木曜日の昼休み。昼食を終えた源吾郎は手早く弁当箱を片付け、その代わりとばかりにテーブルの上にノートと数冊の文庫本を並べて置いた。ノートの表紙には試験用とも打ち合わせ用とも記されておらず、文庫本はまるきり小説だ。
いずれにせよ、源吾郎が仕事で使う物では無かった。源吾郎自身も退社してからの余暇時間だとか、出社する前の隙間時間などにこれらの小説を読み、そうして思った事や感じ取った事をこのノートに記していたのだ。
現在の業務とは直截的に関連性が無いからこそ、昼休憩の時間を狙ってこれらの物を出したのだ。仕事中であれば、それこそ萩尾丸に遊んでいないかと言われかねない訳であるし。
まるっきり仕事に無関係であるのならば、そもそも職場に持ち出さなくても良いのではないか。だが今回ばかりはそうは問屋も卸さない所だった。
「雷園寺君」
「どうしました、先輩」
相手の挙動を見守ってから、源吾郎はゆったりと声をかけた。声をかけられた雪羽は、当初は不思議そうな様子を見せていたものの、テーブルの上に並ぶものを見て納得したような表情になった。テーブルに並べたものは、雪羽にも見覚えがある物ばかりだからだ。何せ小説の文庫本は、雪羽から借りたものなのだから。
「調べ物もあらかた終わったし、小説を返すよ。ありがとうな、雷園寺君」
文庫本を両手で捧げ持ち、源吾郎は立ち上がって雪羽に手渡した。文庫本の表紙や背表紙には「クトゥルー」「ラヴクラフト全集」などと言った文言が躍っている。
文庫本を受け取った雪羽は、おのれの許に戻ってきた小説と源吾郎の顔を交互に見やりながら僅かに首を傾げた。
「思っていたよりも早く返してくれるんですね。ページ数も多いし和訳と言えども癖があるから、先輩と言えども読み切るまでには十日ぐらいかかると思ってたんだよ」
「別に全部読んだわけじゃないさ。あくまでも調べ物の資料として使っただけなんだからさ。それに雷園寺君だって、貸した本が早く戻ってきた方が嬉しいだろう?」
源吾郎はそう言って笑い返していた。雪羽はこれで納得してくれるだろう。笑顔の裏でそんな事を思っていたのだ。
ところが、雪羽は含みある笑みを浮かべただけだった。
「小説を調べ物の資料呼ばわりとは、先輩も中々合理的で狸みたいっすね」
「ふふっ。言うて今の俺は研究職なんだ。狐も狸も関係なかろうに」
洒落の利いた雪羽の指摘に対し、源吾郎は思わず吹き出しそうになった。化け狸に理系が多い事、
ちなみに妖狐は文系の個体が多いらしいが、それは別に化け狸たちに対抗しているわけでは無いだろう。
「でも本当に、ここまで早く返してくれるなんて思ってなかったよ。何ならあの漫画も貸出したら良かったかな?」
雪羽はそう言うと、悪戯を思いついた子供のような笑みをその面に浮かべた。それとは対照的に、源吾郎の面には渋い表情が浮かぶ。彼の言う漫画の内容は知っていた。孤独な少年がふとした事から邪神を召喚してしまい……その邪神を姉と見做して一緒に暮らすという物語だ。
貸し出してやる、と言って雪羽が見せてくれたそれは全年齢向けではあったものの、いささか扇情的なシーンが多かったような気もする。
「あの漫画は尚更要らんよ。あれは山羊の女神が出てくるだけで、九頭龍も深海ヨリ来ル者も全然絡んでなかったじゃあないか」
「こんな所でも真面目なんだなぁ……」
面食らったような表情を雪羽が見せたので、今度は源吾郎が含み笑いを浮かべながら言い添えた。
「――まぁ、雷園寺君が好きそうなお話だなぁって思ったけどね」
