敢えて牛鬼に捕まった源吾郎と、獲物として捕らえた源吾郎の狐火の攻撃を受けている牛鬼。この両者の口からは、奇妙な声が断続的に漏れ出していた。
強いて言うならば、それぞれ赤ん坊の泣き声と、ファラリスの雄牛の中で炙られている犠牲者の歪んだ悲鳴に似ていた。ちなみに前者が源吾郎の叫びであり、後者はもちろん牛鬼の悲鳴だった。
牛鬼の悲鳴は言うまでもなく、源吾郎の赤ん坊めいたその声にも、鬼気迫るものが伴っていた。それもまた、源吾郎の出自を思えばごく自然な事だったのかもしれない。というのも、昔から九尾は赤子の声で啼くと伝わっていたからだ。物陰や暗がりで赤子の声を真似て啼き、獲物である人間を惑わして喰い殺すのだ、と。
そしてその九尾の血を受け継いでいるのが、他ならぬ源吾郎だったのだ。源吾郎は半妖であるが、大妖怪に育つ兆しは既に具えていた。人をベースとした肉体ながらもしっかりと腰から生える四尾と、活火山のごとき勢いで湧き上がる狐火は、それこそ若い凡狐が具えているようなものではあるまい。
現に、その場に居合わせた若い凡狐たち、一尾の野狐たちは、源吾郎と牛鬼の闘いとも呼べぬ闘いを、ただ呆然と見上げているだけだった。源吾郎に加勢する事もなく、さりとて逃亡する訳でもない。驚きの念は、闘争と逃亡の本能を抑え込んでしまっていたのだ。
暴れる牛鬼に連動してブレる視界の中で、源吾郎はそんな凡狐たちを睥睨した。九尾の末裔として彼らを眺めていた源吾郎は、やおら口を開いた。伝えなければならぬ事が出来したためだ。
「おああ……ぎっ、ぎげぇ」
おのれの口からまろび出た言葉に、他ならぬ源吾郎が当惑した。巻き込まれるから逃げろ。後はこの俺が仕留める。源吾郎は妖狐たちにそう伝えるつもりだった。
だが、おのれの口から飛び出してきたのは何だったのか。意思を伝える言葉などではなかった。獣の啼き声ですらない。赤ん坊の泣き声によく似た
源吾郎の全身から放たれる狐火の威力がにわかに弱まった。そしてそれを、牛鬼は見逃さなかった。
「このっ、ちょっとつよいからって、マザリモノのくせにナマイキなんだよ!」
牛鬼が苛立ったように言い放ち、源吾郎を捕獲しているツルで締め上げた。狐火に晒されてボロボロになっていたはずのツルは既に再生し、毒々しいまでの瑞々しさを見せている。
ギュッと締め上げられた源吾郎は、一瞬息が詰まり咳き込んだ。紅藤から貰った護符の防御があると言えども、今回は流石に息苦しさを感じてしまった。この護符はそもそもあらゆる攻撃を防ぐものではない。一定水準
更に言えば、先程から狐火を放出し続けていた事もまた、源吾郎の気力と体力を削っていた。火事場の馬鹿力という物は、そう長続きするものではないのだ。
「オマエはかならずころす! だけどそのまえに、あつまっているマヌケれんちゅうをかたづけるのもおもしろいかもね。えへへへ、キミはこのトクトウセキで、ボクがザコギツネをころしていくのを……」
残忍なアイディアを嬉々として語る牛鬼であったが、その言葉は途中でぶつ切りとなり、その代わりに鈍い悲鳴がほとばしった。少し遅れて牛鬼の身体が前方に傾ぎ、何かが地面に落ちる湿った音を源吾郎は聞いた。
黄金色の流星が一筋、牛鬼の方に突っ込んでいくのが見えた。牛鬼はツルを伸ばして捕えようとしている。直線的だった流星の動きが一瞬、変則的な物に変貌する。流星は牛鬼から悠々と逃れた。周囲に肉片とツルをまき散らしながら。
「闘いの心得のある狐《ひと》だけ残りなさい」
牛鬼を襲っていた流星が地面に舞い降りる。流星だと思ったのは、ひとりの妖狐だった。金色の毛並みと二尾が特徴的である。言うまでもなく米田さんだった。
先程までと異なり、散弾銃めいた小粒ながらも凶悪な威力を秘める狐火は伴っていない。しかし彼女は丸腰などではなかった。彼女の口許でギラリと光る物があった。刃物の類、短刀か短剣と思しきものを彼女は携えていたのだ。完全な狐形態であるから、柄の部分を口で咥えているのだろう。
そうなると、彼女は短剣を口で咥えた状態でもって、牛鬼のツルを切り裂いたのだ。その事に気付いた源吾郎は、知らず知らずのうちに尻尾の毛を逆立てていた。
「よ、米田、さん……」
