牛鬼を一撃で噛み殺したミツコを皮切りに、妖狐たちがぞろぞろと姿を現した。二十名を超えるであろうその妖狐たちは、この度の試験の参加者ではない事は流石の源吾郎も把握していた。この異常事態の中でも落ち着き払った様子を見せているのだから。何より妖力も多く、普通に三尾や四尾の者も見受けられる。
終わったんだな。そう思った源吾郎は、片膝をついてその場にへたり込んだ。先程まで気を張っていた反動がここにきてやってきたようだった。米田さんがすかさずすり寄ってきて、源吾郎が倒れないように支えてくれている。変化を解いた狐姿のままであるが、先程まで振るっていた短刀は口許には無い。地面に置いたか何処かにしまったのかもしれない。
米田さんに支えられている。しかも彼女も変化する余力はなく、柴犬サイズの妖狐姿のままではないか。源吾郎はおのれの現状を彼なりに把握していた。把握したうえでなすがままになっていた。女狐、それも恋心を抱く相手に支えられているという状況は、普段の源吾郎にとっては恥ずかしくてたまらない状況ではある。だが今はそんな事を考える余裕すらなかった。それ以前に意識を保つのにやっとだったのだから。
「本当に、遅くなって申し訳ないね、二人とも」
「島崎君! まさかこんなどえらい事に巻き込まれるなんて……」
源吾郎の傍らに二人の妖狐――どちらも人型だった――が近づいてきて、左右から声をかけてくる。緩慢な動作で首を巡らせて、声の主を見やった。一人は江田島で、もう一人は穂谷先輩だった。見覚えのある面々が駆け寄ってきた事に、源吾郎は緩んだような安堵感を抱いた。
「ああ、もうフラフラじゃないか」
そう言いながら、源吾郎を支えたのは穂谷先輩だった。部署や管轄は違えど、彼にしてみれば源吾郎は後輩分なのだ。もちろん、源吾郎も穂谷先輩の事は先輩だと見做し、密かに兄のように慕ってもいた。
出遅れた江田島は源吾郎と米田さんを交互に眺めてから、屈んで米田さんの方に手を差し出した。穂谷先輩が源吾郎を支えたように、米田さんを支えようと思ったのだろう。
米田さんはしかし、その江田島の手をゆるりとかわした。
「私は大丈夫よ。少し疲れましたけれど、傷を負ったり毒に当たった訳ではありませんので。お気持ちだけで充分です」
「そうですか。でしゃばり過ぎて何か申し訳ないです」
毅然とした米田さんの言葉を前に、江田島は申し訳なさそうに手を引っ込めた。それでも米田さんも疲れているのだろう。人型に変化する素振りを見せず、四足歩行の狐姿のままだったのだから。
そうしている間に、源吾郎の許にもう一つの影が近づいてきた。六尾のミツコである。大狐の本性で牛鬼の頭蓋を噛み砕いた彼女だったが、源吾郎に歩み寄る時には人型に変化し直していた。口許から胸にかけてべったりとこびりついていたはずの牛鬼の肉片や脳漿、或いは体液などはきれいさっぱり消え失せている。
ミツコは源吾郎に近付いたかと思うと、やおら自分の胸元に抱き寄せてきた。穂谷先輩が頓狂な声を上げたようだったが、源吾郎は無言でミツコの抱擁を受け止めていた。繰り返すが、様々な事にリアクションを取れる元気はもはや残されていなかったのだ。それにミツコの振る舞いは、親狐が仔狐を懐に抱え込むような類の物だった。源吾郎はだから、やはり大人しくじっとしていたのだ。
「ごめんな、ごめんな島崎君。うちらがもう少し早く到着していれば良かったんやろうけれど、そうもいかんかってん。道中に、首謀者連中の罠や仕掛けもあったもんやから……」
ミツコの言葉に源吾郎は驚き、弾かれたように顔を上げた。彼女の口からまず飛び出してきたのが心からの謝罪だった事に、源吾郎は驚愕していたのだ。
