藤森アオイという名の女狐の生命を救う、というよりも彼女の死を無かった事にするために現実改変を行った。自分がしでかした事ながらも、源吾郎はただただ驚いて茫洋とするほかなかった。
「その様子やと、意識して現実改変を行った訳ではなさそうやな」
源吾郎の様子を眺めながらミツコは告げる。その言葉はもはや問いかけなどではなく、事実確認のニュアンスが濃かった。
「はい。現実改変は……或いはこれまで僕が使ってしまった運命操作の力は、幸いな事に書き換えたい事柄を強く願わない限り発動しないのです。のべつまくなしに発動させてしまっていたのであれば、その度に僕は代償を支払わねばならなくなりますからね」
源吾郎はそこで一度言葉を切り、ゆっくりと瞬きと深呼吸を行った。
「代償の事を思い知ったからこそ、僕はあの能力を使わないと強く心に誓ったのです。ですがあの時、僕の意志とは無関係に現実改変が起きてしまったのでしょうね。僕自身もあの能力の事は半ば忘れていましたし、何より――」
「牛鬼と闘って、その惨状を目の当たりにするだけでやっとやったもんなぁ」
源吾郎の言葉を半ば遮るような形でミツコが言った。相変わらず、彼女の顔には驚きの色は薄い。
「だからこそ無意識のうちに発動してしもうたんやろう。島崎君の事や、見ず知らずの相手と言えども、牛鬼に仲間が喰い殺されるのを目の当たりにして、何も思わなかったなんて事はあらへんはずや。親元で人間として育てられて、妖《ひと》の生き死にや暴力沙汰とは遠い世界で生きてきたんやからなおさらな」
「そんな、あんな光景を目の当たりにして、何も思わないなんて事が出来ると思うんですか!」
気付けば源吾郎は牙を剥いていた。瞬間的に湧き上がった烈しい感情が、明らかに目上・格上の相手に対して無礼な振る舞いをしてはいけないという理性を凌駕したのだ。
一方のミツコは、唐突に牙を剥き始めた源吾郎を前に涼しい表情を崩さぬままだった。むしろ納得したような素振りで頷いているではないか。
「
落ち着いた、しかし決然とした口調でミツコは言い放つ。源吾郎の様子などお構いなしに、彼女はそのまま言葉を続けた。
「彼女が喰い殺されたのを見た時、それこそ
「……」
林崎さんの言うとおりだ。少しずつ冷静さを取り戻した源吾郎はそう思い始めていた。
それからゆっくりと、頭と心に負担が掛からぬように気を付けながら、源吾郎はあの時の光景を思い出し始めた。強烈な義憤に、理不尽な出来事への憤怒。二尾の女狐が喰い殺されたのを目撃したあの時、その感情で源吾郎の心は塗りつぶされていたではないか。
今回は安全な会合であり、そこで誰かが死ぬのはおかしい。そんな事は俺は認めない――そんな風に思っていたという事を、源吾郎はしっかりと思い出したのだ。
そうですね。源吾郎は手許に視線を彷徨わせながら言葉を紡ぐ。
「もし僕が、意識して現実改変を行っていたのならば、それこそ牛鬼が会場に襲撃した事ですとか、そもそも犯行グループが事件を起こしたこととかを無かった事にしていたはずなので」
「それはそれで机上の空論って言うやつやろうな」
源吾郎の呟きを目ざとく拾い上げたのは、やはりミツコだった。
「現実改変の力を意識して行ったとしても、それでも自分では
それにな。一旦言葉を切ったミツコは、意味深な眼差しを若菜に向けていた。
「事件そのものを……犯行グループが悪心を抱いた事をなかった事にするのは、あの時の島崎君の認識では無理やったやろうな。あの時島崎君が知っとったんは、せいぜい牛鬼が試験会場を襲撃した事くらいなんやから。
さっきまでの話を聞くに、島崎君の使う現実改変は、島崎君が
ミツコの考察は、やはり的確なものであった。源吾郎が現実改変を行ったであろうタイミング。それはミツコが駆けつけた後の事である。牛鬼との闘いが終わり、そして牛鬼に呑みこまれた妖狐の亡骸を目の当たりにした直後の事だ。
確かにあの時、牛鬼が何者かにけしかけられていた事はうっすらと把握していたが、主犯が誰なのか、犯行グループがどのような面子なのか、目的が何であるかなどと言った詳しい事までは知りえなかった。事件のあらましを知ったのはそれこそ倒れた後の事であるし、何となれば今もまだ事件の全貌を掴んでいるとは言い難い。
「ともあれ、島崎君はあの時、強い感情に呑まれてどうにもならん事をなかった事にしてしもうたんや。普通のヒトは世界に合わせて暮らそうとするが、分からず屋は自分に合わせて世界を変えようとする……小説家か何かの言葉やけれど、今回の顛末には相応しい言葉やわ」
「俺が、僕が分からず屋だと仰りたいんですか?」
言い放った源吾郎の語調は荒々しい物だった。だがそれも、ミツコの発言に皮肉めいたものを感じ取ったからに他ならない。
妖狐らしくまなじりを釣り上げた源吾郎は、何度か唇をもごもごと動かしてから疑問を口にした。
「林崎さん。さっきの話ぶりじゃあ、俺があの時現実改変を行った事が間違っている事だと言っているようなものですよ。狐《ひと》助けをしたのに、その事をなじるなんておかしいじゃないか」
「狐《ひと》助けが悪い事とは一言も言うとらん」
源吾郎の言葉をミツコは一刀両断した。そのまま目を細めつつ、源吾郎の顔をしっかと見据えていた。
