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時は少し進んで二月初旬。初午の日が近づいているという事で、洛中と言わず洛外と言わず妖狐たちは浮足立っていた。稲荷神に仕える妖狐たちにとって、初午が大きな意味を持つのは言うまでもない。
だがその一方で、稲荷神に仕えていない野狐たちの一部にとっても、この初午は待ち遠しくも緊張する一日として認識されていたのだ。玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちは、裏初午と称して初午の日に集結して会合を開くのだから。
洛外某所の屋敷にいる、この二体の妖狐たちもまた例外ではなかった。
彼女らはどちらも玉藻御前に縁深い存在だった。一方は玉藻御前の娘であり、他方は玉藻御前に仕えていたのだから。
八尾を具える玉藻御前の従者と六尾を揺らす玉藻御前の娘。一般妖怪が見れば卒倒しかねないような力量と地位を持ち合わせた二体の妖狐は、しかしのんびりと縁側に腰かけていた。
「……ごめんなさいね若菜お姉様。私も急に押しかけるような真似をしてしまいまして」
まず口を開いたのは六尾の方だった。彼女の名は白銀《しろがね》という。妖《ひと》によっては白銀御前とも呼ばれる彼女こそが、玉藻御前の娘その妖《ひと》だった。銀白色の六尾を持つ彼女は、三十前後の成人女性の姿を取っていた。普段はもっと若い姿を取る事もあるのだが、今回は相手が相手なので、敢えてこの姿になっていたのだろう。
「別に大丈夫ですよ、姫様」
若菜と呼ばれた女妖狐は、白銀御前に対して鷹揚な笑みを見せていた。背後では八尾にまで増殖した尻尾がゆらゆらと揺れている。
女妖狐、それも玉藻御前に仕えていた妖狐というだけあって、若菜もまた和風美人と言った雰囲気の持ち主だった。但しその容姿は向き合う白銀御前よりもずっと年かさで、ともすれば親子に見えるかもしれない程である。
妖狐は美女や美男に化身して標的を籠絡すると伝えられているが、老齢の妖狐にしてみればそのような事すらも些末な事になるのかもしれない。実際問題、若菜も白銀御前も千年以上生きた大妖狐であり、子孫を持つ身なのだから。特に若菜などは、孫や曾孫だけに留まらず、五、六世代先の子孫もいるという話であるらしい。
それに見た目の年齢がさておき、若菜の持つ威厳や気品は一切損なわれていないではないか。
「姫様が私の許にお見えになる事は大体想像はついていましたからね。もちろん、話の内容も」
まだ何も伝えていない白銀御前に対し、若菜は静かにそう言った。白銀御前も特に驚く素振りは見せていない。長い年月を生きた妖狐は、妖力や妖術だけではなくて神通力も身に着ける。身に着ける神通力は妖狐によって異なるが、中には未来を見通す能力を得る者もいるという。その事を思えば、相手の考えている事を見抜く事など容易い物である。
もっとも、今回白銀御前が持ち込んだ話というのは、そのような術を使わずとも看破できるような代物でもあったのだが。
「今回の話題は、他ならぬ私の末孫の事です。厳密に言えば娘の末息子に当たるのですが」
「源吾郎君、だったかしら。確かにあの子の名前は若い狐たちの間でも聞くようになりましたわ。玉藻御前様の血を色濃く受け継いでいて、早熟ながらも才能に恵まれているってね。そう言えば、今年からあの子も裏初午に参加すると連絡が入っておりましたし」
その通りですね。白銀御前は小さく頷いた。
「末孫は昨年の春より雉鶏精一派に属し、そこで妖怪としての鍛錬を重ねておりますからね。私がかつて雉仙女殿と交わした盟約により、彼はあのお方の弟子になったのです」
「それでこのところ彼の話が話題に上がり始めていたのね。もちろん、あの子が産まれた時も、半妖でありながら高い妖力を持つ妖狐だって事でちょっとした騒ぎになっていたような気もしましたが……」
