会計を済ませた喫茶店を後にした源吾郎の心は、実に晴れやかな物だった。ずっと想いを寄せていた米田さんが意を決しておのれの心中を語り、その上で正式に付き合う事が決まったからである。
その道中として、米田さんの重くて暗い過去話を聞かされた訳であるが、その時に感じた衝撃や戸惑いも、今となっては遠い昔の出来事のように思えてならなかった。話し合いの結果だけをピックアップし、その事で源吾郎は満足して喜んでいた。自分でも呆れるほどに単純な男である。
とはいえ、源吾郎が晴れやかな気分に浸ろうが多少浮かれていようが、その事は特段問題にはならないはずだ。隣を歩く米田さんも、穏やかな笑みをたたえているのだから。独りで抱え込んでいた秘密を打ち明けた事で、彼女も肩の荷が下りたのだろう。源吾郎を見つめるその眼差しや穏やかな表情には、もはや陰鬱な気配は感じられなかった。
ついでに言えば天気も良い。少しでも視線を上に向ければ、澄んだ青空が視界に入る。雲に覆われていない二月の日差しは意外にも暖かく、優しく地表に降り注いでいる。よく見れば青空のあちこちに雲の姿はあるにはあるが、いずれも白くて小さなものであり、空を覆って急に雨を降らせるような気配は無かった。
「米田さん。折角なのでこの近辺を散策しませんか。腹ごなし、じゃなくて食後の運動にうってつけですし、僕も多少はこの辺りの土地勘はありますからね」
源吾郎はそこまで言ってから、米田さんの方をちらと見やった。自分のやりたい事だけまくしたてて、彼女の意見を聞いていない。その事に気付いて我に返ったのである。しんどいとか田舎町だから歩く気にならない。そんな風に彼女が思っている可能性とてあるのだ、と。
いかがしましょうか。源吾郎が問うまでもなく、米田さんは微笑みながら頷いていた。
「そうね。ここって今の島崎君が生活の拠点にしている所だし、私も仕事以外ではあまりこの辺りに出向く事はないのよ。それに私自身、狐だからあちこち遠くまで出歩くのも好きだから」
米田さんはそこまで言うと、ハッとしたような表情で周囲を見渡した。冷静に振舞う彼女にしては珍しく、何故か少し慌てたような面持ちである。
「しまったわ。私、うっかり狐なんて言っちゃったわよね。誰かに聞かれでもしないかしら」
「それについては大丈夫ですよ、米田さん」
彼女が焦っている理由を知った源吾郎は、穏やかな笑みをたたえながらそう言った。いたずらっぽい態度のままに、四尾を顕現させたほどである。
「実はですね、僕と米田さんの周囲に薄く認識阻害の術をかけているのです。簡単な術なので僕たちの姿や話している事が完全に見聞きできない訳ではありませんが、それでも『ただそこにいるだけ』という程度しか注意を引かないような仕掛けになっています。要は僕たちがどんな会話をしているのか、妖狐の本性を晒してしまっているのか、そんな事はあやふやになっている状態ですね」
源吾郎はそこまで言うと、一息ついてから言い添えた。
「――もっとも、この僕の術はいかなる存在の目をも欺くという保証は出来かねますが。僕よりも若干格上の相手ならばさておき、それこそ萩尾丸先輩などの大妖怪クラスの方などには通用しないかもしれませんが」
うふふ。付け加えられた源吾郎の言葉を聞き終えるや否や、米田さんの口から笑い声が漏れ出た。
「そこまで言うなら大丈夫よ、島崎君。私はただ、軽い気持ちで言っただけなんですから。それに島崎君が認識阻害とか結界術とかが得意だって事は私も少し知ってるの。だから安心できそうね」
「そう仰っていただくと嬉しい限りです」
安心できると他ならぬ米田さんから言われ、源吾郎は頬を火照らせながら礼を述べた。そんな源吾郎の態度に、堅くならなくて大丈夫だと米田さんにアドバイスを貰ったのはまぁご愛敬である。
そんな訳で、源吾郎と米田さんは吉崎町をブラブラと散策する事と相成った。ちなみに源吾郎たちがぶらつく所は市街地の外れである。源吾郎の本宅に近い一方で、田園の中に神社やら公園やらが埋もれているような立地条件でもある。
自然を楽しむにはうってつけかもしれないが、何か見所のある物を探すとなると、延々と歩かねばならない。そんな状況下ではあったが、米田さんはそれでも快諾してくれた。元より彼女はキツネから変じた妖狐であり、更に傭兵や使い魔稼業に従事しているために、肉体労働には慣れっこだという。源吾郎の提案した散策でへばる事はまずないし、それこそ腹ごなしに丁度良いとの事であった。
ちなみに米田さんは、自家用車でこの吉崎町に来たのだという。源吾郎は電車やバスなどの便が少ないから大丈夫だろうかと気を回していたが、今日の米田さんはそうした心配事からも無縁だった。
