他人の金で食べた飯は美味しい物だ。肉であれ魚であれ、野菜であったとしても。妖狐の苅藻に食事をおごってもらったリンはすっかり上機嫌になっていた。ごみごみとした路地の間にあるおのれの家に戻るまでの道中であっても、スキップしながら帰りたくなるほどに。
だが……そんな上機嫌な時間も長く続くわけでは無かったのだが。
「何だラス子ちゃんよ、相変わらずこんなしけた所に暮らしてるのかよ」
「しけた所だと思うんなら、別に来なくてもいいんですよぅ。アタシだって知ってるんですよ、戸川の兄さんが今は良い暮らしをなさってるって事もね」
ふつふつと湧き上がる怒りと侮蔑の念をオブラートに包み、リンは慇懃無礼な口調でもって戸川という男妖怪に応対した。リンの気持ちに気付いているのかいないのか、戸川はニヤニヤ笑いを浮かべている。細長い二尾が揺れるたびに、魚介類の生臭い匂いとメス妖怪の残り香がブレンドされた空気がまき散らされる。
リンの上機嫌をぶち壊す決定打となったのは、まさしくこの戸川という存在が大きかった。戸川もまた野良妖怪の一匹であり、リンと同じく雪羽のオトモダチと見做されていた。
但し、リンと戸川の共通点などはその程度に過ぎない。まず戸川はカワウソの妖怪、それも
加えてカワウソ妖怪の癖に雷撃の術をも会得しているのだという。滅茶苦茶だ、とリンは密かに思っていたりするが、戸川自身は二尾を具えているのでまぁそういうものなのかもしれない。野良妖怪の中でも、二尾というのは
ともあれ戸川は雪羽のオトモダチの中でも強く、尚且つ傲慢な輩だったのは言うまでもない。かつては雪羽の保護者である三國の手下だったとか、その三國とは衝突の果てに仲違いをしたなどと言う噂もあるが、それらの過去や真相が如何なるものなのか、リンには解らなかった。
解るのは実にシンプルな事だけだ。自分にとって戸川はいけ好かない相手である事。向こうも向こうで、リンに対してチリチリとした憎悪と侮蔑を抱いているであろう事。その事が解るだけでもリンとしては十分だと思っていた。
そんな風に思っている相手が、わざわざリンのねぐらに押しかけて来たのだ。上機嫌な気分が吹き飛んで、不機嫌モードに振り切れるのも無理からぬことだ。
それにリンには、相手を力任せに追い払うという選択肢すら与えられていなかった。妖怪としての力、戦闘能力は戸川の方がリンよりもはるかに上回っているのだから。リンが逆らう素振りを見せたとしたら、不興を買った戸川にそのまま八つ裂きにされる恐れとてある。そうでなくとも戸川の戯れを止める力などリンには無い。そんな相手に闘いを挑むなどもってのほかだ。
力こそが全てを決める。そんな世界にリンは自ら身を投じて生きている。自分よりも弱い者に対して暴虐を振るい、奪い殺し喰らう事すらしているからこそ、それらがおのれに向けられる可能性を十分に心得ていた。
だからこそ、リンは従順に振舞って戸川をもてなす事にしたのだ。
「戸川の兄さんも折角このボロ屋に来てくれたんだからさ、アタシもあんたをもてなすってのが筋だろうね。ちょうどお茶は切らしているんだけど、お酒ならあるからさ。まぁ安酒だけど」
大体の場合、酒を飲んで何かを口にすれば良い気分になると相場が決まっている。だがやはり相手はオスであるから……リンはその面に媚びたような笑みを浮かべ、しなを作りながら戸川にすり寄ろうとする。籠絡術は女狐たちの足許にも及ばないが、それでも世間知らずのお坊ちゃまや粗暴な野良妖怪には十分通用する代物だ。その事もリンはきちんと知っている。
戸川はしかし、リンをしっかりと睥睨し、見下したような笑みを深めただけだった。
「はん? ラス子。まさかお前、この俺がやっすい酒とそれ以上に安っぽい女を求めて遠路はるばるぼろっちいアパートに足を踏み入れたとでも思っているのかい? 生憎と、女も酒も間に合ってるんだよ」
それともあれか? メス妖怪の残り香を吹き飛ばさんばかりに、彼自身の生臭い体臭を立ち上らせながら戸川は続ける。
「俺みてぇな上等なオスがやって来たって事でその気にでもなったのか? アライグマ様は繁殖力が旺盛だって言うからさ」
