立ち上る牛鬼の妖気の禍々しさに、源吾郎は呆気に取られてしまった。
呆気に取られたのは、牛鬼の妖気が大きなものだったから、などではない。追い詰めていたと思っていた牛鬼が余裕そのものであり、のみならず北斗を戦闘不能に追い込んだ事に愕然としていたのだ。
――牛鬼は獰猛で残虐な妖怪であり、怪力を具えてもいる。しかし牛鬼の恐ろしさはそこではない。牛鬼は知恵を巡らせて、獲物である人間を追い詰める存在だ。その上毒を操り斃したとしても祟りでもって人を悩ませる。それこそが牛鬼の真の恐ろしさなのである
源吾郎の脳裏に、そんな文言が浮き上がってきた。何故その事を今になって思い出したのだ。何故今の今までのうのうと忘れていたのか。
だが、考えに耽って自責の念に駆られているような余裕などは源吾郎には無かった。状況は時々刻々と変化していくのみなのだから。
「北斗さん、これを……」
「んぐ、苦いしまずいなこれは。一体何なんだこれは?」
「解毒剤の一種です。手持ちの物なので、後できちんとした物は処方してもらわないといけませんが」
米田さんは北斗の傍に近付き、腰の辺り(どうやって収納していたのかは謎である)から丸薬らしきものを取り出して飲ませていた。嘔吐が収まった北斗は、先程よりも楽そうな様子ではある。とはいえ両耳は半ば伏せられており、やはり表情もしんどそうだ。
牛鬼はというと、奇妙な事にすぐに襲い掛かって来る事は無かった。ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながらこちらの様子を窺うのみである。いや、その口が開かれた。
「だいじょうぶだよキツネさん。ボクがしとめるのはチュートハンパなザコギツネだけだもん。ごしゅじんサマはね、ザコギツネがいるのがいやなんだって」
「雑魚狐って、どいつの事を言ってるんだこの牛野郎!」
牛鬼の言葉に北斗が吠える。憤怒で白銀の毛並みが逆立ち、青白い狐火で一瞬燃え上がったかのように見えた。
しかし、北斗の言動に勢いがあったのはほんの一瞬の事だった。次の瞬間には咳き込み、力が抜けたように足をもつれさせていたのだから。米田さんが心配そうに鼻面を向け、のみならず解放された妖狐も手を伸ばして北斗を制していた。
「あんまり興奮すると毒が回ってしまいます! 解毒剤を飲んだと言えども、安静になさっていないと……」
残念ながら北斗には戦線離脱してもらう他ないようだ。そんな判断を下した源吾郎は、そっと屈んで落ち葉を拾い上げる。牛鬼の様子に警戒しながらも、手早く妖術を行使した。落ち葉を媒介にした変化術である。
源吾郎が変化術で作り出したのは、一見すると大きな狐とも豹ともつかぬ獣だった。純白の地に茶褐色で花びらのような斑紋を持つ、独特の毛並みの持ち主である。封神演義《ほうじんえんぎ》に出てくる花狐貂《かこてん》をイメージして造り出したものだった。もっとも、本家とは異なり獲物を喰い殺すための存在ではないが。
花狐貂の分身に無言で命令を下す。律義にも花狐貂は頭を下げて頷いたかと思うと、そのままむんずと二匹の妖狐の首根っこを咥え、おのれの背中に乗せていく。花狐貂が乗せた妖狐というのは、北斗と運営係の二人である。要するに重軽傷を負った狐だ。急な事に北斗は驚いて身をよじるが、花狐貂の背中がいい塩梅にくぼんで北斗たちの身体にジャストフィットしているので、逃れる事はままならない。
観念した北斗が大人しくなったところを見計らい、花狐貂はそのまま去っていった。向かう先はとにかく妖狐たちが集まっている場所だ。もしかしたら会場内には医療関係者はいないかもしれない。しかし妖力も経験も豊富な妖狐たちがいる事には変わりない。本格的な治療でなくとも、応急処置でも行ってもらえるだろうと源吾郎は思ったのだ。
