世界の呪いを
色々なところに行きたい、というノアのささやかな願いは叶えられ、ノアはリドルと共に世界中を旅していた。
旅して──と言っても、世界の中心であるノアは長く騎士団本部から離れることも難しく、姿現しを使い日帰り、もしくは一泊する程度の小旅行だといえるだろう。
勿論、騎士達には表立って観光だとは言わずに、世界の治安を見て回るとそれらしい言い訳を添える事を忘れる2人ではない。
この日、ノアとリドルはいつものように認識阻害魔法をかけ──そうしないとろくに観光出来ないのだ──魔法族にとっての観光地を回った後、とある洋館に泊まる事にした。
「最近仕事頑張ってたしさ!酒飲みたいし、泊まって帰ろうぜ!」
ノアは窓の外に広がる深海の景色を眺めながら楽しそうに笑う。ここ数週間は山積みになった仕事に追われ、ノアはまともな休暇もとれなかった。
期待のこもった眼差しで見られたリドルは差し迫っている重要な仕事は暫く無かった筈だ、と思い「わかった」と頷くとすぐに通信魔法を使いイギリス本部にいるベインに明日に帰る事を伝えた。
ノアの側近である彼も、ノアと同じように何日も休めていない。──まぁ、日中の観光自体が休みのようなものだが、ゆっくり休んで帰るのも良いだろう。
リドルが頷けば、ノアはすぐに嬉しそうに笑い豪華なソファに勢いよく飛び乗り寝転がると、机の上に置かれたアルコール類が書かれたメニュー表に目を通す。
いつまで経っても落ち着きというものがない──学生時代と比べたら幾分もマシだろうが──ノアを見て、リドルは苦笑する。
ノアは、その美しい見た目のまま少しも老いていない。ノア程の美貌ならば、50歳を過ぎても美しく、威厳のある歳の取り方をするだろうが、ノアは自分の神格を保つ為に世界を呪い統一した時のまま姿を保っている。
余談だが、魔法族は基本的にマグルと比べ長命で年齢にしては若く見える。ノアがマグルの医者と研究した結果、魔法遺伝子と身体に流れる魔力が関係している事を突きとめた。
つまり、ノアの見た目は20代後半から30代前半程だ。
ノアが全く老いていない。それに数年後気付いたリドルがノアを問いただし──色々あり、結局ノアが根負けし複雑な魔法をかけ、リドルも同じように本来の年齢は60代後半だったが、見た目は30代後半程にしか見えないだろう。不老不死を願うリドルにとって、これで彼らはほぼ、不老不死になれたのだから──嬉しくない筈がない。
「んー。…ドンペリ・プラチナでいい?」
「なんでも良い、経費で落ちるからね」
「…いやまぁ経費っつっても元は俺の金だけどな」
これは断じて旅行では無く、世界の視察なのだ。業務として世界を回っている2人は諸々にかかった費用を経費として申請していたが、騎士団に関わる全ての金銭はノアの持つ莫大な資金で運営されている為──結局、ノアが払っている事と同じだ。
ノアは胸ポケットから杖を出すとメニュー表を軽く叩いた。するとすぐに机の上に美しい酒瓶とグラスが2つ現れる。もう一度杖を振るえばポン、と小さな音を立てて栓が開き薄いグラスに酒が注がれる。
ガラス製の机を挟み、ノアの対面に座ったリドルは小さな気泡が上るグラスを持ち、ノアが上機嫌で差し出すグラスとカチリと合わせた。
部屋の中は薄暗く、時折窓の向こうに色鮮やかな魚やマーメイド、ダイオウイカがゆらりと姿を見せていた。
高級シャンパンを飲み、楽しく喋る。ほとんどノアが話し役でリドルが聞き役だったが、それもいつものことだ。大きな瓶はみるみる内に空になり、すぐにノアは新しい高級シャンパンを頼むと、それも美味しそうに飲んだ。
「あまり飲むと、明日辛いんじゃないかな」
「たまには良いだろ?あと寝るだけだし!」
ノアの白い頬はうっすらと赤く染まり、目は何度もゆっくりと瞬きをし、どこか潤んでいる。間違いなく酔ってきているノアに、リドルは明日午前中に騎士団本部へ帰ることは出来なさそうだと思いながら肩をすくめた。
──ガタンっ
突如、第三者の音が部屋に響き、ノアとリドルはすぐにその音がした方に杖を向ける。
