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春は嵐がつきものだと言うけれど、それはそれとしてあまりにも悪天候ではないか。市内某所のマンションにて、鈴木は荒天であろう外の様子を思い、憂鬱な気分になっていた。それでも彼の足はベランダへと向かっていた。煙草を吸うためだ。
ニコチンを摂取したいという欲求は、外が荒天で荒れ狂っているのではないかという懸念よりも強かった。ただそれだけの話である。
かといって、室内で吸うという選択肢も論外だった。半ば同棲している彼女が、部屋にヤニの臭いが付くのを嫌がるためだ。
ライターで火をつけ、紫煙の立ち上る煙草を口に咥える。ニコチンの混じった煙が肺の奥に入っていくにつれて、心が落ち着いていくのを感じた。
鈴木は二十四歳。煙草の味を覚えて三年足らずであるが、早くもヘビースモーカーの道を歩み始めている自覚はあった。
ともあれ、心に余裕の出来た鈴木は、ここでようやく外の景色に意識を向ける事が出来た。
先程まで何度も雷鳴が轟いていたにもかかわらず、特に雨は降っていない。雲も少なく風も緩やかだ。星々さえ見えるような、実に穏やかな夜だ。強いて言うならば、近所の犬たちの吠え声が、そこここで聞こえる程度であろうか。
「――!!」
再び煙草を吸い始めた鈴木は、おのれの視界に飛び込んできたモノに瞠目した。咥えていた煙草が地面に落ち、それなのに煙が妙な所に入ってむせてしまう。両目に涙が滲むほどに咳き込んでいたが、鈴木はひとまず落ちた煙草をサンダルの底で踏みにじっておいた。吸ったばかりの一本を無駄にするのはもったいなかった。しかしそのまま放置してしまって火事になってはならぬと思ったのだ。
犬の吠え声と奇怪な生物の啼き声をバックグラウンドに、巨大な異形たちが宙を舞い、何処かへ進んでいくのを鈴木は見た。
雉や鴉、狐や犬などと言った見慣れた動物を巨大化させたような者もいれば、鶏の身体にコウモリの翼と蛇の尾をドッキングさせたような合成獣のような者もいた。ありふれた動物に似た姿の者だけではなく、全くもって空想上の生物のような異形すらいた。
抜きんでて異形らしい姿をしていたのは、やはり複数の頭を持つ、鳥とも蛇とも龍ともつかぬバケモノだった。頭の数は定かではない――少なくとも、三つや四つなどと言ったものでは無い――が、蛇のように首は長く、しかも鳥めいた身体つきなのに翼は四枚もあり、しかもセミやトンボの翅に酷似していた。そしてこの、八岐大蛇の鳥版と言った姿の化け物が、異形たちの中心にいたのだ。
彼らはさも当然のように宙に浮き空を舞い、その上で相争っていた。多数の首と四枚の翼を持つ化け物に、大鴉や大犬が立ち向かい、化け物も応戦していたのである。
と、件の化け物の一首がこちらを向いた。縁日で見かけるスーパーボールのような、まぁるい瞳をしているのが、鈴木にははっきりと見えた。それはもう不自然かつ、恐ろしいほどに。
直後、鈴木を見つめていた化け物の一首が嘴を開いた。人間と異なり表情筋の目立たぬ顔だというのに、それが笑顔であると、鈴木は気付いてしまった。
「うわ、うわああああ」
「どうしたの、どうしたのよケンちゃん」
叫び声をあげてしまった鈴木の後ろから、のんびりとした声が掛けられた。同棲相手の中田だった。彼女は薄いピンクのパーカーを羽織っていたのだが、やや薄手の物だったので「寒っ」と一声上げて身体を縮めた。何がどうという訳ではないのだが、中田の仕草は可愛らしい。
「あんまり大きな声で叫んだりしたら、近所迷惑になっちゃうよ?」
「いや、でも百鬼夜行が……」
「百鬼夜行? 何よそれ」
鈴木の言葉に、中田は細い眉を寄せた。自分でも何を口走ったんだろうと思い始めるほどだった。
「いや、その、タバコを吸ってたら、化け物の大群が見えたんだ。でっかい犬とか鳥とか、尻尾がたくさんある化け狐とか首がたくさんある鳥みたいなやつとかだよ。テレビとか動画で見たんだったらCGだなって解るよ。だけどやつらは……」
「化け物だなんて。何もいないわよ」
懸命に説明した鈴木に対し、中田はしごくあっさりとした様子でそう言うだけだった。
いや、だけど本当にいたんだよ。そう思いながら、鈴木は今一度外の景色を見やる。そこには、奇妙な化け物たちの姿など無かった。忽然と消えたという訳ではない。初めからそんなものなどいなかった。そう言わんばかりの光景だった。
のみならず、先程までは盛んに聞こえていた犬たちの吠え声も、今はもう聞こえない。
狐につままれたような気分で立ち尽くす鈴木の腕に、柔らかな物が触れる。中田がすり寄って、鈴木の腕に抱き着いていたのだ。
「ケンちゃんも疲れているんでしょう。ほら、私はまだ大学生だけど、ケンちゃんは明日から社会人二年生だし。ほら、外は寒いしそろそろ部屋に戻ろ? それで、面白い映画でも一緒に見ようよ」
「あー、うん。そうだな。そうだよな」
何か釈然としない気持ちを抱えつつも、中田の言うとおりだと鈴木は思い直していた。というよりも、可愛らしく甘える中田の姿にほだされただけとも言えるのだが。
ベランダから部屋に戻る時、二人の影が部屋に向かって伸びているのを鈴木は見た。甘えるように寄り添う恋人の影からは尻尾らしきものが見えた気がしたが、きっとそれも気のせいであろう。