打ち合わせが終わるや否や、会議室を真っ先に出る事となったのは源吾郎と雪羽だった。これは普段では考えられない話である。普段であれば源吾郎か雪羽に打ち合わせ後の後片付けを命じられるからだ。
だが今回に限ってはそのような事は無かった。というよりもむしろ、さっさと会議室を出ろとばかりに押し出されたような物でもあった。もちろん源吾郎たちに拒否権は無い。大妖怪の子弟・貴族妖怪の御曹司と言えども、研究センターでの地位は新入社員と研修生に過ぎないのだから。
「あーあ。結局の所俺は単に呼び出されただけになっちゃったのか」
「あの状況じゃしょうがないよ」
後ろ頭に両手を添えてぼやく雪羽に対し、源吾郎は優しい口調でそう言った。
「あのまま話が続けば、また紅藤様が妖気と怒りを爆発させていたに違いないもん。前だって、生誕祭の時だって似たような事があっただろ? 俺だって、意識が飛ぶなんて事はそうそう体験したくないし……」
「そう言われればしゃあないよな。俺だって意識が飛ぶのはあんまりなぁ……酔っぱらって意識を手放すのは気持ちいいけれど」
子供の癖に酔いどれ親父みたいな事を言うなよな。呆れたように源吾郎がツッコミを入れると、雪羽はへらりと笑うのみだった。人を喰ったような態度ではあるが、その笑みを見て源吾郎は安堵してもいた。会議の場では緊張していたようだが、普段の彼に戻ったのだ、と。
「それにしても雷園寺君。胡張安様と君との間に繋がりがあるって話だったけど、それって本当なのかい?」
「それが、俺にもさっぱり解らないんだよ」
源吾郎の問いかけに、雪羽は当惑した様子で肩をすくめるのみだった。先程の冗談を言い合っていた時の雰囲気は綺麗に霧散しているのは言うまでもない。
「そもそも俺は、胡張安様が胡喜媚様のご子息で……二代目頭目の胡琉安様のお父上であるという事しか知らないんだぜ? 姿も妖となりも知らないような相手に対して、何をどうすれば繋がりが出来るんだって話だよ」
そこまで言うと、雪羽は視線を彷徨わせつつ言葉を続ける。
「でも、そんなだけど、胡張安様は一度俺を助けたらしいんだってね」
ここで雪羽は言葉を打ち切った。話が終わったというわけでは無い。まだ話の続きはあるが、続けるべきか否か悩んでいる。それは彼の横顔を見れば明らかだった。ついでに言えば、雪羽が逡巡している理由さえも。
それでも雪羽は再び口を開いた。
「時雨たちが拉致されて殺されかけた事件があっただろう? あの時犯行グループのアジトには結界が張り巡らされていたんだけど、その結界を綻ばせたのは胡張安様の御業によるものだって言われているんだ。何でも胡張安様は時間を操る力を持っていて、それが結界に作用したってね」
雪羽の口調は後半に行くにつれてぼんやりとしたものとなっていた。現に彼は今、おとがいに手を添えつつ思案顔を浮かべているではないか。結界を綻ばせた結果と時間を操る術の因果関係について悩んでいるのだろう。そんな風に源吾郎は思っていた。
「多分だけどさ、時間を操るって事はその術が行われる前にその空間とかを変質させる事が出来るんじゃないかな。それを結界が張られている場所で行えば、結界に綻びや穴をあける事が出来るのかもしれない。
そうなったら、後はその穴から入り込めば良いだけだもんね。実際に、あの時は猫又のシロウさんが入り込んで、結界を強化していた鳥妖怪をやっつけてくれたんだろう」
「お、おう。そんな感じらしいんだよ。それにしても、先輩が色々と推理してくれるなんて。嬉しいけれどちょっとびっくりしたわ」
