その彫像はお前のものだ。四の五の言わずに黙って受け取れ。そうした無言の圧を、源吾郎は若菜から感じ取っていた。ここで、はいそうですねと頷いて受け取れば全てが終わる。それが一番である事は源吾郎にも解っていた。
しかし源吾郎はそうしなかった。無貌の神を、這い寄る混沌の千なる化身の一つを象った彫像を前に身を強張らせ、それでも彫像から視線を外せずにいたのだ。
これを受け取ったら、自分が所有する事になったらとんでもない事が降りかかるのではないか。玉藻御前の末裔でありながらも、源吾郎はそんな事を思っていたのだ。いや、或いは玉藻御前の末裔であったから
「こ……これは、本当に僕が受け取るべきなのですか」
やっとの事で絞り出した声は、蚊の鳴くようなか細い物だった。無言を貫く若菜の姿に拍子抜けし、源吾郎は目を瞬かせた。その通りだ。即座にその返答が出てくると思っていたのだ。
「確かに僕は玉藻御前の血を引く存在です。ですが見ての通りただ
「あなたはそれだけなどと言いましたが、玉藻御前の血を引いている事こそが、今回は重大な意味を帯びているのですよ」
弱弱しい源吾郎の主張に対し、若菜は冷徹な眼差しと口調でもって応じた。源吾郎を見据える瞳は、なおも鋭さを増している。
「私たち妖狐の中で、玉藻御前の存在とその血脈を特別視している事はあなただってご存じでしょう。
「……はい」
若菜の指摘には、源吾郎も返す言葉が無かった。玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たち。彼らは確かに本物ではない。乱暴に言えば野狐たちの集団とも言えるだろう。しかし彼らが適当な気持ちで玉藻御前の末裔を名乗っている訳では無い事は、今回の一件で嫌と言うほど思い知らされた。何せ組織の方向性の違いなどと言う物のせいで、テロ行為などが勃発してしまったのだから。もちろん、テロ行為を起こした悪狐たちを擁護するつもりなどは源吾郎には無いのだけれど。
そんな事をつらつらと考えていると、若菜は密やかに息を漏らし、呆れたような笑みを源吾郎に見せていた。
「ですがそれにしても、島崎君があまりにも人間的な事を仰るから、何ともおかしい気分になってしまいましたわ。平等院の宝蔵には玉藻御前様の遺品とされる物品が収められていますし、大英博物館と言えば世界各地から略奪して成り立った博物館として有名ではありませんか」
「あっ、その……そこは確かに失言でした。誠に申し訳ありません、若菜様」
若菜の指摘を前に、源吾郎は額にテーブルをくっつける勢いで謝罪した。
いかな真なる玉藻御前の末裔と言えども、老齢の女傑妖狐に皮肉を言うような度胸は持ち合わせていない。平等院の宝蔵や大英博物館を口にしたのは、件の彫像が生半可な博物館や文化財センターに収めるようなものではないという事を伝えたかったからに過ぎない。だが迂闊だった。せめて正倉院や紫禁城にしておいたら良かっただろうか。そんな考えが脳裏をかすめていった。
呆れた様子のミツコに声をかけられ、源吾郎は今一度顔を上げる。なるべく彫像を見ないようにして、若菜の方に視線を向けた。おのれの失言に恥じ入っていた源吾郎であるが、若菜の言葉に触発されてある疑問が首をもたげたのだ。
「玉藻御前の血脈という所でお探しになるのでしたら、やはり僕以外にも彫像を託すにふさわしいお方はいらっしゃるのではありませんか?」
「と言いますと?」
「若菜様もご存じの通り、玉藻御前の末裔は僕一人だけではありません。兄姉たちは人間に近いのでカウントしなくても良いでしょうが、母や叔父叔母たちがいますし、何より祖母の白銀御前様がいらっしゃるではないですか」
それだけではありません。祖母や母の姿を思い浮かべながら、源吾郎は言葉を続けた。
