり酔っている。クサイことを言った気もするし、ふわふわしたことしか言っていないような気もした。

 

 やっぱりアルコールとは分かり合えない。きっと明日には黒歴史になっているんだろうなと思いながら、おぼつかない指先で実家の鍵穴を探り当てた。

 

 

 ─5─

 

 朝起きたら、さすがに酔いは醒めていた。時計を見れば午前10時半。寝過ぎた気もするが、今日だけは許されるはずだ。

 

 スマホを手に取ってホームボタンを押しても動かない。半端に寝落ちたせいで充電を忘れていたらしい。充電コードに繋いで、温かい布団から抜け出した。

 冬は起床が辛い。この時間にもなれば随分暖かかったが、これが早朝ともなれば極楽の毛布から抜け出すことは困難だ。

 

 顔を洗うのにも時間がかかった。この時期に冷水で洗顔なんてした日には凍えること必至であるから、温水が出るまで寒い廊下で粘る羽目になる。暖房が効いたリビングのソファに座り込んで、室温でぬるくなった常温の緑茶を一息に飲み干した。

 

「今日向こうに帰るの?」

「あー、うん。一応そのつもり。明日も全休だから明日でもいいっちゃ良いんだけどさ」

「まあ、天気がいい内に帰った方がいいかもね」

 

 母親とそんな会話をしてから、トーストを焼き始める。昼食が入らなくなるので一枚だけ。マーガリンを塗りたくって食べると、余計に腹が減ったような気がした。

 自室に引っ込んで、スマホを起動した。充電残量を表すアイコンは既に7割ほど充電が完了したことを示していた。スマホを最新機種にしたのはもう1年ほども前だが、未だこの充電の早さ以上に機種性能の差を実感させるものは無い。

 

 LINEの通知が数件。何人かの友達から、昨日は楽しかっただのなんだの。それぞれに簡潔に返して、最後に目に入ったのは香澄からのメッセージ。「きのうはありがとう」。それと、ネコのスタンプ。

 

 なんと返すか2分くらい迷っているうちに、部屋の片隅の望遠鏡が目に入った。親戚から貰ったそれを毎日覗き込んでいた日々ももう久しい。3年くらいは使っていないんじゃないだろうか。

 あてにならないスマホの天気予報曰く、『今日は()()』。空を見て、今日は信じることにした。

 

 打ち込んだ返事は、「今日の夜は空いてる?」。送信してから、明日が月曜日だったことを思い出した。怠惰な大学生はともかく、社会人に夜更かしさせるのも問題だろう。メッセージを削除しようとした瞬間、ちょうど既読がついた。

「あいてるよ!」。瞬速の返信。

「星を見に行こうかと思って」「香澄も来る?」「勿論明日に差し支えないならだけど」。予防線を張りまくりの誘い。香澄ありきで天体観測を思いついたくせに、あくまでついでに来るかと言わんばかりのニュアンスで提案する。

 

 既読がついてから数秒の、つかの間の緊張。

 

「いきたい!」「なんじから?!」パスパレのスタンプ。

 仕事は大丈夫なのかと返した。時期が時期だけにそんなに長居するつもりもないが、それでも2日連続の夜更かしになる。

「あしたは遅番だから大丈夫!」。じゃあ夜9時に迎えに行く、と返すとスタンプが返ってくる。GOGO!! とギターを持った女の子のスタンプ。結構似ていて笑ってしまった。

 

 思い付く限りのものをリュックに詰め込んだ。望遠鏡とライト、ガス缶とバーナーと、水とマグカップ。それから防寒グッズ辺りか。車が使える分、昔よりも重量に余裕があった。とはいえ、そもそも持ちきれないほどの荷物が必要なイベントというわけでもないのだが。

 

「母さん、今日車貸してよ。それと、帰るのは明日になった」

「それなら買い出し行ってきてくれない?」

「うん」

 

 ついでに本屋にでも寄るか、と思い立って財布を片手に家を出た。去年から使い倒しているダウンジャケットを羽織って、車に乗り込む。エンジンをかけると、ガソリンももう少しで無くなりそうだった。やることが増えたなと少しげんなりして、ギアを入れる。

 