「何だよ雷園寺。俺が推理したからって驚かんでも良いだろ。まぁ確かに理系方面は苦手だけどさ」
そんなやり取りを続けている間に、源吾郎も雷園寺時雨拉致事件のあれこれを思い出し始めていた。胡張安があの時結界を綻ばせた事が判明したのは、現場に彼の羽毛が落ちていたからなのだという。
結果的に胡張安の行動が時雨たちを救出する一手となった事には変わりない。しかし胡張安の意図が何処にあるのかは全くの謎である。胡張安は雉鶏精一派の前に姿を現したわけでは無いし、だから何故彼が行動を起こしたのかは全く解らないのだ。
胡張安様の意図は何処にあるのか。彼は今どこで何をなさっているのだろうか。源吾郎は静かに思案を巡らせていた。推理力を雪羽に褒められ驚かれたから、というのもまぁあるにはあるのだけど。
考えを巡らせている間、源吾郎の脳裏にはドラゴンの鱗で彩られたヒヨコの絵が浮かんでいた。宝石商たるドラゴンの魔女・セシルが紅藤のために作った細工絵である。あの絵には今後巡り合う誰かの事を暗示していたはずだ。そしてあの絵が示すシーンというのは……
何か糸口が掴めてきた。そのように思った源吾郎であるが、そこから先に考えを進める事は出来なかった。というのも、源吾郎はうっかり事務所を通り過ぎそうになり、それを雪羽に引き留められたからだ。
元より希薄な考えだったのだろう。ああだこうだと胡張安について考えていた事については雲散霧消してしまった。
※
「ご、ごめんね島崎君に雷園寺君! わたし、急に出かけないといけなくなっちゃって」
事務所に戻った源吾郎たちを出迎えたのはサカイ先輩だった。普段と異なる出で立ちに源吾郎は首を傾げ目を瞬かせた。隣の雪羽と顔を見合わせたのは言うまでもない。サカイ先輩はツナギ姿というか……特番の探検隊などが着込んでいるような衣裳を身にまとっていたのだ。豊穣を象るというその身を覆うために、丈の長い衣裳を好む彼女にしては至極珍しい服装だった。
「萩尾丸先輩に頼まれたの。お師匠様のために精の付く御馳走を用意してほしいってね。た、ただ今は真冬だから冬眠しちゃってるし、天然モノを狩るとなればすこーし遠出しないといけないかもしれなくって……」
サカイ先輩の話を聞いているうちに、源吾郎の頬は引きつり始めていた。紅藤への御馳走を用意する。サカイ先輩が受けた以来の内容自体は何の変哲も無い物であろう。依頼主は萩尾丸であるわけだし。しかし他ならぬサカイ先輩の発言によって、件の依頼に憑きまとう不穏な気配を源吾郎は感じ取ってしまったのだ。
サカイ先輩自体がすきま女という妖怪であり、時と場合によっては敵の心身を食い荒らし屠る事さえ辞さない存在であるという事実もまた、不穏さを補強する材料になってもいた。
「と、冬眠している天然モノって、まさか熊でも狩って来いって頼まれたんですか?」
雷園寺! 怒鳴りこそしなかったが、源吾郎は雪羽の顔をきっと睨みつけた。何だってまた不用意な発言をするんだ。怒りと言い募らんとした意欲は、雪羽の顔を見ているうちに静かにしぼんでいった。笑みを作った雪羽の頬もまた、かすかに引きつっている事に気付いたからだ。
ようするに、ふざけているのではなくて場を和ませようと解りきった冗談を口にしただけだったのだ。
サカイ先輩はというと、不思議そうに雪羽の顔を眺めながら問いに応じた。
「わたしが用意するのは熊なんかじゃなくて蛇よ。ほ、ほら、お師匠様は蛇が大好きなのは二人とも知ってるでしょ」
