奇妙なうめき声を上げながらうずくまる狐娘と、そんな彼女に北斗はにじり寄っていく。急病妖《きゅうびょうにん》である狐娘を助けようとしているというには、いささか不穏な空気が漂っている。源吾郎にはそんな風に思えてならなかった。
元より北斗は、腹痛で苦しむ狐娘を前に冷ややかな眼差しを向けるのみだった。そしてその眼差しや表情は今も変わらない。しかも源吾郎に有無を言わせぬ圧を放っているのだから尚更怪しい。
今やダンゴムシのように転がってもいる狐娘は、首をもたげて北斗を見上げていた。まっすぐ伸ばした褐色の髪が乱れて頬や首筋にまとわりつき、唇からは苦しげな喘ぎが漏れている。
「あぁ……あなたが助けてくださるんですか。そこのお坊ちゃまは……」
「ツレの小僧は確かに強い。だが実戦経験の方はまだまだだからな。だから動かずに見ていてもらう方がこちらとしても気が楽なんだよ」
「……?」
源吾郎は二人の問答に首を傾げた。全くもって話がかみ合っていないではないか、と。しかも両者はそれを気にする素振りを見せていない。
「それにな、俺一人でもどうにかなるんだよ」
次の瞬間、北斗の裏拳が虚空に炸裂した。北斗の裏拳を起点として、奇妙な音が轟いた。名状しがたいその音は、獣の咆哮ないし悲鳴である。ややあってから源吾郎はその事に気付いた。
もっとも、その時には声の主も姿を現していたのだが。北斗の後ろ、源吾郎の斜め前では、明るい茶色の妖狐が鼻面を押さえて転げまわっていた。一尾の男狐で、首から下げた玉は三つほどだった。
唐突な展開に面食らっていた源吾郎であるが、徐々に状況が飲み込めてきた。鼻血を流しながら転げる妖狐の青年の出現を皮切りに、周囲の情景が一変したためだ。腹痛を訴えていたはずの狐娘は、機敏な動きで身を起こしていた。涙目で悶絶する一尾と北斗を交互に見やりながら、事もあろうに舌打ちしたのだ。
そしてその一尾が転げまわる反対側に、もう一匹の妖狐が浮き上がるように姿を現した。焦げ茶色の一尾を持つ彼は、当惑したように北斗と狐娘と転がる一尾を交互に眺めている。
「姐さん……」
「随分と手の込んだ
焦げ茶色の一尾がうろたえるのを聞き流しながら、北斗はにたりと笑った。狐芝居という事は、あの女妖狐は俺たちを騙そうとしていたのか。驚きと共にそんな事を思う源吾郎を尻目に、北斗は言葉を続ける。
「確かに、腹痛を起こした急病妖が目の前に姿を現しゃあ、素直な輩だったらそうかもしれないって信じるだろうなぁ。だがそれにしても、テメェらは詰めが甘かったんだよ」
「――御託はそこまでかい、ヒーロー気取りのオッサンよぉ」
ヤンキーめいた口調でもって言い放ち、女妖狐はすっと立ち上がる。茶色い毛並みに覆われた尻尾は二本あった。北斗を睨むその眼光の鋭さが、ある程度の修羅場を潜り抜けた証拠であるように源吾郎は思えた。
「そこの気弱な坊主だけだったら騙しとおせると思ったんだけど、あんたの勘の鋭さは誤算だったよ。まぁ良い。目論見がバレちまったら仕方ない――あんたらの玉を寄越しな」
「覚悟しろコノヤローっ!」
女狐がにたりと笑うや否や、焦げ茶色の一尾が叫び声を上げながら北斗に躍りかかる。源吾郎も動き出した。だが、どうやって北斗に襲い掛かる妖狐たちをさばけばいいのか。その辺りはノープランだった。少なくとも、狐火などの攻撃術は
「はん。嫁入り前の嬢ちゃんがタマタマなんて連呼するんじゃねぇよ。そして小僧。玉が欲しいならくれてやる」
北斗が獰猛な笑みを浮かべ、提げていた玉の一つを振り回す。遠心力による運動エネルギーを得た玉は、焦げ茶色の妖狐の鼻の下や腕の付け根を容赦なく打ち据えた。玉が肉にぶつかる鈍い音に悲鳴が混じり始めた頃、北斗は玉を持っていない方の腕を突き出す。鎖骨の辺りに手刀の突きを受け止めたその一尾は、悲鳴を押し殺したままずるずるとその場に頽れる。北斗の攻撃が単なる打撃ではなく、妖気の流れを一時的に断ち切る効果を持っていた事に源吾郎は気付いていた。