「ごしゅじんサマはね、よわくてよわくてしょうがないやつとか、マザリモノのくせにキツネぶってるやつがだいきらいなんだって。それでボクは、カミサマとしてそうしたザコギツネをまびくやくわりを、ごしゅじんサマからもらったの」
牛鬼はそこまで言うと、やにわに触手を二度払った。一振りめで植わっていた樹木を薙ぎ払い、二振りめで何か――捉えていたもう一匹の妖狐をそこにめがけて放り投げる。
妖狐が地面に投げ出されたその先には、他の妖狐たちの姿があった。その数は五から十ほどであろうか。いずれも彼らなりに武装していたのは明らかだった。何せ狐姿になって武器や装備を固めているのだから。江田島の姿はない。源吾郎たちとは別個に異変に気付き、そして対応すべく集まったのだろう。
その闘志はしかし、怨敵である牛鬼の姿とパフォーマンスを前にぽっきりと折れてしまったようであるが。投げられた妖狐に戸惑い、牛鬼の禍々しい姿に戸惑いながら、妖狐たちが口々に何かを言う。源吾郎には彼らの言葉を拾い上げる事は出来なかった。音として聞こえるだけだった。
そしてそんな妖狐たちを見ながら、牛鬼は無邪気に嗤う。
「おもっていたよりもザコギツネがすくないから、ボクもふしぎだなーっておもってたんだ。このテストでは、ザコギツネばっかりあつまるってはなしだったのに。でも、ようやくおめあてのザコギツネがやってきてくれた、かな?」
いつの間にか牛鬼が前足を振り上げている。狙う先はへたり込んだ一尾である。刹那、源吾郎の脳裏にある映像が浮き上がった。牛鬼の前足にべっとりと付着した肉片と血液、そして地面に散らばっているのは――
それは源吾郎の脳内がシミュレートしたものだったのか、或いは霊妙なる力が見せた未来の映像だったのか。源吾郎には判らない。
それ以上に大切な事が一つあった。このままぼんやりとしていている場合ではない。ぼんやりしていたら誰かが喰い殺される。その未来を覆す。ただそれだけの思いを胸に、源吾郎は動いた。
「やめろっ、やめるんだこの野郎っ!」
牛鬼の前足が振り下ろされるまさにその刹那、源吾郎はそのまま牛鬼に躍りかかっていた。砲弾のごとき素早さでもって牛鬼の前足に突っ込んでいったのだ。
この時米田さんも動こうとしていた。だがそれよりも源吾郎の動きの方が素早かったのだ。
もちろん、人間に近い肉体と身体能力を持つ源吾郎には、純血の妖狐よりも速く走る事は出来ない。たとえ五メートルに満たぬ短距離であっても、だ。
だが、身体能力とは別の力、持ちうる術に頼った場合はまた話は別だ。
この時源吾郎は背後に大規模な狐火をこしらえていた。そしてこれを自分の真後ろに射出し、その際に生じた爆発的な勢いでもって前に進んだのだ。
要するに、狐火を推進力とした生体ロケットだった。後方では何やらなぎ倒されるような音が聞こえた気もするが、まぁそれは致し方ない。他の妖狐を攻撃した訳でもないし、何より源吾郎は他の妖狐を護るために動いたのだから。
ともあれ源吾郎は尻尾を使って衝撃を分散させつつ、牛鬼の身体に組み付いた。源吾郎の飛びかかった衝撃で、狙っていた前足は千切れそうになり、のみならず牛鬼もよろめいてすらいた。
もっとも、それも一瞬の事に過ぎない。牛鬼はすぐに体勢を立て直し、ついでに椿のツルを伸ばして源吾郎を絡め取ったのだから。
眼下では妖狐たちがもったりと動き始めていた。標的にされていた妖狐はただただぶるぶると震え、それを他の妖狐が手を引いて牛鬼から距離を取ろうとしていた。
