やっと今日の仕事も終わりか。午後六時の終業時刻を告げるチャイムの音に、雪羽は思わず深く息を吐いた。
今日は雪羽にとって長い一日だった。特に午後からは、時間が恐ろしいほどに引き延ばされたように思えてならない程に。それは別に、萩尾丸の命令によって雑用や機器の修繕の為に工場棟に派遣されたからではない。
京都で開催されていた裏初午にてテロ行為が起きた。この事件こそが、雪羽の心をかき乱す要因だったのだ。
もちろん雪羽自身は雷獣であるから、妖狐ばかり集まるこの会合には直接関係はない。しかし同僚である源吾郎がこの裏初午に出席していた。最初はテロが起きた、という事しか解らなかった。だが午後三時の中休みの時にネットニュースを確認したところ、事件に巻き込まれた源吾郎が、意識不明の状態で病院に搬送されたという情報を知ってしまったのだ。雪羽が戸惑い、うろたえるのも無理からぬ話だった。
もちろんというべきか、工場に勤務する従業員たちもまた、今回のテロに驚き、そこここで噂しあっていた。従業員には妖狐も一定数存在していたし、テロ行為という恐ろしい事件については種族を問わずに関心を惹かれたようであった。
とはいえ、テロ行為とその被害、或いは首謀者たちの動機云々について一番熱心に話し合っていたのは妖狐たちである。彼らは玉藻御前の末裔を名乗っている訳では無いが、それでも同族が仕出かした事には変わりない。もしかしたら身内や知り合いが裏初午に出席していた可能性とてあるのだ。であれば、彼らが関心を持ち噂しあうのもまたごく自然な事と言えるであろう。
もっとも、雪羽はその件について妖狐たちと意見交換する事はついぞ無かった。
元より雪羽は妖狐たちとそれほど親しくはない。野狐であろうと彼らはお狐様としてお高く留まっていると感じていたし、妖狐たちも妖狐たちで、貴族の血を享けながらも悪ガキだった雪羽とは距離を置いていたのだから。
強いて言えば、人間の術者である鳥園寺さんと言葉を交わした程度であろうか。「あまり心配しない方が良いよ。島崎君は強いから、きっと大丈夫だって」朗らかな笑みと共に、彼女はあの時そう言ったのだ。
源吾郎が共通の知り合いであるという接点が鳥園寺さんに対してあったのだが、雪羽は彼女とは話が合いそうだと思うようになっていた。源吾郎はどうにも真面目一辺倒な側面が強いのだが、鳥園寺さんは存外ノリの良い所も持ち合わせている。ともすればどぎつく感じられるジョークの類も、会話を彩る良いスパイスになっているように感じられた。
※
「雷園寺君。今日はお疲れ様。色々と気を揉んだりしたんじゃあないかな」
研究センターの事務所に戻った雪羽を出迎えたのは、教育係の萩尾丸だった。彼はスマホを片手に何やら思案顔を浮かべていたが、雪羽の姿を見つけるなり笑みを作ってその面に貼り付けていた。
「島崎君なら二時間ほど前に目を覚まして、そのまま病院から出る事が出来たそうなんだ。目を覚ました後も彼は彼で色々あったんだけど、今は僕の部下と共にこちらに戻っている最中なんだ。だから雷園寺君も安心したまえ」
無事、だったんですね……呟く雪羽の声と顔には、あからさまな喜色が灯っていた。源吾郎の安否は心配だった。病院に運び込まれた時は意識不明だと聞いていたから、最悪の事態すら脳裏をかすめたくらいなのだ。
目を覚ました上に研究センターに戻ってきているという事は、単に失神しただけで大した事は無かったという事なのだろう。そしてこちらに向かっているという事は、源吾郎に会えるという事だ。それならば、源吾郎が戻ってくるまで雪羽も待っておこうと思った。
そんな雪羽の心中を見抜いたのか、萩尾丸の眼差しが変化した。幼子をなだめる様な、しかし有無を言わさぬ圧を纏っている。