「バレちまったか、まぁね。あれは俺も大好きなんだ……あんなの読んでるって事は、叔父貴たちに、特に
そうだろうなぁ。照れくさそうに語る雪羽に対し、源吾郎は心の中だけで頷くにとどまった。邪神が姉となり、幼くして父母を喪った少年に寄り添う物語を何故雪羽が好むのか。その真の理由は源吾郎には解っていたのだから。
それにしてもドスケベで悪ガキだった雪羽であっても、自分が所持して読んでいる本を保護者達に知られたくないなどと言う可愛い事を思うのだな、そもそもそう思うのならば件の本を買わなければ良いだけなのではないかしら。そんな事を源吾郎はぼんやりと思っていたのだった。
「それはさておき雷園寺君。本を貸してくれたお礼にさ、君にも見てもらいたいものがあるんだよ」
「見て貰いたいものって何?」
雪羽が問いかけるのを見計らい、源吾郎は手許に残ったノートをめくった。雪羽が首を動かし、僅かに瞠目するのが源吾郎には見えた。
開かれたノートを覗き込みながら、源吾郎は僅かに眉根を寄せた。自分のノートであるから、もちろん何を書き記したかは把握している。考え考え書いたにしても、汚らしく書きなぐった物だ。そんな考えが頭の上に重く湿っぽくのしかかってきて、だから源吾郎は顔をしかめてしまったのだ。
九頭駙馬《きゅうとうふば》、万聖龍王《ばんせいりゅうおう》、四海龍王、そして深海ヨリ来ル者。これらの単語を含んだ文章たちは、ノートの罫線にお行儀よく収まってなどいなかった。ヘロヘロにのたくった文字もあるし、罫線をはみ出して躍り出ている文字もある。しまいには間違えたり適当な漢字で妥協している部分や、諦めてカタカナで記してある部分もあるくらいだ。
「先輩、これは……?」
訝しげな声が雪羽の口からまろび出る。やっぱり字の汚さや書き殴りぶりにうんざりしているだろうな。そう思いながらも源吾郎は口を開いた。
「前に萩尾丸先輩がさ、八頭怪と深海ヨリ来ル者と関りがあるって事を仰っていただろう。万聖龍王も深海ヨリ来ル者の縁者かも知れないって話を聞いて、そこから色々と調べてみたんだ」
源吾郎は顔を上げ眼球を動かして、視線をノートから雪羽の顔へとスライドしていった。雪羽は無言のまま、ノートを凝視している。
気まずくなった源吾郎は、ここでふわりと笑った。
「悪いな、随分と見苦しいだろう。これを書いている時は誰かに見せるって言う事までは意識していなかったから、思うままに書き散らしちまったんだよ。清書する気力も無くってこのまんまだったんだけど……」
「別に、字が汚いとかそんなのは気にしてないよ。それよか調査結果とやらについて教えてよ。見た感じ、何かとても面白そうな事が書いてあるみたいだからさ」
字の汚さ云々はさておき、雪羽は源吾郎の記したノートの内容に食いついてくれた。源吾郎はその事に深く安堵しながら、解説を始めるのだった。
※
かつての八頭怪たる九頭駙馬は、万聖龍王の娘の許に婿入りし、金光寺の宝を盗んで血の雨を降らせた。その数年後、悪事が露呈し哮天犬に頭を一つ咬み落とされ……八頭怪となって碧波潭を後にした。八頭怪について、西遊記にて記されているのは僅かにこの事である。或いは、そもそも万聖龍王の娘婿は玉龍であり、九頭駙馬は横恋慕・ゲス不倫によって万聖公主の夫になったという話が細々と知られているという程度であろうか。
西遊記の話だけをひもとけば、単なるゲス不倫男が悪事をしでかし、哮天犬に襲撃されつつも逃げ延びたという話に過ぎない。
だが源吾郎たちは知っている。八頭怪は恐るべき邪神・道ヲ開ケル者の遣いであり眷属である事を。