妖気という物は、妖怪の身体の中で血液のように循環している。その流れが意図的に阻害されれば変化術が解けたり行動不能に陥ったりするのは致し方ない事だ。実際問題、焦げ茶色の一尾も本来の姿に戻ってしまったのだから。
女狐の表情は一変していた。牙をむき出しにせんばかりに見せつけていた戦意も霧散し、ただただ驚き、戸惑っているようだった。
「どうすんだ嬢ちゃん。これでも俺らの玉が欲しいかい? 欲しいって言うんなら相手にしてやるぜ。だがもちろん、俺とそこの小僧とのガチンコ勝負になるがな」
「……二対一じゃあ分が悪い。あの二人はもうリタイアしちまいそうだしな」
「姐さん、俺はまだリタイアするほどじゃあないってば……」
オレンジ色の毛皮の妖狐が弱弱しく抗議した。鼻血はもう既に止まっていた。女狐は同じ班員である妖狐二人を見やってから、深々とため息をついた。そして首に提げたり腰にぶら下げていた玉を外したかと思うと北斗の足許に投げ捨てた。その数は五つ。自分が最初に持っている一つを合わせても、個人が持っているにしてはそこそこの量だった。
「これで良いだろう、三尾の兄さん。ま、そこの坊やが仲間なんだから、玉なんてたくさん集まってそうだけど」
「話の解る女で感謝するぜ」
「……こんな所で口説くつもりかい? 全く、あんたも油断ならん狐《ひと》だな」
女狐はそう言うと、両脇に仲間の妖狐を抱えると、そのまま踵を返して去っていった。二人の妖狐という大荷物を抱えているにもかかわらず、彼女の動きは機敏そのもので、十歩も進まぬうちに彼女の姿は掻き消えた。
ほら源吾郎。ぼんやりと女狐が姿を消した方角を眺めていると、北斗が明るい調子で源吾郎に声をかけてきた。ゆるゆると振り向くと、源吾郎の手許めがけて玉が放り投げられた。投げられた玉は二つ。その手で受け止めるのは一つがやっとであるが、さりとてもう一つを取り落とした訳でも無かった。玉の軌道上に小規模な結界を展開し、その上に乗るように調整したためだ。
そうして二つの玉を受け取る源吾郎を見ながら、北斗は感心したように声を上げた。
「やっぱり色々と工夫してるんだな。ははは、面白い男だな源吾郎。見ていて飽きないぜ」
「あは、ありがとう、ございます」
北斗の言葉に、源吾郎はためらいがちに微笑んだ。面白い男。この言葉を源吾郎は誉め言葉として受け取ったのだ。関西圏では個人の言動の持つ面白さが評価されるのはよくある事なのだ。白鷺城界隈で生まれ育った源吾郎も、もちろんその事は知っている。
「でも良いんですか北斗先輩。あの玉は全部、先輩の手柄でしょうに」
「俺が良いんだからお前は大人しく受け取りな」
北斗はそう言うと、源吾郎の肩に手を添えた。訓練着越しに、北斗の手の平の熱がじわじわと伝わっていく。気軽な様子で触れているように見えたのに、込められた力は案外強かった。
「言っておくが、俺は気まぐれなんだ。だが今は気分が良い。後から気が変わって、やっぱりその玉は独占するなんて言った時に歯噛みしてもしょうがないだろうからさ。
それにな、不合格になる事は滅多にないが、それでも成績の良いやつは上からの覚えもめでたいし、何かと優遇される可能性だって生まれるんだ。だからお前も気にせずに貰っていけや。俺だって、ちゃんとさっきの取り分は確保しているんだからさ」
「……恩に着ます」
当惑していた源吾郎であるが、結局北斗から貰った玉を手柄として受け取る事にした。源吾郎も源吾郎で、既に玉は五つばかり持っている。他の班の妖狐たちは、多くても三つ四つほどしか持っていなかったから、まぁまぁ頑張って集めた所であろう。
