裏初午が始まってから、叔父上と叔母上に挨拶をするのがまだだったな。自身に声をかけてきた苅藻を見つめながら、源吾郎はまずそんな事を思った。
玉藻御前の子孫たる桐谷苅藻といちかの兄妹は、もちろんこの裏初午に参加していた。しかし彼らはフリーの便利屋という肩書の持ち主であり、雉鶏精一派に所属している訳では無い。源吾郎とは親族ではあるが職場は違うのだ。
もちろん、源吾郎も参加当初はタイミングを見計らって叔父と叔母に挨拶が出来ればと漠然と考えてはいた。しかしその後は色々な事が立て続けに起こったために、それどころではなくなったのだ。新入り狐と既存の会員に向けたテストへの参加だけではなく、テロリストが放った牛鬼とも闘う羽目になったのだから。
「完全に無事とは言い難いが、そうやって会場に戻って来れたという事は大事には至らなかったみたいだな。良かったよ」
苅藻が今一度口を開いた。普段通り朗々とした、自信に満ち満ちた声として源吾郎の耳には届いた。
余裕たっぷりの笑みを浮かべていた苅藻は、源吾郎をじっと見つめると表情を和らげる。
「お前が倒れて病院に運ばれたという話も聞いたんだ。俺も妹も見舞いに行きたかったんだが、こっちの会場での騒動を片付ける方に動員されて出来なんだ。すまなかったな源吾郎」
「私たちには私たちの任務が割り当てられていたからね」
申し訳なさそうに告げる苅藻の言葉を継いだのは、叔母であるいちかだった。
「源吾郎たちは暴れ回る牛鬼と必死で闘っていたかもしれないけれど、私たちは牛鬼をけしかけた犯行グループを捕縛したり、無関係な参加者たちが巻き込まれないように動かないといけなかったの。兄さんは言うまでもなく、私
「いちかは血の気が多くないからあんまり荒事は好まない。とはいえ、闘う力が無いわけじゃあないんだ。そりゃあまぁ、俺や兄貴たち、或いは三花姉さんには劣るかもしれないが」
「血の気が多いのは大体男のヒトでしょ」
苅藻といちかの軽口の応酬がいつの間にか始まっていた。ある意味源吾郎をそっちのけで行われているのだが、源吾郎としては見ていて気が楽になっていた。普段の兄妹の姿だったからだ。
そんな風に源吾郎が思っていると、連れ立っていた穂谷先輩が二人に挨拶をしていた。穂谷先輩の態度には苅藻達への尊敬の念と、いくばくかの親しさが混在している。妖狐仲間として、玉藻御前に縁のある者同士として長らく交流があるのが明らかな物言いだった。
「苅藻さんもいちかさんも、島崎君の事を心配なさるのは当然の事ですよ。お二人にとって甥にあたりますし、元より実の弟のように可愛がっておいでな事は僕も存じております。
ですがご安心ください。島崎君の事については、僕たち雉鶏精一派の妖狐たちもサポートしておりますので」
穂谷先輩の営業マンめいた長広舌に、苅藻といちかは安堵の表情を見せた。ツレである米田さんの表情は依然として硬く、それが若干気になりはしたが。
「穂谷君がそう言ってくれるのなら僕も一安心だよ。というか職場では甥が何かと世話になっているもんね。いやはや、末の甥で妖狐の血が濃いって事もあって、僕も妹も源吾郎の事はちと甘やかしていた節があったから、君らにも迷惑が掛かっていないか心配だったんだ」
え、叔父上も叔母上も俺を甘やかした事とかあったっけ。特に叔母上は「源吾郎。もしも道理に
そんな源吾郎の心中を知ってか知らずか、穂谷先輩は心からの笑顔で言葉を続ける。
「とんでもありません。島崎君は本当に優秀で勤勉な妖材《じんざい》として上からの覚えはめでたいんですよ。僕個人としても、教え甲斐のある後輩みたいな感覚ですし」
