萩尾丸が紫苑の事を疑っている。この言葉に、源吾郎ももちろん動揺していた。実のところ、源吾郎と紫苑との関りはまだ薄い状態ではある。しかし彼女が紅藤の姪に当たる存在である事、柔和な雰囲気の妖物《じんぶつ》である事は知っていた。
その彼女が、老獪な灰高や経験を積んだ大妖怪たる萩尾丸に警戒される存在であるとは。その事はにわかに信じられなかった。
だが、源吾郎自身がその思いをぶつける事は無かった。未だ興奮冷めやらぬ雪羽が再び口を開いたからだ。
「萩尾丸さん。紅藤様の姪である紫苑さんを疑っているなんてあなたが公言しても良いんですか? 萩尾丸さんは大天狗で組織を束ねてもいるけれど、それ以前に紅藤様の忠実な部下だったんじゃないのかよ。なのに、それなのに紅藤様に歯向かうようなお考えを持っているなんて……」
「僕が紅藤様に忠義をもって仕えている事には変わりないよ。そして、僕があのお方に忠実である事と、あのお方と異なる意見を持ち、時に疑念を持つ事は相反する事でも無いからね」
雪羽の疑念を、萩尾丸はきっぱりと一刀両断した。鋭い眼差しと言葉に、雪羽の三尾が針金のように硬直する。しかし実のところ、源吾郎の尻尾も緊張で逆立っていた。
「いいかい二人とも。あるじに対して耳障りの良い言葉のみを放つ部下なんぞは良い部下じゃあないんだよ。イエスマンばかり固めているトップが辿る末路がどのようなものか、賢い君たちなら知っているだろう?」
萩尾丸の言葉に、源吾郎と雪羽はそっと顔を見合わせた。やはりというべきか、雪羽の顔には気まずそうな表情が浮かんでいた。これまでの事を顧みて、静かに恥じているのだろう。
まぁさっきの話は君らにはまだちょっと早かったみたいだね。萩尾丸は妙ににこやかな表情でそんな事を言っていた。源吾郎は特に何も思わない。萩尾丸が源吾郎たちを子供扱いし、それでいて遠い将来の事を話すのはよくある事だからだ。
源吾郎はだから、臆せず萩尾丸を真っすぐ見つめ続ける事が出来たのだ。
「萩尾丸先輩。僕は先輩が仰る事を信じます。ですから、そろそろ何故紫苑様が怪しいと思っておいでなのか、僕たちに教えて頂けませんか」
源吾郎が促すと、萩尾丸は困ったような笑みをその顔に浮かべた。
「島崎君。あくまでも僕は浜野宮様の仰る事を頭から疑ってかかるのは早計だと言っただけであって、紫苑様が疑わしいと決めてかかるのも、それはそれでちと気が早いとは思うんだけどね……」
まぁ良いや。萩尾丸が小声で付け足したのを源吾郎は聞き逃さなかった。萩尾丸は涼しい顔でいるけれど。
「セシル様から頂いた手紙を覚えているかな。『敵は思いがけぬ所に存在する。場合によっては、まさかと思う相手・心底信頼していた相手が該当する可能性もある』と記されてあったと思うんだけどね」
あ、はい……萩尾丸の言葉に、源吾郎はいささか気の抜けた返事でもって応じた。雪羽は思案顔を浮かべていたが、おずおずと口を開いた。
「萩尾丸さん。その手紙の言葉とやらがあったから、紫苑様を怪しいと思っておいでって事なんですか。そんな、単純に他妖《ひと》の言葉を信じるなんて……」
雪羽は最後まで言い切らず、終盤ではただ口をもごつかせるだけだった。萩尾丸がセシルの言葉を鵜呑みにしたのではないか、それは大天狗とは思えぬほどに浅慮な事なのではないか。雪羽はそう思っており、そう言いたかったのだろう。源吾郎は雪羽の横顔を見ながらそう思った。