「無駄な妖《ひと》死になんてもんは、あるよりも無い方が断然良いとはうちも思っとる。そして島崎君が、目の前で誰かが傷ついたり死んだりするのを我慢ならん事やと思う事も、大切な事には変わりないわ。
ただ問題なのは……無意識と言えども気軽に現実を書き換えるなんて言う力が発動してしまう事、今後もそういう事が起こりえるかもしれないという事や。うちはそれを危惧しとるんや」
無意識と言えども気軽に発動してしまう。それって相反する事柄なのではないか。そんな源吾郎のささやかな疑問はお構いなしにミツコは説明を続けた。
「現実改変は大層な能力やし、しかも改変した現実に見合う代償を、他ならぬ島崎君が支払わなあかん。見ず知らずの妖狐が、妖怪が死んでいくのを目の当たりにするたびにそんな力を振るっていたら、
でも……熱い吐息と共に言葉を漏らすと、ミツコは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「あの時襲われたのが、家族や仲間みたいな、島崎君にとって大切な存在やったら
或いは……そう言えば島崎君。今回牛鬼に喰われた狐は女狐やったよな。その女狐に心を惹かれて、下心で彼女の生命を助けようと――」
「そんな下らない理由で狐助けなんか致しません!」
思わず源吾郎は前のめりになり、ミツコを睨みつけていた。ミツコはもう小馬鹿にしたような表情は浮かべていなかった。一瞬真顔になり、そしてどうした訳か哀しそうな表情を源吾郎に向けたのだ。
「……現実改変を発動した理由が、それこそ島崎君の言う下らない理由だった方が
哀しげで意味深なミツコの言葉に、源吾郎の裡に潜む烈しい感情は急速にしぼんでしまった。源吾郎はただ、大それた事をしでかしたのだと思いつつ、それをどう弁明すれば良いのか解らずに首を傾げるだけだった。
「島崎君の妖柄《ひとがら》はうちもよう解っとる。根は真面目やし、私利私欲に走る事も無い優しい子や。それに善悪の判断もしっかりしとる。だからこそ牛鬼と闘ったし、藤森さんが喰い殺された事にも心底腹を立てる事が出来たんや。
だけどな島崎君。こういう惨事を、見ず知らずの誰かが生命を落としてしまう事を……島崎君は今後も目の当たりにする事からは逃れられへんのやで。妖怪として、それも野望を持って大妖怪の中の大妖怪として島崎君は君臨するつもりなんやろ? 野望の道は舗装されとらんし、それこそ血塗られた茨の道や」
気付けば源吾郎は、左手で胸元を押さえていた。手の平の裏側にある心臓の拍動が速まっているではないか。
野望の道は血塗られた道だ。その事は源吾郎とて承知していたはずだ。萩尾丸から折に触れて言われていたし、実際にその通りだと思い知るシーンに出来した事もある。雪羽の異母弟妹が拉致された現場に仲間と共に突入した事もあるし、人間を襲う白狐や犬神に立ち向かった事もあったではないか。
だというのに――何故ここで、ミツコの言葉に源吾郎は戸惑っているのだろうか。
そんな源吾郎の心の動きを読み取ったのか否か、ミツコは更に言葉を重ねる。
「そうでなくとも、人間の世界でも毎日何処かで人間が死んだり殺されたりしとるやろ。テレビや新聞記事の向こうで明らかになるような惨事にさえ、島崎君は心を痛め、犠牲者が出た事を無かった事にしようとするんか? 流石にそこまでは思わへんやろ。思ったとしてもどうにもならん事なんやで。
それにな、
「林崎さん。もうそれ位で良いでしょう」
冷徹に、鋭い言葉で源吾郎を追い詰めるミツコに待ったをかけたのは、何と若菜だったのだ。ミツコは若菜の言葉に戸惑っていたが、優しい笑みを浮かべる若菜の瞳にもまた、複雑な物が浮かんでいた。
「島崎君が現実改変の能力を持っている事について、この私は特段危険視してはおりませんもの。むしろ、玉藻御前様から、あのお方の裡に宿っていた這い寄る混沌の力の一端を受け継いでいる事を知って、嬉しく思っているくらいです」
「ええと、若菜様はそのようにお考えなのですね」
へどもどし、若干たどたどしい口調でミツコが問いかける。源吾郎の持つ現実改変の力を若菜がそれほど危険視していない事に当惑しているようだった。
若菜は玉藻御前に仕え、既に千年以上生きている大妖狐である。それくらいの存在になれば、ちょっとやそっとの事では驚かなくなってしまうのだろうか。
「話を聞く限り、島崎君が能力を私利私欲のために使う事はまず起こりえそうにないですもの。能力の特性としても、島崎君の気質としてもね。
それに島崎君自身に関しましても、あなた方が心底彼の身を案じ、ちゃんとした大妖怪として導こうとしている事はしかと感じ取りました。であれば、しがない古狐でしかないこの私がああだこうだと悩んでも詮無い事です」
若菜はそこまで言うと、一度言葉を切って静かに目を伏せた。ややあってから見開かれた瞳を前に、源吾郎はミツコと共に居住まいを正す。何がどうという訳では無いが、彼女の瞳は先程とは異なっていた。何かを見通そうとしているのだと、本能的に感じ取った。
「それにね島崎君。あなたの持つ現実改変の力。この力を使わねばならない日が必ずや訪れるわ。その事を心に銘じておいてほしいの」
現実改変の力を、使わねばならない日が訪れるだと。思いがけぬ若菜の言葉に、源吾郎は目を瞬かせるほかなかった。
そしてその若菜の言葉に気を取られていたから、いつの間にかテーブルの上に置かれた小箱には、源吾郎はこの時気付かなかったのだ。