二尾を逆立てている米田さんの姿を見つめながら源吾郎は呟く。源吾郎が密かに想いを寄せる女狐の姿と声が、源吾郎に理知的な言葉を取り戻させたのかもしれない。もちろん、その事を感動的だなどと言っている余裕などないのだが。
「彼は、島崎君は今まさに闘っている最中なの。もしかしたら、皆の目には捕まってピンチになっているように映ったかもしれないけどね。
ただ、その島崎君をもってしてもあんな戦法を使う他ないの。ましてや、他の誰かに気を配る余裕は無いはずよ」
言葉を切ると、米田さんはまたしても跳躍し、黄金色の流星と化した。飛び上がった先にはやはり牛鬼の触手があった。そしてその先には、未だに狐につままれた様子の妖狐の若者が佇んでいる。
触手の軌道線上に流星が迸る。ゆるい放物線と鋭い円弧を描いた流星の軌道を追うように、牛鬼の触手が飛び散る。切断された触手は回復しなかった。我に返った源吾郎が、今一度狐火を放ったからである。
「――解るでしょう? うかうかしていたら巻き添えを喰らうだけよ」
「あ、ああ……」
標的だった若狐の許に音もなく着地した米田さんは、隙のない様子で囁いた。若狐の、毛皮に覆われた顔がみるみるうちに歪んでいく。見開かれた瞳は涙で潤んでいくが、その涙の意味は源吾郎には判らなかった。
一尾たちは戸惑いつつも距離を置くだけに留まっていた。一、二匹は別方向へ走り去っていったけれど。
源吾郎は身をよじって牛鬼の方に向き直り、ありったけの大音声で怒鳴った。おのれが放つ狐火の威力が弱まりつつあることに目を背けながら。
「おい、この糞牛野郎。混ざり者の半妖であるこの俺をまだ仕留めきっていないのに、偉そうな事ばっかり言ってるんじゃねぇよ。というか、貴様も狩人だったんなら、まずこの俺を仕留めてから他の獲物を狙いやがれ」
「このっ! いったなマザリモノのクソギツネが。コロス、まずオマエからコロシテヤル!」
即興の罵倒であったものの、牛鬼の注意を源吾郎は惹く事が出来たらしい。思惑通りだと源吾郎は一人ほくそ笑んだ。源吾郎の狐火で牛鬼が弱っている事は既に把握済みである。後はどちらの妖力が尽きるかの我慢比べになるだろう。
そしてその我慢比べに勝つのは俺だ。源吾郎は強くそう思っていた。計画も根拠もない。ただあるとすれば九尾の真なる末裔という矜持だけだったのだけれど。
源吾郎を拘束していた触手がやにわに動いた。衰弱し、或いは強い激情に囚われたがために拘束が緩んだのか。だがそれにしては源吾郎をがっちりと掴んだままではないか。
一体何が起きている。というよりも、牛鬼は何を企んでいるのだ。自問自答を重ねていたまさにその時、源吾郎の視界が大きく揺らいだ。牛鬼が触手を伸ばし、捉えていた源吾郎を振り回したのが見えたのだ。
※
放り投げられた源吾郎は、そのまま背中から木の幹にぶつかった。背中に鈍い衝撃が走り、よせばいいのに違和感やら痛みやらが背中から胃の腑に向けて這い上って来る。呼吸を行おうと思って口を開くと、胃の中に残っていた物が空気と共に吐き出された。
吐瀉物の量はさほど多くない。昼前であったために食べた物は大方消化されているためだ。ただ、
ただただ源吾郎を拘束していただけの牛鬼が、ここにきて源吾郎をいたぶり始めたのである。触手でもって源吾郎を振り回したり放り投げたりしたのだ。触手から滴る毒液を、強制的に胃の腑に流し込まれもした。源吾郎が何度も嘔吐したのはそのためである。幸いな事に、護符は毒物・薬物から持ち主を護っているために、毒が回る事は無かったが。源吾郎が嘔吐したのは、単純に流し込まれたものを胃が収めきれなかったからに過ぎない。無害な樹液や水を流し込まれていたとしても、同じ事が起きていただろう。
「島崎君!」
吐き気が収まり呼吸が整った源吾郎の許に、米田さんが駆け寄る。首を引いて刃が当たらないように注意しつつ、右前足で源吾郎の袖を器用に掴んでいる。
米田、さん。かすれた声で源吾郎が応じると、短剣を吐き出さん勢いでもって彼女がまくしたててきた。
「もうあなたも逃げるのよ! 島崎君、あなたももうマトモに闘える状況じゃあないわ」
「そんな事は……ありません」
源吾郎の声に力強さがにわかに宿った。彼女の言葉が源吾郎の活力になったのだ。原理としては違うのかもしれないが、少なくとも源吾郎はそう思っていた。
だというのに、米田さんは何故か悲しそうな瞳でこちらを見つめるだけである。
