源吾郎は受け取った段ボール箱をすぐさま青松丸に手渡した。双睛鳥の静養している部屋には、源吾郎や雪羽では出向く事が出来ないからだ。青松丸に手渡した事には深い意味はない。雉妖怪であるがゆえに、青松丸が主だって双睛鳥の面倒を見ていたから。強いて言えばそれくらいの事だろうか。
「先輩、双睛の兄さんの眼鏡が届いたんですね」
青松丸が事務所を出て何処かへ向かうのを見届けている間に、休んでいたはずの雪羽がこちらに歩み寄っていた。源吾郎は雪羽の声を聞きその表情を見て首を傾げた。
「見ての通り青松丸先輩にお渡ししたところ。それはそうと雷園寺君。どうしてそんなに焦っているの?」
「焦るも何も、双睛の兄さんが自分のオフィスに戻る前に、プレゼントを渡さないといけないじゃないか」
「ああ、それでね」
プレゼント、という単語と雪羽の切羽詰まった表情は何処かちぐはぐな感じがしてしまったが、源吾郎はそれでも納得していた。源吾郎がお土産としてウミヘビの干物だとか柑橘類のジャムだとかを購入して用意していると言った時に、雪羽もこれに張り合うかのように邪眼除けのお守りを買ったのだと言っていたではないか。
「さっ、先輩ものんびりしてないで準備しなよ」
雪羽はそう言うと身をひるがえして事務所を後にした。邪眼除けのお守りとやらはどうやらロッカー室に置いているのだろう。一方の源吾郎は、敢えてロッカー室に戻る必要は特に無かった。研究センターの皆にクッキーを配ったり雪羽に柑橘類のジャムを渡したりしたので、双睛鳥や青松丸に渡すための物品もデスク付近に置いていたためだ。
※
「研究センターの皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
双睛鳥が研究センターの事務所にやってきたのは、青松丸が段ボール箱を届けに向かってから十分足らずの事だった。源吾郎と雪羽が最後に彼を見たのはセシルの工房での事だった。こうして双睛鳥と対面するのは一週間ぶりの事である。セシルが新調した偏光眼鏡をきちんとかけている事は言うまでもない。
一人きりの部屋で静養しつつ仕事に励んでいたという双睛鳥は、思いのほか元気そうだった。頼みの綱である偏光眼鏡を手に入れたという安堵感もあるだろうし、何より肌艶がよく血色も良い。
「ご迷惑だなんて……双睛鳥君。あなただって若いんだからそんなに気を遣わなくても良いのよ」
普段よりもお堅い様子の双睛鳥を眺めながら紅藤はそう言った。もちろん優しげな眼差しを若手幹部に向けてはいるのだが、口許には笑みの形を作っていた。特に若いんだから、という部分を強調していたように聞こえたのは、源吾郎の気のせいでは無かろう。
そうだとも、と萩尾丸も紅藤に同意するような形で頷いている。萩尾丸が、こうして無条件で紅藤の意見に賛同するのは珍しい事だった。研究センター内では営業や経営的な方面を任せられている萩尾丸は、紅藤の発言に対して何かと意見を述べたり進言する事が常だったからだ。或いはそれこそが萩尾丸の役目であり、紅藤の望んでいた事なのかもしれないが。
「今回の件はあくまでも不可抗力であり、双睛鳥君ではどうにもならなかった事柄でもあるんだからさ。困っている時に誰かに頼るのは自然な事なんだよ。僕や紅藤様だって、何かあれば他の妖に力添えしてもらう他ないんだからさ。
それに、普段マイペースに過ごしていた青松丸君も、今回ばかりは年相応の仕事を行う事が出来たから、それはそれで良かったと思っているんだよ」
そうだろう青松丸君。萩尾丸は弟弟子にして師範の息子たる青松丸の名を出し、それだけではなく青松丸に直接声をかけてさえいる。やっぱり近い種族ですし、などと青松丸は当たり障りのない事を言っているが、源吾郎はこの一連の流れにはそこはかとない違和感を覚えていた。
別に青松丸の言動に違和感を覚えたわけでは無い。どちらかと言えば、萩尾丸の言動に違和感を覚えていた。いや、今回だけではない。ここ最近、萩尾丸は何かと青松丸にも絡んでいく事が増えた気がする。絡むというか、源吾郎や雪羽に対してするようにそれとなく青松丸を煽る事が増えたではないか。
