米田さんが源吾郎の存在をいつから知っていたのかは定かではない。しかし、源吾郎が米田さんの存在を知り、彼女との交流ないし交際を始めたきっかけは実に明らかなものである。
きっかけはもちろん、グラスタワー事件だった。
今更詳しく語るべくもないが、グラスタワー事件の全容は以下のような物である。雉鶏精一派での生誕祭の場で、泥酔した雷獣少年の雷園寺雪羽が、スタッフである狐娘・宮坂京子を仲間と共に連れ去ろうとし、その道中でグラスタワーを片付けていた別のスタッフに絡んでいった。その際に揉みあいになったためにグラスタワーが崩落し、これに雪羽もスタッフたちも巻き込まれた。しかし機転を利かせた京子が術を発動した事により、どうにか大惨事は免れた。
発生した出来事のみを列挙すれば、特段大きな事件とは言い難い。酒に酔った少年妖怪が、出来心で迷惑行為を行っただけ、それも迷惑行為自体――特に京子の連れ去りであるが――も未遂に終わり、負傷者自体もいないのだから。
とはいえ、加害者と被害者がそれぞれ貴族妖怪の子弟であった事なども絡んだがために、当局ではグラスタワー事件は大きな意味を持ってしまった。仕事も私生活も叔父の許で過ごしていた雪羽が研究センター送りになったのも、そもそもこの事件が発端だったのだから。
そうした社内政治の動きはさておき、源吾郎の中でもグラスタワー事件は大きな出来事として記憶に残っていた。雪羽が連れ去ろうとした宮坂京子とは、源吾郎の変化した姿に他ならないからだ。
そしてこのグラスタワー事件にて出会ったのが、妖狐の米田さんだったのだ。
※
「――とまぁ、そんな騒動を経て知り合った訳だから、俺も最初は気恥ずかしさとか情けなさの方が強かったんだ。宮坂京子に化けていた事を知った妖怪たちは、俺の事をキモいとか変態だって思うようになったみたいだし、しかも術を使っただけで汗まみれで鼻血まで出しちゃったんだからさぁ」
だからこそ、米田さんに対しては「玉藻御前の末裔に相応しい、
もっとも、
「連絡を取り合って、それで何度かデートを繰り返して付き合うようになったって事は、叔父上たちもおおよそご存じでしょうから特に何も言う事は無いかな。僕としても、米田さんと晴れて付き合う事になったのは嬉しい事ですし、特に不満はありません。ただ、慾を言えば、米田さんがこの俺に十分に惚れ込んでから、それを確認してから付き合うという段階に踏み込みたかったですね。気が付けば、俺の方ばかりのぼせてしまってるんです。それだといかにも仔狐っぽいと言うか、何とも
話を聞いていた苅藻は、ここでやにわに声を上げて笑い始めたのだ。あからさまに、源吾郎を笑っているであろう事は表情とニュアンスで明らかだった。
じろりと源吾郎がにらみつけると、その眼差しをものともせずに言葉を紡ぐ。
「はーっはっはっは。何だ何だ。どういう事だろうなと思って話を聞いていたら、まさかそこまでナマを言うとは思っていなかったぜ。白川君が、過去の恋を思い出してお前に怒りをぶつけたみたいだが、今の源吾郎の話を聞いていたら、それも致し方ない話だと思うようになっちまったぜ」
そう言うだけではなく、苅藻はわざわざ視線を外し、白川がいる方に視線を向けてもいた。後で差し入れでもやった方が良いかなぁ、などと言いながら。
ちなみに白川も既にプチ修羅場を脱しており、彼女と思しき女狐とは良い雰囲気で飲食を交わしているのだが。
「言っておくが源吾郎。妖怪の世界ではな、男らしさが強さだとか勇ましさに繋がるという訳では無いんだよ。男だから無条件に強い、男だから易々と権力を得られる。そうした考えとは俺たち妖怪の世界は
苅藻はここまで言うと、敢えて一呼吸おいてじっと源吾郎を見つめた。
「妖怪の社会では、女妖怪もごく自然に強さと権力を得られる事は、お前だって知ってるだろう? 我らがご先祖様の
「解った、解ったよ叔父上」
苅藻の言葉はまさしく事実だった。妖怪社会では強さと性別が切り離されていない事、女妖怪も強く勇ましい者が大勢いる事は、もちろん源吾郎も知っている。
