バレンタインのプレゼントを互いに渡したので、今回の用事そのものは終わった。源吾郎はしかし、そのまま部屋に引き戻らず、さりとて去って行く米田さんを見送った訳では無い。ではどうしたのか。至極単純な話だ。駐車場に停めた車へと戻る米田さんと並んで歩を進めたのだ。駐車場へと戻る彼女に付き添うために。
夜のデートゆえに出会う時間が短く別れるのが名残惜しい、というのも確かにある。だがそれ以上に、駐車場までたった独りで米田さんが戻るのを、ただただ見送るのを良しとしなかったのだ。ましてや、ここから駐車場まで歩いて十分強の所にあるのだから、尚更だ。
米田さんが生粋の妖狐であり、闘う術のみならず確実に身を護る術や殺しの術さえも会得している事は源吾郎も知っている。それでも、うら若い女性を独りでそのまま夜道を歩かせるのは気が引けた。男らしさというよりも、むしろ
当の米田さんは、源吾郎が付いてくるのをあっさりと快諾してくれた。そんなに遠くはないから、少し大げさかもしれないわ、何て言いはしたけれど。もしかしたら、米田さんももう少し源吾郎と一緒にいたいと思っているのかもしれない。虫のいい話だとは思いつつも、源吾郎はそんな風に解釈した。
「ご安心ください米田さん。僕はご存じの通り狐です。なので、送り狼みたいな真似は致しません。これはもう、ご先祖様の名とおのれの尻尾に賭けて誓います」
とはいえ、下心が無いというアピールも必要だろう。そう思って放った言葉は、米田さんを大いに笑わせる事となったのだ。
「もう、島崎君ったら。あなたが送り狼などにならない事は、私はちゃんと解っているわ。だから、わざわざそんな事言わなくても良いのよ。むしろ、そんな事を言ってしまったら、そういう事を考えているとも思われてしまうから……あんまり言わない方が良いわよ」
そう言うと、米田さんは源吾郎の額を指で押したのだ。デコピンで弾かれた訳では無いが、無防備だった源吾郎は米田さんのこの挙動に驚き、目を丸くした。米田さんが、こうして源吾郎に触れるとは予想だにしていなかったからだ。女性の方から男に触れるというのは中々に勇気のいる行為であるし、米田さんも意外とそっち方面では慎重な雰囲気が見え隠れしていたからだ。もっとも、慎重なのは源吾郎も同じだが。
額を撫でつつ米田さんを見やる。彼女は澄ました表情で言葉を続けていた。
「それに島崎君の言うご先祖様は、玉藻御前の事でしょう。あのお方はむしろ……」
米田さんはしかし、小さくかぶりを振るとフェードアウトするかのように言葉を打ち切った。それから源吾郎の方に向き直り、かすかにまなじりを釣り上げて言葉を続ける。
「いいえ、この先まで言う事はやめておくわ。島崎君だって、ご先祖様の事をとやかく言われるのは嫌でしょうから」
「別に、米田さんは気にされなくても大丈夫ですってば」
いつになく真剣な米田さんの物言いに、源吾郎は戸惑いを覚えつつも笑みを作った。
「昔から、玉藻御前は淫蕩で残忍な大悪狐として有名ではありませんか。その事を言われたとて僕は気を悪くする事などありませんし、ご先祖様だって草葉の陰……で喜んでいるんじゃあありませんかね」
「だけど島崎君。玉藻御前が実際はどんなお方だったのか、私たちは知っている訳では無いでしょう?」
それは……源吾郎は反射的に言い返そうとし、しかしそこで言葉を途切れさせた。
源吾郎は曾祖母である玉藻御前の事は知っている。だがそれは、封神演義や玉藻前草子、そして絵本三国妖婦伝などの書籍からの知識に過ぎない。
書籍に記された情報、特に昔日の妖怪譚などについては、必ずしも事実が描かれている訳
そうした伝承の何が真実で何が偽りなのか。源吾郎たちが再確認する事は極めて困難な事でもあった。当事者である玉藻御前は殺生石となり、その上玄翁和尚の功徳により成仏してしまった訳だから、当然本妖に聞く事は不可能だ。そして玉藻御前が存命だった頃の事を知る妖怪も殆どいない。
玉藻御前が討伐されてから、既に八六〇年余りの歳月が経過している。いかな長命な妖怪と言えども、九百年近く生きている妖怪はやはり珍しい。紅藤とてせいぜい六百年を超えた所なのだから。
「実際に、後世に残るような悪事をなした事はその通りなのかもしれないわ。だけどそれでも、完全に悪辣なだけだった訳じゃあないとも私は思うの」
「……」
呟くように付け加えられた米田さんの言葉に、源吾郎は無言のまま頷いていた。米田さんの言葉の意図は判然としないが、彼女の言葉にも一理あると思っていたためだ。
玉藻御前自身は討伐されてしまい世を去った。しかしその子孫たち、特に実の子供らは存命で、各地で思い思いに暮らしている。
それこそが、玉藻御前が骨の髄まで悪辣では無かったと言える何よりの証拠であるように、源吾郎は思えた。玉藻御前もとい金毛九尾には、わが子に疎まれ仲違いしてしまうという呪いが掛かっていた。それは蘇妲己だった頃に、戯れに妊婦たちの腹を裂き、幼い無辜の生命を奪っていた事への天誅でもあった。
