二番目の兄である誠二郎を前に、源吾郎は軽くパニック状態に陥ってしまった。
元より姫路でのデートを後回しにして、大阪でのデートを先に行ったのは、こうなる事を防ぐためだった。
だというのに、源吾郎は今兄の一人である誠二郎に見つかってしまった。保護者気取りの長兄と遭遇するよりもまだ
そんな源吾郎の緊張を知ってか知らずか、誠二郎はのんびりとした口調で口を開いた。
「どうして大阪に、何て言われてもさ、用事があったから大阪に来たに決まってるじゃあないか。まぁ厳密に言えば、新しいパソコンを見るために、大阪に来たんだけど」
そう言うと、誠二郎は自分の背後に視線を向けた。確かに、彼の背後にあるビルは巨大な家電量販店だった。
今再び誠二郎の視線が源吾郎に戻る。だがその視線は、源吾郎だけでは無くて米田さんにも向けられていたのだ。
「それはそうと、源吾郎も大阪に来ていたなんてなぁ。日曜日だし、源吾郎も若いからぱぁっと遊びたくなるのは俺だって解るぜ。それはそうと……」
誠二郎は最後まで言わずに、眼鏡の位置を正したりおとがいを撫でたりして言葉を濁らせるだけだった。兄の視線は今や米田さんに向けられている。
源吾郎の傍らにいた米田さんの存在については、誠二郎も気付いていたのだろう。そして源吾郎とはどういう関係なのか、問いただすべきなのか否かと悩んでいる所なのかもしれない。
ここはひとつ、漢らしく腹を括ってカミングアウトすべきではないか。源吾郎が密かに意を決したまさにその時、米田さんが動いたのだ。
「あの、あなたは島崎源吾郎さんのお兄様ですよね」
「あ、うん。俺は島崎誠二郎で、確かに源吾郎の兄だよ。名前の通り次男坊で、だから源吾郎の二番目の兄になるんだ」
米田さんがフルネームで源吾郎の名を口にした事に源吾郎は驚き、少し興奮してしまった。そんな源吾郎の様子をよそに、米田さんは言葉を続けた。彼女はこれっぽっちも緊張しておらず、むしろ落ち着いてすらあるのは源吾郎の目からも明らかだ。
「初めまして、島崎さん。私は米田玲香と申します。島崎さんの弟さんとは仕事の関係で知り合って、今回はお互い予定が合ったので、一緒に外出していたのです」
「そうそうそう。そんな感じなんだ、兄上」
米田さんの発言が終わるや否や、源吾郎も赤べこよろしく上下に首を振り、米田さんの言葉が正しい事を示していた。
実際の所、先程の米田さんの言葉は全て
つまるところ、米田さん自身は交際しているだとかデート中であるというセンシティブな言葉を用いずに、源吾郎との関係性や一緒にいる理由について誠二郎に伝えたのだ。源吾郎が当惑している事を汲み取ってくれたがための発言であろう。
或いは逆に、誠二郎もれっきとした大人であるから、皆まで言わずとも察してくれると判断しての事なのかもしれない。
いずれにせよ、源吾郎はほんの少し安心出来たのだった。
だが源吾郎が安堵の息を吐いた丁度その時、何を思ったか米田さんはすっと立ち上がったのだ。不審に思って源吾郎が振り仰ぐと、彼女は源吾郎と誠二郎を交互に見やりながら口を開いた。
「島崎さんに源吾郎さん。私、少し自販機で何か買いたいと思いましたので、少しだけ席を外しますね」
そこまで言うと、米田さんはその面にゆったりと笑みを咲き開かせた。
「もちろん、お二人の分も購入いたしますわ。島崎さんと源吾郎さんも、欲しい飲み物を教えて頂けますか」
「え、でも――」
にこやかに、しかし何処か淡々と語る米田さんを前に、源吾郎はうろたえて思わず声を上げていた。米田さんに源吾郎さんなどと呼ばれる事にも面食らっていたし、さっきまで喫茶店に入るという話をしていたのではなかったか。
あれこれと考えが渦巻く中で、源吾郎の肩に何かが触れた。誠二郎の手の平だった。
「良いだろ源吾郎。米田さんは自分の分だけじゃあなくて、俺たちの分まで買うって言ってくださっているんだ。お言葉に甘えれば良いじゃないか」
そう告げる兄の誠二郎は、何故か叔父の苅藻に何となく似ていた。性格も言動も叔父とは似ても似つかぬはずなのに。そんな風に思いつつも、源吾郎は口を開いた。お前から先に言えと、兄から無言の圧を受けたためである。
「あ、うん。ありがとう米田さん。それじゃあ僕はお水が良いかな。ええと、ミネラルウォーターの類で良いよ。一番安いやつで」
「念のために軟水のやつにしておくわね……島崎さんは何に致しましょうか」
