叔母であるいちかに米田さんへの想いを気付かれて気まずい思いをした源吾郎であるが、その後は特に深く追及される事も特に無かった。
元よりその後の滞在時間はそう長くなかった。あの後苅藻はすぐに戻って来たし、穂谷先輩と源吾郎は、玄米茶だの甘酒だのを飲み終わったらそのまま雉鶏精一派の合流場所に戻る事と相成ったのだから。
結局のところ、いちかがあの話を持ち出してから源吾郎たちが立ち去るまで、十分ほどしか経っていなかったのだ。
※
引率者である林崎ミツコが戻ってきたのはそれから更に二、三十分後の事だった。そして彼女は戻って来るなり、若菜様と打ち合わせをするのだと源吾郎に告げた。
その事を告げたのち、ミツコは集まっている部下たちを見渡してから口を開いた。
「若菜様も島崎君との打ち合わせにはそんなに時間をかけへんと言うてるから、悪いけど皆も少し残っといてくれへんか」
他の妖狐たちは戸惑った様子を見せながらも、互いに顔を見合わせつつ頷いていた。テロ行為の現場となった事で事情聴取やら何やらが会場で行われていたのだが、それも終わりつつある。他の組織の妖狐たちも徐々に解散しつつあるところらしい。
その事をミツコは把握していたからこそ、敢えて部下たちにああ言ったのだろう。源吾郎はぼんやりとそう思っていた。ちなみに毒にあたった北斗についても、回復してからタクシーで会場に戻り、何処かで事情聴取を受けているらしい。
だがミツコの話はそこで終わらなかった。集まっている妖狐たちの中でも年かさの、それこそ荒鷲や翁鳥などと言った上位グループに属する四尾と五尾の妖狐の名を呼ぶと、二人に護符を渡しつつ言い添えた。
「とはいえ、もしうちと島崎君が三十分以上経っても戻ってこんかったら、皆で先に帰っときな。
あと――緊急事態の折にはうちがその護符に合図を入れるから、その時は緊急時の対処・その十六に従うてな。解ったな?」
「はい。仰せのままに」
「解りました。後の事は私どもにお任せを」
緊急事態などという物騒な言葉がミツコの口から飛び出してきたが、五尾も四尾もそれに臆することなく頷いている。それこそが、この二人の妖狐の経験値の高さとミツコや彼女の上司への忠義の篤さであるように源吾郎には思えてならなかった。
「さて島崎君。うちらも若菜様の所に向かおう、な」
源吾郎の肩にミツコの手が添えられる。普段通りの、エセ関西弁の明るい声だ。しかしそれでも、僅かに震えて上ずっているのを源吾郎は聞き逃さなかった。
かくして源吾郎はミツコに連れられて、若菜との面談に臨む事に相成った。
事件の有無に関わらず、若菜は源吾郎との個別面談を望んでいた。その話を聞かされてもなお、源吾郎は緊張せずにはいられなかった。それはミツコが同席すると言い張った事も関与している。事件の直後であるし、ミツコ自身はこの面談にもただならぬものがあると考えているらしい。その思いは源吾郎にもばっちり伝わっていた。
さて若菜が面談の場にと指定したのは、広さにして八畳程度の応接室だった。応接室だと源吾郎は思っているものの、内装自体は和風テイストが強かった。それでありながら、壁際に設置された文机の上には、中国やより西方の国――インド産なのか中東産なのかは判然としないが――由来のものと思しき調度品もしれっと混ざり込んでいる。
そう言う意味では、玉藻御前に縁ある者の応接室らしかった。玉藻御前自体は大陸で誕生し、長らく大陸で暮らしていたのだから。日本三大悪妖怪などと言われるものの、日本で暮らした時期などは、彼女の生の中ではごく短い期間であろう。
ともあれそんな雰囲気の応接室の中で、若菜は源吾郎たちを待ち構えていた。
