自身の容体について医者から説明を受けたのは、源吾郎が目覚めて数分後の事だった。目覚めたのを見計らったかのように、妖狐の医者が病室に姿を現したのである。或いはもしかしたら、妖術の類で源吾郎が目覚めるタイミングを察したのかもしれない。
実に大雑把な推理であるが、源吾郎は医者の出現についてそんな風に解釈していた。寝起きだったためにどうにも頭が回らない。牛鬼に喰われたはずの女狐が生きていたという報せに混乱しているためでもあったのだろう。
「島崎源吾郎さん、ですな」
「はい、僕が島崎……源吾郎です」
穏やかな口調の医者の呼びかけに、源吾郎はたどたどしく応じた。下の名前を告げる時に微妙な間があったのは、名字だけ口にしても医者が困惑するかもしれないと思い直したためだ。島崎という苗字はそこそこポピュラーなのだから。
もちろん、普段の源吾郎であれば迷わずフルネームを口にしただろう。或いはそもそも、半妖の四尾であるという事で向こうが自分の事を島崎源吾郎と認識するのは明らかだと余裕ぶって思う事も出来たかもしれない。
ともあれ、人型を取った妖狐の医者は眼鏡のずれを調整し、源吾郎の様子を観察していた。眼鏡の奥にある瞳も、若干ほつれと毛並みの乱れが目立つ金褐色の三尾にも、驚きや当惑の色は無い。源吾郎の態度について、場慣れした物を感じた。
「お加減の方はどうですか」
「よく解りません。何か色々な事が急にあり過ぎて、何がどうなったのか僕にはさっぱりです」
源吾郎の言葉は心底からのものだった。この医者の問いかけについても、正直な所不意打ちめいたものを感じ、戸惑っているくらいなのだから。
ところが、医者はカルテに何かを記し、源吾郎の顔を覗き込んでから微笑んだ。
「ええ、ええ。大丈夫なようですね。島崎さんは極度の興奮状態に陥ったまま意識を失ったとの事でしたので、意識の混濁を私は懸念しておりました。ですが、先程の受け答えを鑑みるに、意識の方も明瞭なようですね」
「そう言う物なのでしょうか」
「そういう物なのですよ、島崎さん」
仔狐を見るような眼差しを向けられたな。源吾郎がそんな事を思っている間にも、医者妖狐はつらつらと言葉を重ねた。若干の専門用語を交えたそれは、源吾郎の容態について語ったものらしかった。全身のあちこちに見られる打撲と胃に注ぎ込まれた毒物の痕跡。そして興奮によって生じた頭部の出血。医者が語ったのはそうした事柄だった。
もっとも、それらを総合しても源吾郎は軽傷で済んだ事になっていた。適切な処置は既に施されていたし、何より妖力によって傷の殆どは再生しつつあるためだった。あちこちにある打撲も、本来であれば骨折や骨にヒビが入っていてもおかしくない状況だったのだそうだ。
「島崎さんの場合は、見ての通り妖力が十二分にありますからね。意識を失っている間にも、あなたの内部にある妖力が、肉体の損傷部分を治癒し、再生を行っていたとみて間違いありません。私どもは日頃妖力を様々なシーンで使いますが、生命維持に使用する事が最優先される仕組みになっていますからね」
「はい。僕もその事は存じております」
言いながら、源吾郎は一尾をそっと身体の前方に寄せた。妖力による再生治癒が、場合によってはおのれの意志とは無関係の所で自動的に行われる事は源吾郎も知っている。そしてそう言った場合は、往々にして妖力の消耗が大きいのだ。何せそのままであれば生命に関わるために、再生治癒が発動するのだから。
源吾郎は相変わらず四尾である。だが牛鬼との戦闘前よりも妖力が目減りしたのではないか。おのれの尻尾を確認しながらそんな事を思い、少し気が重くなっていた。
そんな風に考えていると、医者が唐突に咳払いを始めた。相変わらず柔和な表情ではあるが、その眼には呆れの色があからさまに浮かんでいる。
「島崎さん。あなただって若いけれど生命あっての物種という言葉はご存じでしょう? 幸いな事に軽傷で済んだんですから、妖力が目減りした事などで思い悩んでも致し方ない事ではありませんか」