「ホットのブラックコーヒーで。できれば微糖だとありがたいかな」
誠二郎がブラックコーヒーを所望したその瞬間、にこやかだった米田さんが一瞬うろたえるのを源吾郎は感じた。
米田さんは戸惑いの表情を笑みで押し隠しながら、誠二郎に再び問いかける。
「ブラックコーヒー、で
「俺は
誠二郎も米田さんを見つめ返しながら、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。大丈夫、という部分を殊更に強調しているのは気のせいでは無かろう。
誠二郎はしかし、念押しとばかりに言葉を重ねた。
「実はね、俺ってほぼ毎日缶コーヒーは飲んでるんだ。見ての通りサラリーマンだし、眠気覚ましも兼ねているのさ。ああだけど、多分カフェイン中毒とかそんなんじゃあないと思うから。だから大丈夫だよ、米田さん」
缶コーヒーはほぼ毎日飲んでいる。誠二郎の言葉を、源吾郎は他人事であるかのように受け止めて耳を傾けていた。
米田さんももちろん耳を傾けていた。承知しました。彼女が真顔でそう言ったのは、誠二郎の話が終わってから数秒後の事だった。
彼女はその場で二人が飲みたいものを復唱し確認してからその場を立ち去った。
自販機なんて近場にあっただろうか。米田さんと一緒に向かった方が良かっただろうか。そんな事を考えているうちに、彼女の姿は雑踏に紛れてしまったのだった。
そして後には、源吾郎と兄の誠二郎が取り残されたのである。
そんな顔をしなくても良いだろう。落ち着いた調子で、誠二郎は源吾郎に語り掛けていた。
「米田さん、だったっけ。彼女は俺たち二人が話をする時間を作るために、わざわざ口実を作って席を外してくれたんだぞ。だからまぁ、源吾郎もその意図を組んで、米田さんが戻って来るのを待っていれば良いじゃないか」
「うん。言われてみれば確かに、兄上の言うとおりだね」
諭すような誠二郎の言葉に、源吾郎は落ち着きを取り戻していた。
以前も似たような事があったのを、源吾郎は静かに思い出してもいた。あの時は裏初午の場で、席を外したのは叔父の苅藻だったけれど。
少し前の事を思い出していただけであったが、兄の目には物思いに耽っているように見えたのかもしれない。誠二郎はぎこちない表情で笑いかけていた。
「源吾郎。よくよく考えたら、お前も女の子と一緒に楽しんでいた所に俺が水を差したような形になってしまったかな。ごめんな。まぁ、謝っても特に何も変わらないような気もするけどさ」
「……別に、兄上は悪くないよ」
源吾郎も大人になったなぁ。誠二郎は感慨深そうな表情で呟いた。長兄ほどには無いにしろ、二番目の兄だって、源吾郎にしてみれば十分大人である。何せ九歳上なのだから。
米田さんとやらについては一つだけ確認したい事はあるが、それ以外は特に追求するつもりは無い。源吾郎を見据えながら、誠二郎はそう言った。
「確かに俺たちは兄弟だよ。だけどだからと言って、お互いの事を洗いざらい知っておかねばならないなんて事は無いと思ってるんだ。ましてや、源吾郎はもう実家を出て、父さんたちの助けを借りずに生活してるんだろう。この間の正月だって、庄三郎にお年玉を渡したみたいだし」
「……!」
誠二郎の言葉に、源吾郎は目を剥いた。末の兄にこっそりお年玉を渡していた事すらも、眼前の兄には見抜かれていたとは。だが今は、そんな事をつらつらと考えている場合ではないのだ。
「だからな、米田さんとはどういう関係なのか、別に無理して話さなくて良いんだぞ。そう言う事って特に話しづらいだろうからさ。俺も家族に言いふらしたりなんかしないし、言わなかったら言わなかったで、お前と米田さんとはどういう関係なのか、自分で想像するだけだからさ」
想像するだけ、だと。さも解った風に告げる誠二郎を前に、源吾郎はカッと頭に血が上るのを感じた。
「――米田さんは俺の彼女だ。彼女は俺に気を遣ってああ言ってくださったけれど、もちろんデートの最中だったんだ」
半ば怒ったように言い放ち、それから誠二郎の様子を観察する。案の定、誠二郎の表情は揺らがなかった。先程彼の語った想像とやらと、大きな違いは無かったという事だろう。
源吾郎は拳を握りしめながら、更に言葉を続ける。
「別にね、兄上たちに紹介していなかったのは、やましいからとかそんな訳じゃあないよ。ただ単に、来るべき時が来れば紹介しようと思ってたんだよ。付き合ったばかりだし、まだ結婚するかどうかも解らないからさ」
