源吾郎がほんの少しだけ安堵していると、苅藻が何かを思い出したような表情を浮かべ、それからやおら笑い始めたのである。
「実はな源吾郎。もしお前が女を欲しているんだったら、俺の方で手頃な女妖怪を、女狐なんぞを見繕って遊び相手としてあてがう事も考えていたんだけどな。お前の興味はもはや米田ちゃんだけに向けられているみたいだし、その必要も無かったみたいだなぁ」
「はははっ。桐谷の大将も中々粋な事を考えなさるなぁ。甥御殿は、確かに純朴なお坊ちゃまな訳だし、女を通じて世間を知るというのも悪くないと俺は思うがなぁ」
苅藻の言葉に反応し、笑い声を上げたのは三尾の野狐たる北斗だった。母のサヨコがその手の店で働いていた事もあるためか、こういう下世話な話も特に気にならないらしい。
そんな風に他人事のように分析している間に、源吾郎は苅藻がどんなことを言ってのけたのか、ようやく気付く事となった。叔母であるいちかと共に。
「ちょっと兄さん! そんな、女郎屋みたいな下品な事を……よりによって実の甥に持ちかけるなんて破廉恥だわ。しかもこういう事って、若殿を堕落させて昏君《フンチュン》にしてしまう手口そのものじゃないの。何より女の子も気の毒だわ」
いちかのあまりの剣幕に、源吾郎は若干気圧されてしまった。それでも、源吾郎も源吾郎で思った事を口にしたのだ。
「叔母上も叔母上で、玉藻御前の末裔とは到底思えぬお言葉ですねぇ……それはそうと、苅藻の叔父上が女妖怪をご用意なさるという事なら、それこそ後腐れってやつが出来るのではありませんか?」
「かといって、余所でこそこそ女遊びをされるよりは、こっちで把握している相手と遊んでもらった方が良いと、そんな風に俺は考えるけどなぁ」
源吾郎の質問に対し、苅藻はあっけらかんとした様子でそう答えるだけだった。少し前にいちかがとんでもない剣幕でまくし立てた事など、まるで気にしていないかのようだった。
それでも、苅藻はちゃんといちかの方も見て言葉を続ける。
「それにいちか。仮に源吾郎に対して女妖怪を斡旋するとしても、その娘を騙してあてがう訳じゃあないさ。ちゃんと事情は話すし、両者間にトラブルがあった場合は俺がどうにか
もっとも、野心家の野良妖怪の場合だと、源吾郎と
そこまで言うと、苅藻はさもおかしげに高笑いを始めた。繋がりたい、という部分が強調されていたようにも聞こえたが、きっとそれは気のせいのはずだ。しかも具体例として挙げられているのは、雪羽の取り巻きだったアライグマ女ではないか。
そんな風に思っていた源吾郎の心中がバレてしまったのか、苅藻はその辺りについての解説も行った。曰く、源吾郎の傍にいる事で妖力を分けてもらう可能性もある、そのおこぼれに与ろうと目論む手合いがいるという話だった。皆が皆そうではないが、妖狐の中には相手を籠絡し、情を交わす事で精気を吸い取る事を行う手合いもいるのだという。
そうでなくとも、野良妖怪の女たちの中には、源吾郎の正妻とまではいかずとも愛人や情婦になる事を望む者も少なからずいるらしい。苅藻のその言葉に、源吾郎は戸惑ってしまった。源吾郎の周囲にいる妖狐たちには当てはまらぬ事だからだ。それどころか、源吾郎に関心が向けられない事に、胸をなでおろす狐娘ばかりだったのだから。
「それは源吾郎が日頃接しているのは、萩尾丸さんの部下がほとんどだからさ」
首を傾げて不思議がる源吾郎に対し、苅藻は事もなげに告げた。
「言ってみればな、彼らはお行儀が良くて安定志向の高い妖狐たちばかりなんだ。源吾郎、妖怪の社会では、そうした
「そうそう。それは桐谷の大将の言うとおりだぜ」
北斗が頷いて同意を示す傍らで、苅藻の解説は尚も続く。
野良妖怪、特に地下街や暗黒街などにたむろする物は、リスクを恐れず大胆に、あるいは無謀に振舞う事も珍しくないのだという。血筋も財力も場合によっては仲間にすら恵まれていない彼らは、しかし何も持たない事を自覚してもいる。そんな彼らが何かを決意して動いた場合、恐ろしい事にもなりうるのだと苅藻は説いた。
喪う事を恐れるのは、あくまでも手許に大切なものを抱いている者に特有の事である。初めから何も持たない者は――どう転んでも何かを喪う事は無いのだ、と。
だからこそ、彼らが野望や欲望を抱いた時には、毛並みの良い妖怪たちとは比べ物にならぬほどに厄介で、恐ろしい存在になるのだそうだ。
※
「さぁ源吾郎。ともあれ米田ちゃんとは堂々と付き合えば良いんだぞ。三花姉さんもお前に政略結婚を勧める事などは……玉藻御前の末裔である事を利用する事などは考えていないからな。もし姉さんが、玉藻御前の末裔としてお前を利用するつもりだったら、初めから人間として育ててなどはいないから、な。
それに俺らとしては、お前が妖怪を、というよりも同族である妖狐を恋人として選んだところにも正直な所ホッとしているんだよ。仮に人間の女子を選んだ場合、それはそれでややこしい事になるからな」