ガタガタという異音はちょうどリドルが座るソファの後ろにある洋箪笥の中から響き、中で何かが暴れるように揺れていた。
「なんだ?」
「…ボガート…だろう。割と古い洋館だから」
「ああ…一番恐れているものに変化するっていう、あれか。授業でやったなぁ」
ノアは指先でくるくると杖を回す。
洋箪笥には鍵がかかっており、たまたまその中に居たボガートが閉じ込められてしまったのだろう。
「ヴォルは何に変化するんだろうな」
「さあ…」
3年生の時に実物のボガートを使用し退ける訓練をする授業は行われた。だが、自分が恐れているものを他者に知られる屈辱をリドルが耐えられるわけもなく、リドルは生徒たちの一番後ろに並び、ノアもそれに付き合い後方にいた為2人はボガートと対峙する事はなかった。
悪戯っぽく笑うノアを見ながらリドルは首を傾げ、自分が最も恐れている事を考える。
昔の自分ならば、自分自身の死が現れただろう。
すぐにひとつ浮かんだが──ノアに知られても困る事はないか、とリドルは洋箪笥の鍵を開けた。
勢いよく扉が開き、中から静かに
「……なに?ヴォルって俺が怖いのか?」
「…見ていればわかる」
現れたノアは、今のノアよりも少し若く見えた。
少し後、ノアの白いシャツがみるみる内に真っ赤に染まり、口から血を吐き出したノアが蒼白な顔を苦しげに歪めた。
「…俺の死か」
「……いや、あの状況だな」
「あー……」
ノアはようやく、ボガートが何に変身しているのか分かった。
──これは、マグルに撃たれた時の俺か。
リドルにとって、その時の光景が、内容が、唯一恐れたものだった。
ただノアが死ぬだけではない。マグルによって完璧な存在が傷付けられる。それは間違いなく、リドルにとってのトラウマだった。
「リディクラス」
リドルは少しも動揺する事なくボガートに向かって杖を振るう。その魔法を受けたボガート──ノアは包帯でぐるぐる巻きにされそのままよろよろと歩き、ノアのそばに近付いた。
ボガートは次の狙いをノアに定め、しゅるしゅると包帯が解かれていく。
──ノアが、最も恐れる物はなんだろうか。何よりも自分の顔面が好きなナルシストだし、その顔が醜く変わってしまう事だろうか。
そんな少々失礼な事をリドルは考えて包帯が解けていくボガートを見つめる。
ノアもまた、シャンパンを飲みながら──俺が一番怖いのってなんだろうなぁ──と興味半分面白半分でボガートの変身を見ていた。
ボガートは、恐ろしい蜘蛛や怪物、醜くなったノアでは無く──どこにでもいそうな、ただの男に変わった。
リドルはその男を見て眉を寄せる。
こんな男が怖いのか?騎士団の誰か──ではないな、見覚えがない。日系…東洋人のようだが、ノアが恐怖する程の力を持つ魔法使いなど、いるわけがない。どこにでも居そうな、この男は一体…?
その正体がわからず、リドルは眉を寄せ怪訝な顔でノアを見る。
ノアは、目を大きく開き、その男を見つめていた。
手から滑り降りたグラスが床に落ち砕けたが、ノアは少しも視線を外さない。
「…なん…で」
「…ノア?」
こぼれたノアの声は、リドルが今まで聞いたことが無いほど震え、怯えていた。
酒を飲んでいて赤くなっていたノアの顔は、みるみる内に土気色になり、その唇は震えている。
「俺が愛した世界は壊れた」
その言葉を聞いてノアはひゅっと息を飲み、リドルは聞きとる事の出来ない言葉に、英語では無く他国の言葉だと解ったが──内容までは理解出来ない。
ノアの初めて見るその表情に困惑したが──ノアが何故、こんな男に対してここまで恐怖を示しているのか知りたい気持ちが強く、ボガートを退ける事を、リドルは選ばなかった。
「俺が愛した世界はもう存在しない。俺が壊した。こんな紛い物の世界に興味はない」
「──違う!」
ノアは悲痛な声で叫ぶ。
しかし、その男は無表情だった表情を歪にゆがめ笑った。
「違うわけがないだろ、俺は気がついているはずだ」
「っ…たしかに世界は変わった…だけど、この世界を、今のこの世界も愛している!その気持ちに嘘はない!」
