どうしたんだ源吾郎。にこやかに語りかけん様子の苅藻を睨みながらも、源吾郎は口を開く事が出来なかった。
源吾郎とて無知な仔狐ではない。寝室云々のくだりが何を示しているのかもはっきりと解っていた。解っていたからこそ腹を立てたのだ。いちかや米田さんなどの女性陣がいる前で、そんな品のない事を口にするなど言語道断ではないか。
それに……源吾郎がそこまで心身を許した相手が、おのれの寝首を掻くなどという事は
言い募らんとしていた源吾郎であるが、言い募るという事はその下品な事を源吾郎が自ら口にするという事でもある。普段ならばいざ知らず、まだ疲れの残る今ではうまく説明できそうにない。米田さんを一層不快な思いをさせてしまっては本末転倒だ。
源吾郎はだから、恨めしそうに苅藻を睨むしかできなかったのだ。
「ねぇ苅藻兄さん」
叔母のいちかが苅藻に呼びかけたのは、ちょうどその時だった。苅藻は小首を傾げつつも、きちんといちかの顔を見つめている。叔父は何だかんだ言いつつも妹のいちかの事が大好きなのだ。
「もう夕方だし、私も玲香ちゃんと一緒に兄さんの仕事を手伝ったでしょう。だからね、すこーしお腹がすいてきたのよ。それでさ、さっき三人で通りかかった時に自販機があったでしょ。あそこで売ってたコーンスープが飲みたいの。買ってきて頂戴、苅藻兄さん」
妙に甘ったるい声音でせがむいちかの姿に、源吾郎はまたしても驚いた。妹が兄に甘えて頼る事は世間では珍しくないのだろう。だが今のいちかの言動は所謂
言葉としては自販機で売っているコーンスープをねだっているだけなのだが、甘えて媚びる態度が何とも作り物めいていた。そもそもいちかが兄の苅藻に媚びる姿など見た事が無かった。
とはいえ首をひねっているのは源吾郎だけであり、苅藻はにやにやしつつも頷いたのだった。
「狐だけにコーンスープとは洒落が利いてるな。良いよ買って来てやるよ。もちろん、米田ちゃんや穂谷君、源吾郎の分も買ってきてやろうじゃないか」
あからさまな媚が丸見えだとしても、妹が甘えてくるのはやはり嬉しいのだろうか。苅藻はノリノリの上機嫌といった風情で各妖《かくじん》が欲している飲み物を聞き出し、自販機へと歩を進めた。
いちかは苅藻が見えるまではニコニコしながらそれを眺めていた。だが苅藻の姿が見えなくなると、真面目な表情を浮かべてため息を一つついた。苅藻兄さんも素直になれば良いのに、と。
それから彼女は源吾郎に視線を向けたのだった。その眼差しと表情は真面目な物だった。潔癖で、甥の素行にうるさい彼女らしい面持ちである。
「ごめんね源吾郎。苅藻兄さんってば本当は源吾郎の事を心配しているはずなのに、あんなふうに軽口を叩いてたら、源吾郎だっていい気分はしないでしょ。
現にあなた、苅藻兄さんを喰い殺しそうな目つきになってたわよ?」
いちかの言葉に源吾郎は目を白黒させ、それから恥じ入ったように視線を落とした。先程のいちかの女狐ムーブはあくまでも
源吾郎が顔を上げると、いちかは思い出したと言わんばかりに言葉を続ける。
「そうそう、苅藻兄さんも近いうちに源吾郎の本宅にお邪魔したいって言ってたわ。護符を収納するためのかさばらない小箱をプレゼントしたいんですって。まぁ、一か月近く早い誕生日プレゼントみたいな物よ」
いちかの説明によると、護符を収納する小箱もまた、ちょっとした魔道具の一種であるらしい。というのも、内部には空間を広げる術が組み込まれており、手のひらサイズながらも衣装ケース並の容積を持ちうるのだという事であるから。
解りやすく言えば、国民的アニメに登場するロボットが秘密道具を隠し持つポケットや、ある種のゲームやアニメに登場するアイテムボックスと同質のものであると考えて良いだろう。
「プレゼントは有難いですけれど、そのためだけに俺に会いに行くとは、叔父上もちと大げさじゃあないかな」
「そんな事言わなくて良いでしょ、源吾郎」
源吾郎の言葉に対し、すかさずいちかが言い返す。
「苅藻兄さんが源吾郎の事を弟みたいに可愛がっているのは知ってるでしょう。ましてや源吾郎は、ずっと平和にのんびり暮らせるんじゃあなくて、色々と大変な事とか危険な事とかが降りかかる恐れだってあるんだから……
苅藻兄さんは私の兄だけど、甥である源吾郎に対しても兄らしく振舞いたいのよ。解るでしょ?」
当たり前の事だろうと言わんばかりの様子のいちかに対し、源吾郎は頷くしかなかった。苅藻が源吾郎を弟のように可愛がっている事は知っている。苅藻には実妹はいるが実弟はいないし、源吾郎以外の甥たち、要は源吾郎の兄たちは人間に近い気質故に苅藻とはそれほど親しくない。妖怪の気質と特性が色濃い源吾郎を何かと構いたくなるのはまぁ人情という物だろう。