背の高いサカイ先輩に見下ろされ、源吾郎も雪羽も頷いた。紅藤が食材として蛇を好むのはもはや周知の事実である。時折マムシボールやマムシパウダーも手ずから作る事があるから、もしかしたら彼女の私室には漢方薬よろしく干物になったマムシなども常備されているのかもしれない。
「そ、それにこのところお疲れだから、殺し甲斐のある蛇が欲しいんですって。今の季節だと、蛇たちは冬眠しているし痩せてるだろうから……」
殺し甲斐のある蛇。この言葉に源吾郎は怯んでしまった。殺しという言葉が源吾郎を怯ませた。世間話、ちょっとした買い物の延長のようにサカイ先輩が言ったから尚更だ。彼女たち、紅藤やサカイ先輩にとってはその程度の認識なのかもしれない。その事は頭の中で解っているはずなのに。
「無駄に物騒な言葉を使ってはいけないよ、サカイさん」
源吾郎たちの背後で声がした。振り返ってみるといつの間にか萩尾丸が事務所に戻ろうとしている所だったのだ。少し戸惑う源吾郎や雪羽を尻目に、彼は前に進んでサカイ先輩に向き合う。
「僕はあくまでも活きの良いやつと言ったまでなんだけどね。僕や青松丸君の前ではああいう言葉でも問題ないが、島崎君たちはまだ若いから過激な言葉にショックを受ける可能性だってあるんだ。君なら解るよね?」
サカイ先輩を諭すかのような萩尾丸の言葉を、源吾郎はじっとりと聞いていた。過激な言葉にショックを受けるだなんて、そしてその事を萩尾丸が心配しているだなんて……源吾郎はそんな風に考えていたのだ。
「それじゃあ行ってらっしゃい。もしかしたら遠くまで行かないといけないかもしれないけれど、近場で調達できればそれに越した事はないからね」
萩尾丸の言葉にサカイ先輩が頷くと、彼女は源吾郎たちの脇を通り抜け、そしてそのまま何処かへと姿を消した。すきま女だけあってその神出鬼没さは健在だったのだ。
「紅藤様は少しやけ食いをなさりたい気分になっているだけなんだ。ふふふ、ストレスが溜まればやけ食いしたくなるヒトがいるって事は君たちも知ってるだろう。特にご婦人方はさ」
「あ、はい。確かにそうですね」
「女の子とか特にそうっすね」
簡潔ながらも核心を突いた萩尾丸の説明に、源吾郎も雪羽も頷いた。やけ食いの対象が殺し甲斐のある蛇というのは普通の事では無いだろうけれど。
「このところ紅藤様も神経を使ってらっしゃるからね。セシル様から頂いた預言から始まって、昔の仲間を回ったりもした訳だし。もちろん、今回の浜野宮様との打ち合わせが決定打になった所はあるけれど」
そりゃあそうでしょうとも。鼻息荒く言い放ったのは雪羽だった。
「だって萩尾丸さん。浜野宮様は紫苑様を疑ってかかるような事を、よりにもよって紅藤様の前で宣ったんですよ。可愛がっている姪っ子の事をあんなふうに中傷されたら、そりゃあ誰だってブチギレますよ」
雪羽の言葉には重みが伴っていたし、雪羽自身も興奮しているようだった。彼自身叔父に養育され、叔父に可愛がられて育ったから尚更だろう。
萩尾丸はしかし、その雪羽の言葉を受けて頷く事は無かった。
「もちろん、紅藤様がショックを受けるのは致し方ない話さ。紫苑様とは直接血が繋がっていないにしろ、血縁上は姪という事で可愛がっていたからね。あのお方の中では、実の息子である青松丸君や胡琉安様と同格の存在かもしれない」
しかし――萩尾丸は物憂げな表情でもって静かに言い足した。
「浜野宮様の先の言葉は単なる中傷で片づける事も出来ない。僕はそう思っているんだよ」
「萩尾丸さん! それってまさか、浜野宮の鴉が言った事が真実かもしれないって、そう思っているって事ですか」
現時点では断定できないよ。いきり立つ雪羽に対し、萩尾丸は落ち着いた様子で応じるのみだった。