セシルの工房に一行が滞在したのは、おおよそ一時間程度の事だった。偏光眼鏡作成の打診もさることながら、双睛鳥自身の視力検査も行っていたためである。
双睛鳥はコカトリスの一族の産まれであり、その眼には魔力の宿った魔眼に違いない。しかし実のところ、ひどい弱視の持ち主でもあったのだ。それもこれも、幼少期に受けた仕打ちによるものなのだが。
彼を所有していた組織は、敵を屠る補助具として彼を使用するとき以外は、薄暗い所に押し込んで保管していたのだという。ヒナ鳥のころからそんな扱いだったがために、未だに彼の眼は見る機能を上手く構築できずにいるのだという。横縞に覆われた部屋で育った猫が、縦縞を視認できぬように。
それにそもそも、眼鏡やコンタクトを新調するにあたり、視力検査は必須である事は源吾郎も知っている。間が開いたら度が進んでいる事もザラなのだから。
双睛鳥の視力検査が終わってからは、作るまでの納期だとか、納品先についての事務的なやり取りが進められていった。今回は工房まで源吾郎たちが出向いたものの、新たに出来上がった偏光眼鏡は研究センター宛てに発送してくれるのだそうだ。
それもこれも、セシルたちが双睛鳥の身を案じての事である。
もちろんこうしたやり取りで主だって発言していたのは萩尾丸であり、そしてまた当事者たる双睛鳥だった。源吾郎と雪羽は付き添いに過ぎず、大人しく座して上司たちの会話を聞くだけだ。
「今回はありがとうございました、萩尾丸さん」
そうしてあらかた偏光眼鏡手配の段取りが終わり、そろそろ工房を後にするだけになった。そのように源吾郎が考えていた丁度その時、セシルが改めて礼を述べたのだ。先程までとは異なり、その声音は無邪気そのものだった。宝石の眼を持つ魔女、ドラゴンの女あるじの関心は、手土産たる源吾郎の尻尾の毛に向けられていたのだ。
「今ちょっと見てみただけだけど、この尻尾の毛も素材として興味深いね。ささやかながらも妖気を放って自己主張していて、だけどそんなに禍々しい感じはしないもの」
セシルの言葉を聞くや、雪羽がわざわざ眼球を動かして源吾郎を見やり、うっすらと笑みを見せた。先輩の事を言われてるっすよ、とでも言わんばかりの表情だ。
「
萩尾丸は問いかけているが、何処かすっとぼけたような表情と口調だった。
「魔道具として加工するにあたり、残留していた妖気を抜いておいた方が良かったですかね。妖気が残っていると、やはり後々作る魔道具にも癖が出てしまうでしょうし」
「大丈夫だよ萩尾丸さん。私自身は呪物クラスの素材や魔道具であっても御する事は出来ると思っている。それに較べれば、この尻尾の毛の妖気は何とも可愛らしい物だもの」
可愛らしい。その言葉を耳にした源吾郎は思わず目を伏せて俯いた。そう言われる事は慣れているはずなのに。堂々としていればいいのに。
そうして密かに葛藤する源吾郎の耳に届くのは、萩尾丸の闊達な笑い声だった。
「やはり妖気の雰囲気や質も、本人の気質や心持ちによって大きく影響されますからね。その尻尾の毛も例外ではないという事でしょう」
萩尾丸先輩……源吾郎は思わず顔を上げ、萩尾丸を睨みつけてしまった。源吾郎が可愛い仔狐に過ぎないと、彼が断言したも同然だと思ったのだ。
もちろん、萩尾丸は源吾郎の射抜くような眼差しを前にしても怯みもたじろぎもしなかった。のみならず、萩尾丸は源吾郎の妖気に禍々しさがない事、端的に言えば癖はある物の無害である事の理由について語ったのだ。大妖狐の血が四分の一まで薄まっている事や両親の意向で人間として育てられた事、特に源吾郎は末子だったために、親兄姉に保護されて育った事こそが要因であろう、と。
お坊ちゃま育ちであるから、妖力は強いものの悪妖怪のような凶暴さは持ち合わせていないのだ。源吾郎の少し恥ずかしい気質が、セシルにも明らかになってしまったのだ。
「まぁ、妖気を持ちつつも危害を加えないって言うのは作り手としてもエンドユーザーとしても優しい素材なんじゃないかね」
源吾郎の尻尾の毛についてそのように評したのは、この工房に萩尾丸たちを導いてくれた吸血鬼の男だった。
