割り当てられた自分の席に戻った源吾郎の姿を、先輩妖狐たちは首を伸ばして観察していた。無理もない。源吾郎は小休憩までに戻って来れなかったのだから。だからもしかすると、穂谷先輩や拓馬たちなどは、源吾郎が何処かでフラフラしているか、はぐれたと思っていたのかもしれない。
「島崎君。時間通りに戻ってこなかったから、心配していたんだぞ。今朝の事もあるし……」
案の定、穂谷先輩は源吾郎を見据えながらそう言った。遅刻未遂の事は既に先輩妖狐たちに知れ渡っていたのだが、面と向かって言われるとやはり恥ずかしい。
「先輩方には気をもませてすみません。ですが実は、自販機からこっちに戻る道中で、ハンカチが落ちているのを見つけたんです。それで、係の狐に届け出ておこうと思ったんですが、中々係の狐《ひと》も見つからなくって、それで戻るのに遅れてしまったんです」
それでも源吾郎は、自身が遅れた理由について説明を行った。落ちていたハンカチを拾って届ける。これが正当な理由になると思っていたのだ。何せ源吾郎はぼんやりしていた訳でもないし、わざとサボろうと画策していた訳でも無いのだから。
「落とし物を拾って届けてたんなら仕方ないよな」
「島崎君って案外真面目そうな所があるもんね。確かに、落とし物を見つけて届けたって言われても確かにーって思ったもん」
「真面目って言うかそれも通り越して堅物って感じもあるけど」
拓馬たちを筆頭とした若狐たちの言葉に、源吾郎は頬を緩めた。彼らは源吾郎の主張を受け止め、尚且つ肯定的な意見を口にしているからだ。おのれの正当性を認められると嬉しいのは、誰だって同じ事である。
そんな源吾郎の耳に、かすかなため息が聞こえた。穂谷先輩が、困惑を笑みで押し隠したような表情でこちらを見ている事に気付いた。
「飯村さんたちの言う通り、落とし物を拾って届けたのは……社会妖《しゃかいじん》として当然の事だとは思うよ。だけど係の狐《ひと》を探すのに手間取っていたのなら、あらかじめ誰かに連絡を入れておいた方が良かったかな」
穂谷先輩はそこまで言うと、一度口をつぐんだ。数秒ほど源吾郎の様子を窺い、それからもう一度口を開く。
「君ももう働き出して一年近く経つんだ。僕ら全員とまではいかなくとも、誰か一人の連絡先くらいは知ってるでしょ。というか君とは連絡先を交換した記憶もあるし」
「そ、そうでしたね」
たどたどしく源吾郎は応じた。穂谷先輩の主張はまごう事なき正論だったためだ。遅れると解ったら、というよりも普段と異なる事があれば前もって上席者に連絡を入れる。それが社会妖としての振る舞いという物だ。
更に言えば、源吾郎は穂谷先輩と拓馬の連絡先は知っていた。だから二人のどちらかに、少なくとも連絡を入れておくべきだったのだ。とうに戻ってきた後であるから、そんな事をつらつらと考えるのは詮無い話ではあるけれど。
ところが、話はそれでお開きには無からなかった。
「――なぁ皆ぁ。島崎君はまぁ無事に戻ってきましたけれど、うち、何か裏とかがあると思いますねん」
発言者は六尾の女狐だった。林崎ミツコという名の彼女こそ、萩尾丸の側近の一人であり、この度の出張で源吾郎たちを取りまとめる役割を担っていた。六尾であるから妖力の保有量も段違いであるし、妖怪としての経験値も豊富だろう。何となれば、萩尾丸よりも二百年近く年長であるとも噂されていた。
「うちらはほぼ毎年この裏初午に参加しとるでっしゃろ。その時に、運営係の妖狐がすぐに見つからん、なんて事は無かったと思うんやけどなぁ」
林崎女史の言葉に、周囲の妖狐たちが顔を見合わせて頷き合う。違和感丸出しのエセ関西弁のイントネーションはさておき、彼女の言葉にはもっともらしい響きが伴っていた。
そう言えば林崎さんって関東で生まれ育ってて、それで敢えて関西弁を使うんだったっけ。源吾郎が呑気にそんな事を思っていると、ミツコは源吾郎を見つめながら続けた。
「見ての通り、玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちはぎょうさんおる。島崎君みたいな年頃の仔狐かて、そんなに珍しくはあらへんはずや。