若菜はそこまで言うと、指折り数える仕草をし、それから軽く首を傾げた。
「ですが姫様。源吾郎君が産まれたのって、本当に
若菜お姉様の仰る通りです。白銀御前は表情を変えずに告げた。
「末孫が生まれたのは
それならやっぱり最近の事ですわね。そう告げる若菜に白銀御前も頷いた。白銀御前にしてみれば、娘の三花が人間と結婚したのも少し前の事のように思えるのだ。末孫が誕生したのがつい最近の事だと感じても何らおかしな話ではない。
若菜の横顔を眺めながら、白銀御前は一昨年の秋に会った時の源吾郎の姿を思い出してもいた。祖父も父親も人間という事もあり、成長速度自体は人間のそれに近かったように感じられる。実年齢はまだ二十歳足らずであるが、純粋な妖狐に換算すれば大体六、七十歳くらいであろうか。大人というにはまだまだ若いが、完全な仔狐というほど幼いわけでもない。
「姫様。私ね、源吾郎君に会うのが楽しみなのよ」
「楽しみ、ですか? あの末孫に会う事が……」
鷹揚に微笑む若菜の言葉に、白銀御前が眉を寄せた。かすかな動きではあるが、感情のうねりを伝えるには十分すぎるものだった。
何せ先程まで、二人の間には和やかな空気が流れていたのだから。
「あの子は姫様の、そして玉藻御前様の子孫であり、しかもあのお方の血を一番強く受け継いでいる訳なのでしょう。しかも生まれて間がないのに妖力の保有量も普通じゃあ考えられないという事ですし……」
老齢の大妖狐であったとしても、血統に恵まれた若き実力者には興味を寄せられるのだ。特に若菜は玉藻御前に仕えていた時期もあるから、尚更その傾向が強いのかもしれない。
「それにしても、若菜お姉様と私がこうして話が出来るなんて、不思議な気持ちが致します」
「それは姫様が私たちから距離を置いているからですよ」
しんみりした様子で呟いた白銀御前に対し、若菜はあっけらかんとした調子で応じた。白銀御前は驚いて目を見開いている。その瞳には僅かに怯えの色もあった。
「ですがお姉様。私は元々母とは袂を別ったのです。若菜お姉様は最期まで母の傍に仕えておりましたし……もちろん、母が行った事を、私は許容するどころか受け入れる事すら出来なかったのですが」
無闇に無駄な事まで口走ってしまった事に気付き、白銀御前は深く息を吐いた。ここで若菜の不興を買えば、白銀御前は容易く殺されてもおかしくはない。尻尾の数からも解る通り、今では若菜の方が白銀御前よりも妖狐としては強い。しかも彼女は玉藻御前に忠実に仕えていたではないか。それこそ、実の娘である白銀御前以上に娘らしい存在だった。白銀御前は、そんな若菜の事を姉のように気安く思っていたが、それも遠い昔の事だ。
「良いんですよ、姫様。私たちにも過去は変えられないんですから」
若菜はしかし、白銀御前に襲い掛かる事は無かった。それどころか穏やかな笑みをたたえ、ただそう言っただけだった。その笑みは何処か寂しげで、それでいて何か決然たるものを秘めていた。
「玉藻御前様もこうなる事は薄々お解りだったのです。そして……いずれは世代を経て玉藻御前様の成そうとした事を復刻させるものが現れるとね。こちらの話は、恐らくは姫様もご存じかもしれませんが」
「ええ、存じております。自身が滅びても、わが野望が潰える事はない。別れ際に、母は私にそう申しておりましたから」
「それでね姫様。私にはその野望を持った子がどんな子なのか見定める役目を担っているのです。そのための準備も進めておりましてね。この話は、もしかしたら姫様はご存じなかったかもしれませんが……」
玉藻御前の子孫の中で、野望に燃える若狐を見定める。これは玉藻御前自身に託されたものなのか、若菜が自主的に抱いたものなのかは定かではない。
だがそれでも、若菜が源吾郎に会う事を心待ちにしている理由がこれであるのだと、白銀御前ははっきりと認識したのだった。