雉鶏精一派は現頭目こそ男妖怪の胡琉安であるが、彼すらも上位幹部の女妖怪たちには逆らえないとされている。そもそも雉鶏精一派の創設者自体が、胡喜媚という女妖怪ではないか。
もっと言えば、玉藻御前を名乗る妖狐たちを取り仕切るボスの若菜も、老いた姿を取っているとはいえ女狐である事には変わりはない。むしろ老いた姿を取っているからこそ、色香や籠絡術と言った小細工
「それに源吾郎。もっと言えばお前、幸四郎義兄さんや宗一郎君たちに『男らしく振舞え』だなんて言われた事が一度でもあるのかい?」
「それは……特に無いかも」
少し思案してからの源吾郎の返答に、苅藻はそうだろう、と頷いた。
「幸四郎義兄さんが、自分の息子らに男らしくしろだなんていうようなお人じゃあないからな。そりゃあまぁ、源吾郎の目から見れば、幸四郎義兄さんは一家の大黒柱に見えたかもしれん。だがそれは、源吾郎が末息子だからそう見えるだけの話さ。あの人は亭主関白などとは程遠いし、三花姉さんだっていざという時は自分の意見を通していた。源吾郎。お前はそう言う両親の姿を見て育ったんだぞ。もちろん、宗一郎君たちや双葉ちゃんもな」
源吾郎は苅藻の言葉に耳を傾け、結局の所頷いていた。
男らしさという物を標榜し、それを得ようと奮起している源吾郎であるが、実の所男らしくあれと言われて育った覚えは
むしろ宗一郎などは、源吾郎が乱暴な事や危険な事をしでかさないか気を配り、そうした素振りがあれば注意し時に叱責していたくらいである。現に、雪羽と戦闘訓練をやっているという話を聞いては酷く狼狽えていたほどなのだから。
「だからまぁ、男らしさだとかそういう事は気にするな。そういう事を気にして縛られるとあれば、それこそ
「……!」
笑い交じりの苅藻の言葉に、源吾郎は眼を瞠った。半妖でありながらも妖怪として生きたいと思っている源吾郎には、効果てきめんだったのだ。
「そもそもからして、源吾郎は宮坂京子とかいう女の子に変化して、しかもそうやって変化する事すらも、米田ちゃんにバレちまったんだろう。だったらまぁ、それはそれとして諦めるんだな。まぁ、女子変化や女装は男にしか出来ない事だから、逆に男らしい行為だという事も出来るだろうけれど」
うっそりと微笑む苅藻の言葉に、源吾郎も嬉しさを感じつつ頷いた。女装は男らしい行為である。その言葉を詭弁だとは思わなかったのだ。むしろどこぞの妖怪に揶揄された時に、言い返すフレーズが出来たと喜んでいるほどだ。
しばらく無言でやり取りを眺めていたいちかが、ややあってから源吾郎を見やって口を開いた。
「もしかしたら、源吾郎は宮坂京子に変化した事に対して、その事で玲香ちゃんにキモいって思われないかって不安なのでしょう」
でも大丈夫よ。いちかは、源吾郎の顔を真っすぐに見据えて言い放った。何故か少し怒っているような、もしくは恥ずかしがっているような表情を浮かべているように見えた。
「玲香ちゃんはね、実はあんたの変化した、宮坂京子の姿を……気に入っていて、それで、それで可愛いって思っているのよ」
「ほ、本当ですか!」
いちかからもたらされた情報は、源吾郎にとって思いがけぬものだった。米田さんとは何度もデートを重ねていたが、宮坂京子に変化した時の事は話題には上らなかった。というよりも、源吾郎が敢えて口にしなかったからなのだが。
「本当よ。その話は、玲香ちゃんから直接聞いたんですから」
源吾郎の問いに、半ば叫ぶようにいちかも応じる。その顔に浮かぶ羞恥の色は、何故か先程よりも色濃くなっていた。
「それで、何で玲香ちゃんがそう思ったかって言うと……宮坂京子の姿が、
いちかはそこまで言うと、これ以上は言いたくないとばかりに目を伏せた。
咄嗟に源吾郎の変化した宮坂京子が、叔母のいちかに生き写しで、それ故に米田さんの関心を惹いていたとは。苅藻や他の男狐の笑い声を背景に、源吾郎は呆然と叔母の顔を眺めるだけだったのだ。