萩尾丸は紅藤の一番弟子であり、研究センターの中では第二位の地位に収まっている。元々は紅藤も実の息子を要職に就けようと思っていた訳であるから、外様だった萩尾丸はその青松丸を押しのけて今の地位を獲得したともいえる。そして青松丸も、萩尾丸が上にいる事については異存はないらしい。
そう言う事を知っていたからこそ、源吾郎は萩尾丸の挙動が奇妙に思えたのだ。例えば第三位である青松丸が野心を思い出し、第二位の萩尾丸に敵愾心を燃やすのであればまだ解る。妖怪たちの中でも序列争いはあるし、研究センターの序列に関しても力量で決まる部分があるからだ。源吾郎と雪羽がかつて烈しく相争ったのも、互いの序列がはっきりしていなかったからという側面もある訳だし。
しかし今回は、萩尾丸の方から青松丸に絡んでいるのだ。源吾郎が見る限り、研究センター内で序列争いが起きるような気配は特に無い。それにそもそも幹部職である萩尾丸の方が青松丸よりも上位の存在だ。
青松丸自身も真面目に業務に励んでいるにもかかわらず、萩尾丸は隙あらば彼を煽ろうとするのだ。しかも源吾郎や雪羽に対して煽る以上の鋭さが込められているようにも感じられる時さえあった。
気付けば雪羽も源吾郎に目配せをしている。最近の青松丸への萩尾丸の態度に違和感を抱いているのは、何も源吾郎だけでは無かったのだ。
「そうそう。雷園寺君と島崎君が君のために色々と用意してくれているらしいんだ。双睛鳥君も忙しいかもしれないけれど、少しだけ付き合ってくれるかな」
「用意って、僕のために……?」
萩尾丸の言葉に、双睛鳥は素直に驚きの色を見せていた。偏光眼鏡の向こう側にある瞳も大きく見開かれている。
ここで源吾郎と雪羽は前に進み出た。二人とも、この時既に双睛鳥に渡す品をそれぞれ紙袋に収めて用意していたのだ。
勢いあまって雪羽は源吾郎を半ば押しのける形となったが、源吾郎は慌てず騒がず雪羽の挙動を見守る事にした。研究センターの中では最も新参である雪羽だが、双睛鳥との付き合いは源吾郎よりも長いのは言うまでもないためだ。
「俺は、いえ僕は邪眼除けのお守りを用意しました」
雪羽はここで言葉を切った。双睛鳥が受け取るのを見届けてから言い添える。
「双睛の兄さんが静養なさっている間、僕には何も出来なかったので……本当に、元気になってくださって良かったです……」
雪羽の言葉には本心からの響きが伴っていた。それこそ、病弱な従兄の回復を心から喜ぶ幼い親族のように。だが雪羽は用が済むと、普段の抜け目ない表情を垣間見せつつ源吾郎を促したのだった。入れ違いざまに雪羽が少し後ろに戻り、押し出されるような形で源吾郎が前に進み出る。
双睛鳥様。源吾郎はそう言って紙袋を差し出す。ぎこちない動きだというのは自分でもはっきりと感じ取っていた。
「ぼ、僕はウミヘビの干物と柑橘類のジャムを用意しました。双睛鳥様は蛇もお好きですし、柑橘類も好みだとお見受けしましたので……
実は柑橘類のジャムはキンカンジャムと柚子ジャムの二種類でして、どちらも喫茶店ではお湯で溶かしてキンカン湯とか柚子茶になるんです。僕はキンカン湯が気に入りましたので、それでもしよろしければと思いまして……」
そこまで言いながら、源吾郎は周囲の視線を感じた。双睛鳥は忙しい。そんな話を聞かされていたにもかかわらず、長々と弁明めいた事を喋ってしまったではないか。双睛鳥はしかし、気にした様子は見せずに源吾郎の紙袋を受け取ってくれた。
「二人とも、本当にありがとうね」
双睛鳥はゆっくりと、しかし一言一句噛み締めるように言った。この言葉が源吾郎と雪羽に向けられたものである事は言うまでもない。
彼は少しの間泣き出しそうな表情になっていたが、それをこらえてひょうひょうとしたような表情を見せていた。その双睛鳥の顔は、源吾郎が見知った表情だった。
「それにしても僕も新年早々アレだよね。雷園寺君や島崎君みたいな若い妖《こ》に、こんな風に気を遣わせてしまうなんて」
「双睛鳥君も思い悩まなくて良いんだよ」
双睛鳥の言葉にツッコミを入れたのは萩尾丸だった。彼は源吾郎たちを眺めてにやにやと笑っている。
