伯服と玉面公主。日本よりもむしろ大陸にて名を馳せる大妖狐の名を耳にした一行は、一層緊張を引き締める事になった。特に若狐である源吾郎は尻尾をブルブルと震わせる始末である。もちろん、妖狐たるミツコも神妙な面持ちとなっていた。
「玉藻御前様の御子であらせられる伯服様たちがお見えになるとは……それにしてもいったい何故なのでしょうか」
灰高に質問をぶつけたのはミツコだった。普段操るエセ関西弁などではなく、改まった標準語で問いかけている。相手が灰高という大妖怪であるからなのか、玉面公主たちの来訪におののいているからなのかは定かではない。或いは両方なのかもしれない。
六尾を具えたミツコもまた、有象無象の妖怪などとは一線を画す存在だ。そんな彼女であったとしても、玉藻御前の子供らの前ではただただ震える事
更に言えば、玉面公主らにしてみればミツコは勝手に玉藻御前の末裔を名乗っている野狐に過ぎない。異父妹の孫である源吾郎は遠縁ながらも血の繋がりはあり、かろうじて親族と言えるだろう。だがミツコは全くもって赤の他狐なのだ。もちろん白銀御前や三花たちが黙認しているから玉藻御前の末裔を名乗る事が出来るのだが、それも玉面公主や伯服に通じるとは限らない。
もしかしたら、ミツコは玉面公主たちに出会った事は無いのかもしれない。源吾郎は唐突にそんな事を思った。もっとも、源吾郎も源吾郎で大陸にいる大伯父や大伯母の事は名前しか知らないのだが。
「その理由は鴉である私よりも、狐であるあなた方の方が心当たりがあるのではないでしょうか。確かに、伯服様はさておき玉面公主様は雉鶏精一派が新体制になってから、何度かこちらにも立ち寄られた事はありましたが」
ややあってから灰高がミツコの問いに応じる。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいるのだが、どうにもこちらを小馬鹿にしているような気がして落ち着かない。
「伯服様たちも、そこの島崎君を目当てにしてわざわざこの雉鶏精一派の本部に立ち寄ろうと思い立ったのかもしれませんね。島崎君自身はほんの仔狐かもしれませんが、あのお方たちにとっては血の繋がった又甥《またおい》、妹の末孫になる訳ですし。
二人とも自分の一族を護り、率いていく事に積極的だと聞いております。遠縁、それも半妖と言えども島崎君は妖狐としての才覚に十二分に恵まれています。あのお二方も、その事が気になったのではありませんかね」
それこそ……灰高は笑みをたたえたまま首を傾げる。
「今回私どもが打ち合わせする内容と、何がしかの関連性でもあるのかもしれませんね。雉仙女殿の話では、島崎君が新たな能力を発揮したとの事ですが」
「それもあるかもしれませんが、もっと別の理由もあるかもしれませんわ」
話の矛先を向けられたと思ったのだろうか。紅藤がここで口を開いた。ミツコや源吾郎とは異なり、彼女の表情は口調には気負ったものは特に無い。
「別の理由というと?」
「新暦では今は二月の中頃ですが、それこそ春節が、旧正月が間近に迫っております。大陸では春節を重んじる風習がありますし、近年では春節の折に日本観光に訪れる方も増えているというお話です。もしかしたら、伯服様や玉面公主様も、その一環でこちらに顔を出そうと思われたのかもしれませんわ」
澄まし顔で語られた紅藤の推測に、源吾郎は驚きつつも納得してもいた。今しがた彼女から春節の話を聞いたばかりであるから尚更であろう。
灰高は訝しげな表情を浮かべていたが、ふっと顔をほころばせて納得したように頷いた。
「雉仙女殿がそう仰るのであればそういう事にしておきましょうか。私は玉面公主様と八頭怪には面識があるなどと取り留めもない事を考えてしまいましたが……ええ、ええ。伯服様たちがお見えになるのは単なる観光でしょうね」
八頭怪。灰高が気負った様子なく口にしたその名に、源吾郎はまたしても尻尾を震わせた。八頭怪が胡喜媚の弟にして雉鶏精一派の怨敵である事は言うまでもない。だが灰高の言葉通り、玉面公主とも面識や関りがある事もまた事実なのだ。
ここで源吾郎は、若菜と面談した時の事を思い出した。あの時彼女は、玉面公主と八頭怪の間には親交があると言っていたではないか。厳密には八頭怪と親しかったのはむしろ夫の牛魔王の方だったそうだが、それは誤差の範囲内である。
