結局のところ、源吾郎は木曜日だけ休みを取り、金曜日には普段通り出社する事ができた。ミツコたちの言いつけ通り木曜日は外出せずに過ごしたというのもあるし、やはり四尾の妖力と体力の恩恵によるものが大きいだろう。何せ木曜日の朝、目覚めた段階で「これはそのまま出社してもイケそうだ」と思えるくらいには心身の疲労は解消されていたのだから。
もっとも、心の中で思う事と、実際に仕事を行う事には大きな差がある訳なのだが。そしてそれを、源吾郎は思い知った訳でもある。とはいえ、今日は紅藤たちにおのれの能力を暴露し、紅藤や萩尾丸はその内容を吟味するという、とんでもない打ち合わせに参加した。業務内容としてはイレギュラー中のイレギュラーであるから、他の日の仕事と比較するのはおかしな話かもしれないが。
とはいえ、疲れ果ててしまった事には変わりはない。今日が金曜日で、明日になればまた休みである事が実にありがたかった。そうした事も見越して、ミツコは二日休むようにと言ってくれたのかもしれない。
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そんな訳で長い金曜日の労働から源吾郎は解放された。しかし、源吾郎はすぐに帰宅する訳でも無かった。帰ると言っても居住区で寝起きしている身分であるから、そもそも職場と部屋の距離は徒歩数分にも満たない。
それに今回は、雪羽や鳥園寺さんに色々と話がしたいとせがまれている所でもあった。源吾郎は二人の申し出を拒まなかった。源吾郎としても、雪羽たちに元気な姿を見せたいと思っていたのだから。
若者、それも新入社員の三人組は、ひとまず工場棟の内部にある食堂で落ち合い、丁度良い丸テーブルを囲んで雑談に洒落込む事と相成ったのだ。
「二日ぶりっすね島崎先輩。ああ、元気そうで本当に良かったよ」
「私はしばらくぶりかな。同じ敷地で働いていても、部署とかが全然違うからしょうがないよね。あ、でもユキ君は結構工場棟でも見かけるけれど」
源吾郎と落ち合った二人の反応は対照的な物だった。雪羽は感極まった様子で源吾郎に近付き、ともすれば飛びかかって来そうな勢いを伴っていた。実際に、三本の尻尾は鋭くピンと立ち上がり、喜びの念を示しているではないか。
一方の鳥園寺さんは、割合冷静な様子で源吾郎に向き合っているし、話している内容自体も当たり障りは無い。だがそれでも、言葉の節々や表情には源吾郎を気遣う色が見え隠れしていた。
「ああ、二人とも。心配をかけてしまって申し訳ないね」
雪羽と鳥園寺さんを見ながら、源吾郎はまず素直に詫びた。実を言えば、裏初午に戻ってきた時にこの三人で仕事の後に集まってだべる事は決まっていた。玉藻御前の末裔を名乗る集団に源吾郎が招かれた事そのものに、雪羽も鳥園寺さんも興味を持っていたためだ。それに源吾郎は、数日前に見た奇怪な夢――九つの首を持つ化鳥と鋭角で構成された狼の闘いだ――についても、鳥園寺さんに話すつもりだったからだ。
もっとも、今回の話題は牛鬼襲撃事件についての事が話の大多数を占めるであろうけれど。
牛鬼襲撃事件については、雪羽も鳥園寺さんたちももちろん知っている。死者こそ出なかったものの、大規模かつ想定外のテロ行為が勃発したのだ。源吾郎は後で知ったのだが、若菜やミツコらが首謀者連中をシメている間に、事態を嗅ぎつけた報道関係者(もちろん妖怪だ)もどさくさに紛れて現場に押し寄せていたともいう。秘められた会合、それも玉藻御前にちなむ妖狐たちの会合で発生したテロ事件。マスコミも野次馬も一般妖《いっぱんじん》も飛びつく内容である事は言うまでも無かろう。
