あの夜とは半休を取得した日の事である。灰高が多くを語る前に源吾郎は既に悟っていた。それはきっと、他の面々も同じ事であろう。何あの時、あの異様な光景を目の当たりにした事を源吾郎はすぐに報告したのだから。
あの時の事は源吾郎としても印象的だった。半休であるはずの源吾郎が職場に舞い戻ってきたにもかかわらず、紅藤たちが驚かなかった所などが特に。
「緊張しなくて大丈夫ですよ、島崎源吾郎君」
気が付けば灰高が源吾郎に呼びかけていた。フルネームで呼ばれた事にまず驚き、彼の笑顔を認めた所で警戒心が湧き上がってきた。老紳士のような人畜無害そうな笑みを浮かべているが、そう言った手合いではない事を源吾郎なりに把握しているつもりだった。何せ紅藤を煽り、激昂を引き起こしたような相手なのだから。
「あなたはただ、あの夜見たものを正直に語れば良いだけなのです。幼子でも出来る、非常に簡単な事です。しかもあなたは九尾の末裔ではありませんか。物を語り、解りやすく伝えるのは得意なのではありませんか?」
「は、い……?」
反射的に頷いたものの、源吾郎の声には疑問符が乗っかっていた。九尾の末裔であるから話が上手。灰高が出したその等式が源吾郎の中ではうまく結びつかなかったのだ。
とはいえ、源吾郎は実の所コミュニケーションには自信があった。何しろ演劇部に通算六年間在籍していたのだから。しかも単なる部員の一人などではない。中学の時も高校の時も副部長の座に上り詰め、その上演劇の才があると周囲に言わしめたほどの実績の持ち主だ。
過去の輝かしい日々を思い出した源吾郎の心は僅かに緩んでいた。その緩みに気付いたかのように灰高が言葉を重ねる。
「それにですね島崎君。あなたが真実を語る事こそが、あなたの師範である雉仙女殿のためになるのですよ。あなたの忠義の心が、既に雉仙女殿に向けられている事は私にも解ります。その師範が今、間違った考えに囚われようとしているのです。島崎君。あなたの証言が雉仙女殿の妄想を打ち砕き、正しい考えに彼女を導く事が出来るのですよ。
秘蔵っ子の愛弟子としては、またとない名誉な事ではありませんか?」
会議室の中には奇妙な沈黙が横たわるのみだった。灰高が余裕たっぷりに微笑みながら源吾郎を見つめているのが見えた。というよりも、今の源吾郎に見えるのはそれだけだった。
紅藤様が間違った考えに囚われている――? 灰高の放ったその言葉が、源吾郎の頭の中で渦を巻いていた。彼が何と言ったのか分かった直後、血液の温度が五度ほど上昇したような気がした。もちろん心臓の拍動は速まり、それと共に喉と唇が渇き始めていた。寒さなど感じない。むしろ空気を乾かしているようなエアコンが動いている事が恨めしかった。
「落ち着くのよ、島崎君」
ここでようやく紅藤が口を開いた。優しげな、源吾郎を気遣う声音だと思いたかった。彼女ははっきりとこちらを向いていた。紫の瞳を見ていると、不思議と心が落ち着いた。紅藤は妖怪を操る術を忌み嫌って使う事はまずない。しかし今回ばかりは、源吾郎の心を和ませるために何かしてくれたのだと思いたかった。
「灰高のお兄様の言う事は気にしないで。島崎君、あなたは知っている事を正直に話せば良いの。あなたが正直に話してくれる事は、私たちも十分解っているから……」
紅藤様。頷いた後に源吾郎は師範の名を呼んでいた。喉奥の違和感は未だに居座っているが、気持ちは大分落ち着いていた。灰高も紅藤も似たような事を口にしているにもかかわらず、である。
それでも受け止め方がまるで違ったのは、信頼する相手であるか否かの違いが大きいのであろう。
灰高は尚も微笑んでいる。源吾郎は目を伏せ、呼吸と気持ちを整えてから言葉を紡ぎ始めた。