「それに信頼していた相手や意外な相手が怪しいと言うのなら、紫苑様だけを疑うのはおかしくありませんか。幹部の方なら、紅藤様や萩尾丸さんが信頼なさっている相手は他にもいらっしゃるでしょうし。それこそ、浜野宮様だって何かときな臭いじゃないですか。今回だって紅藤様や俺たちを困らせるような事を言ってたしさ」
「浜野宮様は八頭怪共とは繋がっていない。もちろんまだ断言はできないけれど、そんな風に考えて問題ないと僕は思っているんだ」
雪羽の言葉に対し、萩尾丸はきっぱりと言ってのけた。確かに灰高と紅藤の意見が対立する事はある。元より灰高は外様であったし、雉鶏精一派の内部において今もなお発言権を保有している。そのような前置きを述べてから、萩尾丸は言葉を続けた。
「浜野宮様の事だ。そもそも雉鶏精一派にて内部抗争を起こそうとお考えであれば、わざわざ八頭怪や邪神を崇拝しているような連中をこっそりとけしかけるような事はなさらないだろうさ。あのお方はきちんとした身元であらせられる外部勢力との繋がりもあるし、何より紅藤様の事を恐れてはいないのだから」
萩尾丸の言葉には一理ある。源吾郎はそのように思ってしまっていた。灰高への疑念や忌避感を抱いている源吾郎をして、彼が敵ではないと思わしめるほどには。
「それにね、実を言えば紅藤様は既に薄々感づいておられるんだ。自分たちが、真に誰を警戒すべきかという事をね。君らだって、紅藤様がこのところ妙にそわそわしたり、イライラしている事は知ってるだろう。
あの方はいわば、悩みの渦中にいると言っても過言ではないんだ」
「そうですか……」
「確かに……」
源吾郎と雪羽の口から、小さな呟きがまろび出る。紅藤の様子が普段とは異なる事にはもちろん気付いていた。ただでさえマイペースな妖物《じんぶつ》ではあったが、最近の彼女の様子はそれで片づけられるようなものではなかった。ぼんやりと物思いにふけっているように見えたかと思えば、何か焦燥感を抱いているようなそぶりを見せる。源吾郎たちの前では取り繕っているようだったが、それでも普段とは異なっていた。
だが確かに悩むのも無理からぬ話だろう。源吾郎はそう思い始めていた。何せ紫苑は紅藤の姪である。紫苑自体も紅藤を叔母として慕っていたし、紅藤が彼女を姪として可愛がっていた事は言うまでも無いのだから。
仲間や身内を大切にする気持ちの強い紅藤にしてみれば、相当なストレスになっている事は想像に難くなかった。
「実を言えば、僕がそんな結論をはじき出したのはつい最近の事だったんだ」
紅藤の心中について考えていると、萩尾丸がそんな風に切り出した。紫苑が怪しい。この推論に至ったのが最近であるという言葉に意外なものを感じ、源吾郎は少し前のめりになってしまう。
「紅藤様が、僕をお供に連れてかつての仲間に会いに行った事があるのを覚えているだろう? 残念ながらかつての仲間全員に出会ったわけでは無いんだけどね。
その時に僕は知ったんだ。紅藤様の妹弟子の一人に山鳥妖怪がいるという事をね。しかも彼女は、元々は悪事を働いていたのを打ち負かされて、それで紅藤様のかつてのあるじに仕える事になったらしいんだ」
「悪事って、どんな事をなさっていたんでしょうか」
源吾郎が問いかけると、萩尾丸は笑みを浮かべつつ言葉を続けた。
「彼女はメスの山鳥だったから、人間の美女に化身して人間を惑わせて精気を吸い取ったり喰い殺したりしていたみたいなんだよね。まぁ、途中からはその辺の野良妖怪なんかも餌食にしていたらしいけれど。
ふふふ、ある意味君ら妖狐の一部もやってのけるような事をやっていた。そんな風に解釈すれば良いんじゃないかな」