「玉藻御前の……曾祖母の子供たちは日本だけではなくて大陸にもいらっしゃるんですよね。父親は違えど祖母には兄姉がいると、母から聞かされたんです。恐らくは玉面公主様や伯服様だとは思うのですが。
同じ玉藻御前の血を引くのであれば、曾孫でまだ仔狐でしかない僕よりも、玉藻御前の実子にあたる方たちに託したほうが宜しいのではないでしょうか。もしかしたら、玉面公主様たちが受け取らずとも、その子孫たちで受け取るに値するようなお方がいるかもしれませんし……」
「島崎君に提案されるまでもなく、大陸にいる玉藻御前様の子供らに彫像の事を話した事はありますわ。それこそ、伯服様と玉面公主様にね」
伯服様も玉面公主様も、最終的にはこの彫像を受け取りはしなかったわ。淡々とした若菜の言葉は、源吾郎の心臓に鈍く突き刺さった。
「元よりあのお二人やその子孫の方たちが受け取ったのであれば、そもそも島崎君に託すものなんてありませんもの……ええ、お二人はこの彫像を受け取りはしなかったし、私もあのお方たちには彫像を託そうとは思いませんでした。
伯服様は、島崎君の大伯父にあたるあのお方は、彫像を一瞥する事すらありませんでした。元よりあのお方は、母親の事を良く思っておりませんでしたからね。過去のしがらみを忘れ、一族の繁栄を見守らねばならないから放っておいてくれ。そう言って私を追い返したのです」
その当時の事を思い出したのか、若菜の笑みは僅かに強張っていた。源吾郎はもちろん、大伯父である伯服に会った事はない。しかし彼が母である玉藻御前を疎んでいるであろう事は何となく察しがついていた。曾祖母たる金毛九尾は当時、褒姒として周王朝に取り込み、幽王を誑かせつつ息子である伯服を産んだ。
伝承によると金毛九尾は、息子である伯服に変化して難を逃れ、頃合いを見て金毛九尾の本性たる美女の姿に戻ったのだそうだ。あたかも実の息子の肉体に乗り移って潜伏し逃げおおせたとでも言わんばかりの話である。
実際には伯服は健在であるそうだから、流石に母に肉体を乗り移られたりはしなかったのだろう。しかし先の伝承が残っているという事は、似たような事があったのかもしれない。そしてそれ故に、伯服は母である金毛九尾を疎んでいるのかもしれなかった。
そんな事を思っているうちに、若菜は玉面公主と対峙した時の事を話し始めていた。
「玉面公主様の反応は、これまた伯服様とは全く異なっていたのです。むしろあのお方は、彫像に興味を持たれまして、貰えるのならば貰いたい、手に入れられるのならば手に入れたいと仰っていたほどです。
考えてみれば、あのお方の父である万年狐王様は、その地域で有数の資産家でしたからね。玉面公主様も贅沢三昧の暮らしを行っていて、欲しい物は手に入れられると無邪気に思っていた節があるのです。ええ、ある意味兄妹たちの中で一番母親の気質を受け継いでいるのでしょうね。実際には、母親と一緒にいた時期は短かったそうですが」
「それでもやはり、玉面公主様にはこの彫像はお渡しにならなかったんですね」
心底不思議な事だと思いながら、源吾郎は若菜に問いかけていた。玉面公主の事も源吾郎は知っている。万年狐王という裕福な大妖狐の一人娘であり、父の死後は牛魔王を婿に迎え入れたという経歴を持つ。牛魔王とは途方もない大妖怪であり、あの孫悟空が大哥と呼んで慕うような御仁なのだ。
そんな大妖怪を夫として選んだ豪胆さや、好奇心に満ち満ちた姿などは確かに玉藻御前にそっくりと言えるだろう。そう言う意味では、この彫像の持ち主に彼女は相応しいようにも感じられた。
案の定というべきか、源吾郎の問いに若菜は頷いていた。その顔に何処か安堵の色を滲ませながら。