玉面公主は源吾郎の大伯母としてではなく、八頭怪と親交のある盟友として雉鶏精一派に立ち寄るのだろうか。そうなったら大惨事ではないか。源吾郎は両の手指を強く握りしめ、視線を床に落とした。床の微妙な模様を眺めて心を落ち着けたかったのに、床には模様らしい模様など無かった。
「確かに玉面公主様は、八頭鰥夫と交流があったかもしれません。ですが、かつて交流があったからと言って、今でも交流があるとは限りませんわ、灰高のお兄様」
はっとして顔をあげると、紅藤がおのれの意見を口にしている最中だった。声音は全体的に爽やかで凛としている。しかし八頭怪の別称にして蔑称である八頭鰥夫の名を口にするときだけは、その声に悪意と憎悪がしっかりと籠められているのを源吾郎はしかと感じ取った。しかも、声のトーンをわざとらしく変えていないにも関わらず、である。
師範である紅藤が強大な力を持つ妖怪である事と、怨敵たる八頭怪がとんでもない輩である事を、源吾郎はここでまた再確認した次第だった。
「私どもとて、かつて交流のあった存在と袂を分かち、場合によっては敵対する事もありうる事は、灰高のお兄様とてご存じでしょう?」
紅藤は更に言葉を重ねる。先程よりもはきはきとした、そして力の宿った声だった。一般論を語っているというだけではなく、身に覚えのある事柄を伝えようとしているように源吾郎には思えた。
「ええ。紅藤様の仰る事も一理あると思います。私も様々な別れをはからずとも経験してきた訳ですからね。
それはそうと、玉面公主様たちがお見えになった事の考察についてはこれくらいにしておきましょう」
え……灰高の軽妙な言葉に、源吾郎は思わず声を漏らしていた。八頭怪の事についてわざわざ言及し、紅藤や源吾郎たちにまず揺さぶりをかけたのは灰高に他ならない。そこで紅藤が真面目にあれこれと意見を述べたのに、それを軽くいなしてあしらうとはどういう事なのか。源吾郎の脳裏にはそんな考えが浮かんでいた。
端的に言えば、灰高の言動にイラっと来ていたのだ。
だが声を漏らした次の瞬間、灰高の視線が源吾郎の顔へとスライドした。射抜かれるような、貫かれるような眼差しを前に、源吾郎は言葉も出てこなかった。
「そもそも、これから島崎君の事について色々と打ち合わせせねばならないんですよ。そりゃあもちろん玉面公主様たちを出迎える事についても考えたくなるのは解りますが、そちらは打ち合わせが終わってから考えても問題かと私は思うのです。何せ雉仙女殿がいらっしゃるのですから」
灰高はそこまで言うと、再びその顔にうっすらと笑みを浮かべた。皮肉っぽい笑みだったのだろう。だが灰高自身も思う所があるらしく、笑顔の裏に滲む苦々しさが見え隠れしてもいる。
「ああ、それにしても大妖怪と呼ばれるお歴々は、かくも自由気ままに動き回るものなのですかね。私どもも仕事の段取りなどがありますので、あまり自由に動かれても困り者なのですが……もちろん、雉仙女殿たちにそんな事を言っても仕方ないのは百も承知ですが」
繰り言めいた言葉と共に、灰高はゆっくりと息を吐いた。灰高クラスの大妖怪であったとしても、玉面公主の存在には気兼ねしなければならぬ立場になるのだな。源吾郎はぼんやりとそう思った。玉藻御前の娘である大伯母が高位の妖怪であるという誇らしさと、自分たちに敵意をむき出しにしないかという懸念とが心の中で渦巻き、源吾郎の胸はざわついていた。
「自由に動き回るのは、何も大妖怪の皆様だけではありませんわ」
紅藤が再び口を開いた。彼女の顔には、屈託のない笑みが今再び浮かんでいる。
「ハングリー精神と厳しいノルマ管理のある営業マンだって飛び込みでやって来て、部下たちがその応対を行う事も私の職場ではままあるのです。工場棟も併設している研究センターなので、やはり測定機器とか機械の需要がありますからね。
そうでなくとも、重役と呼ばれるようなお方は、不意打ちで訪れても下々の者は受け入れてくれると思い込むお方が一定数いらっしゃる訳ですし」
「……そうですね。そういう事に致しましょうか」
紅藤の言葉を全て聞いてから、灰高は薄く微笑んだ。心からの笑みではないものの、彼も少し落ち着きを取り戻したようだった。