「だったらアレですかい? 戸川の兄さんはわざわざここも自分のテリトリーだとマーキングするためにアタシの許にやって来たんですかねぇ? この近辺に巣食う、ド厚かましい野良猫連中みたいにさぁ」
心中の舌打ちを押し隠しつつ、リンは軽口でもって応じた。戸川の存在に神経をピリつかせているリンであったが、その少し前に腹立たしい事が一つあった。リンの暮らすアパートの小さな庭で、野良猫が堂々と脱糞していたのだ。
くだんの野良猫とはばっちり目が合ったのだが、化けアライグマであるリンを見ても野良猫は逃げ出さず、用を足した後で悠々と立ち去っただけだった。しかもご丁寧にリンが植えたクロッカスをなぎ倒し、球根を掘り返しての事である。
おのれ、糞猫が……そう思ってリンは歯噛みするほかなかった。猫を襲わなかったのは、彼が猫又の庇護下にある事を知っているからだ。猫又というのは獣妖怪の中でもかなり怠惰な種族であるのだが、猫たちの心強い守護者であるという側面も併せ持っていた。猫を苛めれば猫又を敵に回す事になるのだ。そして今のリンには、猫又を相手に闘うほどの力はない。
ふと我に返ると、戸川はリンの話を鼻で笑い飛ばしている所だった。妖怪でもない猫畜生と一緒にするな、とでも言いたいのだろう。
「だからなラス子。俺は別に冷やかしとかしょうもない事であんたの許に来た訳じゃあないんだよ」
「じゃあ何でアタシの許に来たんですかねぇ?」
問いかけるリンの声は、途中で柔らかなものに変化していた。こちらに語り掛ける戸川の表情に、真剣さが浮き上がった事を感じ取ったためだ。何処か切羽詰まったとでも言いたげな物である。
「ビジネスの話を持ちかけたくて、それでわざわざラス子ちゃんの所にお邪魔したって次第さ」
ビジネスの話。リンは戸川を凝視する。その瞳孔がぐっとすぼまるのをリンは感じていた。のるかそるか。信じるべきか否か。表情を引き締めたリンは、脳内で自問自答を繰り返していた。
「ビジネスの話かぁ。ああ、それだったら酒を突っぱねたのも解りますよぅ。アルコールで鈍ったおつむじゃあ、マトモな話なんてできませんからねぇ」
言いながら、リンは円卓の傍らに腰を下ろし、その脇に置かれた箱を探り出した。そこには非常食だとか、酒のつまみになるようなちょっとした菓子を放り込んでいたのだ。長話になる可能性があるから、やはり戸川に何か振舞わなければならないと思ったのである。
「して戸川の兄さん。ビジネスとはどういった話です?」
リンが問いかけると、戸川は待ってましたとばかりに頷いた。その瞳はギラギラと輝いているではないか。
「人魚の養殖業さ」
「人魚の養殖業、だってぇ」
戸川の言葉に、リンは間の抜けた声で応じてしまった。リンとて人魚くらいは知っている。童話にも登場していたではないか。しかし戸川がここまでありがたがる素振りを見せるのは謎だった。童話の中に出てくる人魚は、片想いの相手である王子の愛を得られずに、血泡になってしまったではないか。そんな儚い者など、自分たちのような野良妖怪が躍起になるものだろうか。
リンが訝っているのが伝わったのだろう。戸川は僅かに首を傾げながら問いかける。
「どうしたラス子。お前だって人魚伝説くらいは知ってるだろう?」
「伝説と言うか、間抜けな人魚の話は知ってますよぅ。王子様とやらの愛を得られずに、泡になって溶けちまうって話でしたよねぇ」
やっぱり知らないじゃないか。戸川はまたしても鼻で笑った。
「それは北欧伝来のお話じゃあないか。俺が言いたいのはそっちじゃあない。この日本に伝わる人魚伝説の方さ。良いかラス子。日本ではな、人魚の肉を喰ったら不老不死になると伝わっているんだ。そしてだな、そんな人魚を養殖しているという話なんだよ。
俺らはまぁ人魚の餌になる肉を用意したり、職員のヒトたちと交流を重ねたりしているだけなんだけどな、それでも結構給金が弾むんだ。しかも忠実に働いた者には、人魚の肉を分けてくれるという話でもある。なぁ、いい話だと思わんか」
戸川の話は熱を帯び、ついでにカワウソらしい生臭い体臭も強まっていた。
生臭いだけではなくて胡散臭い話ではないか。リンはまずそう思った。だが、胡散臭いビジネスに乗らないと切り捨てる前に、件の養殖人魚とやらを見に行くのもやぶさかではない。そんな風に思い始めていたのだ。