青松丸の運転する車は静かに走行していた。彼の気質は母であり師範でもある紅藤の影響の為か、源吾郎をして似通っていると思わしめる所は幾つかあった。だが幸いな事に、運転の仕方については青松丸は紅藤のやり方を継承しなかったのかもしれない。
「島崎君。今日は偉い幹部の皆さんとの打ち合わせがあるから大変やと思うけれど、それを乗り切ったら大変なのもマシになると思うから、な」
ぼんやりと流れる景色を眺めていると、隣に座っているミツコが静かにそう言った。慈しみ源吾郎をいたわるような優しさと共に、何か楽しい事でも期待しているかのようなニュアンスが入り混じっている。
源吾郎はだから、振り返ってミツコの顔をじっと見つめた。すると彼女は、にこやかな表情で続ける。
「実はな島崎君。今週金曜日の夜に、萩尾丸さんたちの下に付いとる妖狐たちでちょっとした打ち上げをやるんや。まぁ、島崎君も知っとる通り、裏初午に参加した事に対する打ち上げやな」
「……もちろんそれもありますけれど、春節の時期にも重なりますからね。そう言った意味合いもあるんじゃないかしら」
ミツコの言葉に真っ先に反応したのは、助手席に腰かける紅藤だった。源吾郎も春節の事は知っている。旧暦で記した際の正月、要は旧正月の事だ。旧正月ないし春節は日本よりもむしろ中華圏で重要視されているという。紅藤も源吾郎たちも日本で生まれ育った妖怪ではある。だが雉鶏精一派自体が大陸出身の胡喜媚が初代頭目であるし、そもそも紅藤も中華圏の文化にかなり造詣が深い。紅藤が、そして雉鶏精一派の妖怪たちが多少は春節を意識するのも自然な事であろう。
「どっちにしろ、島崎君も打ち上げには呼ぼうと思ってるねん。萩尾丸さんや他の妖狐たちともかなりお世話になっとるやろうし、そもそも島崎君は新入社員やもんな。もちろん、打ち上げに行くのが嫌やったら、無理して出席せんでもええんやけど」
少し気遣う素振りを見せながら、ミツコは最後の一文を言い添える。若者たちが飲み会を敬遠するという話は人間社会でも話題になっているが、妖怪たちもその辺りを意識しているのかもしれない。
滅相もありません。源吾郎はミツコを正面から見据えつつ言った。
「打ち上げが嫌だなんて、そんな事はありません。むしろ林崎部長に誘って頂いて嬉しい位です。あ、でも、僕って法的には未成年なので、お酒は飲めないし飲まないのでそこだけはご了承願います」
「お酒の件についてはうちらもよう解っとるから大丈夫やでぇ」
慇懃な源吾郎の言葉に、ミツコはさもおかしいと言わんばかりに笑顔を見せた。
「狐たちが集まる打ち上げや言うても、主催者というかまとめ役として萩尾丸さんも出席して下さるから、その辺の塩梅はあの方もきちんと解ってはるって。そもそもそうでなくとも、雷園寺君がお酒の席でやらかしてもうてるからなぁ」
「あはは……」
ミツコの言葉に、源吾郎は乾いた笑いを浮かべてしまった。妖狐たちの話をしていた最中に雷獣少年の名が出てくるとは予想だにしなかったのだ。
とはいえ、雪羽のしでかしたグラスタワー事件は強烈で、未だに生々しく記憶に残っている事には変わりはない。もっとも、紆余曲折はあったものの、源吾郎は得難いライバル兼友達を得る事となったし、雪羽も(無理くりとはいえ)更生出来た上に研究職としての適性がある事が判明した。グラスタワー事件そのものは不祥事に違いないが、その後は良い方向に転がっていったのだと思う。
「そう言えば、雷園寺君もその打ち上げに参加するんでしょうか。言うて彼は雷獣ですけれど、だからって
「そこは雷園寺君の心次第やけど」
源吾郎の問いかけに、ミツコは前置きをしつつ言葉を紡ぐ。
「せやけどあの子も萩尾丸さんの管轄やから、島崎君が心配しているように
「それなら良かったです」