もちろん、ミツコは裏初午に臨むにあたり雉鶏精一派の代表として、源吾郎たちの面倒を見るという旨の主張を口にしてはいた。だがそれは、あくまでも事務的な物に留まっていたのだろうとあの時は思っていたのだ。
今の彼女の言葉からは、仲間に対する情がひしひしと感じられた。何となれば、源吾郎を自分の子と見做していると言ってもしっくりくるほどに。
ややあってからミツコが源吾郎から離れた。ミツコに抱きすくめられて安心したのか、少しばかり気分が良く、元気が戻ってきたような気がした。
そのためであろうか、源吾郎は周囲で聞こえる妖狐たちの会話に耳を傾ける余裕が出来たのだ。玉藻御前の末裔を名乗っているという事以外はてんでバラバラの集団ではある。だが牛鬼が大暴れして妖狐を殺傷したという緊急事態を前に、派閥などを無視して集まっていたのだった。
「下手人の方は既に捕縛済みだ。ああしかし、若菜様の娘婿が主犯であるとは……」
「しっかし今回は救護班のメンバーに結界マニアが配属されていたのが良かったみたいだな。あすこには高位の防護結界が貼られていたんだからさ。最初はやり過ぎだろうと思ったけれど、それが今回は良かったんだな」
「ああそうだ。彼は来年から救護班長になりそうだな」
ふいに笑いさざめく妖狐らの声を聞きながら、源吾郎は少しばかり安堵していた。救護室と聞いて、玉の罠に妖気を吸われた妖狐たちの事を思い出した為である。その中には笹塚もいたのだが、彼女は罠にかかったからこそ危険な目に遭わず、恐ろしい光景を目の当たりにする事も無かったのだから。
笹塚とも後で合流出来るだろうな。呑気にそんな事を思っていた源吾郎であるが、周囲の空気がにわかに変化したのを感じ取った。妖狐たちは源吾郎や米田さんを見やり、いかめしい表情で口を開いている。
「――それで、
「負傷者は、運営スタッフも含めて七名だったか。だが皆意識はあるし命に別状はなさそうだ」
「死者の方は……牛鬼に喰い殺された妖狐の女性が一名。身元については遺体から確認しないとな」
死者。喰い殺された。これらの単語を拾い上げた源吾郎は、心臓が速まるのを感じた。先程とは別種の驚きの念のようなものが、源吾郎の心中と頭を満たしていく。視界の端で妖狐が背を向けて、尻尾を揺らしながら歩くのが見えた。何かを確認し、調査している所なのだろう。
源吾郎は半ば反射的に首を巡らせ、件の妖狐の動きを凝視し始めていた。
うわぁ、こいつは酷いなぁ……妖狐の声は間延びしているようにも切迫しているようにも聞こえるではないか。だが、彼の声がどんなものであるかは些末な事だ。それよりも、彼の足許に転がっている物は何なのか。
一見すると、それは茶色いぼろ雑巾の塊にしか見えなかった。もちろん、ぼろ雑巾がそんな所に投げられている訳ではない。目を凝らさずとも、その塊からは手足と頭が生えていた。それらは捻じれたり折れ曲がったりしており、明らかに生体の可動域を無視した形を取っていた。牛鬼に
「ああ、あああああ……」
源吾郎の口から意味をなさぬ言葉がまろび出る。同族の死体を見てショックを受けた。出来事としてはそれまでであるが、源吾郎の受けた衝撃はそうした簡単な言葉で片づけられるものではなかった。
深くて、昏くて、粘り気のある絶望。源吾郎はそれを目の当たりにしたような感覚に陥っていた。駆けつけた妖狐たちの会話も、ミツコや穂谷先輩の優しい気遣いも、米田さんの姿さえ今の源吾郎には遠くかすんでいた。死を目の当たりにした衝撃はそれほどのものだった。
源吾郎は絶望的な衝撃に呆然とし、恐怖し――そして怒りがこみ上げてきた。
その怒りの根源が何であったのかは源吾郎には解らない。いや違う。唐突に見せつけられた仲間の死。その事実に怒りを覚えていたのだ。何故だ。何故彼女は死んだんだ。そうだこの場で死者が出るなんて
