※
「紅藤よ。私が言うのもなんだが、お前もその姿にすっかり馴染んだようだな」
「ええ。その通りですわお師匠様。わたくしの本当の姿は、雉ではなくてこちらの姿ではないか。ときどきそう思う事もあるのです」
「そうか……」
紅藤の言葉に、師匠である男は一瞬だけ哀しげな表情を浮かべた。その事に気付いた紅藤もまた、知らず知らずのうちに表情を曇らせる。本当の事を言ったまでであるし、多分お師匠様も喜ぶのではないか。そんな風に思っていたのだ。
しかしそれは自分の思い上がりだったのかもしれないと思った。
不思議な術を使うこの師匠と行動を共にして十年近く経つ。単なる雉だったはずの紅藤は人の姿を得、師匠から知識と生き抜く術を与えられていた。色々な事を知ったと思っていたけれど、実は自分は何も知らないのかもしれない。
お師匠様……不安になって呟くと、師匠は気恥ずかしそうにかぶりを振っただけだった。
「何でもない。ただな、私が行った事が本当に正しかったのか……紅藤のためになった事なのか。そう思っただけだ」
「お師匠様のなさった事は、わたくしのためになっている。そう思いますわ」
紅藤は胸元に手を添えて言い切った。師匠が自分の事で、紅藤に対して行った事で悩んでいる。その事だけは紅藤にははっきりと解った。
だからこそ、次に紅藤が言うべき事もまた、解っていた。
「お師匠様。わたくしはお師匠様の傍にいてしあわせですわ。おそらくわたくしは、普通の雉として一生を終えるだけだったのかもしれないのですから」
「幸せ……か。そうか、紅藤は幸せなんだな」
師匠の言葉は輪郭が薄れたような、ひどくぼんやりとした物言いだった。
「だが紅藤よ。物の怪に変じた事によって幸せを感じている事もあるだろうが、唯の雉であった時では知らなかったような苦難をも背負わせているのかもしれない。そう思うと気がかりなのだよ」
そう言った師匠の瞳は妙にぎらついていた。
「紅藤よ。前だってお前は徒党を組んだ物の怪の賊に捕まりかけて、危うい目に遭った所ではないか。しかも、私の言いつけで薬草を取っている最中だったな」
「あの時の事は大丈夫です。わたくしの事は、峰白のお姉様が助けてくださったのですから……」
「峰白のお姉様、か」
紅藤の言葉に、師匠は軽く鼻を鳴らした。
「人であれ獣であれ、それこそ物の怪まで殺して喰らうという化け物の事を、お前は姉と呼ぶか……ああ、しかしアレは雉天狗と呼ばれてもいたな。敢えてそう呼ぶという事は、お前と同じく元は雉だったのかもしれない。であれば、お前がアレを姉と呼ぶのも道理が通る……か」
吟味するように呟く師匠を眺めながら、紅藤は峰白と出会った時の事を思い出していた。
目もくらむような毒々しい色調が、峰白の姿と共に鮮明に浮かび上がる。粘っこくドロリとした紅色。おかしな光沢を見せる脂ぎった桃色。そしてそれらよりも控えめながらも、それ故に自己主張を行っている黄ばんだ白色――山中の緑とはそぐわぬ色彩を伴って、峰白はそこに佇んでいたのだ。紅色や桃色に覆われていたのは、彼女が妖怪たちを屠ったからに他ならない。肉片となって散らばったのは、紅藤を獲物と見做し、狩ろうとした異形たちだった。
結果的に、紅藤は峰白に助けられたのだ。それが他の異形を喰い殺すという物騒な手段だったとしても。紅藤自体は喰い殺される事はなかったし、それどころか言葉を交わす事も出来たのだから。
「だが紅藤よ。峰白はお前を助けた訳ではないだろう。アレがお前を喰い殺さなかったのは、単に腹が満たされていた
「……そうだったのですか」
紅藤の言葉には僅かに失望の色が滲んでしまった。もしかしたら峰白を仲間にする事が出来るかもしれない。そんな淡い期待を抱いていたのを紅藤はこの時思い出した。だが――返り血の紅色と肉片の桃色に塗れた峰白の姿は、確かに美しくも恐ろしかった。
「お師匠様が仰るのであれば、その通りですよね……わたくし、本当は峰白のお姉様もお師匠様の門下に入ればと思っていたのですが」
「紅藤、お前は実に純な心の持ち主よなぁ」