苅藻はそこで一旦言葉を切ると、真剣な表情を作ってから続けた。
「恋人が人間だった場合、そもそもその娘が妖怪の存在を知っているのか、知った上で妖怪の存在や彼氏が妖怪である事を許容できるかって問題が浮上するからな。それは本気の恋ならば言うまでもなく、遊びだったとしても変わらないさ」
「うん。そこは叔父上の言うとおりだと俺も思うよ」
苅藻のこの指摘に、源吾郎は素直に頷いた。
半妖として人間と妖狐の血を受け継ぎ、両方の要素を併せ持つ源吾郎であるが、自我や能力の方面では、完全に妖怪寄りであると言っても過言ではなかった。上司や同僚たちを筆頭に、源吾郎の正体を知る者などは、彼の事は妖怪扱いしていたのだから。
半妖は暴走して自我を喪う事があるだとか、そもそも妖怪に人間を害せねばならぬという衝動を具えており、半妖もその業から逃れられぬといった、妖怪ものの設定で見かけるような事柄などは一切無い。
むしろ妖狐は人間に対して割合友好的で、特にかかわりの深い種族の代表ですらある。加えて全体的には穏やかな気質の者が多いとされており、妖狐自体の人間への脅威度は、案外低いものであると試算されてもいるらしい。
そんな状況であっても、人間が妖怪を恐れるといった事実を覆す事は困難だ。
そしてその事は、源吾郎も自分事として何度か実感してもいた。源吾郎の使い魔であるホップの元飼い主、廣川千絵とのちょっとした騒動などがその典型と言っても良いだろう。
「――だが、相手の女の子が妖怪の場合、お前の正体が半妖である事は知ってるからな。そりゃあもちろん源吾郎を強い妖怪として恐れを抱く可能性はある。それでも、異形の本性を見せたとしても、人間の女の子のように恐れる事はなかろう」
苅藻の言葉に、源吾郎はまたしても頷いた。人間たちの間ではその本性を隠しおおせていた源吾郎であるが、妖怪たちの間ではそうはいかない。
源吾郎自身は妖術で気配なども含めて人間に擬態しきる事も出来なくはない。だがそれ以前に、九尾の末裔で野心家の若狐としての島崎源吾郎の情報は、妖怪社会に既に知れ渡っているのだ。変化術が効果を発揮するのはあくまでも正体が知られていない間に過ぎず、知られてしまってはその効果も激減してしまうのだ。
「米田ちゃんは源吾郎も知っている通り妖狐で、それも玉藻御前の末裔を名乗ってるだろう。しかも俺やいちかとも交流があるから、源吾郎の本性どころか、お前の境遇やら何やらも多少は知っている。源吾郎に降りかかるであろう試練や厄介事も薄々は感じ取っていて……その上でそういう物だと受け入れているのかもしれないな」
ゆったりとした苅藻の言葉に、源吾郎は瞠目しつつ聞き入っていた。おのれに降りかかるであろう試練や厄介事。この言葉が源吾郎の心にのしかかって来るかのようだった。
それだけじゃあないわ。ややあってから、叔母のいちかも口を開いた。
「その上玲香ちゃんは、あの娘もあの娘なりに源吾郎に、他ならぬあんた自身に好意を寄せているのよ。だからこそ、あの娘はあんたが向ける暑苦しい想いを受け止める事を心に決めたのよ。もちろん、玲香ちゃんはそこまで私には言わなかったけれど……でもこの前のバレンタインの時だって、あの娘はわざわざ源吾郎の住む町まで車を飛ばしてやって来てたでしょう。源吾郎からしたら、玲香ちゃんは大人だし、素っ気ないように見えるかもしれないけれど……」
「――米田ちゃんはな、彼女なりに源吾郎を愛していて、ちゃんとお前の愛に応えようとしているんだ。いちかはそう言いたいんだよ」
わが妹ながらもまだるっこしい言い方だぜ。苅藻はいちかの言葉に横槍を入れ、しかし涼しい表情でいちかと源吾郎とを見比べていた。
いちかは赤面し指を組んで俯いていたが、やおら顔を上げて源吾郎を見据え、声を張り上げた。
「そんな事だからね源吾郎。兄さんと同じ言葉になっちゃうけれど、あんたも玲香ちゃんと付き合うにあたって、堂々としていれば良いのよ。互いに思い合っているって言うのに、何を恥ずかしがる必要があるというのよ」
「叔母上の言葉は正論だけど、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいよ。米田さんと付き合う事だって、そりゃあ嬉しいけれど、当初のプランとはかけ離れちゃった所もあるしさぁ……」
当初のプランとはかけ離れている。この言葉に、苅藻といちかは顔を見合わせたのだった。
「何やら込み入った物を抱え込んでいるつもりになってるな、源吾郎。どの道俺らには色々と明らかになっちまったんだ。折角だから洗いざらい話してみろ、な。
その代わり、俺らも米田ちゃんについて知っている事を、話せる範囲で話してやるからさ」
苅藻はやはり人を喰ったような笑みを浮かべてはいた。しかし源吾郎は、その表情よりも米田さんの事を教えてくれるという言葉に意識が向いてしまったのだ。