八頭怪が伸ばした首の一つは、そのまま屋敷の壁を抉り砕いた。宝玉というよりも子供が遊ぶビー玉やスーパーボールめいた瞳が紅藤たちを睨みつけている。その間にも、口に含んだ壁の欠片を咀嚼し、それからこれ見よがしに吐き捨てている。
灰色の欠片はべっとりと唾液に覆われていて、不気味な光沢を放っていた。表面がうっすらと桃色がかった玉虫色にも見えるのが何とも気持ち悪い。
唐突な挙動を見せた八頭怪ではあったが、紅藤たちは特段怯えたり驚いたりする事は無かった。その挙動が攻撃のための物ではないと見抜いていたためだ。
「雉天狗峰白。逆に質問するよ。ボクたちが、どうしてキミたちごときに逃げたり隠れたりするとでも思ったんだい」
そもそも。八頭怪はやや甲高い声で言葉を続ける。
「キミたちが今こうしてドンパチやってるのは、ボクたちの所に不意打ちでやって来たからだよねぇ? 心配しなくても、明日には雉鶏精一派に総攻撃を仕掛けてあげるつもりだったのに……とんだ番狂わせだね」
そこまで言うと、八頭怪は鎧をガチャガチャ言わせつつ肩をすくめた。
既に八頭怪側の兵は大幅に消耗している。戦闘不能にして確保している者もいれば、殺されている者もいる。だというのに、八頭怪は思っていたよりも戸惑った様子は見せていない。それは紅藤の気のせいか、それとも状況を知らないからなのか。あるいは、狩られたのが雑兵だからと侮っているからなのかもしれない。
「闘い、それも殺し合いを挑むにあたって、何故敵の行動を待つ必要があるというのよ」
言い捨てたのは峰白だった。獲物である戦斧を担ぎ直している。これ見よがしなその動きは、まぎれもなく威嚇行動そのものだった。
「生憎と、私たちのモットーは『先手必勝』に『見敵必殺』なのよ。決行日が判っているのならば、尚更動かない手はないわ」
「へぇ……そうなんだ」
八頭怪は呟くと、そっと目を閉じた。
その八頭怪が動いたのは、一瞬のちの事だった。
壁を砕いた物とは別の一首が伸びあがり、今度はこちらに襲い掛かってきたのだ。狙いはただ一人、胡琉安だった。胡喜媚の孫にして八頭怪の又甥でもある彼の首を咬み千切らんと、八頭怪の一首は躍りかかっていた。
「おぐっ、がぁっ!」
また次の瞬間、裂帛した啼き声と鋭い打撃音が響く。
それは胡琉安の首が落ちる音などではなかった。
八頭怪の一首が伸びたあの刹那に、峰白が動いたのだ。彼女はまず胡琉安を突き飛ばして自ら一首の軌道上に立ちはだかり、逆に戦斧にて八頭怪の一首に一撃を加えたのだ。とはいえ、峰白を以てしても、流石に八頭怪の一首を落とす事は叶わなかった。それでも、八頭怪の嘴の先にはヒビが入り、そこから血が滴り始めていた。
「先手必勝というからさ、ボクの方からキミたちの頭目をぶち殺しても、なぁーんも問題は無いでしょ? そうすれば、雉鶏精一派は本当に終焉を迎えるもんね。骨なしチキンの胡張安はキミたちに協力するつもりもないだろうし、とっくに何処かでくたばってるかもしれないから、ね」
「実際に殺れるものなら殺って御覧なさい!」
言うや否や、峰白は戦斧を扇風機の羽のように振り回し、時折足技をも交えて八頭怪の首たちを牽制していた。
その名の通り、八頭怪には現在八つの頭がある。普段は人の頭や変わった首飾りなどと言った塩梅に擬態しているものの、首そのものは長大であり、振るうだけでも十分な武器になる。さりとて一度斬り落とされるか咬み落とされれば再生しないのは、八頭怪が八頭怪になった事からしても明らかだ。元々彼は九頭駙馬と呼ばれており、哮天犬に頭を落とされて八頭怪になったのだから。再生能力があったのならば、それこそ九頭に戻っているはずだ。
とはいえ、八頭怪は八つの首によって八方向からの攻撃が可能であるし、八人の猛者を同時に捌く事も可能なのだ。一つ首を喪っているとはいえ、それでも強大な力を持つ異形である事には変わりはない。
だからこそ、紅藤たちは雉鶏精一派の幹部を八頭衆にしたのだ。宿敵である八頭怪に対抗するために。
そろそろ加勢せねば。八頭怪の一首が峰白の足を狙っている事に気付いた紅藤は、半ば反射的にそう思った。
と、八頭怪の背後から猛犬の唸り声が聞こえてきた。かと思うと、八頭怪の攻撃がにわかに止まる。
「グルル……ガアアアッ!」
いつの間にやら姿を現した巨大な犬が、八頭怪の背後から一首にかぶりついていた。哮天犬《こうてんけん》だ――半ば反射的に紅藤はそう思った。それは犬というには幾分巨大であったが、紅藤の知る哮天犬の特徴を具えていた。すなわち舶来の猟犬のように細身で、黒い毛並みに覆われていたのだ。但しその尾は六本あったのだが。
哮天犬と思しき者自身の、八頭怪への攻撃はしごくあっさりとしたものだった。確かに一首にかぶりつきはしたが、二度三度頭を揺すっただけでそのままとんぼ返りし、八頭怪から退いたのだ。もちろん、八頭怪の一首は落とされていない。血が流れている形跡すらなかった。