「浜野宮様に紅藤様。そして萩尾丸先輩。これから俺が、いえ僕があの夜見聞きした物をお話しますね。
前もって断っておきますが、これからの話は全て僕が見聞きした話です。虚偽をさしはさむ事がない事を誓います」
源吾郎は唇を湿らそうとして、舌まで乾いている事に気付いたのだった。
※
「僕がそれを目撃したのは先週の水曜日の夜の事です。ええと、大体一週間前の事ですね。時間は……六時前から六時半の間だったと思います。あの時僕は半日休暇を取っていて、それで普段より早くスーパーに出向く事が出来ましたので。
そうです。あの時僕はスーパーから自宅に、紅藤様が提供して下さった居住区に戻る最中だったのです。浜野宮、様も僕が今はこの研究センター内で暮らしている事はご存じでしたっけ?」
源吾郎は一旦ここで言葉を切り、灰高をちらと見た。その通りだと言わんばかりに灰高は頷いている。源吾郎は息を漏らしつつ言葉を続けた。
「そいつらがいたのは田んぼと田んぼの合間の畦道でした。詳しい住所までは解りませんが。暗かったですし、僕自身、まだ完全に土地勘があるとも言い難いので」
「島崎君。あなたが詳しい場所を知らずとも、こちらは特に問題はありませんよ」
源吾郎の言葉に対し、灰高はにこやかな様子でそう言った。
「あなたとは異なり私自身、多少はこの土地に対する土地勘もございます。実を申せば、今の島崎君のお話だけでも、おおよそどのあたりの話なのか、類推出来ているくらいなのです」
「昨年の夏から鴉を使っておいでですし、灰高のお兄様にしてみればここもお兄様の庭のようなものと言えるでしょうね」
灰高が言い終えるや否や紅藤がぼそりと呟いた。皮肉の籠った物言いに、源吾郎の尻尾がびくっと震えた。無言を貫いて様子を窺っていた雪羽もだ。
だが、当の灰高はそんな事など意に介さず、源吾郎に話の続きを促した。源吾郎も、紅藤たちの態度を気にせずに話し続ける他なかった。
「その畦道で、あなたは不穏な事をする集団を目撃した。それで相違ないですね」
「はい、その通りです」
何処か念押しするような気配を感じ取った源吾郎であったが、それでも素直に頷いていた。考えてみれば、ここまでの話は既に紅藤たちには行っているのだ。話を聞く相手が変わっただけで、同じ事を行っているだけではないか。そのように源吾郎は思い始めてもいた。
「そしてその集団の中にはあの女――第五幹部の紫苑殿がいたのではありませんか」
源吾郎の言葉を待たぬ灰高の発言に、周囲の空気が一変した。灰高の言動は異様そのものだった。先程までは節々に不穏な気配を漂わせながらも、彼は聞き手に回っていた。それが今になっておのれの意見を持ち出したのだ。
しかもあの場にいたのは紫苑ではないかと、その場にいない妖怪を名指しする始末である。
源吾郎は何も言わなかった。何も言えなかったと言っても問題は無かろう。灰高の唐突な言葉に強く驚いていたのだ。そうでなかったとしても、源吾郎は灰高の言葉を否定する手段を持ち合わせていなかった。あの時あの場にいたのが紫苑だったのか、源吾郎には解らないのだから。
「――やはり結論ありきで話を進めようとなさっていませんか、灰高のお兄様」
おろおろする源吾郎の鼓膜を震わせたのは紅藤の声だった。その声音は普段の物とは、先程源吾郎に掛けられたものとは全く異なっている。感情の乗らない冷え冷えとした声だった。地の底から聞こえる亡者の声だと言われても頷けそうな代物でもあった。
「お兄様は何故紫苑の事を疑ってかかるのですか? 彼女は胡琉安様の従姉なのですよ。私どもの中でも頭目の縁者と言っても過言ではない彼女が――」