違う違う違う。誰かが死ぬなんて事を俺は受け止められない。こんなのは間違っているこんなのは間違っているこんなのは間違っている! こんな事俺は認めないここで誰かが死ぬなんてその事の方がおかしいんだ
怒りの念が強すぎるためか、源吾郎は頭の中で巡る思考がばらけていくのを感じた。それでも、眼前の理不尽を憤る気持ちは霧散する事は無い。
島崎君……? 遠くから誰かが戸惑い驚いたかのように呼びかける。気付けば源吾郎はその場で膝をついていた。頭の痛みを感じていた。金属の輪を頭蓋に巻き付けられ、徐々に締め付けられるかのような痛みだ。牛鬼に飲まされた毒にやられたのか、理不尽な出来事に対する怒りの為なのか、源吾郎には判断しかねた。
次第に思考が支離滅裂になり、脳裏に砂嵐めいた無意味な映像がちらつく。何やら名状しがたいモノの影を見たような気がしたが、源吾郎には解らなかった。急激に視界が紅く染まったのだから。
視界を染めた紅はおのれの血だった。その事に気付いた次の瞬間、左手首で何かが爆ぜるのを感じた。この謎の爆発を皮切りに、源吾郎の意識は遠のいていったのだった。
※
目を覚ました源吾郎の視界に飛び込んできたのは白い天井だった。恐らくは見知らぬ天井だと思うのだが、果たして本当にそうなのか解らない。ドラマのワンシーンみたいだ、などと思う余裕さえなかった。
次に源吾郎が感じたのは痛みだった。耐えがたいものではない。痛みの原因が遠のき、それでも残滓のように残っている痛みである。身体の節々はさておき、頭部にも痛みがあった。頭には包帯が巻かれてあり、腕には点滴の針が刺されている事に気付いた。逆に、左手首には痛みは無い。謎の爆発で弾け飛んだのかと思ったが、手首より先は損なわれていなかった。
「おーう、やっとお目覚めかい源吾郎」
何処か呑気な、それでいて相手を気遣うような声が鼓膜を震わせる。音源は隣のベッドのあるじだった。白銀の毛に覆われた三尾の妖狐が、源吾郎の方に鼻面を向けている。北斗だった。彼は特に外傷を負った訳ではないが、確か牛鬼の毒にやられていたはずだ。
「北斗、さん……」
「ああ、ああ。見ての通り俺は大丈夫だよ。米田のおひいさんから解毒剤も貰ったし、あんたも救護班の方に俺を送り届けてくれたからな。まぁそれでも、胃洗浄されて点滴を受けているんだが」
この部屋には北斗と源吾郎以外の妖狐も収容されていた。皆意識はあったが、狐姿でベッドに寝かされていたり、起きていてもベッドに腰かけていたりしているようだった。源吾郎も倒れたからここに運ばれたのだと、北斗は教えてくれた。
「皆お前が倒れた時にはびっくりしていたらしいけれど、まぁ倒れちまったのも致し方ないだろう。源吾郎、なんせあんたは牛鬼をやっつけるのに一番奮闘していたみたいじゃないか。頑張ったんだな」
「頑張ったって言って良いんでしょうか」
北斗の誉め言葉に対し、源吾郎は憂鬱に微笑むだけだった。それこそ疲れ切っていたし、結局の所犠牲が出てしまったのだから。
「僕もあの時は頭に血が上っていただけなんです。あの牛鬼は僕たちの目の前で同族を
そこまで言って、源吾郎は視線を落とした。直後、北斗の喉から奇妙な音が漏れるのを聞いた。彼だけではない。他の妖狐たちからも聞こえてきた。
訝しく思って顔を上げると、北斗もまた何とも言えない表情を浮かべていた。だが、源吾郎の顔を見ると僅かに笑みを作ったようだ。
「ああ、あの牛鬼に飲み込まれた狐の嬢ちゃんの事だな。心配するな。彼女なら
彼女は別の病室で療養しているんだとさ」
「……?」
北斗の言葉に源吾郎は首を傾げた。牛鬼に喰われた妖狐は
だが源吾郎は、そこから更に突っ込んで考える事は無かった。目覚めたばかりと言えども何分疲れていたからだ。それに北斗の言う通り、喰い殺されたと自分が