 ガソリンが160円の大台に乗って久しい。じきに170円も超えるんだろうなという諦観と、ガソリン税への遣る方無い憤怒がある。

 最初に本屋に寄るつもりだったが、思いのほか財布が寂しくなったので銀行に寄る羽目になった。それからスーパーに向かって、さっさと買い出しを済ませてしまう。一刻を争うような冷凍食品を買ったわけでもなかったので、本屋に寄る余裕は十分にあった。

 普段から買い集めている漫画の新刊を手に取って、他にもなにかめぼしいものはあるかと本棚を練り歩いた。よく考えれば、本は向こうに帰る時の荷物になる。漫画だけにしておくかとレジに通したら、案外早くに用事が済んでしまった。本屋大賞を受賞した面白そうな作品に後ろ髪を引かれながらも、自動ドアが閉まれば同時に誘惑も断ち切れる。

 

 こうなるとやることがない。1度家に帰って食料品を冷蔵庫に突っ込むと、わざわざ再び外に出るのも面倒になってしまって、自室のベッドに飛び込んだ。

 

 

 カーテンの隙間から陽が射してくる。清々しい程の凍て晴れ。冬の天気は移ろいやすいとは言えど、ここまで雲の少ない快晴であれば夜までもってくれるに違いない。

 

 暖房を入れなくてもそれなりに暖かい。起きてからそう時間は経っていないのに、次第に眠気が襲ってくる。

 

 結局、夕方まで眠ってしまった。

 同窓会なんてものがあったからか、夢に見たのは懐かしい風景。

 

 ──というよりは黒歴史だった。

 

 幼馴染を好きになるというある種当然の帰結と、二次性徴に振り回された痛々しい言動。これらが組み合わさればどれほど見るも無惨な青春時代が出来上がるのかは、想像に難くないだろう。

 結局そんな痛々しい初恋も実らなかったわけで。恋破れたおかげでこうして友人のままでいられていると思うと、なんとも言い難い苦味が湧き出してくる。

 

 キッチンで母が夕食の支度をしている音が聞こえてきて、そんな日常に懐かしさすら覚えた。一人暮らしは最も分かりやすく親の偉大さを教えてくれる、と勝手に思っている。

 換気のために窓を開ければ、暖かそうな景色からは考えられないほどの冷たい風が吹き込んでくる。耐えきれずすぐに閉めた。部屋着の防御力じゃとうてい防ぎきれない。

 

 一月の太陽が沈む。僅かに空の端に引っかかった雲が夕陽に赤く染められて、まるで秋のような空の色。

 北風が(びょう)と窓を叩いた。

 

 

 ─6─

 

 家を出ると、凍て風が頬を掠めてゆく。

 車のオンボロエアコンがごうごうと音を立てて必死にファンを回していた。

 空を見上げれば、街明かりのしたでもオリオン座が克明に見える。天体観測日和だ。

 

 約束の時間の5分前に、香澄の家の前で車を停める。どうせすぐに出てくるだろうという予想に違わず、10秒と経たずに人影が飛び出してきた。

 

「……いつの間に運転できるようになったの!?」

「免許は大学に入ってからすぐ取ったよ」

 

 すごいすごいと最初からハイテンション。別に運転が得意なわけでもなければ、運転できることに特異性があるわけでもない。他意がないとわかっていてもむず痒くなる。

 

 車を走らせて10分もかからないくらい。灯りのない山道を少しビビりながら走って、山頂の展望台に着く。山とはいっても街中にあるような低い山だ。昔バスツアーで行ったような、街明かりから完全に隔離されたあの高原ほどのロケーションは望めない。

 

 自転車を押しながら山を登って、よくここに来たのを今でも覚えている。様式美でいえば今日も自転車で来るべきだったのだろうが生憎、僕の愛車は錆び付いて廃棄処分となった。

 

 素人の天体観測にたいした準備があるわけもない。望遠鏡をおいて、バーナーでお湯を沸かした。持ってきたマグカップにココアの粉を入れて、2人分のココアをつくる。

 防寒着にくるまって、星空を眺めるだけだ。なんのことはない、深夜の散歩の延長にすぎない。

 

 冬の空は澄んでいるらしい。とは言っても大気中の汚染物質が少ないとかそういう意味ではなく、単純に湿度が低くて水分量が少ないから星がよく見える、というだけのことらしいが。

 確かに、そう言われると星が良く見えるような気もした。

 