言いながら、源吾郎は安堵の息を漏らしていた。表向きは雪羽がハミゴにならなかった事を安堵しているのだが、源吾郎の本心はもっと単純な物である。妖狐たちの集まる打ち上げに、雪羽も仲良く出席するだろうことが嬉しいだけだったのだ。
もちろん、源吾郎だって妖狐同士の顔つなぎは必要だと思っている。それでも雪羽とも打ち上げで適度に盛り上がりたいと思っていた。まぁ要するに欲張りなだけなのだ。
※
本社へ向かうドライブも一時間足らずで終わった。源吾郎たちは社用車を出て、本社のエントランスへと歩を進めていく。本社に出向くのは一カ月ぶりだった。とはいえ一か月前は遠い昔の事のように思えてならなかった。今年に入ってから、源吾郎の身には色々な事が起き過ぎた。そのくせ日々の業務は似通っていて、平和な時間は飛ぶように過ぎ去ってしまう。
就職したら学生だった頃の数倍のペースで月日が流れていくと先生から聞いていたが、まさか源吾郎もその事を感じる日が来るようになるとは。こちらをちらちらと見やる妖怪などの視線も気にせずに、源吾郎はしみじみとそんな事を思っていた。
「雉仙女殿ご一行の到着ですな」
自分たちに投げかけられた声に、考え事をしていた源吾郎もすぐに気付いた。落ち着いた調子のその声は朗々と通り、聞き逃す事などまずありえないと思わしめるような声音だったのだ。
更に言えば、紅藤に向けているはずなのに、何処か不遜さが隠し切れないのも特徴的だった。本社のエントランスには受付係の妖怪もいるが、声の主が彼らではない事は明らかだ。紅藤に対して不遜な……いやそうでなくとも対等な物言いが出来る妖怪など限られているのだ。
そして声の主が誰なのか。源吾郎は姿を見ずとも察しはついていた。
「はい。私どもは今到着いたしましたわ、灰高のお兄様」
源吾郎の予想通り、声の主は灰高だった。第四幹部のため、上位幹部の中では末席ではある。しかし九百年以上――紅藤よりも更に三百年以上年長なのだ――生きているという老獪さと、かつては雉鶏精一派と敵対する一軍の将という経歴の持ち主である。味方であれば心強いであろうが、敵に回れば恐ろしい存在と言っても過言ではなかった。
その灰高が、わざわざ側近と思しき鴉天狗の男と共に紅藤たちを出迎えたのだ。源吾郎は早速おのれの鼓動が速まるのを感じてしまった。こんな事で緊張していては打ち合わせにはもたないではないか。自分で自分を叱咤するも、心臓の拍動は落ち着いてはくれなかった。
さて灰高はというと、隣に侍らせた側近と共に値踏みするような眼差しを紅藤たちに向けていた。
「おやおや。本日は上位幹部の会合で、最も信頼できる側近のみが同席可能との事でしたが、萩尾丸君は連れてきていないんですね。あなたと彼の事ですから、第六幹部でなくとも第二幹部の側近として、何食わぬ顔でやって来るかと思ったのですが」
「萩尾丸が私の側近だとしても、やはり第六幹部である事には変わりありませんわ。わざわざ上位幹部だけの会合だと決めているのに、そうやって萩尾丸を連れてきてしまったらルールを破ってしまう事になりますもの」
皮肉げな灰高の言葉に対し、紅藤は平然とした様子で応じる。上位幹部だけの会合だと決めたのだからそれを自分は守ろうとしている。他の幹部たちに対して筋を通そうとした事を、紅藤は灰高に伝えようとしている事は明らかだった。
「それに灰高様。萩尾丸さんも含め、若手幹部の皆様もお忙しいですからね」
紅藤が説明を終えたすぐ後に、青松丸が口を開いて言い添える。その顔に浮かぶ、やけに人懐っこそうな笑みが印象的だった。
「先日も、何やら繁華街の外れできな臭い動きがありまして、萩尾丸さんは部下を使ってその調査に乗り出さなければならないようなのです。第七幹部の双睛鳥さんも、取引先とのやり取りがあるでしょうし、第八幹部の三國さんだってお仕事も私生活もご多忙なようですし……」