「萩尾丸先輩。僕が言うのもアレですが、妖狐は何もスケベな事ばっかりやっている訳ではないんですけどねぇ……」
玉藻御前の曾孫たる源吾郎のツッコミに、しばしの間笑いが広がっていた。緊迫していたはずの雰囲気にそぐわぬ笑いであったが、それで場が和むのであればそれでも良かった。
しかしややあってから、雪羽が何かに気付いたと言わんばかりに声を上げた。
「その山鳥妖怪って、もしかして山鳥女郎の事でしょうか」
恐らくね。短く即答する萩尾丸の声音には、驚きの念が籠っていた。
「それにしても、僕が産まれる前に行動していたような比較的古い妖怪で、今では何処にいるのかすら判らないというのに、雷園寺君は知ってたんだね。その山鳥妖怪だって、この前の打ち合わせでは会えなかったし何処で何をしているのか解らなかったんだけどね」
「結構前に、浜野宮様が教えてくださったんですよ」
雪羽は何処か自慢げな様子で言い、萩尾丸はその言葉に黙って耳を傾けていた。成程ね……と萩尾丸は小さく呟いたのである。
「その山鳥妖怪は、姉弟子である紅藤様の事を良く思っていなかったそうなんだ。確かに彼女は、悪事を働いていたのを調伏されて、半ば強制的にあるじ――当時の紅藤様のあるじでもあるのだけど――に従わされていたというのもあるだろうけどね」
「そうなりますと、その山鳥女郎と紫苑様との間に何らかの協力関係があるって事ですかね」
またも質問を投げかけたのは雪羽だった。萩尾丸は思案顔のまま首を揺らしただけだった。その動きだけでは肯定とも否定とも判断しかねる動きだ。
「同じ種族の妖怪というだけで、そんな風に考えるのは一般的には暴論になるだろうね。だけど、話の流れから雷園寺君がそう思ったとしても致し方ないかな」
紫苑が山鳥女郎そのものであると考えるのは流石に無理がある。しかし紫苑自体も謎の多い存在である事もまた事実だと、萩尾丸は言った。
「確かに彼女は胡琉安様の従姉である事、そこから遡って胡張安と紫苑様の母親が異母姉弟である事は明らかなんだ。だけど、それ以外の事はほとんど解らないんだよ。紫苑様の母親も、胡張安の異母姉で純粋な山鳥妖怪であるという事くらいしか情報も無いしね」
萩尾丸はそこまで言ってから、何かに気付いたような調子で言い足した。
「もしかしたら、それこそ認識をあやふやにして周囲にその事を考えさせないようにしているのかもしれないね」
何せ化け山鳥の十八番は、相手を化かす事なのだから。そう語る萩尾丸の顔もまた、何処か妖怪めいた凄味を秘めていた。
そんな中で、源吾郎は紫苑が自分に働きかけてきた時の事を静かに思い返していた。別の所属という事もあり、紅藤の姪と言えども紫苑と直接言葉を交わした頻度は少ない。しかし彼女とのやり取りはいずれもしっかり覚えている。
最初の接触はアパート住まいの頃の事だ。夕暮れ時に夜雀に襲われていたあの時、源吾郎を助けてくれたのは紫苑だったではないか。
紅藤と灰高がにらみ合った緊急会議の後に、困った事があれば相談すると良いと、紫苑はあの後申し出ていた。
そして――八頭怪に源吾郎が出会ったあの時だ。八頭怪が去った直後、源吾郎の前に姿を現したのは紫苑ではなかったか。紅藤の姪という事もあり、源吾郎はあの時素直に八頭怪の事を報告したのだが……
駄目だ、全く解らん。紫苑とのやり取りを思い出していた源吾郎だったが、かぶりを振って思考を中断させた。
紫苑は疑うべき相手なのか否か。その事を深く考えるのが何故か源吾郎としても恐ろしかったのだ。