もっとも、源吾郎を裏初午に送り出したのは萩尾丸であるから、もし野次馬が情報拡散に乗り出さなかったとしても、雪羽には裏初午で発生したテロ行為について伝わっていた可能性も十分考えられるのだが。
さて雪羽と鳥園寺さんはというと、源吾郎の謝罪にまず困ったような表情を浮かべ、しかしすぐに柔らかな笑みを向けてくれた。
「本当に、本当に心配だったすよ、島崎先輩。先輩がお狐様たちの、玉藻御前の末裔を名乗る連中に認められるかどうかだけでも気になっていたのに、まさかあんなとんでもない事件に巻き込まれるなんて……」
雪羽の眉は下がっていた。瞬きの多い翠の瞳はいつになく潤んでいる。必死で涙をこらえているのだと思い至り、源吾郎は静かに衝撃を受けていた。
しかし次の瞬間には、雪羽は笑みを作って勢いよく顔を近づけてきた。と言っても、その笑みはぎこちなさを伴ったものだ。雪羽が源吾郎の前で、源吾郎の為にそんな表情を見せる事は、もしかしたら今回が初めてかもしれない。そんな考えが何故だか脳裏をかすめた。
「でも、朝から出勤したって事は元気そのものなんだよな。具合が悪かったら紅藤様からドクターストップがかかるだろうし、そもそも先輩だって出勤しようなんて思わないもんなぁ」
ははは。言い聞かせるように、念押しするように語る雪羽に対し、源吾郎はまず明るく朗らかに笑ってみせた。
しきりに源吾郎の身を気遣っている雪羽であるが、昨日は昨日で電話なりメールなりで何度も連絡を取り合っていた。木曜日の段階で大体元気になっていた事は雪羽も知っているはずなのだが、それでもなお彼は源吾郎の身を案じてくれているのだ。
「見ての通り、俺は元気そのものさ。見ての通り四尾だからね。再生能力と言うか、疲れとかしんどさから回復させる力って言うのが、俺の中には満ち満ちているんだよ、きっと。
それに実は、紅藤様の護符が牛鬼の攻撃から護ってくれたから、投げ飛ばされたり毒液を飲まされたり何やかんやあったけれど、まぁ大丈夫だったの」
言いながら、源吾郎はそれとなく左手首の袖をずらした。紅藤様の護符を雪羽に見せたのだ。但しこれは牛鬼襲撃の折に着けていた護符ではなく、昨日新たに新調してもらったものであるが。どちらにせよ、雪羽は源吾郎の護符が新調された事は知らないのだが。
雪羽は柳眉を寄せて源吾郎の護符を眺めていたが、ややあってから深々と息を吐いた。
「先輩が大丈夫って言い張るのなら、俺もその言葉を信じますね。えへへ、確かに先輩も普段通りっぽいっすもんね」
そこまで言うと、雪羽の笑みがぎこちない物からいたずらっぽい物へと変質したのだ。
「もっと言えば、普段の先輩だったら牛鬼と闘った事を武勇伝としてこの俺に語ってくださるんじゃあないですかね。先輩はさ、今でも俺と先輩とどっちが強いか、ずっと張り合っているでしょ。まぁ俺も負けないけれど」
舌をぺろりと出して笑う雪羽のその言動は、明らかに源吾郎への挑発だった。だが源吾郎は、そんな雪羽の姿を見て嬉しさと安心感がこみ上げてきていた。普段通りの雪羽の姿が見れた事と、雪羽も元気を取り戻したであろう事。この二つが伝わってきたためだ。
雪羽は今や、源吾郎にとっては絶好のライバルであり、尚且つ信頼しあう友達でもあった。
「牛鬼と闘った事が武勇伝になる、かぁ……」