それにしても。源吾郎は今一度女狐が去っていった方角に視線を向けた。
「あの妖狐の女のヒトは、本当に腹痛じゃあなかったんですね」
そらそうだ。呆れているとも安心しているともつかぬ源吾郎の言葉に対し、北斗はぴしゃりと断言した。
「他の班、他の妖狐から玉を奪っても構わないって事になってるからな。そうなりゃあ、他の班の妖狐連中を襲おうと画策する輩が出てきてもおかしくは無いだろう。正直な話、俺もその路線を狙ってもいたからな」
そして襲い掛かるにしても、真っ正直に襲い掛かって来る
「もちろん、妖力や実戦経験に自信がある奴だったら、堂々と襲い掛かってくるかもしれんな。だが、誰も彼も闘い慣れしている訳でもないし、妖力に自信があるとも限らない。特に妖狐は他の妖怪に較べて身体能力が弱かったり攻撃力に特化したやつが少ないから、搦め手に向かう手合いの方が多いんだよ。あの女狐だってそうだっただろ」
ニコニコ顔の北斗に言われ、源吾郎は困ったように眉を下げた。
「確かに搦め手も有効な戦略ですけれど、いくら何でも腹痛を装うのはやりすぎじゃあありませんか。そんな事をしていたら、本当に急病妖《きゅうびょうにん》や怪我妖《けがにん》が出てきた時に、演技だと思われて見過ごされてしまう恐れだってあると思ったんですが」
「はっは、源吾郎は本当に真面目なやつだなぁ。職場でも、さぞかし有望株として大切にされているんだろう。
だが安心しろ。運営の連中もそこはきちんと見抜くだろうからさ。というか、あの狐の嬢ちゃんの演技だって、あれでもかなり雑なやつだったんだぜ。匂いとかは病妖《びょうにん》のそれじゃあなかったし、何しろ腹痛を訴えるためにこちらに駆け寄ってきていただろう? まぁ、そういう事をしでかすはずがないと思っている狐ならあっさりと引っかかるだろうけどな」
北斗の笑み混じりの解説に、源吾郎は納得したり気恥ずかしく感じたりするのがやっとであった。
※
玉も程よく集まった所であるし、源吾郎たちはいよいよ米田さんたちと合流する事と相成った。あらかじめ集合場所を決めていたので、合流すると言っても相手を探してさまようような非効率的な事は特に無い。
妖狐は搦め手を使う。北斗の主張は源吾郎の心の中にしっかりと染み込んでいた。半妖ゆえにそうした戦法を使う事が多く、その事が正当であると年長の妖狐に認められたからだと源吾郎は思っていた。
集合場所に向かう道中、源吾郎たちはあからさまな罠を発見した。見つけ出す事が難しいはずの玉が、月見団子よろしく地面に積み重なって鎮座していたのだ。凶悪な事に、その玉の周囲には、妖怪たちを自発的に引き寄せる術が施されていた。源吾郎も北斗もどうという事は無かったのだが、一尾や二尾の妖狐たちではなす術も無かったらしい。
罠である玉の周辺には、死屍累々とばかりに妖狐たちが転がっていた。と言っても死んでいる訳ではない。生きているし何なら意識のある妖狐たちも見受けられた。罠である玉の偽物に触れた事で、妖力を吸い取られて動けなくなっているだけであるらしかった。
この罠に引っかかった妖狐たちは、軒並みリタイアしたと当局では判断されたのだろう。制服と腕章を身に着けた妖狐たちが駆け寄り、倒れている妖狐を抱え上げて運んでいたのだから。
「あぁ……もう、島崎君じゃない……私はもうここまでよぉ……」
源吾郎たちは目もくれずに動く運営達を観察していると、か細い少女の声が聞こえてきた。雉鶏精一派の中で源吾郎と共に参加していた笹塚という狐娘は、今まさに運営係の女狐に抱きかかえられている所だったのだ。
変化を解いた笹塚の姿は、キツネ色の体毛という事もあり、まるきり普通のアカギツネにしか見えなかった。