「胡琉安殿の従姉というよりも、むしろあなたの姪であるという事の方が大きいのではありませんか?」
臆面もなく灰高は紅藤の言葉を真正面から受け止めた。紫苑は胡琉安の従姉で紅藤の姪である。確かにこの二つは事実である。胡琉安はそもそも紅藤の息子なのだから。
身内びいきはいけませんなぁ。空々しい様子で灰高が告げる。雪羽が身を強張らせてびくっと震えたのは気のせいでは無かろう。
「雉仙女殿。それこそがあなたの最大の弱点ですよ。あなたが優秀な御仁である事は認めております。ですが、一度目をかけて身内だと思ったものに対してはいささか判定が甘くなっているのではありませんか?」
灰高はここで首をぐっと動かした。彼の視線は紅藤や萩尾丸たちではなく、端に座る雪羽に向けられていた。
「そう言えば、雷園寺君の身柄も第六幹部の秘書から第二幹部の研修生に変更されていたようですね。雉仙女殿、これもあなたの思惑によるものでしょうね。あなたに忠実な萩尾丸さんが、勝手にこのような事をなさるとは思いませんし」
雪羽がまたしてもびくっと震え、萩尾丸も気まずそうに沈黙を貫くだけだった。
研修生と言えども雪羽が正式な研究センターのメンバーになった事、書面上での彼の監督者が紅藤になった事は今となっては公にされている事柄でもあった。源吾郎たち研究センターの面々や工場棟の工員たちはもちろんの事、他の雉鶏精一派の妖怪たちにも知れ渡っている話だ。
元々は雪羽も萩尾丸の配下として引き取られてはいた。しかし雪羽に研究職の適性ありと紅藤が判断した結果、いつの間にか彼の身柄は研究センターの所属になっていたのだ。
こうした雪羽を巡る処遇については悪い事でもおかしな事でも無いと源吾郎は素直に思っていた。雪羽が機械や幾何数学を筆頭に理系方面に強い事は認めざるを得ない事実だったからだ。そもそも再教育が始まってからというもの、雪羽は研究センターに勤務しており、平日は萩尾丸の屋敷に帰る日々を送っている。書面上の監督者が萩尾丸から紅藤に変更しても、彼の暮らしには大きな違いはないようだったし。
だからこそ、灰高がその事を指摘した事に源吾郎は驚いていたのだ。それは当時者たる雪羽とて同じだろう。
「とはいえ、雷園寺君の処遇については別に深く追求するつもりはないんですがね」
だったら何故敢えて口にしたのか。そんな考えが源吾郎の脳裏に反射的に浮かぶ。もちろんツッコミを入れたりなどはしなかったけれど。
「しかし雉仙女殿。紫苑殿もまた所詮は外様なのですよ。胡琉安様の従姉であると言えども、あの女に胡喜媚様の血が流れている訳ではないでしょうに」
「だからと言って、そこまで彼女を疑い抜く論拠はあるのですか」
紅藤がまたも口を開いた。紫の瞳はギラギラと輝き、のみならず妖気がうっすらと漂い始めている。このままではまた彼女がキレる。そう思った直後、源吾郎は自分がこの場に呼ばれた目的という物をはっきりと確信した。
源吾郎の言葉こそが、師範たる紅藤を安心させるものになりうる、と。
この考えは灰高の言葉の受け売りのようでそれが何とも腹立たしかったが、ともかく今はそれどころではない。
源吾郎はだから、身を乗り出して口を開いたのだ。
「紅藤様に浜野宮様! ひとまず俺の話を聞いてください。お二人のご意見の、どちらが正しいかは俺の、いや私の証言で決まるはずですから」
悲鳴じみた源吾郎の叫びに、場の空気がにわかに緩むのを感じた。具体的に言えば、紅藤から放たれていた妖気の何割かが霧散したのだ。
静かになった会議室の中で、源吾郎は言葉を練り上げていった。思わずああ言ったものの、自分の主張が紅藤を安心させ灰高を納得させる事が出来るのか。今更になってその不安がのしかかってきたのだ。