「牛魔王様と、たまたまその場に居合わせた鉄扇公主様が止めに入り、二人がかりで玉面公主様を説得して下さったのです。だからこそ、私は彼女に彫像を渡さずに済みました」
若菜の言葉に源吾郎は半分だけ納得した。牛魔王と鉄扇公主。いかな玉面公主と言えども、この二人に頭が上がらないのは何となく理解できる話だ。何せ牛魔王は玉面公主の夫であり、鉄扇公主は牛魔王の正妻である。どちらも強大な力を持つ妖怪仙人であるから尚更だ。
そして残り半分を占めるのは疑問だった。若菜の言葉はまるで、玉面公主に彫像を渡さずに済んで良かったと暗に言っているようなものだった。そこが源吾郎には気になったのである。
「――玉面公主様は、いえ良人である牛魔王様も、あの八頭怪や万聖龍王の一族と親交がありましたからね。そう言う意味でも、彼女にこの彫像を渡すのはためらわれたのです。手順を踏めば、この彫像を触媒として這い寄る混沌を召喚できますからね」
「そ、そういう事……だったんですね」
それならば仕方ない。流石にそこまで思わなかったが、それでも源吾郎は納得しつつあった。玉面公主が八頭怪と繋がっている可能性があるのならば、確かにその彼女にこの彫像を渡すのは危険ではある。
源吾郎はここで、八頭怪と出会った時の事を思い出した。あの時八頭怪は玉面公主の名を口にしていたようであるが、あれも交流があった事を踏まえての発言だったのかもしれない。
「そんな訳で、私もこれまでにこの彫像の継承者になりうるものがいないか。その候補者の許に訪問した事もあるという事です。そうした事も踏まえた上で――やはりこの彫像を受け取るのは島崎君に行きつくのです」
しばし嘆息していたと思った若菜が、意を決した様子で口を開く。もちろんその両目は源吾郎をしっかりと見据えていた。
島崎君。気付けば横から声がかかる。声の主はミツコだった。
「そらうちかてこんな物騒な代物を前にしてうろたえてしまう、島崎君の気持ちは解る。だけどな、ああだこうだ理屈を付けて彫像を受け取る事を回避しようとしても、それは時間の無駄にしかならへん。
いやまぁ……島崎君が現状を受け入れるための時間稼ぎにはなるんかもしれへんけどな」
ミツコはまずそこまで言うと、次に若菜の方に視線を向けた。
「若菜様も、玉藻御前の遺産を護り抜き、その上で誰に託せば良いのかを慎重に吟味なさったのだと思います。そしてその上で、島崎君が最良であると判断なさったのですよね。這い寄る混沌、とやらの能力を継承しているであろう事もさることながら……彼であればあなたにとっても御しやすい存在ですし。
そう言う意味でも、玉藻御前の子女たちがこれを継承するよりも、うんと良かったのではありませんか」
若菜に問いかけるミツコの顔には、女狐めいた狡猾な笑みが浮かんでいた。
ここで政治的な思惑を口にするとは、やはり彼女も萩尾丸の重臣なのだ。半ば呆れながら源吾郎が思っていると、若菜もまた同質の笑みを浮かべているではないか。
「ええ。林崎さんが指摘したような側面もありますわ。私はあくまでも玉藻御前にお仕えしていた身分に過ぎません。あのお方の子女たちに指図するような権限は私にはありませんもの。それに伯服様や玉面公主様とて、極東の僻地に住まう野狐に指図されるのは良い気はしませんでしょうし。
その点白銀御前様やその一族の方たちでしたら、私も多少は交流がありますからね。特に一族の方たちは、素直な方が多くて、その意味でも助かります」
年数を重ねた老齢な妖狐であっても、やはり対妖関係というものを使うらしい。妖怪社会の中で当たり前の事ながらも、源吾郎は今一度その事を実感した。
かくして、源吾郎は無貌の神の彫像を手にする事と相成ってしまった。そしてそれは、決して覆らぬ事柄でもあった。