白髪が不自然ではない程の年齢の老女に化身している若菜であるが、その圧と威厳は健在だった。八本の尾を隠さずに露わにしているからなのかもしれない。いや、八尾を隠していたとしても彼女の威容は損なわれなかったはずだ。
「林崎さんに島崎君。今日は本当に色々な事がありましたね。本当にご苦労様でした。そしてその上で、夜も迫っているような時間でありながらも私の呼びかけに応じてくれて感謝しております」
「いえいえ。大変だったのは私どもだけではありません。若菜様や他の皆さまだって、事態の収束に尽力なさっておりましたし」
まず若菜が挨拶し、ミツコがそれに応じる。源吾郎はそれを無言で見聞きしていた。若菜の言葉は丁寧な物だったが、強い印象をもたらす要素は特に無い。年老いた妖怪だからと言って古風な物言いをするわけでは無く、あくまでも自分たちと同じような話し言葉だった。
それよりもむしろ、ミツコがエセ関西弁ではなくごく普通の喋り方をしている方が注目を引いたくらいだ。もっとも、彼女は関東の生まれだというから、こちらの方がむしろ馴染んでいるかもしれないし。
「ええ、本当に今回の事件には私も度肝を抜かれました。というよりもむしろ、煮え湯を飲まされたような気分ですけどね。もしくは飼い犬に手を咬まれた気分でしょうか」
「……首謀者は若菜様の身内だったそうですね。心中お察しします」
ミツコがここで頭を下げたので、源吾郎も慌ててそれに倣った。数秒後に顔を上げてみると、若菜は真っすぐこちらに視線を向けている。姿勢は数秒前と変わらないが、笑みをたたえたその顔に、烈しい憤怒を押し隠しているのが見て取れた。
娘婿だという男狐の名を口にすると、若菜はため息とともに言葉を紡ぐ。
「元より彼は会員の選抜や選別について、私たちと……というよりも私と対立していたのです。玉藻御前の末裔を名乗れるのは、その名にふさわしい者だけである、とね。ここ数十年ばかり、何処の馬の骨とも解らぬ輩が会員になっているのではないかと、その事を不満に思っていたのでしょう。
もっとも、私どもは私どもとして、新たな会員が入る事は喜ばしい事である事、変革をもたらすために重要な事であると考えていたのですがね。そしてその事で、彼も納得したはずなのです。
ですが実際には違いました。彼は私の意見を聞き入れたふりをして、仲間を募って密かに計画を立てていたのです。相応しくない仲間を選別し、粛清するという計画をね」
若菜は静かに事の顛末をつらつらと語り続けていた。劫火のごとき憤怒を抱えているとは思えぬほどに物静かな口調だった。
首謀者は玉藻御前の末裔を名乗る妖狐が増えていく事、特に実力も血統も伴っていないような雑魚連中が会員になっていく事を忌まわしく思っていた。そこで玉藻御前の末裔というイメージを護るために雑魚連中を一掃しようと思い立ち、試験会場に牛鬼をけしかける暴挙に出たのだという。試験会場であれば若くて妖力の少ない妖狐たちが多く、尚且つ試験の道中――あの試験では多少の戦闘も認められていたからだ――で死傷したという事で誤魔化せると考えたためであろう。
暴力的な上に用意周到な、実に恐ろしい事件だったのだ。
「この裏初午に変革をもたらす、という意味合いでは、彼も
ふと思い出したように若菜が言葉をつづけ、奇妙な笑い声をあげた。笑い顔が何処か歪なのは、憤怒を押し隠しているからだろう。もしかしたら、憤怒が高まり過ぎて笑いに転化してしまったのかもしれない。
「何せこの裏初午が妖狐たち、それも玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちだけで運営されるのは今年が最後になるでしょうからね。私たちが望む、望まないに関わらず、地元の有力な妖怪が監視兼警備に回るのは確定しましたからね。