本当は結婚したいんだけどね。内心そう思ってはいたものの、源吾郎はそこまでは口にしなかった。そう言う話はそれこそ米田さんと行うべき話だと解っていたからだ。何より聞き手である誠二郎が、両手を前に差し出して制止し始めたのだから。
「解った、解ったよ源吾郎。お前もちゃんとそこまで考えているんだったら、そりゃあまぁ米田さんも嬉しく思ってるんじゃあないかな。
だけどな、そのお相手と結婚するかどうかを考えるのは、今のお前にはまだまだ早いと思うんだよ。まだ十八だろ。大昔ならさておき、今のご時世十八の男が結婚がどうとかって考えるのは殆ど無いと思うんだけどなぁ」
デキ婚とかなら話は別だけど。誠二郎がサラッと下世話な話を織り交ぜたような気がしたが、源吾郎は聞かなかったふりをしてスルーした。デキ婚ないし授かり婚という結婚形態も知っているが、そうなるきっかけになる行為などは行っていない。
もっとも、南総里見八犬伝の八房のように、その身に触れずとも情愛と執念によって対象を懐妊させてしまう能力が源吾郎に具わっていたとしたらこの限りではないが。
「あーあ。何か結局源吾郎には洗いざらい話してしまう事になっちまったなぁ。ははは、悪い事をしてしまったよ」
「良いんだよ兄上。俺だって、話したくなければ話さなかったからさ」
申し訳なさそうな表情を見せる誠二郎に対し、源吾郎は落ち着いた口調でそう言った。結局のところ、自分は米田さんと付き合っている事を、家族にも伝えたくて仕方なかったのだ。自分の心を見つめ直した結果、そうとしか思えなかった。
「それはそうと、兄上がどうしても確認したかった事って何? まぁ、米田さんの事は大体話しちゃったけどさ」
気を取り直した源吾郎が尋ねると、誠二郎はにわかに真面目な表情になった。生唾を飲み瞬きをすると、誠二郎は改めて問いかけた。
「確認したかったのは、米田さんの種族だよ。ざっくり言えば、彼女が妖怪なのか人間なのかって事だな」
まぁ、しかし――言い添える誠二郎の眼差しは冷徹なものだった。理系の、実験やら分析やらに血道を上げてきた者の眼差しだと、源吾郎は静かに思った。
「俺の予想では、彼女は妖怪だと思うんだけど。そうだろ源吾郎」
「え、でも、兄上って人間の血が濃すぎるからさ、妖怪たちの妖気って感じ取れなかったんじゃあなかったっけ?」
誠二郎が米田さんを妖怪だと見破った。その事に源吾郎は驚き瞠目していた。米田さんは完全に人型に変化しており、妖狐の特徴である尻尾を出してなどいなかったからだ。そもそも誠二郎は兄姉たちの中でも極端に人間の血が濃い。それ故に妖怪たちの妖気には疎く、変化した妖怪を見破る術を持たないはずだった。
ところが、源吾郎のうろたえる様を前に、誠二郎は涼しい顔で息を吐くだけだった。
「確かに俺は、妖怪たちの妖気は解らないよ。だけど、米田さんが妖怪かもしれないって事は、
第一に、彼女は源吾郎とは仕事の関係で知り合ったと言ってただろう。それは決め手にはならなかったけれど、源吾郎の職場は妖怪が多いみたいだから、もしかしたらって思ったんだよ」
そして。誠二郎は一呼吸おいてから、今再び言葉を紡ぐ。
「第二、というかむしろこっちが決め手になったんだけど。さっき俺が
源吾郎もそうだけどさ、妖怪たちの中にはコーヒーとか紅茶とかが駄目な妖《ひと》も多いんだろう?」
そうか、そんな所で兄上は見抜いていたのか。誠二郎の洞察力の高さに舌を巻きつつも、源吾郎は素直に頷いていた。妖狐、それもホンドギツネから変じた妖狐である米田さんは、確かにコーヒーや紅茶の類には手を付けない性質だった。人間用に出回っている物は言うまでもなく、妖怪用にカフェインを除去した物であってもだ。
「やっぱり年の功ってのも大切なんだなぁ。妖気が解らなくても推理で解るだなんて、誠二郎兄様って探偵とかもイケるんじゃあないの?」
「ははは、あんな簡単な事が解ったくらいで探偵なんぞ難しいだろうさ」
だけどさ。誠二郎はそう言うと、何処か安堵したような表情を見せていた。
「何と言うか、米田さんも妖怪だったら、源吾郎とか俺たち一族の事については知ってるんだよな?」
「もちろんさ。何となれば叔父たちと、母方の叔父たちとも交流があるくらいなんだからね」
「そっか。それなら良かったよ」
誠二郎は短くそう言うと、安堵した表情のままに深々と息を吐いていた。その表情はまさしく、兄が弟を気遣う表情そのものだったのだ。