「全ての者の正しい運命を狂わせまやかしを見せ──俺を愛する者が一人もいないこの世界を、俺は本当に、愛せるのか?借り物の身体…借り物の力…俺は少しも──俺ではないのに?この体と運命は、平穏に生きる筈だったノア・ゾグラフのもので──」
「──やめろっ!!」
ノアは絶望が滲む声で荒々しく叫び立ち上がった。部屋にある家具が軋み激しく音を立て揺れる。風のない室内に突如嵐が現れたかのように猛風が吹き荒れ重い家具が飛んだ。
ノアは、薄く笑うボガートに震える手を向け、強く拳を握った。
その途端ボガートはぐにゃりと歪み、この世の物とは思えない悲鳴を上げ、消滅する。
ボガートが消えた後も、感情の起伏が収まらずノアの凶暴な魔力は暴走をやめない。リドルはすぐに自身の周りにプロテゴを張り、嵐の中心に佇むノアの元へ向かおうとしたが──ノアから溢れ出る魔力は、リドルであっても簡単には近付けない程、重苦しさだった。
「違う…俺は…そんな…」
「──ノア!」
「っ!!──ヴォル…」
リドルの声に、びくりと肩を震わせたノアはゆっくりとリドルの顔を見た。
ふ、と部屋を満たしていた重苦しい魔力と、嵐が消える。部屋中の家具は破壊されガラクタとなり床に転がった。
リドルは身体にのしかかっていた重圧が消え、詰まっていた息を吐き出しながらノアの元に駆け寄る。
「ノア、あの男はなんだ。何を話した?」
「…何でも、ない…」
ノアは、感情の欠落した声でぽつりと呟くと、部屋の中の惨状をぐるりと見渡し、気だるげに指を鳴らす。すぐに壊れていた家具は修復され、元の場所に舞い戻り、一見すると何も無かったかのように戻った。
ソファに座り込んだノアは、自分の鼓動が変に早く、頬を冷汗が流れたのを感じた。
リドルは無言でノアの隣に座り、狼狽の色を見せるノアの瞳を見つめる。
「ノア──」
「ヴォル」
リドルが何かを言う前にノアが冷たい声でリドルの名前を呼び、深い闇を思わせる濁った目で見据えた。
「忘却魔法をかけられるか、今あった事を2度と口にしないか…選べ」
明確な拒絶の言葉に、リドルは暫く沈黙しため息をつくと杖を振るい水の入ったグラスを出現させ、ノアに渡した。
「…飲め。かなり、顔色が悪い」
「………ん」
ノアは一度瞬きをする間にいつものような眼差しに戻ると、ソファに深く背中を預けそのグラスを受け取った。
受け取る際、ノアの手は震えていたが──リドルは何も言わなかった。
ノアが最も恐れるもの、それは
もう、前の世界での生活が朧げになり、数少ないが居た友人の事は忘れていた。昔は家族の事を思い、どうしようもなく切なくなる夜もあったが──それも、もうなくなっていた。
ノア・ゾグラフとして生きている時間が長くなるほどに元の世界の事を忘れていき、ようやく──ようやく、ノア・ゾグラフとして生きていけるようになったのに。この世界は物語ではなく、自分の世界だと認め真剣に向き合えるようになっていたのに。
ノアはぐっと奥歯を噛み締めた。
──あの姿を見て…隠していた罪悪感、そして、何よりも認めたくなくて、考えないようにしていた事を突きつけられた。
だから、いつまで経っても、どれだけ望んでも、自分の全てを知る理解者や、全てを受け入れ愛してくれるものは現れない。
──俺は、永遠に独りなんだろう。世界を変え秩序を守る為に、俺は世界の理になると覚悟を決めた。永遠に近い時を生き、全ての管理者になる事を受け入れた。
永遠に孤独なのは、自ら世界を変えた、罪なんだろうな。
ノアは冷たい水を飲み干し、自嘲した。
「ノア、もう休んだほうがいい」
「…そうする」
ノアは、唯一、最も近い場所に立つリドルを見つめる。
──ヴォルは、俺と同じようにほぼ不老不死となってしまった。
俺はヴォルが、それを望むと分かっていて…きっと、ヴォルなら俺の孤独に寄り添ってくれるから、独りになるのが怖くて──。
「…、…おやすみ、ヴォル」
「ああ、おやすみ」
ノアは気だるげに立ち上がり、隣にある寝室へ向かった。
ノアにとっての恐怖のお話。
目を背けていた事実を突きつけられるのがなによりも恐怖なのですね。