「この工房にやって来る客は呪物すれすれの扱い辛いブツを好む連中が多い気もするけれど……たまには万人向けの魔道具とかを扱っても良いと思うんですがねぇ」
※
ロックが解除された社用車に乗り込んだ源吾郎は、シートベルトを締めるなり思わずため息をついてしまった。外はもう暗く、地下街を出る前と後ではそう代り映えがしないと思ってしまったほどだ。むしろ、店でにぎわう地下街の方が、極彩色の明かりがてんでに灯されて明るいほどではないか。
「三人ともお疲れ様。特に島崎君は疲れちゃったみたいだね」
「萩尾丸先輩」
運転席から声が掛かる。声の主たる萩尾丸の座席を睨みながら、源吾郎は低い声で呼びかける。
「俺は……僕は誰が何と言おうと妖怪として生きているつもりですからね。確かに両親は僕を人間として育てようとしましたし、兄らも、特に長兄は僕が人間として育つ事を望んでいました。もちろん、僕はその事をきちんと知ってますよ」
源吾郎はそう言ってから、その面に笑みを浮かべた。先祖たる玉藻御前らしい、邪悪で狡猾な笑みを。この笑顔を直視できるのが雪羽だけなのを残念に思いつつも。
「ですが――俺はその事を承知したうえで妖怪として生きる事を選んだんですよ? ご先祖様の意志と野望を、この俺が再演するために。そしてその意志は、もはや親族たちでは覆せないんですから。両親や兄姉たちも、この前の正月休みに俺に再会して、その事を思い知ったはずですよ」
大仰な言葉を吐きながら、源吾郎は喉を鳴らして笑った。誰も彼も可愛い仔狐だの人間暮らしが長くて無害だのと思っているようだが……三大悪妖怪の直系の子孫であるという事を思い知って欲しい。そんな気持ちが源吾郎の中でむくむくと湧き上がっていたのだ。
「思い知るも何も、君が可愛い
萩尾丸はしかし、源吾郎の言葉に楽しそうに応じるだけだった。大妖怪の子孫を相手にしているような気負った気配はない。とはいえ、彼も彼で強大な力を持つ妖怪であるから致し方ないのだろうが。
島崎君。萩尾丸の呼びかけに源吾郎は背筋を伸ばす。先程とは異なり、大妖怪らしい威厳の伴った言葉だった。
「仔狐から君が脱却したい事は解っているし、君にも十分才能がある事は僕も知っているよ。ただね、もう少し堂々と振舞っていた方が、より大物らしく見えるんじゃあないかな。君も若いから難しいかもしれないけれど、血筋と才能は本物なんだからさ」
「……」
源吾郎は押し黙り、ただただ瞠目するばかりだった。萩尾丸のこの言葉は、先だって父親から投げかけられた言葉によく似ていた。
「あの尻尾の毛ですが、セシル様はどういった魔道具をお作りになるんでしょうかね」
「やっぱり筆だろうね」
「その筆で、術者のヒトは護符とかを作るんでしょうね」
簡潔な萩尾丸の問いの後に、源吾郎もすぐに質問を重ねていた。禅問答と言う言葉がうっすらと脳裏をかすめていく。
君の妖力と護符ならば相性はとても良いだろうね。萩尾丸のその言葉に源吾郎も賛同していた。のみならず、話を聞いていた雪羽も。
「島崎先輩って現時点では攻撃術よりもむしろ妖術とか護符とかを使ったスタイルを得意としてますもんね。戦闘訓練の時だって、妖術に頼らないで闘う事自体まず無いみたいだし」
「そりゃそうだとも。結界術にしろ変化術にしろ、妖術を使わなければ君とまともにやり合う事は叶わないんだもん。狐火の攻撃術も威力はあるけれど、君の速度には敵わないし、ましてや腕力勝負では完全に分が悪いからね」
妙に感心した様子の雪羽に対し、源吾郎は落ち着いた口調で解説した。
雪羽の指摘はその通りだった。特に指定がない限り、戦闘訓練では妖術を駆使して立ち向かうのが常だった。もちろんメインの攻撃術は狐火などであるが、その補助として用いる妖術の方が、むしろ源吾郎の得意な領域になる。
また、半妖ゆえに源吾郎は防御力も素早さも純血の妖狐よりも劣ってもいた。その弱点をカバーするためにも、結界術は戦闘訓練では欠かせなかったのだ。
無論半妖としての弱点は攻撃面でも大きい。源吾郎の腕力は、せいぜい成人男性のそれと同程度なのだ。十キロ足らずなのに人間を圧倒するほどの機動力を持つ獣妖怪たちに較べれば格段に弱いのは言うまでもない。
