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二月の第二土曜日。港町某所。中心地にある繁華街の華やかさと下町特有の雰囲気を併せ持つアスファルトの道を踏みしめる一組の男女がいた。
一組の男女と言ってもカップルの類ではない。カップルや夫婦に見られるような、親しくて親密な空気は二人の間には感じられなかった――背の高い男の方が、人の好さそうな笑みを若い女に対して向けていたにも関わらず、である。
男の方は若々しいものの、大人の男である事はその立ち振る舞いや身なりからは明らかだ。一方の若い女は文字通り若かった。見た感じの歳の頃は十六、七くらいであろうか。少女と呼んだ方がしっくりくるような見た目である。
もっとも――自然体の笑みに見せかけた仮面を薄く貼り付けているような気配や、瞳の奥底でゆらゆらと揺れる猜疑心の片鱗が、彼女は単なる少女などではない事を物語っていたのだが。青みがかった灰褐色のショートボブという事もあり、見る人が見れば顔立ちだけが可愛い不良少女にも見えなくもない。少女の髪色は地毛ではあるが、不良少女という印象はまぁ間違いでも無かろう。
ちなみにこの男女、そもそも人間ですらなかった。二人とも妖怪に分類される存在であった。厳密に言えば男は妖狐と人間を父母に持つ半妖であり、少女の方は妖怪化したアライグマだった。
本性が化けアライグマという事であれば、愛くるしい面から猜疑心に満ちた獰猛さが見え隠れするのも無理からぬ話であろう。獣としてのアライグマもそもそも気性が荒い事で有名であるのだから。生まれつきの妖怪ではなく、獣から妖怪化しているのだから尚更だ。
「熊谷《くまがや》ちゃんもお疲れ様。三連休の初日から仕事に勤しむなんて、君も勤勉だね」
「勤勉も何も、アタシにゃあ休日なんてものには無縁ですからねぇ」
軽妙ながらも気遣うような男の言葉に、化けアライグマの少女がへらりと応じる。少女は熊谷リンと名乗っていた。後天的であれ、妖怪になった者はこうしてフルネームを名乗ったり付けられたりする事が珍しくはない。もっとも、彼女自身はリンだとかラス子などと呼ばれても構わないと思っているくらいなのだが。
「それにしても、アタシの事を熊谷さんだなんて丁寧に呼んでくれるのは桐谷の所長くらいですよぅ。大体ラス子って呼ばれる事がほとんどなんで、アタシももうラス子でも構わないかなぁ、なんて思う位なんですからぁ」
場合によってはゴミパンダだの三千円のメスと呼ばれる事もあるのだ。リンはそんな事を言い足して、からからと豪快に笑ってみせた。心の中では自分が愉快な気持ちになっているのかどうかは解らない。だが、ラス子というあだ名を好いている事だけは解っていた。この地にいるアライグマは、なべて悪党《ラスカル》と呼ばれる事を好むのだから。ラスカル。それこそが北米に住まうはずのアライグマをこの地に引き寄せた大いなる御名なのだ。
隣を歩く半妖狐の男――桐谷苅藻は、リンの考えや他のアライグマ妖怪どもの境遇も知っているはずだ。その上で、こうしてリンに対して物腰柔らかく振舞っている。女性に対するサービスなのか、フリーランスの営業マンとしての愛想の良さなのか、リンには解らない。利用できるところは利用すれば良い。リンはそんな風に割り切って考えるだけだった。
とはいえ、彼を利用しても彼にべったり依存するのは危険である事は薄々感じ取っていた。というのも、桐谷苅藻の先祖は玉藻御前という大妖狐に行き当たるからだ。苅藻自身は悪い男では無さそうではある。だが彼の出自やそれに付随するあれこれが、厄介な物事を引き寄せるのではないか。そんな懸念がリンの中にはあった。
利用できる相手は利用しても、特定の相手に依存しすぎたり肩入れし過ぎるのは危険な事だ。これこそが、数十年間化けアライグマとして生きてきたリンの処世術に他ならなかった。
「それにですよ桐谷所長。アタシは後ろ盾も血統も何もない野良妖怪ですよぅ。働けるときに働いておかないと、銭っ子にもおまんまにもありつけなくなっちゃうんですよ。まぁ、所長みたいなお狐様や