もちろん、米田さんも黙ってこの状況を見ていた訳ではない。源吾郎が牛鬼に捕まった事を見つけ出すや否や、彼女はそのまま牛鬼の前足の一本にかじりついた。七孔から火焔を噴き出さんばかりの憤怒を露わにしていた彼女ではあるが、しかしそれでも牛鬼の前足を咬みちぎる事は叶わなかった。
米田さん! 牛鬼に捕まった源吾郎は、彼女を見下ろしながら声を上げた。攻撃すべきなのか否か。攻撃するのであればどのような攻撃が良いのか。米田さんが迷い悩んでいる事は、その顔を見ているだけでひしひしと伝わってきた。
源吾郎はだから彼女に呼びかけたのだ。自分にも考えがあったのだから。
「ぼ、僕の事は構わずご自身の身を案じてください。米田さん、これも僕の作戦の一つに過ぎませんから。あの、他の狐たちにも逃げて貰うように誘導してほしいんです。巻き込まれると危ないので……」
牛鬼に捕まったのは無鉄砲な行動ではなく、これもまた作戦の一つである。この言葉は嘘ではなかった。作戦そのものは、源吾郎が捕まった直後に思いついたものではあるが。
「サクセンだってぇ? マザリモノのくせにでしゃばって、そのあげくにボクにつかまったんでしょ? ナマイキなことをいってると――ラクなしにかたをしないかもよ?」
言うや否や、牛鬼の触手が源吾郎を貫かんと躍りかかってきた。咄嗟の事なので、流石の源吾郎も防ぎようは無かった。そもそも初めから牛鬼の触手に拘束されているのだ。抵抗する事はまず不可能だった。
しかしそれでも、触手が源吾郎を貫くという最悪の事態はどうにか免れた。訓練着の下に隠された護符が、自動的に源吾郎の身を護ってくれたためだ。とはいえ勢いよく棒にぶつかったような痛みはあったけれど。紅藤からもたらされた護符は、一定水準以下の妖力を伴った攻撃を防ぐ機構がある。その一定水準を超えた攻撃は防ぎきれないのだ。
思わず痛みに顔をゆがめた源吾郎であるが、護符はそれでも思わぬ効果を発揮してもいた。牛鬼が戸惑い、困惑しているではないか。そしてそれこそが、牛鬼の見せた隙でもあった。
そうだ。源吾郎は義憤と責任感で苦痛を押し流し、決意を固めた。俺はこいつを直接攻撃するために敢えて捕まったのではないか、と。
そこからの行動は早かった。ひとまず源吾郎は自身の爪を硬質化させて、牛鬼の触手や身体を切り裂こうとした。皮膚も触手も硬く、ほとんど表面的な傷しか付かなかったが。
「なんだいマザリモノのハンパモノ! つかまったエモノのくせに、このボクにさからうつもり?」
「……逆らうも何も、俺が捕まる事も初めから作戦のつもりだったんだよ」
言い捨てるや否や、源吾郎は牛鬼に捕まったまま狐火を錬成した。これまで錬成した狐火とは異なるのは、源吾郎の身体から湯気のように狐火が立ち上っている事であろうか。
牛鬼が妖狐を捕まえてすぐに喰い殺さない事は、運営の妖狐を二匹も捉えていた所から見抜いていた。源吾郎はそこに目を付けたのだ。捕まっているのであれば至近距離からの攻撃も可能である、と。
しかも今は、捕まっている妖狐は源吾郎しかいない。先程までとは異なり、他の妖狐を巻き込む心配をしなくても構わないのだ。
妖狐たちは源吾郎と牛鬼の闘いに呆気に取られつつも、それでも巻き込まれぬように距離を取り始めていた。元より一尾たちが集まった一団である。武装していたとしても、この牛鬼には敵わぬ事は明らかだった。
「どうするんだこの野郎。俺に焼き肉にされるか、他の連中にフルボッコにされるかの二つに一つだ。好きな方を選ぶと良い」
放出した狐火で牛鬼の身体をあぶりながら、源吾郎は問いかける。牛鬼の身体がすぐに燃え上がる、などと言う都合のいい展開にはならなかった。だがそれでも、牛鬼の体表は炙られ、身体のあちこちは沸騰したような泡が出来始めている。