源吾郎と雪羽のやり取りを耳にしていた鳥園寺さんが、ここでようやく口を開いた。彼女の瞳が強い驚きに彩られているのを源吾郎は見て取った。
「牛鬼の事は私も知ってるわよ。強くて肉食で残忍なのに、知能も高いし呪詛とか祟りの類も使えるから、敵に回したら厄介な相手よね。まぁその……元々牛鬼はそれほど人間とは友好的ではないから、一層大変なんだけどね。
そう言えば私の学生時代の知り合いは、牛鬼に化かされてありもしない場所にコンビニがあると思い込んで、そこで海そうめんなんかをゲットしちゃったんだけど……まぁその話は今度にしようか。今回は島崎君が色々と話したい事もあるでしょうし。どっちにしろ大変だったんでしょう?」
そう言って鳥園寺さんは笑いかけてくれたが、源吾郎と雪羽はすぐに何か言い出す事が出来なかった。間接的とはいえ牛鬼に遭遇したという鳥園寺さんの体験談は、何と言うか色々な意味でインパクトが強すぎた。そして雪羽は何故か渋い表情を浮かべている。生の海産物なんてゲテモノじゃないか。小さな声で彼はそう言っていた。
とりあえず自分が牛鬼と闘った時の話をするべく、源吾郎は口を開いた。
「大変だったかどうか、ですか。その時はもう特に何も考えずに、牛鬼に立ち向かってましたね。向こうも仲間たちに襲い掛かって喰い殺そうとしていたんです。アレは敵だ、必ずや俺たちで仕留めなければならない――その考えで頭が一杯でした」
話しながら、源吾郎はおのれの血が再び沸き立つのを感じた。笑みに緩んでいたであろう頬を引き締め、鳥園寺さんの表情を用心深く観察した。血が沸き立つような興奮と共に、源吾郎は残忍な衝動を感じ取っていた。自分の挙動や表情にそれが露わになったのではないか。そのために鳥園寺さんを怯えさせることはないか。そんな懸念を抱いていたのだ。
奇しくも鳥園寺さんの顔には怯えの色は無い。雪羽は感心したように呟いた。
「先輩ってば普段は優しいですけれど、いざ
そんな事を雷園寺は思っていたのか。真顔で言ってのける雪羽の姿を、源吾郎は思わず凝視していた。
余談ではあるが、雪羽は闘う事への抵抗は薄い反面、敵の生命を奪う事への抵抗感や忌避感は極めて強かった。それは博愛主義だとか甘ったれた考えであるという意味ではない。もっと単純に、雪羽は自身の目の前で誰かが
一方の源吾郎はどうだろうか。雪羽に較べれば好戦的ではないし、闘ったり物理的な喧嘩を行うのは苦手な方である。というよりも就職するまでは暴力的な行為とは縁遠い生活を送っていたような身分だ。
しかしその一方で、悪辣な所業をやってのける相手には強い憤怒を抱く事も源吾郎はあった。雷園寺時雨を妹や付き妖《びと》と共に拉致し、雪羽に殺させようとした犯罪グループの連中などがその具体例だ。実を言えば、雪羽が大暴れしつつも彼らの生命を奪うに至らなかった事が源吾郎には不思議でならなかった。あんな外道連中は
いずれにせよ、あの時牛鬼に対して純粋な
「やっぱり島崎君もユキ君も妖怪で、しかも闘うための強さと才能があるのよね。か弱い人間の女子に過ぎない私にしてみれば、全くもって恐ろしい話ですわ」
「あははっ、やっぱり鳥姐さんには、俺たちの会話はちと刺激が強すぎましたかねぇ」
おどけたような調子で鳥園寺さんが言うと、それに乗っかるような形で雪羽が笑い交じりに応じている。
雪羽と鳥園寺さんが思いがけず仲の良い様子を見せている事に源吾郎は少し面食らってしまった。だがそれ以上に、おどけた鳥園寺さんの言葉に、いくばくかの切なさと憐みの念が入り混じっている事が気になってしまった。