言いながら、リンは両手のひらをぐっと握りしめていた。アライグマの故郷ともいえる北米ならばいざ知らず、この日本ではアライグマやアライグマ妖怪は概ね迫害されがちだった。アライグマが特定外来生物と見做され、積極的な駆除が敢行されている事は言うまでもない。妖怪化している個体は問答無用で駆除される事はまだ少ないが、それでも土着の獣妖怪たちと折り合いが悪い事には変わりない。特に化け狸との相性は最悪であり、殺し合いに繋がる抗争に発展する事も往々にしてあるほどだ。
少し前までは、名のある大妖怪の若君という後ろ盾を持っていたリンであるが、それも今や無意味なものになっている訳である。
「そう言えば熊谷ちゃんは雷園寺君とも親交があったよね。君だけじゃあなくて、君のお兄さんもだけど」
苅藻の言葉に、リンの表情が一瞬だけ強張った。図星だったからだ。
半年前までリンが後ろ盾としてつるみ、利用していた若妖怪こそが雷園寺雪羽だった。雷獣の一族の中では貴族の血を享けているという高貴さ、生後
もっとも、そんな利害関係も半年前の事件で破綻してしまったのだが。今まで黙認されていた雪羽のおイタが上層部の怒りを買ってしまったらしく、大天狗に拉致されて謹慎処分を受けてしまったのだ。その際に、雪羽に悪影響をもたらしたとされる妖怪たちと強制的に縁を切る事となったのは言うまでもない。要するに、雪羽に憑き纏っていたオトモダチ連中は、単なる野良妖怪に成り下がったのである。
更にそうした寄せ集め連中の中には、悪妖怪の口車に乗せられて悪事に加担してしまった輩も一定数存在する。リンの兄もその一匹だった。しかも彼は、雷園寺家の次期当主――この子は雪羽の異母弟だそうだ――を拉致し、殺害しようとする計画に乗っかってしまったのだからたまったものではない。
「後生ですからアホンダラのお兄の話をするのはやめてくださいよぅ。あいつは見せかけの大きな利益に目が眩んで、それでとんでもない悪事の片棒を担いだんですから。アタシも元からお兄が考えなしな所があるのは知ってましたけど、あそこまで分別が無いなんて思わなかったんですよ~」
リンはそう言って肩をすくめた。兄の愚行には思う所しかなかった。雷園寺雪羽を次期当主の座に返り咲くための手伝いだとやつらは持ち掛けたのだが、しかしだからと言って幼い妖怪を拉致して殺すなどと言う計画に加担するものなのか。
ついでに言えば、リンも兄も雪羽に対して篤い忠誠心を持ち合わせている訳では無い。しかも謹慎処分の際に一度縁が切れた間柄でもあるのだ。その雪羽に対して何やら動く義理などは、元よりリンたちには無いはずだ。
苅藻は黙って話を聞いていたが、何処か寂しそうな表情を見せている。
「アホンダラとは手厳しいなぁ。君の兄君がやった事はもちろん赦されない事ではある。だけど妹から見たら兄ってそんなもんなのかね」
別に兄妹だからという訳では無く、これはリン個人の考えに過ぎない。そう思いはしたものの、リンは黙ったままだった。あれこれ説明するのが面倒だったのだ。
「とはいえ熊谷ちゃん。雷園寺君もまぁヤンチャ小僧だった時期もあるけれど、あの子も萩尾丸さんの指導の下で心を入れ替えて、今ではすっかり真面目な若者になっているみたいだよ。源吾郎も……俺の甥っ子もあの子とは仲良くしているみたいだしさ」
「噂じゃあ雷園寺家の次期当主候補に決まったらしいねぇ。それにしても半年足らずで更生して、ついでにきちんとした身分も手に入れたんだから、やっぱり貴族のお坊ちゃまは一味も二味も違うって事なんでしょうねぇ」
そこから苅藻とリンは更に言葉を交わした。その大半が仕事や暮らしの愚痴であったが、リンはこの時確かに気が晴れていた。
ついでに言えば苅藻の提案で、食事さえ奢ってもらったのだ。下心があっての事なのか、下賤なペットに餌付けする愉悦に浸っていたのかは解らない。そうした事はリンにはどうでも良かった。
利用できるものを利用して、その場の生を繋ぐために動く。それこそがリンにとって大切な事だったのだから。
犬アライグマ:本文中では狸を指す。英語では狸を「racoon dog」と呼ぶ。racoonはアライグマなので意訳すると「イヌ科のアライグマ」となるため(筆者註)