呟く師匠の表情は実に複雑な物だった。優しく微笑んでいるようにも、涙や怒りをこらえているようにも思えたのだ。いずれにせよ、視線は紅藤に向けられている事には変わりない。
「それはやはり、元はお前が山野で遊ぶ単なる雉だったからなのだろうかね。お前を従えてからというもの、他の物の怪たちも従えたり弟子にしたりしているが……あやつらの方が色々と考えを巡らせているように思えるのだ」
何処か困ったような師匠の言葉に、今回は紅藤も素直に頷いた。紅藤は彼に従う異形の一人であるが、師匠は彼女以外にも何匹もの異形を従えていた。旅路の中で出会った物の怪たちである。生粋の異形である彼らが師匠に従っているのは、ひとえに師匠の方が強く、しかも食事や寝床に困らないからだ。
だが――素直に師匠の事を慕っているのかと言われれば、それは断言するのが難しかった。呑気で朗らかな物の怪は師匠を慕い、紅藤の事も姉弟子と見做してくれる。しかしそうでない者も少なくない。
「紅藤。私は弟子たちの中でもお前が一番気に入っているよ。私が最初に従えた物の怪であるという事もあるかもしれないが……私によく尽くしてくれているもんなぁ」
だからこそ心配なのだ。師匠はその時はっきりと言った。
何が心配なのですか、お師匠様。この時紅藤は、素直に問いかけていたのだ。何とも愚かしく、物を知らぬ小娘だったが故の問いかけという他なかろう。
※※
「――大丈夫ですか、紅藤様」
自身に呼びかけてくる声に、紅藤はふっと我に返った。半ば寝ぼけていたか、そうでなくともぼんやりしていた事をこの時悟った。手許にあるのは週明けのミーティング用の資料であり、自分に声をかけているのは萩尾丸だ。
紅藤の一番弟子、実の息子のように――或いは息子以上に忠実な彼は、気遣わしげな眼差しをこちらに向けていた。
「もうすぐ始業時間ですよ。他の皆はミーティングの準備を整えた所ですが……」
のろのろと視線を彷徨わせ、時刻を確認する。確かに、始業時間まであと五分を切っていた。ぼんやりしていた自分の事は棚上げし、紅藤は萩尾丸を見やった。
「あら本当ね。でも萩尾丸。あなたの事だから、もう少し早めに声をかけてくれるかと思ったんだけど。珍しいわね」
すみませんね。紅藤の言葉に萩尾丸は微苦笑を浮かべながら詫びた。
「本来ならばそうした方が良かったのでしょうが、いかんせん僕も部下たちに捕まっておりましてね。話し込んでいたら少し遅れてしまったでしょうか」
「別に大丈夫。いつも前もって準備をする萩尾丸が、こうしてギリギリに動いたのが珍しいなって思っただけだもの。それに今は、萩尾丸だって私よりも島崎君や雷園寺君に構ってあげた方が良いでしょうからね」
「ま、まぁ……そう言う事ならばこちらとしても助かります」
萩尾丸は未だにぎこちない笑みを浮かべていた。その姿を見ているうちに、紅藤は萩尾丸と出会ったばかりの時の事を思い出していた。今でこそ立派な大天狗になっているが、彼とて少年だった頃はもちろんある。拾った直後の頃は、それこそ今の雪羽と同じくらいか、それより若干年長だったくらいではなかろうか。
裏を返せば、現時点で仔狐や仔猫のような源吾郎たちも、二、三百年経てば今の萩尾丸のような風格を具えた大妖怪に育つのだろう。その姿を上手く思い浮かべる事は出来なかったけれど。
それにしても。ゆったりと声を掛けながら、萩尾丸は紅藤の姿をじっくりと観察していた。紅藤の身を案じつつも、こちらの様子をうかがうような、そんな眼差しだった。
「紅藤様も大丈夫ですか。このところ気を張ってらっしゃるようですし……何なら僕に丸投げしていただいても良いんですよ? 全てを丸投げされると流石に困りますが、少しくらいならば……」
「いいえ、私は大丈夫よ」
萩尾丸の言葉を遮り、紅藤は椅子から腰を上げた。
紅藤は既に、過去の仲間たちに、同じ師匠の許で修行に励んでいた妖怪たちに会う事を心に決めていた。昔日の、何も知らぬがゆえに幸せだった過去の事を思い出したのは、きっとそのためなのだろう。