青松丸は一旦ここで言葉を切り、数瞬ほど考え込む仕草を見せた。だがそれでも、灰高や彼の側近が口を開くよりも先に言葉を続けたのだ。
「もちろん、僕とて若手幹部の方々が将来有望と期待されている事は存じてますし、そもそも皆さん僕より優秀な方たちだと思っています。ですが、特に第七幹部と第八幹部はお若いですから、あまり大きな打ち合わせに参加させて混乱させたくないと当局も考えているのでしょう」
「ええ、ええ。青松丸君が言いたい事も大体解りますよ」
灰高が口を開いたのは、青松丸が全て言い切った直後の事だった。彼の言葉を遮りたいという意図が見え隠れするタイミングである。
だが灰高に対して不躾だと言い募る者はいない。灰高もそれに気付いているために、その面には不敵な笑みを浮かべたままだった。
「まぁ、今回の話を上位幹部だけで行う事にしたのは、萩尾丸君の入れ知恵でしょうね。彼も彼で、雉鶏精一派に蔓延する縁故主義に対して思う所もあるみたいですし」
灰高の言葉に、源吾郎は思わず目を伏せた。萩尾丸が縁故主義を多少なりとも嫌悪しているのではないか。そんな考えが浮かんでしまったからである。玉藻御前の真なる末裔である源吾郎もまた、縁故主義から逃れられないのは言うまでもない。むしろ縁故主義を利用する妖怪の一人とも言えよう。
源吾郎が恐る恐る目線を上げると、灰高は得意満面と言った様子で言葉を続けた。
「それに若手幹部の、第五幹部から第八幹部の四名がそれぞれ業務を抱え、多忙である事には変わりありませんからね。特に最近は、あちこちできな臭い動きがありますからね。そうなりますと、若手幹部と言えども動かなければならないでしょうし」
灰高はそこまで言うと、喉の奥から僅かに笑い声をあげていた。人型ながらも笑い声は鴉の啼き声にそっくりである。
「ええ、お兄様の仰る通りですわ」
鴉の啼き声めいた笑い声を前にして、紅藤は特段動揺した素振りは見せなかった。その辺りの落ち着きぶりが何なのか。所謂年季の差なのか、それとも哺乳類と鳥類の差なのか、源吾郎には解らなかった。
「灰高のお兄様もご存じの通り、萩尾丸も多くの部下を抱え、彼らや彼らの管轄する仕事場を監視する業務にも携わっていますからね。今朝も先日起きた事件……の調査やら情報収集やらに妖材《じんざい》を求められていると申しておりましたし」
「そりゃあそうでしょうね。何せきな臭い連中というものは注目を集める存在なのですから。良い意味でも悪い意味でも、ね」
言葉を交わす灰高と紅藤の表情は余りにも対照的だった。灰高は作り笑いと言えどにこやかな笑みを始終浮かべている。だが紅藤はほぼ無表情で、不機嫌さや苛立ちの類をほのかに漂わせていたのだから。
「それはそうと、灰高のお兄様が出迎えてくださるとは。とても珍しい事ですわ」
少ししてから紅藤がそう言った。先程の不機嫌そうな態度とは打って変わり、明るい声音で灰高に問いかけていたのだ。もしかしたら、敢えて声を作っておのれの不機嫌さから目を逸らそうとしているだけなのかもしれないが。
そして灰高も、先程とは打って変わって微妙な表情となっていた。
「ああ。峰白殿が出迎えると思っていたんですね。しかし残念ながら、彼女は今電話応対中なのですよ」
幹部と言えども電話応対くらいはするだろう。そんな風に思っていると、灰高は僅かに身をかがめ、声のトーンを落として言い足した。
「急に賓客が来るという事で今しがた連絡が入った所なんですよ。ただ、ご存じの通り私どもも打ち合わせをこれから始める所ですし……とはいえ向こうも時間を融通して下さると仰っていたので大丈夫なのですが」
事もなげに言ってのけた灰高であったが、その賓客の名を聞いた源吾郎は、驚いて尻尾の毛を逆立ててしまった。
賓客たちは伯服と玉面公主の二名だった。どちらも玉藻御前の子供たちであり、源吾郎の大伯父と大伯母に当たる存在なのだ。