というよりも、遠方のデートの為だけに車で乗り付けた(もちろん車は然るべき駐車場に停めている訳だが)米田さんが、こなれた大人のように思えてならなかった。源吾郎も運転免許そのものは取得してはいる。しかし自家用車を保有している訳では無い。自家用車を購入するだけの資金はまだ貯まってないし、町内の外出はママチャリでどうにか事足りているからだ。
愛車(?)がママチャリである事に一瞬気後れした源吾郎であるが、気を取り直すまでにはさほど時間はかからなかった。車の事に興味を持ち、ひいては米田さんとの会話のネタになると思い直したのだ。
「米田さん。最後に米田さんの車も見せて頂けませんか。やっぱりカッコいい車なんですかね。それとも可愛い車なんでしょうか」
概ね凛とした姿を見せている彼女であるから、車もカッコいい車かもしれないな。いや、イケメン女子の気質がある米田さんが、可愛い車を愛車にしている可能性も捨てがたい。そんな風に源吾郎が考えていると、米田さんは少しばかり当惑したような表情を見せていた。
「あら、島崎君は私の車にも興味を持ってくれたのね。でもねぇ、そんなに珍しい物でもないわよ。普通車で、あんまりこれと言った特徴もないかしらね。仕事柄、あんまり目立つ車だと支障が出る事もあるし」
「そこまで考えていたんですね」
自家用車についても仕事を考慮した物を選んでいるのか。やっぱり米田さんは大人の妖怪なのだなぁ。源吾郎はしみじみとした気持ちでそう思うのだった。
そんな風に驚いたり感動している源吾郎を見やりながら、米田さんは更に言葉を続けた。
「後は……そうね、代々の車の特徴なんだけど、強いて言うなら頑丈な車とか、事故っても
車を選ぶ基準って、そういう事も含んでいるのか。流石の源吾郎も、その部分に対しては言葉は出てこなかった。話のニュアンスからして、事故る事を前提にしたような車選びだったのを感じ取ってしまったからだ。
※
さて車の話などで盛り上がったり驚いたりしていた源吾郎と米田さんであるが、その後は二人で吉崎町の外れを散策する事と相成った。
町の外れでありながらも広々としているがために良く目立つ神社を参拝したり、田園や田畑を擁する日本家屋を眺めたりしながら歩を進め、ちょっとした世間話に花を咲かせていたのである。
この散策を、米田さんは源吾郎が思っていた以上に楽しんでいた。キツネと同じく妖狐も運動量の多い存在である事もさることながら、都市部に暮らす彼女には、のどかな田園風景が心の癒しとして作用したようだった。源吾郎などは田んぼや畑ばっかりで見飽きないだろうかと思っていたのであるが、それはあくまでも源吾郎の個人的な感想に過ぎない。というよりも、源吾郎は源吾郎で吉崎町界隈の風景に慣れてしまったともいえるだろう。
神社で願掛けをした後は、すぐ傍に隣接する公園に足を運んだ。妖怪向けの公園かどうかは定かではない。ペンキのはげかけたベンチや寂れた遊具が鎮座するだけの、ごく小規模な公園だった。今となっては地元民である源吾郎でさえ、こんな公園があったのかと思うほどである。
或いは地元住民でさえ、ここに公園がある事を知らない人も多いのかもしれない。公園の中は人気は無く、ただただ鳩が三、四羽ほどで所在なく歩いている程度だった。人気が無いのは都合がいい。急に浮き上がった考えが源吾郎の頬に笑みを作らせた。
「良い感じの公園に入りましたし、少しここで休憩を入れましょうか」
源吾郎の提案に、米田さんも素直に頷く。それから少し気遣わしげな眼差しを源吾郎に向けたのだ。
「もしかして、島崎君もずっと歩き通しで疲れちゃったかしら。そこも意識しないといけなかったわよね。私、こういう機会ってあんまりなかったから、男の子を喜ばせる事に少し疎くて……」
「大丈夫ですって米田さん! 俺、別に疲れちゃった訳じゃあありませんので」
申しわけなさと気恥ずかしさを織り交ぜた米田さんの言葉に、源吾郎は早口気味に応じる。その声に喜色が混じっていたのは、米田さんもまたこの度源吾郎に気を配り、彼を喜ばせようとしている事が明らかになったからである。
源吾郎は米田さんの目を見ると、二度ばかり深呼吸してから告げた。
「本当は、休憩というよりも米田さんともう少しお話がしたいなって思っただけなんです。喫茶店の中とか、さっきの散策でも色々お話しましたけれど、やっぱり誰もいない所の方がお互い気兼ねなく話ができる気もしますし」
「そういう事だったのね、島崎君」
源吾郎の説明に米田さんも納得してくれた。そこで二人は並んでベンチに腰を下ろしたのだ。その時、餌を探していたはずの鳩の一羽が他の鳩に求愛行動をしているのを目の当たりにしてしまい、思わず源吾郎は吹き出してしまったのだった。