実際に、その呪いは有効だったのだろう。大伯父の伯服は今でも母への嫌悪の念を抱いているし、祖母である白銀御前も母と仲違いし、野望に加担する事を良しとしなかった。大伯母の玉面公主は母の事を慕っているようだが、それも物心つくかつかないかの頃に両親が離婚し、父親の許で育ったという。
結局のところ、金毛九尾の手許には子供は残らなかった。様々な因果の果てに、彼女の手許から抜け出し、思い思いに生きているのだ――母である金毛九尾の手によって、殺される事もなく。
仔殺しはショッキングな風習ではあるが、それでも妖怪社会の中にもそうした風習があり、現在でもまれに行われている事は否定できない。そもそも人間社会でも、子供を間引く事がかつてはあったそうなのだから。
ましてや母親は金毛九尾である。傾城傾国の悪女、日本三大悪妖怪の一体とも呼ばれるような彼女ならば、思い通りにならぬわが子を亡き者にし、ついでその肉を喰らって妖力を取り込む事くらい、心を痛めずにできたのかもしれない。
それでもそうしなかったのは、彼女にも母としての
「そう言えば」
思案に暮れていた源吾郎の傍らで、思い出したように米田さんが声を上げる。
「島崎君のご先祖様で思い出したんだけど、玉面公主様が港町に来られたって話を聞いたんだけど、島崎君もお会いになったのかしら?」
米田さんの思いがけぬ言葉に、源吾郎は瞠目しつつ口を開いた。
「うん。仕事の関係でお会いした事はしたけれど……どうしてその事を米田さんがご存じなのでしょうか?」
「いちかさんに教えてもらったからよ。ほら、苅藻さんといちかお姉様は島崎君の叔父さんと叔母さんだけど、玉面公主様から見たらそれぞれ甥っ子と姪っ子に当たるでしょう。それで玉面公主様は、お二人に会いに行ったそうよ」
「そっか、そういう事だったんですね……」
源吾郎は力なく呟き、ついでに安堵のため息を漏らしていた。
玉面公主が密かに来日していた。その話を米田さんに聞かされた時、源吾郎は内心緊張し、不安に駆られてしまったのだ。雉鶏精一派の応接室で行われた会話の一部始終が、奇妙な経緯で漏洩したのではないか。もしかしたら、米田さんが敵方のスパイではないか、と。
しかし玉面公主が叔父たちに会っていただけだと聞かされた事で、それらの疑念が見事に払拭されたのである。玉面公主が、苅藻やいちかに会いに行くのは特におかしな事ではないからだ。何せ彼女は、姪孫《てっそん》たる源吾郎にも興味を持っていたくらいなのだから。それより血の濃い甥・姪に会うのは、ごく自然な事のようにすら思えたのだ。
「玉面公主様も、確か玉藻御前様のご息女だったわよね。島崎君も、仕事とはいえお会いしたとなるとやっぱり緊張したのかしら」
「ええ、それはもう言葉に出来ない程です……」
源吾郎はそう言って、言葉を濁して弱々しく笑みを作るのがやっとだった。とはいえ嘘などではない。
序盤はさておき最後の方は玉面公主の言葉に震え、緊張や恐怖を覚えもしたし、話の内容が内容だけに易々と口にできる物でもない。
這い寄る混沌の権能とそれを召喚する権利を源吾郎は受け継いだが、それは源吾郎が特別な力を得たという訳では無い。むしろその能力と這い寄る混沌の傀儡として選ばれただけに過ぎないのではないか――玉面公主の言葉は、およそそのような物だったのだ。
のみならず、おのれの嗜好や野望すらも、這い寄る混沌の齎したものであると言われ、源吾郎はただただ仔狐のように震えるしかなかった。自身を形作る自我そのものが、他の何者かによってデザインされている。そんな宇宙的恐怖を突き付けられて、大人しく頷く事など誰が出来るだろうか。
いずれにしても。源吾郎は震える声で呟きながら、ふと夜空を振り仰いだ。濃紺を通り越して黒々とした夜空であるが、闇よりも色濃い羽毛を持つ鳥たちが、群れを成して飛んでいるのが確認できた気がした。
隣では、米田さんも源吾郎と同じように夜空に目を凝らしていた。遠くを見ようとしているからか、若干目つきが険しいが。
「あのお方は恐ろしいお方でしたよ。いえ、大伯母として親切に振舞ってはくれたんですが、格の違いをまざまざと感じましてね」
「そう、だったのね」
源吾郎が言葉を紡ぐと、米田さんもそれに呼応して頷いた。その時にはもう彼女は源吾郎の方を向いていて、見慣れた笑みをその面に浮かべていた。
その後二人は数分ばかり歩き続け、駐車場に辿り着いたところで解散と相成った。
厳密に言えば米田さんは駐車場へ真っすぐ向かった訳では無く、途中で寄り道をしたのだが、その先に自販機があったので、何か温かい物を飲みたかっただけなのかもしれない。とはいえ源吾郎も生姜湯などをおごってもらったのだが。