「雷園寺君たちだっていい加減空気を読むとか目上の相手を敬って慮る事を勉強しないといけない年頃だから、そう言う意味でもいい勉強になったのかなって僕は思っているんだよ。
それに双睛鳥君。君も君でこの妖たちに慕われているって事がはっきり判ったんだ。これは素直に喜ぶべき事じゃないか」
そうですね。慕われているという言葉に反応し、双睛鳥は静かに頷いていた。それから双睛鳥は、雪羽と源吾郎を交互に見やりながら言葉を紡いだ。やはりというべきか、雪羽に向けた言葉の方が多かった。三國が兄と慕う双睛鳥は、もちろん雪羽の過去の姿を知っていた。慢心増長し悪ガキとして振舞っていた時もさることながら、三國に引き取られたばかりの頃の事も。今こうして会ってみると、やはり雷園寺君も成長したんだね。しめの言葉は全くもって年長者らしい言葉だった。
もちろん双睛鳥は源吾郎の事についても褒めてくれた。雪羽に較べて言葉数が少ないのは、付き合いが短いから致し方のない事だろう。そんな風に源吾郎が思っていると、双睛鳥の口から思いがけぬ言葉が飛び出してきた。
「――島崎君、芸術活動をなさっているお兄様は元気かな?」
「芸術活動を行っているって……末の兄の事ですかね?」
兄の事について言及した双睛鳥に対し、源吾郎もまた疑問形で応じてしまった。
源吾郎には兄が三人いるが、芸術活動に関りがあると言えば庄三郎で間違いない。上の兄二人は民間勤めのサラリーマンなのだから。
ここに来て、何故兄の事について言及したのだろう。源吾郎は素直にそんな疑問を抱いていた。源吾郎と異なり、兄姉らは完全に人間として暮らしている。特に兄たちは積極的に妖怪に関わる手合いでは無い。妖怪サイドの方でも、兄らは人間とほぼ同じであり、妖怪社会に影響をもたらさないと見做しているはずだ。
そんな風に考えていた源吾郎は、昨秋に起きた白狐襲撃事件の事を思い出した。あの時あの場には、源吾郎も庄三郎も、そして双睛鳥も居合わせたではないか。それなら双睛鳥が末の兄を気にかけるのも自然な事だと思い直したのである。
「はい。末の兄なら元気にやっているはずですよ。前に会ったのはお正月休みでしたが、まぁ普段通りでしたので」
源吾郎はそう言って、照れたような笑みをほのかに浮かべた。普段通りと言ってはみたものの、庄三郎は製作を行っている時以外は概ね怠惰に暮らしている事を弟として知っているからだ。或いは、製作にとんでもないエネルギーを放出するから、製作を行っていない時には充電中になっているだけなのかもしれないが。
そんな事を思っていると、双睛鳥は微笑みながら口を開いた。
「それは良かったよ。あの子もあの子で色々と
しんみりとした様子で放たれた言葉に、源吾郎は瞠目し、ついで尻尾の毛が僅かに逆立ってしまった。双睛鳥が庄三郎の事を敢えて言及した理由は、先程放たれた言葉で明らかになったようなものだ。そしてもしかしたら、あの時の襲撃事件にて手を貸してくれたのも、そうした事があったからなのかもしれない。そんな考えさえ浮かんだほどだった。
「ご自身も大変な事に見舞われたのに、兄の事までお気遣いいただきありがとうございます。双睛鳥様、末の兄は大丈夫です。兄も兄であの能力で色々と苦労したみたいですが、どうにか折り合いを付けて生活している事は僕たちも把握していますので」
「島崎君がそこまで言うのなら安心したよ。君も家族思いの良い子だもんねぇ」
双睛鳥はそこまで言うと、受け取った紙袋を一旦デスクの上に置き、それから小脇に抱えていた段ボール箱から封筒を取り出した。事務用の茶封筒であり、その表面にはやはりフランス語が短く記されている。
「紅藤様。遅れましたが偏光眼鏡と共にこちらも一緒に入っていたんです。紅藤様宛に……研究センターの皆様に宛てたもののようなのでお渡しいたしますね」
「セシルさんが私たちに宛ててくださったのね。萩尾丸、何か心当たりはあるかしら?」
「僕も心当たりはありませんね。強いて言うならば、セシル様が個人的に何かを渡したいと思ったから同封したとかでしょうか」
封筒を受け取った紅藤と、その紅藤に質問を投げかけられた萩尾丸は、揃って首をかしげていた。
ともあれ、封筒に何が入っているのか、確認するほかないのは明らかだ。