米田ちゃんが源吾郎に惚れたのは、まぁそう言う事でもあるんだよ。
思案に耽る源吾郎の頭上に投げかけられたのは、言うまでもなく苅藻の声だった。先程までの真剣さとは打って変わり、世間話でも行っているかのような、実に軽い調子の声音だった。
源吾郎はその声音の軽さに眩暈のような物を感じ、だというのに何処か救われたような気分も同時に味わっていた。
もちろん、顔を上げた先にいる苅藻は、満面の笑みを浮かべて源吾郎を見つめている。
「どうやら米田ちゃんは、白川君たちみたいな若い男狐の一部からは、高嶺の花みたいな存在だと思われているらしいなぁ。俺も詳しくは知らんが、きっと多くの男狐が言い寄って、それで彼女に振られちまったに違いない」
「……違いないと言いますか、少なくとも白川先輩はそうだったみたいですね」
知っている事を口にする源吾郎の言葉は、無機質で乾いていた。米田さんが他の男狐からも魅力的な女狐と見做されていた事、それ故にモテていたであろう事については、全くもって不愉快な情報だった。
それに苅藻は、もはや米田さんが数多くの男狐の中から他ならぬ源吾郎を恋人として――そして願わくば、将来の夫候補として――選んでいる事を知っているではないか。だというのに、何故男狐たちが彼女をモノにしたいと思っていたという過去の、至極どうでも良い事を口にするのだろうか。源吾郎の不愉快な気持ちを言語化すると、およそこのようなものになるのだ。
ちなみに世間には、おのれの恋人が多くの異性から魅力的であると評価される事に喜びを抱く手合いもいるそうだが、源吾郎はそう言う性質では無かった。あくまでも恋愛は自分と相手だけの事であると思っていたからだ。それ以外の連中の考えなどは、羨望であれ嫉妬であれ敵意であれ何であれ、単なる雑音に過ぎないのだ。
だからこそ、源吾郎は苅藻の言葉に静かに腹を立ててもいたのだ。
「ああ。白川君もその一人だったねぇ。思わず米田ちゃんへの想いを口にしてしまって、その事が今付き合っている彼女の耳にも入っちまったんだったっけ。自分の中で感情が膨らんで、後先考えずに発言しちまった結果だよな。まぁ、白川君も若いから仕方ないわな」
自分が先輩と仰ぎ見る妖狐であったとしても、苅藻の目から見れば若者という事になるのだろうか。そんな風に思いつつも、白川を若者扱いする苅藻の言葉には驚きの念を感じてもいた。源吾郎は平素、苅藻の事は兄のように慕っている。そのせいか、苅藻と自分の間に大きな年齢差がある事を忘れてしまう事もしばしばあるのだ。
「そうだ。白川君
源吾郎の心中を見透かすように苅藻が告げる。
「しかもただ若いだけじゃあない。ごくありふれた庶民妖狐の出でありつつも、萩尾丸さんからは見所のある妖狐として可愛がられてもいるんだ」
「は、はぁ……」
源吾郎は返事とも吐息ともつかぬ声を吐き出していた。白川が何のかんの言いつつも萩尾丸に目を掛けて貰っているという話は初耳だった。だがそれ以上に、苅藻が敢えて彼を庶民妖狐の出身という話を強調した部分に引っかかるものを感じていた。
出自や種族で相手を決め付け、偏見を抱いてはならない。ごく当たり前なこの説教の文句は、他ならぬ叔父の口から出てきた事もままあったのだから。
「実際に、白川君は同年代の妖狐たちの中では優秀な男さ。言動がちとアレな所もあるかもしれんが……ともあれ白川君は、自分が妖狐であるという揺るがぬ物を持ち、その上でおのれの能力を伸ばし、手に入れたいと願った物のいくつかは実際に手中に収めた。
彼だけじゃあない。米田ちゃんに女として興味を持ち、おのれの恋人にしようとした男狐たちは大体そんな感じだろうな。しかし――
「……?」
苅藻の言葉に、源吾郎は首を傾げざるを得なかった。全体的に話があちこちに飛躍し過ぎているからだ。特に最後のくだりと、それまでの白川の優秀さや米田さんに惚れたであろう妖狐たちの特徴に関する事柄は、源吾郎の中ではうまく結びつかなかった。