そして新たな事を知った。九頭龍を祀る異形の民・深海ヨリ来ル者と八頭怪に繋がりがある事を。萩尾丸はあの時、万聖龍王が深海ヨリ来ル者に関与しているのではないかと言っていた。
もちろん源吾郎とて、萩尾丸の言葉を鵜吞みにしたわけでは無い。そもそも彼は九頭龍や深海ヨリ来ル者についてはほとんど知らなかった。だから最初は、深海ヨリ来ル者について調べておこうと思った程度だったのだ。
そうして調べているうちに、ふとある事に気付いてしまったのだ。これまで疑問だった万聖龍王の振る舞いが、深海ヨリ来ル者の眷属であると考えれば当てはまるであろうという事に。
西遊記については原典に近い物も精読した事のある源吾郎は、そこに記される万聖龍王とその周辺について疑問視している部分があったのだ。
息子たちも大勢いるにもかかわらず、何故敢えて娘である万聖公主を跡取りとしたのだろうか? 万聖公主には元々玉龍と言う婚約者がいたのに、何故そこに九頭駙馬が割り込む形となったのだろうか……完全ではないにしろ、万聖龍王が深海ヨリ来ル者の眷属であると思えば疑問は解決するのではないか。そのように源吾郎は思ったのだ。
九頭駙馬は道ヲ開ケル者の御使いであり、深海ヨリ来ル者は深海に眠る九頭龍を信仰しているという。一般妖としては九頭龍も道ヲ開ケル者もひとからげに邪神として考えてしまうだろう。しかし、九頭龍よりも道ヲ開ケル者の方がより高位の存在であるらしい。何となれば九頭龍もまた、道ヲ開ケル者の子孫であると、参考資料には書いていたではないか。
そうなれば、万聖龍王とて九頭鳥――婿入りする前の九頭駙馬はこう呼ぶほかなかろう。そもそも駙馬には入り婿と言う意味があるのだから――を喜んで迎え入れたに違いない。或いはそれこそ、九頭龍の遣いであると言った可能性すらあるだろうし。
そしてそんな危険な邪神と繋がっているからこそ、龍王の中の王たる四海龍王も、おのれの太子を差し出して万聖龍王と縁組し、彼らを支配下に置こうとしたのではないか――西遊記と暗黒神話。二つの伝承をひもといた源吾郎は、この辺りまで推察を行っていたのだった。
※
「まぁ、俺の調査結果は現時点ではこれくらいかな」
「現時点でって、それでも結構まとめてるじゃないか」
称賛のため息を漏らしながら、雪羽はノートと源吾郎とを交互に眺めていた。
「しかもよくよく見れば、何となく小説仕立てにしてるしさ」
「最初は気付いた事を断片的に書いていただけなんだけどね。それだと何か味気なくって……」
源吾郎はそう言うと、照れたように頬に手を添えた。せいぜい作文どまりのそれを小説仕立てと言われて少し気恥ずかしかったのだ。
源吾郎自身は確かに国語や作文は得意だった。だが、彼が学生時代手掛けていたのは演劇の脚本である。同じ物語を記すと言えども、小説と脚本が異なったものである事は流石に知っている。
雪羽はしばらくノートを眺めていたが、ややあってから顔を上げ、それから源吾郎の肩に手を添えた。その動きは存外優しい物で、手の平のぬくもりが白衣越しに人割と伝わってきた。
「まぁ先輩。先輩もあんまり根を詰めない方が良いと思うけどな。何かその、めちゃくちゃ悩んでああだこうだ考え抜いたってのが字を見るだけでも解るからさ」
「なーに。俺は大丈夫だよ」
ねぎらい気遣うような雪羽の言葉に対し、源吾郎は軽く笑って応じていた。
別にこれは強がりでも何でもない。あと二日仕事をこなせば休みが来る。休みになれば米田さんに会える……その事を思うだけで、源吾郎の心は気力に満ち満ちていたのだ。
次回、デート回です。