それは良かった。苅藻といちかは顔を見合わせて笑い合っていた。姉の末息子を心配する兄妹の図に、二人は酔いしれているのかもしれない。そしてもしかしたら、ある意味外様である穂谷先輩などは、源吾郎たち三人が仲良しだなどと無邪気に思っているのかもしれなかった。
妙な空気を払拭するべく源吾郎は声を上げた。それに源吾郎自体にも質問したい事があった。米田さんが何故苅藻達と一緒にいるのかが気になりだしていたのだ。
「米田さん。米田さんも僕の叔父たちと一緒にいらしたんですね?」
できるだけ穏やかな口調で源吾郎は問う。それでも、探りを入れるようなニュアンスは残ってしまったが。
米田さんもまた牛鬼と闘った妖狐の一人である。戦闘後は疲労困憊と言った様子であったから、療養のために病院に運び込まれたのかと思っていたのだ。病室には米田さんの姿は無かったものの、男狐と女狐で部屋を分けていたのではないか、と源吾郎は解釈していたのである。
「島崎君。私も桐谷さんご兄妹と共に、現場のごたごたを調整するために動いていたんです。流石に首謀者たちを取り押さえるのは私には手に余りましたが、他の無関係な妖狐たちを混乱させないように落ち着かせる事は出来ましたので」
気だるげにしかし事もなげに言ってのける米田さんの姿に、源吾郎は驚きの声を上げてしまった。その事に気付いた米田さんは、大丈夫よ、と穏やかな調子で告げた。
「あのね島崎君。私は特に怪我とかも無かったから、会場の救護室で少し休むだけで済んだのよ。妖術とかは少し苦手だけど、これでも体力には自信があるの。私の事は心配しなくても良いの」
それよりも。源吾郎を見やる米田さんの眼差しは、何処か物憂げで悲しげだった。
「むしろ島崎君の方が心配で、申し訳なく思ってるくらいなの。もちろん、島崎君は妖力が多くて、闘い方を少しずつ学んでいる事も私は知ってるわ。だけど、それでもあなたには無理をさせてしまった。私が、もう少し……」
「米田、さん……」
米田さんの言葉に、源吾郎はただ瞠目するほかなかった。表情が優れない事には気付いていたが、まさか源吾郎の身をここまで案じ、ついでおのれの無力さを歯噛みしていたなんて。
源吾郎の知る米田さんは、いつも堂々として凛とした大人の妖狐だった。その彼女がこうしてしおらしい所を見せている事に源吾郎は驚いたのだ。
そしてそれは、源吾郎のみならず穂谷先輩も同じ事であるようだ。彼もまた、驚きに目を丸くしながら源吾郎と米田さんを交互に見つめているのだから。
「ま、そんなに思いつめなさんな米田ちゃん」
微妙な空気を打ち破るように、ひょうひょうとした声がにわかに上がった。声の主は苅藻だった。しかもよく見れば、ちゃっかり米田さんの肩に手を添えているではないか。米田ちゃん、などと言う呼び方と言い、何とも馴れ馴れしい態度である。
「米田ちゃんだって全力を尽くして牛鬼に立ち向かったんだ。闘っている最中に誰かを護るなんて事は中々に難しい事なんだぞ。だから米田ちゃんは自分を責めなくて良い。あの時の君はあの時の最善を尽くしたんだから」
「そう思って良いんでしょうか、桐谷さん」
もちろんだ。米田さんに笑いかける叔父の表情は、ひどく穏やかで優しげなものだった。
次に苅藻は、視線を米田さんから源吾郎へとスライドさせた。穏やかで優しげな気配は消え失せ、若干の呆れを伴った冷徹な眼差しを向けている。
「それにね米田ちゃん。源吾郎は……俺の甥は自分の意志で牛鬼に立ち向かって闘う事を選んだんだ。誰かを呼ぶとか、逃げおおせるという事を選ばずにね。もちろん闘う事を選んだとなれば、相応のリスクが伴う事も承知の上だったはず。まぁ、承知していなかったとしても結果は変わらないんだがね」
苅藻はそこまで言うと、僅かに口角を上げて笑みを作った。冷徹な眼差しのままで。