 織姫と彦星で有名なベガとアルタイルも、この時期になるとさすがに西の地平線へと沈んでしまったらしい。もしかすると日が沈んだばかりなら見えたかもしれないが。

 

 冬の星座で1番わかりやすいと思うのは、やはりオリオン座だろうか。中央の三つ星と、赤みがかったベテルギウス、青みがかったリゲル。目立った特徴がこれでもかと詰められた星座だ。

 それから、一際明るいシリウス。おおいぬ座の細かい形まではよく覚えていないが、シリウスだけは容易に見つけられる。

 

 基本的には、雰囲気で星を見ている。いくつか知っている星座もあるし、星に関する逸話なんかも知らないわけではないが、とにかく知識を詰め込んでしまうとかえって星を見るのに邪魔になるような気がしたからだ。

 星空を見て答え合わせがしたいわけじゃない。星を見るのに目的があるわけでもなくて、得られるものは郷愁でも感動でもなんでもいいのだが、それでも。星空を見て知識の答え合わせだけに終始するのはなんだか、面白くなかった。

 

 知っている星座を見つけて喜んで、流れ星を探して、寒さに震えて、温かい飲み物を飲んで。社会から離れた場所で、世界に浸る。

 

「懐かしいね、このココア」

「こんな場所でしか作らないからね。星を見に来たのももう何年振りだろう」

 

 お湯だけで作ったココア。牛乳を使っていないからコクが薄くて、ココアの甘ったるさが直に伝わってくる。特段美味しいわけでもないと思うが、ロケーションは最高の味付けとも言う。

 

「私がきのうあんな話をしたから、ここに連れて来てくれたの?」

「……まぁ、そうだね。余計なお世話だとは思うけど」

「ううん、嬉しいよ。だって私、こんなに楽しい」

 

 それにしては大人しい、というかローテンションだ。

 

「今、そうは見えないって思った?」

「うん。いつもはもっと賑やかでしょ」

「そうだけど……私だってしんみりした気分に浸るときはあるんだよ?」

「意外だ」

「もう!」

 

 風も吹かない、完全な沈黙だった。これが冬以外だったら虫や鳥の声がしただろうけれど、ここでは街の車の音さえ聞こえない。

 

「──()()()()

「今日は、聞こえないんだ?」

「うん。あれはもしかしたら、トトロかピーターパンみたいなものだったのかも」

「それは少し寂しいかもね」

 

 2杯目はポタージュスープ。もう一度バーナーに小鍋を翳して、ぼうっと星を見る。

 大人には聞こえない、らしい。いつか語ってくれた星の鼓動が弾ける音を、夜空の演奏会の話を思い出した。

 

「ねぇ、ちょっと嫌な話をしてもいい?」

「なにその前置き。別に──ああでも、もし僕のことがずっと嫌いだったとかそういう話なら勘弁して欲しい」

「まさかぁ、そんなんじゃないよ! でもキミはきっといつもの苦い顔をするだろうなって」

 

 カボチャのポタージュ。甘みと僅かな塩味が互いに引き立て合う。なんでも同じだ、と思った。人生経験だって、単純な成功体験よりも苦労したものの方が印象に残るし糧にもなる。少なくとも僕にとってはそうだ。

 

「私、キミのことが好きだったよ」

 

 特大の苦みだった。それこそ不意をつかれた、とでも言うべきだろうか。一瞬の、思考の空白。ぼんやりと回っていた脳みそが、一時停止して思考をリセットされるような。

 伏し目がちの彼女のかんばせが、ほの明るいランタンの灯りによく映えた。

 

「いつもそばにいてくれて、いつもワガママにつきあってくれて、いつも後ろで見守ってくれて、いつも一緒に笑ってくれて。もう、そんなの好きになるに決まってるよ」

「それは──」

 

 違う、と言いたかった。それは君に手を引かれることに依存していた僕の甘えだったのだと、弁明を。

 否定したところで意味があるはずもないのに。言葉を重ねるのもはばかられて、唇の端を結んだ。

 

「絶対に車道側を歩くし、電車でも人混み側に立つし、話を否定もしないし。キミ、結構モテてたんだよ?」

 

 ほら苦い顔、と指摘されて手のひらで顔を覆った。目元を揉みこんで、1つ息を吸う。冷たい空気が気道に触れる。

 