だけど、島崎君だけはちゃう。あんたは本物の玉藻御前の末裔で、しかも一族の中でも妖力が多いもんなぁ。雉鶏精一派に所属した事も相まって、何か仕掛けて試したろうって思う妖狐が出てきてもおかしないわ」
ミツコはそこまで言うと、何かを思い出したような表情をその面に浮かべる。それから、源吾郎の叔父叔母も、かつて似たような事を体験したのではないかと告げたのだ。
それには源吾郎も首をひねった。少し前に苅藻を部屋に招いたところであるが、そんな話は聞いていないからだ。敢えて甥に待ち構える試練を教えなかったのか、或いは昔の事だから忘れてしまったのか。今度叔父上や叔母上に会ったら聞いてみよう。そんな風に源吾郎は思ったのだった。
「そらもちろん、普通の凡狐がうちらにちょっかいをかける事なんて考えられへんよ。狐だけやのうて、普通の妖怪たちとて、うちらが雉鶏精一派の所属や言うだけで、恐れおののく所はあるからなぁ」
ミツコの細められた両目には、鋭い光が宿っていた。
「だから
源吾郎は知らず知らずのうちに頷いていた。強くなる事がどういう事なのか、組織の長として君臨する事がどのようなものなのか、源吾郎なりに既に理解し始めていたのだ。
強大な力と組織を束ねる権力。こうした物は確かに魅力的だ。だがこれらを手に入れたら、負の側面も憑き纏う。力があるからこそ自分よりも強い者に付け狙われる懸念が生じ、権力を得れば末端の者の行動まで気を配らねばならない。研究センターで過ごすうちに、源吾郎はその事を知ってしまったのだ。しかももう後戻りはできない。
「ま、でも安心し。島崎君含め、ここにおる雉鶏精一派の妖狐たちの事は、うちが責任をもって護り抜いたる。萩尾丸さんともそんな風に約束を交わしとるから、な」
ミツコの言葉は心強い物であったが、耳を傾けていた男狐たちは源吾郎も含めて微妙な表情を浮かべていた。萩尾丸、と言ったミツコの顔に浮かぶ恋情を読み取ってしまったからだ。萩尾丸の側近の一人であるミツコは、上司である萩尾丸に恋心を抱いているそうだ。
もっとも、萩尾丸は女性に興味がないので、ミツコになびく事はまず無いのだが。
何とも言えない気まずさを感じていた源吾郎であるが、狐娘や女狐たちの表情が、男狐とは違っていた事に気付く。気になった源吾郎は、すぐ傍にいる飯村という狐娘にそっと問いかけた。
「ねぇ飯村さん。もしかして萩尾丸先輩って女性陣に人気なの?」
「そりゃそうよ! イケオジだし甲斐性もあるしそれでいて女子たちを変な目で見ないんだから……彼女とか奥さんになれないって解ってても、ついつい憧れちゃう女性《ひと》はいると思うよ」
「そう言う感じなんだね。ううむ、僕は男だから、その辺りはよく解らないけれど」
※
そうこうしているうちに、新参者プラスアルファをふるい分けるというテストの説明が始まった。とはいえどのようなテストが行われるのかはまだ解らない。テスト内容を明かすよりも先に、今回のテスト参加者の選出の方が先に行われたからだ。
テストの参加者は、先程紹介があった新参者全員と、無作為に選ばれたと思われる妖狐たちとを合わせた四十名だった。もちろん源吾郎は新参者として参加する事が決定していた。他の新参者ではない妖狐の参加者については、どのような基準で運営が選んだのかは定かではない。くじ引きや抽選だったのかもしれないし、何がしかの協議で決まったものなのかもしれない。ともあれ苅藻やいちかは選ばれなかったようだ。
読み上げられる名は初めて聞く者ばかりであった。だがその中に、米田さんが入り込んでいるのは、源吾郎は聞き逃さなかった。
玉藻御前の末裔として活動実績のある妖狐も、今回のテスト参加者に選ばれる事はあると聞いていたが、まさか米田さんも選ばれるとは……彼女とのただならぬ運命的繋がりを感じ取った気がして、源吾郎はニヤニヤし通しだった。
そんな源吾郎の様子を、隣に控える妖狐の少女が静かに眺めていた。雉鶏精一派の妖狐たちで今回のテストの参加者は、源吾郎と笹塚という狐娘の二名だけなのだ。