「それにしても源吾郎。お前もまたひどくしてやられたな。米田ちゃんの話だと、敢えて牛鬼に捕まって焼き殺そうとしていたらしいじゃないか。それはまだ良いとして、牛鬼に叩きつけられたり毒を飲まされたりして大変な目に遭わされたというし。今回はまぁ少し寝込んだだけで済んだが、そんな事ばっかりやってたら身がもたんぞ」
「……でも、あの時はそうするしかなかったんだ」
冷徹な眼差しを向ける苅藻を、源吾郎は真正面からしっかと見据えていた。叔父の言葉には一抹の腹立たしさを感じてはいた。しかし何故か、腹立たしさと共に腹の底に力が戻ってくるような感覚を抱いてもいた。丁度萩尾丸に煽られた時のように。
別に闘った事を非難している訳では無い。仔狐に言い聞かせるような物言いで苅藻は言い足した。
「しかし源吾郎。護符の……護符だけじゃあないが魔道具の類の装備はきちんとやっていたのかい? その辺の装備をしていたら、まだ倒れるなんて事は免れたんじゃあないかね」
「護符や魔道具の装備ですって」
苅藻の思いがけない指摘に源吾郎は目を瞬かせ、ややあってから首を振った。
「装備だなんてそこまで大掛かりな事はやってないよ。だってさ、今回俺たちがやって来たのは玉藻御前の末裔とそれを自称する妖狐たちの会合で、俺が参加したテストも、偉い狐《ひと》とかが監督している
それに俺には、紅藤様から頂いた護符もあったから、それで十分だと思ったんだ」
「だけどその護符は、途中で弾け飛んじゃったんでしょ?」
いちかの指摘に源吾郎は黙って頷くほかなかった。源吾郎の護符が弾け飛んだ件について叔母上まで知っていたとは驚きではあるが。情報の伝達が早いのは世の常なのだろう。
源吾郎。そうこうしているうちに苅藻が今一度口を開く。声は硬く改まった様子を伴っており、右手はおのれの懐に突っ込んで何やらごそごそとまさぐっている。
「いついかなる時でも最小限の装備は必要だぞ。特にお前は玉藻御前の末裔の中でも力のある存在で、それ故にお前を突け狙う輩がうようよ現れてもおかしくないんだ。ましてや、お前の所属する雉鶏精一派自体が、多くの組織や厄介な連中から目を付けられやすいというのに……」
いつの間にか苅藻の手は懐から離れていた。二つ折りにしていた封筒を取り出すと、中身も確かめずに源吾郎の鼻先に突き付ける。
中身は護符だ。受け取れの言葉の代わりに苅藻はそう言った。
「術者が妖力や妖術を籠める事で発動する術を構築できる類のやつさ。本来ならば術者の身を護る護符の方がありがたがられるんだが、生憎残っている護符がこれだけだったんでな。全部お前にやるよ」
「やるって……良いんですか叔父上?」
問いかける源吾郎の声には、若干の喜色が混じっていた。妖術を籠めて発動する類の護符は、妖怪によっては使い勝手が悪い・手間がかかると見做されて敬遠される場合もままあるという。しかし妖術を得意とする源吾郎にしてみれば、相当にありがたい種類の護符だった。それに身を護ってくれる類の護符であれば、紅藤がまた支給してくれるだろうし。
構わないよ。案の定というべきか、苅藻はそう言ってくれた。
「護符の装備の方は俺も十分持っているからな。何、余り物をお前に渡すだけなんだからさ。
それより源吾郎。きちんとした会合や安全なテストだから装備は不要だなんて考えからは、そろそろ卒業した方が良いぜ。用心するに越した事は無いんだぞ。それこそ、寝室に誘い込んだ女に寝首を掻かれる可能性を警戒するくらいに、な」
「お、叔父上……!」
悪戯っぽく微笑む苅藻を前に、源吾郎は声を震わせながら睨みつけていた。冗談というには悪趣味すぎるではないか。だがそれ以上に羞恥と言いようのない怒りに源吾郎は硬直するほかなかった。