「……ちなみに、いつ頃まで?」

「えー、ナイショ!」

「僕は、そんな香澄が言うほど立派な人間じゃないんだけどな」

「自分のことは悪く見えるものだってさーやが言ってたよ?」

「確かにそれは真理だと思うけどね」

「それに、私が好きなのは私が知ってるキミだから。キミがキミ自身をどう思ってても関係ないよ」

 

 最後の一杯はカフェオレ。ただし市販品を温めただけの手抜きクオリティだ。

 つい先程までは葉を落としたイチョウのてっぺん付近にあったオリオン座の三連星が、段々と西へ傾いている。

 

「デートに誘っても、ハンドクリームにかこつけて手を握っても、匂わせることを言っても、キミって何にも反応しないんだもん。有咲が呆れてたのも覚えてるよ」

 

 確かに思い当たる節はあった。女子校でコミュニケーションの距離感が狂ったならそういうこともあるかと流したのを覚えている。

 香澄に限ってそんな遠回しなことをするとも思えなかったし、何より自分が想われているなんて思い上がりも甚だしい思考はなるべく追いやるように努めていたから。

 

「なんてね。キミが私のことをそんな風に思ってないのも分かってた。だから言わなかったんだけどね。ちょっと、意地悪したくなっちゃった」

 

 困った? なんて訊いてくるものだから、そりゃあ困ったとしか返せない。

 僕も、確かに彼女に惚れていたことはあった。少なくとも中学時代はそうだったし、高校時代でももしかしたらそういう時期があったかもしれない。

 今は、どうだろう。少なくとも燃え上がるような恋ではないのは確かだった。

 

()()()()()()。僕も。香澄が手を引いてくれたから、今の僕がいる。香澄が僕の世界を広げてくれたんだ。好きにならないわけないだろ」

 

 言ってしまえば、元の関係のままではいられないだろうと思いながら、その言葉を口にした。香澄だってわかっていたはずだ。僕たちの友人関係は、間に恋愛感情を挟み込まないからこそここまで長く保たれた。

 

「でも、僕は友達のままでいたかった。恋心なんて頼りないものに、香澄との関係を託したくはなかったから。──そもそも、僕の片思いだと思っていたんだけどね」

「恋って、そんなに儚いものなのかな」

「僕にとってはね」

 

 青臭い幻想を抱いていた。恋人たちの間にある感情は、互いを想う無償の愛で形作られていると信じていた。けれど実際には、ただの肉欲だったり、利害の一致であったり、見栄であったり、様々なものが『恋愛』へと変化し得る。

 

「恋って、自分の中でその人を一番に位置付けるってことだろ。もし互いのことが一番じゃなくなって、恋人関係じゃなくなったとしてさ。それって、友達に戻れるのか?」

 

 そも、恋人関係を解消できるのかさえ分からない。相手を気にして、ずっと言い出せないまま引きずってしまうのが容易に想像できるだけに。

 

「怖かったんだよ。僕の浅はかな行動が香澄との関係を崩してしまうことを何よりも恐れてた」

「……キミはいつも優しいね」

「何がさ」

「それってたぶん、中学生のときの話でしょ? 結構、前のはなし」

 

 金属製の、保温構造があるマグカップを両手で握りしめながら、彼女はこっちを見ていた。アメシストの瞳。滲んでいるのは、どんな感情だろう。

 僕には窺い知れないものであることは確かだった。

 

「一番でいることは難しいって言ったよね」

 

 カフェオレを口に含んで、唇の端を舌がなぞる。香澄の仕草が、まるで別人のように見えた。

 

「私の一番はずっと──」

 

 ──キミなんだけどな。

 

 唇が触れた。移された体温は、刹那に身体中を燃え上がらせるようだった。

 

 

 ─0─

 

 帰りの電車。

 遠景に白を被った山波が見える。一昨日見た景色の逆再生。抱く思いも随分と変わっていた。

 

「ライブの約束忘れないでね!」と彼女からのライン。それから、星を模したキャラクターのスタンプ。「絶対だよ!」。

 

 分かってる、と返してスマホを閉じた。

 ぐっと手のひらを握りしめた。別れ際にぺたりとつけられたハンドクリーム。手が乾燥してたから、と念入りに塗りこまれた。

 ほんのりとレモンの香り。春の匂い。




読了ありがとうございました。

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