「そうだなぁ、そもそも米田ちゃんが周囲から高嶺の花だとか一匹狼のように思われる事自体が、彼女の心中にあるコンプレックスと、獣の性に深くつながっている事なんだよな。別に米田ちゃんは、周囲の連中を見下したり、自分が特別優れていると思っているから高嶺の花みたいな感じになっているんじゃあない。むしろ、他の妖狐たちに関わる事への
生まれつきの妖狐ではなく動物のキツネが妖怪化した存在であるがゆえに、米田さんは他の妖狐たちよりも獣性が色濃く残っているのだと、苅藻は言い足した。
「キツネにしろタヌキにしろ何にしろ、純粋な獣の世界というのは中々に過酷なんだ。野生動物が最期まで弱みを見せないという話は、源吾郎も何処かで聞いた事があるだろう。それと同じ事が、米田ちゃんの態度や言動にも当てはまっているんだよ」
「言われてみれば……」
苅藻の説明には、源吾郎もいくつか思い当たる節があった。妖狐が自己家畜化された存在ではないかという論文発表を聞いた時、「私が何故他の妖狐と違うのか解った気がする」と彼女は言っていたではないか。一介の悪妖怪として過ごしていた時の事を思い返し、「結局のところ、畜生も人間も妖怪も
源吾郎はクドクドと言葉を重ねたりなどはしなかった。それでも、苅藻もいちかも源吾郎が納得した事は解ってくれたようだった。
「そう言った意味ではな、妖狐であるという存在と自信の揺らがぬ男狐は、むしろ米田ちゃんにとっては恐怖の対象だったともいえるんだよ。そう言う連中は、米田ちゃんとはあまりにも違い過ぎるから、な」
そう言って苅藻は締めくくった訳であるが、もちろん源吾郎の心中には疑問があった。それならば何故、米田さんは俺を選んだのか、という事である。
獣出身であるという出自と、過去の経歴から、米田さんが妖狐らしい妖狐を恐れている事は先の説明で十分に解った。だがそうであれば、源吾郎の存在に対しても恐怖心を抱くのではなかろうか。そのような考えが、源吾郎の心中に浮き上がってきたのだ。
そしてその疑問は、もちろんすぐに言葉となって放たれた。
「叔父上。それなら何故、米田さんは俺の事を受け入れたのでしょうか。そりゃあまぁ、叔父上たちとの関係性ですとか……俺の姿に弟のイメージを見出しているですとか、そう言う事も考えられると思うんです。ですが、俺自身とてそれこそ妖狐であるという存在と自信の揺らがぬ男狐の側にいるんですから……」
「お前が妖狐であるという事が完全に揺らがないというのは、あくまでもお前の頭の中だけでの話だぞ、源吾郎!」
源吾郎の疑問を耳にするや否や、苅藻はさもおかしそうに笑い声を上げた。先程までの含みのある声色ですらなく、呵々大笑と。
「源吾郎。確かにお前の自我が妖狐のそれに傾いている事は知っているぞ。その妖力の多さゆえに、妖怪たちからも妖怪を超えるバケモノであると見做されているであろう事も、な。
しかしだ源吾郎。そうだとしても、俺たちの身に人間の血が流れる事は、半妖である事は覆らないんだよ。たとえ半妖から妖怪化したとしても、細胞や遺伝子を調べたら、人間である特徴が見つかってしまうだろうさ。
そう言った意味では、半妖などという物もまた、不完全な存在の象徴とも言えるわな」
不完全な存在。妙に強調された苅藻の言葉に、源吾郎はハッとして目線を上げた。米田さんが源吾郎に惚れたのは、彼が不完全な存在であるがためだ。少し前に苅藻にそう言われた事を思い出したのだ。
「それにな源吾郎。源吾郎はしかもただの半妖では無いんだ。妖狐としての自我を持ちながらも人間として育てられただろう? しかもお前はその暮らしを良しとせず、長じて妖怪の世界に飛び込んだじゃあないか。妖狐として生まれながら人間として育てられ、そして人間として育てられながら妖怪としての生き方に飛び込んだんだ。
そう言った境遇もまた、米田ちゃんにとっては興味が惹かれるポイントだったんだろうな。何せ米田ちゃんも、色々な属性を若い身空で体験してきたのだからさ」
「…………」
苅藻の言葉に対し、源吾郎はただ無言で耳を傾けるのがやっとだった。彼の言葉はもちろん理解できる。だが、心から受け入れるには、もう少し時間を要するものだったのだ。