たしなめるような医者の言葉に、源吾郎は尻尾を丸めて頷いた。相手が源吾郎の妖力の多さを妬んだりする気持ちは持たず、医者として源吾郎の身を案じている事が伝わったためである。
軽傷なので入院するまでの事は無いが、場合によっては仕事を数日休んで休養するように。心身および妖力の循環がやや不安定であるから、烈しい運動は控えるように。それらの諸注意によって、源吾郎への問診は締めくくられたのだった。
医者妖狐が足を負傷したという若狐――源吾郎たちに助けを求めた青年だった――の問診に向かったのを見計らい、北斗が源吾郎の許ににじり寄った。
「ま、源吾郎。ここはさっきの医者が言ったとおり、二日三日は仕事を休んでゆっくりやってりゃあいいと俺も思うぜ。なんせお前は、牛鬼相手に大立ち回りをしたんだからさ。しかも、投げ飛ばされたり毒を飲まされたり散々な目に遭ったんだろう。それでも軽傷で済んだんだから儲けものじゃあないか。お前さんの妖力じゃあ、それくらい休めば回復するだろうし、な」
朗らかな様子で北斗は言うと、瞳を向けてじっと源吾郎の方を見やる。狐らしい琥珀色の瞳がキラキラと輝いているように源吾郎には見えた。
「俺は確信したよ。源吾郎、お前はちゃんと大物に育つってな。別にお前さんが本物の玉藻御前の末裔だからだとか、その上で雉鶏精一派に属しているからなんて事で媚を売ってるわけじゃない。結果的に牛鬼を斃したのはお前の功績だって聞いたからさ」
「そんな、滅相もありません」
からりとした北斗の言葉に、源吾郎は戸惑って首を振った。力を振るって牛鬼を屠ろうとした源吾郎であるが、自分の力のみで斃したなどとは思っていなかった。実際に、頭を噛み砕いて引導を渡したのは上司であるミツコの手柄であるわけだし。
それにそれ以前に、北斗も米田さんも牛鬼を前に果敢に挑んでいたではないか。そうした話を行うと、北斗はまたしても朗らかに笑うのみだった。
「そうかそうか。力があって、しかもそれをひけらかさずに謙虚に振舞えるとはなぁ。ははは、中々どうして殊勝な心掛けじゃないか。ますますもって大物になると見えたなぁ。ま、ほどほどに気負わん程度に頑張れや」
「ありがとう、ございます」
源吾郎は礼を述べてから目を伏せた。褒められたのは嬉しい事であるが、ここまで手放しに褒められると流石に恥ずかしさが先立ってしまったのである。
俯いた拍子に、源吾郎はおのれの手許を目にする事になった。左手首に巻かれていたはずの
手首に感じた小爆発はそういう事だったのか。そんな風に納得する一方で、源吾郎の心中には不安もまた膨れ上がっていた。攻撃等々に対して身を護る術を持つ源吾郎ではあるが、それでも日頃身に着けていた護符が無いというのは心細かった。
それに護符が弾け飛ぶなどと言う話は聞かされてもいなかった。あの護符に隠しコマンドなるものがあるとは聞かされていたが、どうにもそれとは
源吾郎の焦りが伝わったのだろう、北斗がゆるりと鼻面を動かして問いかける。
「どうした源吾郎」
「ええと、手首に巻いていた護符が無くなってしまって……」
口ごもりつつ源吾郎が応じると、北斗は心得たとばかりに頷いた。
「ああ、それならそこの枕元に置いてあるぞ。何かお前さんの周りで吹き飛んでいた物らしいけれど、お前さんのものだって調べたら解ったからな」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
北斗の指摘通り、枕元には白い小さな包みが置かれていた。先程まで寝ていたのにこれに気付かなかったとは何とも間が抜けている。
源吾郎は包みを膝の上に乗せ、結び目をほどいて中の様子を見やった。護符の要になる珠を連ねた糸は無残に千切れており、幾つもの珠が単体として包みの中で転がっていた。
そして珠たちの殆どは軽石のように妖気を使い果たして劣化している素振りは