「雷園寺君。君も今日は工場棟での雑務を色々と請け負って頑張ってくれただろう。だから今日の仕事はこれで終わりにしたまえ。君も気を張っているだろうし、じっくりと休むんだよ」
「え、でも……」
それでも雪羽が疑問を口に出来たのは、源吾郎と顔を合わせたいという気持ちが強かったからなのかもしれない。萩尾丸は一瞬驚いたような素振りを見せたが、さりとて彼の冷徹な気配が揺らぐ事は無かった。
「島崎君は京都からこちらに向かっているんだよ。高速を使っていたとしても、帰って来るには一時間以上かかるんだ。仕事が終わったというのに、ダラダラと職場に居残るのも健全な事とは言えないんだよ」
萩尾丸はそこまで言うと、ポケットから札を取り出し、半ば押し付けるように雪羽に手渡した。転移用の術式が込められた護符である事は、確認せずとも明らかだ。四の五の言わずにさっさと帰るんだ。そう言われているも同然だった。
雪羽が転移術の護符を受け取ったのを見届けると、萩尾丸の表情がにわかに柔らかな物に変化した。
「どのみち島崎君が出社するのは、早くとも明後日の金曜日になるんだ。彼の体調次第では週明けになるかもしれないね。一時的とはいえ島崎君は病院の世話になるような事態に陥ったんだ。そうでなくとも色々な事に巻き込まれたから……彼も今日はかなり消耗している。
雷園寺君。君が心配するのもよく解るけれど、今日はそっとしておいてやるんだ。まぁ君らの事だから、電話なりメールなりでやり取りするくらいなら問題は無いだろうね」
何故か悪戯っぽく微笑む萩尾丸に対し、雪羽の頬も緩んでしまった。萩尾丸の指摘通り、雪羽と源吾郎の間には電話やメールでのやり取りがあった。それも仕事絡みではない、個人的なやり取りが過半数を占めていた。まぁ男同士であるし職場で顔を合わせているから、そこまで頻繁にやり取りをしている訳では無いが。
とはいえ、源吾郎が休んでいる間に連絡を入れるのもやぶさかではないと雪羽は思っていた。それに律義な所のある源吾郎の事だ。具合が良ければ先んじてこちらに連絡を入れてくれるかもしれない。
「解りました。そうしたら今日は僕も帰りますね」
「お疲れ様。また明日も頑張ってね」
軽い調子で手を上げる萩尾丸は、それこそ帰り支度をしている気配は無かった。まだ仕事が残っていると言いたげな風情であった。今から転移術で戻ったとしても、萩尾丸が自宅に戻るまでにはあと二時間ほどかかるであろう。
そんな風に雪羽が考えていると、笑顔を浮かべた萩尾丸の口から思いがけぬ言葉が飛び出してきた。
「今宵は三國君や月華さんの許で存分に甘えると良いよ。君も事件の事で気を張っていたみたいだからね」
雪羽の目が大きく見開かれた。転移術の護符を使って向かう先は、萩尾丸の屋敷だとばかり思っていたためだ。諸般の事情により、雪羽は萩尾丸に引き取られた身分である。従って普段は彼の屋敷で暮らす事が強いられている。三國の家に戻る事が許されているのは、土日や長期休暇などの休日か、それこそ何かあった時くらいである。
だが今日は水曜日だし、それこそ何か重大な事が雪羽の身に降りかかった訳でもない。だからこそ、三國の屋敷に戻る事を示唆する萩尾丸の発言に、雪羽は大いに驚いたのだ。
「萩尾丸さん。もしかして、俺を三國叔父さんの許に転移しようとなさっているんですか……?」
「まあね。雷園寺君だって、僕の屋敷でぽつねんと過ごすよりも、可愛がってくれる三國君たちの家にいる方が気が休まるんだろう。しかも今は可愛い弟妹もいる訳だし、尚更じゃないか」
雪羽の問いかけに、萩尾丸は事もなげに言葉を紡いでいった。笑い交じりで語られる萩尾丸の言葉を前に、雪羽は気恥ずかしそうに目を伏せる他なかった。まさしく彼の言葉通りだったからに他ならない。