だがそれでも、哮天犬の出現と奇襲は効果的だった。何しろ唸り声を聞いた直後から八頭怪は硬直し、峰白への攻撃がおろそかになるほどだったのだから。
「くそっ。犬、犬、また哮天犬か……」
忌々しげに告げる八頭怪の声や表情には、僅かと言えども焦りがあった。
そうなのだ。八頭怪は徹底的に犬を恐れる。実際に首を咬み落としたのは哮天犬であるが、それでも犬の姿を見るとすくみ上ってしまうのだ。凡百の犬や犬妖怪であればおのれの脅威にならぬと解っていても、だ。
哮天犬と思しき六尾の巨犬は、用心深く八頭怪から距離を置き、今一度唸った。
「犬、犬だってぇ――!」
次に反応を見せたのはイルマだった。彼の反応は八頭怪よりも更に直截的な物である。山羊とも鳥ともつかぬその面を恐怖に歪ませ、尻もちでも付いたようにその場にへたり込んだのだ。
哮天犬は耳を動かし、イルマの方を見やった。標的を八頭怪から彼に変えた事は明らかだった。邪神の息子で驚異的な成長速度と高い知能を示してはいるものの、その精神は驚くほど幼い。邪智に長け老獪な八頭怪や山鳥女郎よりも、御しやすい敵だと思うのは無理からぬ事だろう。
「犬、いぬ、こわいよ、くいころされちゃうよ! どうして、どうして俺たちはこんなひどい目に遭わないといけないの! ねぇどうしてだよ、神様!」
へたり込み涙を流すイルマのその姿に、紅藤は一瞬だけ罪悪感を覚えてしまった。もっとも、次の瞬間に我を忘れたイルマの前方から触手の群れや不定形の異形の化け物が顕現したので、罪悪感など吹き飛んでしまったが。
紅藤たちは顕現した異形たちを捌いていった。結界で弾き飛ばして分断し、ただ力任せに殴りつけ、戦斧や錫杖、あるいは刀などで切り刻む。とはいえこちらも全く無傷でもない。触手に肌や肉を切り裂かれたものもいるし、中には毒気を吐き出す者もいた。哮天犬と思しき者も奮闘していた。但し、八頭怪に奇襲をかけた時とは異なり、咬みつかずに口から火焔を吐き出して焼き払っていたのだが。
「ああ全く、茶番も良い所ね」
さもうんざりした様子で山鳥女郎が呟く。
「全く、揃いも揃って情けないわね。あんたらは仮にも邪神の遣いでしょう?」
「そ、そうはいっても碧松姫。いくらボクたちと言えども、天敵への恐怖心は中々克服できないんだよ。あ、あの犬っころが糞忌々しい哮天犬では無いって事は解ってる。それでも……身体がすくむんだよ。ましてや、イルマ君の異母兄は、普通の犬っころにも咬み殺されているんだから」
「というかこいつ……そもそも犬畜生ですらないわ。ただの狐畜生よ」
言うや否や、山鳥女郎の右手から無数の羽が放たれた。赤味がかった茶褐色のそれらは渦を巻き、警戒する哮天犬らしきものをすぐさま取り囲んだ。
山鳥の羽には変化を暴く権能がある――果たして、哮天犬に化けていたモノもまた、正体が暴かれたのだ。
そこにいたのは、山鳥女郎の言葉通り妖狐だった。狼にも勝る巨躯と六本の尻尾はそのままに、黒くて細身の犬から茶褐色の毛並みに細面の狐姿に戻っていたのだ。
今の今まで哮天犬に変化していたのは、萩尾丸の重臣・林崎ミツコだった。
「そうかぁ……怖い怖い犬っころだと思っていたら、小賢しい狐だったんだねぇ。ふふふ、ボクも少しホッとしたよ。ああだけど、狐は犬以上に大っ嫌いだけど、ね」
直後、八頭怪はミツコに向かって一首を振るった。その一首はミツコの身体を抉ったかのように見えた。だがミツコ自身は間髪入れずに身を退かせ、その勢いのままに四匹の妖狐に分裂した。ただの分身術ではなく、尾を本体から切り分けて化身させた術だった。何しろ一匹の妖狐が三尾で、後の三匹は一尾だったのだから。
この四匹は再び哮天犬に変化し直すと、口を開いて八頭怪とイルマに吠えたてた。
八頭怪は忌々しげな表情で跳躍すると、そのまま空中で円弧を描き変化を解いた。
いくばくかの優雅さの残る人型の姿をかなぐり捨て、八つの頭と二対の翼を持つ、奇怪な化鳥の姿だった。
そうしてそのまま屋敷の壁を打ち破り、四枚の翼を動かして八頭怪は飛び始めた。偽物とはいえ哮天犬たちの姿を見て、たまらなくなって逃げようと思ったのだろう。山鳥女郎は舌打ちしつつもへたり込むイルマの腕を取り、立ち上がらせようとした。しかしそれは叶わなかった。山鳥女郎が非力なのか、それともイルマの身体が重すぎるためなのかは定かではない。
山鳥女郎は立ち上がりそうにないイルマを置いて、そのまま雲を呼んで八頭怪の許へと飛び去って行った。しばし呆けたようにへたり込んでいたイルマであったが、母と八頭怪が飛び去ったのを見ると、ハッとした表情で立ち上がった。
紅藤たちは目配せを交わし、大半が八頭怪を追跡し、残りはイルマの対応に回る事と相成った。と言っても、屋敷の周辺にはまだ双睛鳥と三國、そして青松丸もいる。紫苑がまだ周囲に潜んでいる事を考えれば、全員が八頭怪を追うよりも分散した方が良いであろう。そのように考えた末の結果だった。