それから優美に伸びた鼻面を揺らし、言葉を続ける。
「それにね、あいつももう長くはない。もう少しで死ぬわ、放っておいてもね。だからもう、動けるうちに――」
源吾郎はやにわにまなじりを釣り上げ、傍らにまとわりつく米田さんを突き飛ばした。反動と尻尾の力を借りて、米田さんとは逆の方向に源吾郎も横っ飛びする。着地は壊滅的に下手だった。上手く受け身が出来ずに地面に身を打ち付けたが、元よりあちこちが痛むので新たな痛みさえ些事だった。
「ダレがもうすこしでしぬだってぇ?」
笑い声とも怒り声ともつかぬ声が降り注いでくる。もちろん牛鬼の声だ。
軋む首を動かしてみれば、米田さんがいた所に牛鬼の触手が突き立っている。この事を察知したからこそ、源吾郎は米田さんを突き飛ばしたのだ。
「いいかいチクショウドモ。ボクはカミサマなんだぞ。その、そのボクが、オマエラみたいなザコギツネとすこしじゃれあっただけで……しぬとおもうなよ」
牛鬼はそう言うと、地面に刺さった触手を引き抜こうとした。しかし、牛鬼の行動に反し、触手は抜けずに身体からブチリと千切れただけに過ぎない。触手の断面から奇妙な色の液が漏れ出し、そのまま縮んでいったのである。
米田さんの主張ももっともな事だと、それらの様子を目の当たりにした源吾郎は静かに納得していた。牛鬼は明らかに弱っている。もはやこれは演技などではない、と。
そうと決まればやる事は一つ。こちらの余力が残っているうちに止めを刺す事だ、と。ろうそくの火は消える寸前に烈しく燃え上がる。その言葉を源吾郎はきちんと知っていたのだ。
「ああクソッ、わらうな、わらうな、マザリモノが!」
牛鬼はそう言うと、のろのろとこちらに這いずってきた。もはや損なわれた触手や肉体を再生する力も無いのだろう。前足の一部は折れたまま、傷ついた身体からは組織と体液をまき散らしていた。触手も新たに伸びる事は無さそうだ。
それでも、牛鬼は源吾郎をしっかりと見据えていた。相手を仕留める。その事しかもはや牛鬼の頭には無いのだろう。米田さんが慌てた様子で源吾郎の前に躍り出る。
向こうが何かする前に、先んじて攻撃を仕掛けなければならない。源吾郎はそう思っていた。
攻撃と言ってもどうすれば良いのか。この段になって源吾郎は思案していた。源吾郎も源吾郎で妖力が尽きかけている。もう大規模な攻撃術は使えそうになかった。
だがその時、源吾郎に注目していたはずの牛鬼の注意が逸れた。
それだけではない。自分たちと牛鬼とを、何者かが集まって包囲しているのだ。そして牛鬼の傍にいる者たちは、何かをせっせと牛鬼に投げつけていた。
「ぐっ……なに、ち、チカラが……」
牛鬼は戸惑い、弱弱しく声を上げる。牛鬼に投げつけられていたのは、罠として使われていた妖力を吸い取る玉である。そしてその玉を投げつけているのは、源吾郎が顕現させた分身のチビ狐だった。妖力を吸い取る玉でもって、牛鬼を弱らせるという作戦なのだろう。ただ、チビ狐の数は源吾郎が繰り出したよりも多かったのだけれど。
「米田さんに島崎君。遅れてすまない。だがもう大丈夫だよ!」
源吾郎たちを包囲する輪の中から声が上がる。おさん狐の子孫たる江田島の声だった。とはいえ、江田島が何処から声をかけているのか、何故大丈夫だと断言できるのか。その辺りは皆目解らなかった。もはやそこまで頭が回らないのだ。
そして次の瞬間、牛鬼の背後から茶褐色の大狐が姿を現した。大狐はそのまま牛鬼に飛びかかり、その頭蓋を噛み砕いたのである。
勝ち誇ったように、大狐が奇怪な啼き声を上げるころには、もう牛鬼は頽れたまま動かなくなっていた。のみならず、その身体が急速に融けて崩れ始めたのだ。後に残ったのは、椿の枝と根を絡ませたような植物質の塊と、ゼリー状の融けかけた肉片、そして牛鬼に喰い殺された二尾の女狐の骸だった。
それらを踏み越えて――流石に狐の死骸は踏みつけなかったが――茶褐色の狐が源吾郎の許に歩み寄る。狼よりもなお大きいその狐の尻尾は六本だった。
「言うたやろ島崎君。うちは責任者として君らを護るってな。ホンマはそないな事が起きひんのがベストやねんけれど……でも過ぎた事を言うてもしゃあないしな」
優しげな声音で大狐は源吾郎に語り掛ける。彼女はこの度の裏初午の引率者であり、萩尾丸の重臣たる林崎ミツコだったのだ。