ともあれ源吾郎は、叔父が本宅にやって来るという事を受け入れた。ともすれば叔母のいちかも一緒にやってくるかもしれないと思いながら。
それよりも源吾郎。源吾郎の心中の動きを何か察したのか、いちかが今再び声を上げる。
「今のあんたの心の中には、吐き出したい事とかがあるんじゃないの。まぁそれも、苅藻兄さんが変にちょっかいをかけてからかったからなんだけれど。
ね、そう言うのがあるんだったら遠慮せずに言っちゃって良いのよ。そのために苅藻兄さんには席を外してもらったんだから……もちろん、私たちにも言いづらかったら黙っていても良いんだけど」
いちかの言葉を聞き終えるや、源吾郎の口から長い溜息が漏れ出した。源吾郎はしばし視線を彷徨わせ、唇を軽く湿らせてから口を開いた。
「確かに、俺も叔父上の言葉にはちょっと戸惑ったりイラっと来ちゃったりしたところはあったかな。特に後半の
「源吾郎もその辺は真面目というか潔癖だものね。でも叔母としてはその方が安心できるんだけど」
源吾郎の第一声にいちかは何故か嬉しそうな表情を見せていた。自分で言ってみたものの、真面目で潔癖なのはそれこそ叔母のいちかの方なのだ。
ともすれば源吾郎と同年代か年下にすら見えてしまう風貌のいちかであるが、それでも二百年以上生きた大人妖狐である。しかも玉藻御前の孫娘に当たる女狐でもあるのだが、彼女に関する色事など、源吾郎はついぞ聞いた事がない。それは叔母自身が潔癖な気質だからなのか、それ以外の要因によるものなのかは源吾郎にも判断しかねた。
その叔母の事はさておいて、源吾郎は更に思った事を口にした。
「だけどそれよりも、叔父上が米田さんにひどく馴れ馴れしく振舞ってただろう。米田ちゃんだなんて呼んだり、ベタベタと肩に手を置いたりしてさ。俺には、それが……」
ムカつくって程じゃあないけれど不愉快だったんだよ。源吾郎は思っていた事を全て口にする事は無かった。話を聞いていたいちかが、素っ頓狂な声を上げたためである。
「何言ってんのよ源吾郎。馴れ馴れしいだなんて変な事を言わなくて良いじゃない。
私たち、という部分を殊更強調しつついちかは言い放ち、それから隣にいる米田さんに顔を向けた。
「そうでしょう、玲香ちゃん」
「ええ、はい」
よく見ればいちかの手は米田さんの肩に添えられていた。急に話を振られたためなのか、米田さんも当惑したそぶりは見せている。それでも彼女はいちかの問いかけに頷き、更に言葉を続けた。
「……野良妖怪として暮らし始めた私に闘う術や処世術を教えてくださったのが、桐谷さんご兄妹ですからね。私も、苅藻さんやいちかさんの事は兄姉のように思っていました。厚かましい事、かもしれませんが」
「厚かましくなんかないわよ玲香ちゃん。というか何で過去形なのよ。玲香ちゃんは私の立派な妹分よ。昔も今も、もちろんこの先もね」
控えめというか妙にしおらしい米田さんの言葉に、いちかは笑いながらツッコミを入れていた。甥や穂谷先輩の存在を忘れているのであろうその振る舞いは、何処となく源吾郎をからかう苅藻の姿にそっくりだった。苅藻といちかは確かに兄妹なのだと思い知った。
「そうか。米田さんは叔父上たちの妹分みたいな存在だったんだね。俺もうっかりしていたよ。前に米田さんにお会いしたときに、叔父上たちに術の指南を受けていた事があるって話を聞いていたのに。その事を度忘れした挙句に
思っていた事を言い切ってから、言わなくても良い事まで言ってしまったと源吾郎は思い直した。勘違いした。これは明らかに言わなくても良い事であろう。耳ざとく口うるさいいちかの事だ。何を勘違いしたのか、その事について言及してくるであろう。
「あ、叔母上。俺さ、知っての通り病み上がりというかさっきまで寝ていたからちょっと頭の動きが鈍ってるかもしれないんだ。それでまぁ要らん事も言っちゃった気もするんだ。だからさっきの発言は忘れてくれたら嬉しいんだけど」
「……それだけ口が回るんなら、頭の動きも鈍ってないでしょ」
源吾郎の弁明に対し、いちかはジト目で一刀両断するのみだった。
そして今度はいちかが小さくため息をつき、ゆっくりと口を開く。彼女の視線は源吾郎と米田さんの間を一往復していた。
「やっぱり季節が季節だし、大勢の狐たちが集まっている場にやって来たのは初めてだから、源吾郎も興奮しちゃったのね。まぁ、苅藻兄さんが色々と気付いて煽ったのもあるんでしょうけれど。
ああだけど源吾郎。あんたも仔狐を
仔狐を卒業して、男狐に育った。いちかの言葉に源吾郎はどきりとし、半歩ほど後ずさった。
米田さんへの思いは、苅藻にもいちかにも見抜かれていたのだ。苦々しい羞恥と共に、源吾郎はその思いを噛み締める他なかった。