後は――実力や実績を誇る存在であっても、その事にふんぞり返っておのれの地位に固執していても碌な事にならず、むしろ排斥される立場に追いやられる。その事を、彼とその仲間たちは教えてくれたんですよ。おのが身をもって、ね。雑魚妖怪よりも老害の方がよほど害悪になるという事なのですよ」
若菜は始終ニコニコ顔であったが、源吾郎は笑う事などもちろんできなかった。首謀者が裏初午に変革をもたらしてくれた。若菜のこの発言が悪意と敵意に満ち満ちた皮肉に過ぎない事は明らかな事だ。それにしても、おのれの娘婿を老害と言い切る若菜の心中という物はいかばかりのものなのか。若狐に過ぎぬ源吾郎には、ぼんやりと想いを馳せる事くらいしか出来なかった。
ミツコもまた、思案顔で若菜の様子を見つめているだけである。
さてそうこうしているうちに、若菜の方で動きがあった。額に浮かんだ汗をぬぐうべく、ハンカチをポケットから取り出したらしかった。
綺麗に四つ折りにされたハンカチを手にした若菜は、ハンカチで軽く額を押さえている。源吾郎の視線はそのハンカチに釘付けになっていた。見覚えのあるハンカチだった。そのハンカチは、裏初午が始まって間がない頃に源吾郎が拾ったハンカチそのものであった。千代紙めいた華やかでありながら繊細な模様などは見間違えようがない。
「あ……その……」
気付けば源吾郎は声を出していた。
そのハンカチは若菜様のものだったんですね。言葉にすればその一言で済むのだろう。だが驚きと緊張と戸惑いと疑問のせいで、源吾郎の口からはたどたどしい声しか出てこなかった。
それでも源吾郎が口を開いた事、何かを言おうとしている事は若菜には伝わった。彼女は額の汗をぬぐい終えると、ハンカチの皺を正しながら源吾郎に微笑みかけた。それも、ハンカチの様子が解るように持ち直していた。
「ああ島崎君。このハンカチに見覚えがあるのね?」
「はい、若菜様」
問いかけられた源吾郎は頷いて答えた。先程までのつっかえようが嘘のように、口からは言葉が流暢に飛び出してきた。
「僕が見つけた時には、そのハンカチは通路に落ちていたんです。誰かの落とし物だろうと思っていましたが、まさか若菜様のものだったとは」
滑らかな源吾郎の言葉に、若菜ははっきりと笑みを作った。憤怒に由来する歪な笑みとは違う種類の笑いだった。
「そうです島崎君。これは私のハンカチでして、確かにあの時は通路に
若菜の言葉に源吾郎は思わず首をひねった。まるでハンカチが落ちていて、しかもそれを源吾郎が拾うであろう事を見抜いていたかのような物言いだった。
ええ、その通りです。戸惑う源吾郎の心中を見抜くかのように若菜が続ける。
「お察しの通り、あのハンカチは敢えて私があそこに落としておいたものなのです。島崎君、あなたがあれを見てどうするのか。その事を確認したかったのですよ」
「――!」
ハンカチはたまたま落ちていたのではなく、源吾郎に拾わせる事を目的にして落としたものだった。その事を示唆する若菜の主張に源吾郎は瞠目した。だがややあってから、それもまぁありうる事であろうと納得し始めていた。老齢の妖怪が若い妖怪を何かと試しがちである事は身をもって知っていたためだ。
それに隣を見れば、ミツコは納得した様子で息を吐いていたのだから。
「試すような事をして申し訳ありません。もしも島崎君が気を悪くされたのなら謝罪いたしますわ」
ハンカチをしまった若菜は、やや改まった様子で源吾郎に告げる。
「元より島崎君は姫様の……いえ玉藻御前様の本当の末裔ですからね。元よりあなたの妖《ひと》となりや能力については裏初午に参加している姿から読み取り、その後で面談するつもりだったのです」
面談の本題にようやく足を踏み入れたのだ。若菜の言葉を聞きながら、源吾郎は今一度居住まいを正した。