「そもそも妖狐の強みは、腕力や武力と言ったパワー系の能力ではなくて、相手を攪乱させる術や、それを行使するための知略の面なんだよね。島崎君、君のご先祖様である玉藻御前とて、本来は武力を用いた闘いは得意では無かった事は知ってるでしょ? 前にも話したと思うけれど」
曖昧な返事をしていると、萩尾丸は更に言葉を続ける。その顔が笑みで歪んでいるであろう事が、目の当たりにしなくても感じられた。
「それに島崎君の場合、種族的な特性に加えて個人的な気性もある訳だからね。だってさ島崎君。君の行動の中には
「……無かった、ですね」
萩尾丸の指摘に、源吾郎は素直に応じるしかなかった。そもそも闘う事、暴力を振るう事に慣れていない。これこそが源吾郎が戦闘術を苦手とする真の理由だったのだ。
「ですが萩尾丸さん。それは俺が人間として――」
「人間として育てられたからと言うのは
源吾郎の反駁を、萩尾丸はぴしゃりと遮った。
「人間であったとしても武力で物を言い暴力で物事を解決する手合いがいる事は君も知っているだろう。凶暴な犯罪者とか、身近な例だったらチンピラとか不良少年みたいな手合いとかさ……だから島崎君が闘う事に消極的なのは、その身に宿る人間の血の為ではないんだよ。むしろ
「やっぱりそうですよね」
言ってから、源吾郎は静かに息を吐いた。争いを好まぬ気質に育った要因として、過去を振り返れば思い当たる事ばかりだった。
玉藻御前の末裔であり、尚且つ親族らの中でも強大な妖力を持ち合わせて誕生した源吾郎であるが、その半生は極めて平穏なものだった。人間の少年として振舞い、ごく普通に学生生活を送っていたのだ。
もちろん学校に紛れる妖怪や勘の良い一部の人間には本性が見抜かれていたが、単にそれだけだった。源吾郎の力や玉藻御前の血を狙う者に追い回される事も無ければ、誰かに因縁を付けられて相争う事も無かった。争いとは無縁の、平凡な学生生活だったのだ。
更に言えば源吾郎は末っ子であり、兄姉たちとは歳が離れていた。第二の父親のように振舞う長兄を筆頭に、兄姉らは源吾郎を仔狐として扱っていたのだ。源吾郎はだから、兄弟喧嘩を行った事もほとんど無かったのだ。七歳上の末の兄に突っかかる事はたまにあったが、それすらも兄弟喧嘩と呼べる代物では無かった。
「島崎君。闘いの心構えが出来ていないからと言って凹まなくても良いじゃないか。変化術や妖術を得意とするところは、それこそ玉藻御前に似通っているんだよ。先天的に憧れのご先祖様に近い能力を獲得している事を喜んでもばちは当たらないよ。
それにね島崎君。変化術は直接的な攻撃術ではないにしろ、ある意味
「強力な術……変化術がですか?」
その通りだよ。目を丸くする源吾郎に対し、萩尾丸は運転したまま応じる。
「島崎君に雷園寺君。我々妖怪が行使する妖術は、全て使い手の心の動きによって制御されているという話は知っているよね。変化術は、特に使い手の心や精神力に左右される妖術の一つになるんだよ。
何しろ自分とはかけ離れた姿のモノに変化したり、自分とは全く違うモノ・そこにはいないはずのモノを分身として顕現させる術なんだからね。想像力はさることながら、変化しつつも『自分は自分である』という意識をしっかり持っていないと使えない物でもあるんだ」
萩尾丸はここでいったん言葉を切った。それから密やかな笑い声を上げてから言い添える。
「場合によっては、変化術の行使中に自分の存在があやふやになってしまう恐れさえあるって事なんだ。変身した姿に没入するあまり、それに
変化術ってそんな術だったんだ……無邪気に驚き感心する雪羽の隣で、源吾郎もまた深い感慨と共に萩尾丸の言葉を反芻していた。但し、雪羽とは異なりただ単に驚嘆しているだけでは無かった。
――良いか源吾郎。変化術は疲れ切っている時や、気持ちが落ち着かない時には使わないようにするんだぞ。特にお前はまだ子供だから、万全のコンディションではないと
変化術を覚え始めて間がない頃、叔父の苅藻が時たま口にしていた事を、源吾郎は密かに思い出していたのだ。